誘蛾屋敷


 これは、私が体験した話である。


 その日は、曇天だった。数日間、雨は降ったり止んだり。ぐずついた天気が落ち着いた頃だ。私の機嫌は天気に左右されるものではないが、ただ一つ、憂鬱なこともあった。それは羽虫だ。

 どうも水場が増えたためか、小さな虫があちらこちらを飛び回っていて仕方がない。ハエかどうか視認するのもわからない程度の虫。これほど鬱陶しいものはなかろう。


 だから、その日は屋敷を出るつもりはなかった。

 〓〓郷に閉じ込められて以来、私は某某なにがしくれがしの屋敷に身を寄せている。某某は私を食客として扱ってくれているが、私に何を求めているのかは定かではない。〓〓郷生存ガイドブックの執筆に協力的で、知っていることを伝えたいという旨の話はしてくれたが……。


「入っても?」


 それが某某の柔らかく入り込むような声がした。あてがわれた一室のちゃぶ台にて、手帳の覚え書きをガイドブック用に清書していた私は、どうぞ、と答えた。


「精が出ますね。お茶をどうぞ」

「うむ。ありがとう」


 某某は湯呑みを私の利き手側に置くと、向かいに座った。にこにこと微笑みながら、私をじっと見つめている。某某の美麗な顔に相対して何も感じないほど木石ではない。私はお茶をいただくついでに目を逸らした。

 

 お茶は美味い。深い味わいだ。こうしていると、古都にでも旅に訪れた気持ちになる。事実、以前昔訪れた小さな農村で、同じような経験をした。あのときはまだ私も若かった。畳を走る大きな百足に驚いて、わざわざ点てていただいた抹茶をこぼしてしまった。二つの意味で苦い思いだ。


「そういえば、この家には虫が出ないのだな」


 ふと、私は浮かんだ疑問を口にしていた。某某の屋敷は都心の高層マンションのようなものでは断じてない。古き良き日本家屋であり、有り体に言えば、虫が入り込む隙間など腐るほどある。


「確かに、この屋敷にいる限り虫を目にすることはないでしょう。お嫌いでしたか?」

「どうも目障りでな。虫からしても、図体のでかい人間は邪魔だろうが。それより、妙に引っかかる言い方をするが。殺虫剤でも使っているのか?」

「見てみましょうか」


 某某は愉快そうに私を廊下へ案内した。どこへ連れ出させるのかと思えば、そのまま外に行こうとする。


「外出するなら用意があるが」

「いえ、すぐそこですから」


 期待と不安を内心に秘め、私はその背中を追う。深い緑色の甚兵衛を滑るようにして某某の長い髪が揺れる。

 やがて某某は玄関を開けて、さらに進んだ。歪んだ松の木を視界の端に見送って飛び石を行けば、すぐに門に着く。


 そこには、フルーツの盛り合わせが置いてあった。


「この屋敷に虫がいない理由は、これです」

「……近所付き合いか何かか?」


 私も元の世界にいた頃、隣人とこのようなやりとりをした経験がある。実家から届いた野菜を譲り、しばらくして、お返しにと米をもらった。


「いえ、誘蛾灯のようなものです。せっかくです。少し見ていましょう」


 訝しみながらも、私はフルーツの盛り合わせを観察した。麦稈真田を思わせる麦わらで編んだバスケットに、これでもかとさまざまな果物が詰められている。どれもよく熟しているようだ。すんすんと鼻を鳴らせば、熟れた果実特有の糖分が飽和したあの匂いが鼻腔をくすぐる。


「しかし妙だな。あれら、旬もばらばらではないか。おまけに、ご丁寧に切られているものもある」

「しっ、来ましたよ」


 某某は私の唇の前に伸ばした人差し指を出し、そのままバスケットの陰を指さした。

 確かに、アリが見える。大きなアリだ。既に先遣隊は派遣していたのだろうか、かなりの行列がぞろぞろと茂みから現れていた。


 そのとき、門に歯が生えた。次いで、バスケットが置かれていた石畳が、人間の舌のようにべろりとめくりあがり、バスケットごとアリたちを飲み込んだ。縦に並んだ門の歯は、まるで壊れたエレベーターの扉のようにかちかちと音を鳴らした。咀嚼している、とでも言うのだろうか。


 そして、後には何も残らなかった。


「まさか、食べたのか?」

「そうですよ。我が家の主食は虫ですから。この地には、こうした誘蛾屋敷が点在しています」

「今まで我々が無事ということは、虫しか食べない、そういうことだろうか」

「おそらく。クモやネズミを食べている瞬間を見たことはありますが、人間はないです。この屋敷は、ね」


 私はすぐさま屋敷に飛び込み、ちゃぶ台の上に広げていた手帳とペンを握りしめて戻った。これは、記す必要がある。


「某某。ちなみに、食べられると……?」

「消化されると思いますよ。誘蛾屋敷には食べられたことはないのでわかりかねますが」


 確かに、あの歯と舌の先に、元の世界に続く道があるとは到底思えない。



【魅名】

 誘蛾屋敷

【概要】

 誘蛾灯ならぬ誘蛾屋敷。玄関先や門前に被食者を誘う疑似餌を生み出し、近づいたところをぱくりといただくという。一方で、屋敷ごとに主食が異なるらしく、対象でないものにとってはただの家と変わらない。

【対処法】

 シンプルな話だ。〓〓郷においては、不審なものに触れてはいけない。近づくこともやめたほうがいいだろう。



 書き終えた頃を見計らい、某某が私の肩を叩いた。


「招いてすぐ、家を間違えないようにと忠告したことを覚えていますか?」

「あぁ。覚えているとも。他にもたくさん忠告を受けたがね。するべきではない、が多すぎて、なぜ、を聞く暇がないくらいに」

「そのなぜの一つを教えます。向かいの家の主食は人間なんです」


 私はぞっとした。すぐ目の前に、針穴が広がる落とし穴があったと知らされた気分だ。


 恐る恐る、向かいの屋敷の門に目を凝らしてみる。今まで気にしたことはなかったが、何かが落ちている。虫を誘うためには、完熟フルーツ。では、人間を惹きつけるものとは何なのか?

 いったいあれは何だろうか? 視力には自信があるが、どうもぼやけて見えない。ガイドブックに警告文を載せるためにも、しっかり確認しておきたい。


 むむ、もう少し近くで見てみるか。


 まだ距離もある。


 とって食われやしないだろう。




 あっ。

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