あなたと雨の日と猫と
砂鳥はと子
あなたと雨の日と猫と
北鎌倉の小さな駅に下りると、しとしとと控えめな雨が降っていた。雨の日特有の湿った香りが鼻孔を抜けていく。
駅前の隅には薄紫の傘の花が一輪咲いていた。地面に近いところにぽつりと。
傘を持ってしゃがんでいるらしい相手の傍まで行く。
「
声をかけると傘は上向きになる。そこには私がよく知った穏やかで優しい顔があった。若干表情に締まりがない。デレている、とでも言えばいいだろうか。それもそのはずで、よく見れば足元に三毛の猫がちょこんと座っていた。
「あ、
「野良猫ですか?」
「見えにくいけど、ちゃんと首輪してるからどこかの家の子ね。美月ちゃん待ってたら、ひょっこり現れて」
裕里さんは愛おしそうに猫の背中を撫でる。それはそれは大切な家族に触れるように。
「飼い猫なら連れて帰れませんね」
「野良猫でも連れては帰らないよ」
「猫、好きなのにですか?」
「私にはクルミだけだもの」
裕里さんは切なそうに目を伏せた。今にも涙がこぼれそうな表情を見て、私は余計なことを言ってしまったことに気づく。
ニ年前、裕里さんは飼い猫のクルミを亡くした。特に病気があったわけでもなく、突然眠るように逝ってしまったのだという。
裕里さんもその少し前に病気で倒れてしまい、危うく命を失いかけた。幸いお
「元気だったクルミが亡くなるなんて絶対おかしい。きっとあの子が私を助けてくれたの。私に命を分けてくれたんだと思う」
裕里さんはクルミに助けられたと言うのが口癖だった。
急死してしまったクルミの死に納得できず、どうすれば納得できるのか考えた末の言葉なのだろう。
あまりに急な別れに、当時の裕里さんは相当に悲しんで落ち込んでいた。
最近になってようやく、また猫に触れられるようになれた。クルミの喪失はかなり大きかったのだ。
「さて、と。行きましょうか」
裕里さんは名残り惜しそうに立ち上がる。三毛猫はもう構ってもらえないと気づいたのか、しなやかな足運びで去ってしまった。
「バイバイ、またね」
小さくなっていく猫の後ろ姿に裕里さんは手を振った。仕草から猫が好きなのだと伝わって来る。
「美月ちゃん、お昼炊き込みご飯でいい? お
「本当ですか? 私炊き込みご飯大好きですよ。楽しみです」
私たちは傘を差し、一列になって道を進む。車通りの多い道から細い路地に逸れ、しばらく歩いたところで、更に奥の路地へ入る。点々と家が並び、突き当りの平屋の前で足を止めた。
古めかしいがどこか懐かしさがあり、味わい深い家。そこが裕里さんの家だった。
元々は裕里さんの伯父が住んでいたのだが、今は別の土地に移住してしまったので、譲り受けたらしい。
裕里さんは引き戸の鍵を開けて中に入る。
「ただいま」
と声をかけるがここは裕里さんが一人で暮らしている家なので、当然返事はない。
彼女は今はもう天使になってしまったクルミに向かって言っている。
「見えなくても絶対傍にいる気がするもの」
以前、そう話してくれた。
私もおじゃまします、と挨拶をして家に上がった。リビングは外観に反して洋風で、リフォームされている。
裕里さんは台所に向かう。その背中に声をかけた。
「何か手伝いましょうか?」
「大丈夫。美月ちゃんは適当にテレビでも見てて。ある程度準備してあるから、すぐに用意できるの」
「分かりました。それではお言葉に甘えます」
私はリビングのいつもの定位置に腰を下ろした。テレビをつける。お昼のワイドショーをぼんやりと耳にしながら、部屋を見渡す。
隅に置かれたチェストにはクルミの写真がいくつも飾られていた。薄い茶色の縞模様がある猫で、実に愛くるしい。とても幸せそうに見える。裕里さんに大事に育てられたと分かる。
しばらくして裕里さんはお盆に料理をのせて、目の前のテーブルにテキパキと並べていく。どれもこれも美味しそうで、私のお腹は小さく音を立てた。
全て並べ終えたところで、裕里さんも私の向かいに座る。
「さぁ、どうぞ召し上がって。渾身、とまではいかないけど、そこそこ美味しくはできてるはずだから」
「謙遜しないでくださいよ。裕里さんのご飯はいつも美味しいですから」
「ありがとう。美月ちゃんは本当に美味しそうに食べてくれるものね。だから、作りがいがある」
二人で声を揃えて「いただきます」と手を合わせ、私は炊き込みご飯が盛られた茶碗を手にした。
私と裕里さんの関係を一言で説明するなら義理の姉妹だった。
正確には私の姉の夫の妹が裕里さんだった。姉の結婚により縁ができた人。
普通ならそこまで仲良くなる間柄ではないと思うが、私が描いた絵をきっかけに仲良くなった。
私は会社員として働きながら、イラストレーターとしても仕事していた。
それだけで生活できるほど売れているわけでも収入が安定しているわけでもないが、定期的に仕事は来る。
私は主に動物をメインで描いていて、特に猫と犬を得意にしていた。
それを知った裕里さんがクルミを描いて欲しいとわざわざ仕事として依頼して、それ以降私たちは頻繁に交流するようになった。
今日だって裕里さんの家に遊びに来てご飯をごちそうになっている。
クルミが亡くなって以来、裕里さんはその寂しさを埋めるためか、より一層私を家に誘うことが増えた。私も優しくて、穏やかで一緒にいて安らげる裕里さんのことは好きだった。
多分、私の好きは裕里さんとはちょっと違うけれど。別に何かが叶わなくても私としては構わない。家族として裕里さんといられれば。
お昼を食べ終えて、皿や器の中身はすっかり空にしてしまった。裕里さんが作るものは余すことなく全てが美味しい。
「ごちそうさまでした。私、片付けますね」
「ありがとう、美月ちゃん。お願いね」
私はご飯をいただくかわりに、片付けをする。これくらいしなくては罰が当たってしまう。
流しに食器を運び、エプロンを借りて、一つずつ洗っていく。
リビングからは軽やかな曲が流れて来た。裕里さんがテレビからラジオに切り替えたのだろう。心地よい音楽にのりながら、私はスポンジでキュッキュッと茶碗を洗う。桜の模様が入った二つの茶碗。近所の瀬戸物屋で裕里さんと選んだ茶碗。
「せっかくだから、美月ちゃん専用の茶碗を買いましょう」
そう言って買ってくれたものだ。
「ついでだから私も新調しようかな。美月ちゃんとお揃いにしよう」
裕里さんは私と同じ柄のものを買った。
二人でご飯を食べる時には同じ茶碗を使う。それを見て姉さんやお義兄さんは夫婦みたいだと笑った。
「裕里と美月ちゃんも結婚したのかと思うくらい仲いいな」
お義兄さんは言っていたっけ。
「美月ちゃんが男だったら裕里と結婚させるのに」は冗談だろうけど、私が男じゃなくても、もらっていいですか? とあの時は口にしそうだった。
食器をほぼ洗い終えたところで、背後に気配がして思わず振り返る。
そこには少しバツが悪そうな裕里さんが立っていた。
「なるべく足音がしないようにしたのに、相変わらず美月ちゃんは鋭いね。私はクルミみたいに忍び足はできないわ」
「なんで気づかれないように近づこうとするんですか。もう少しで終わるので待っててください」
私は最後に箸を洗って、乾燥機の中に入れた。スポンジの水を切り、流し周りを布巾で拭く。
「美月ちゃんって、猫みたいだよね。こっちがどんなに静かに近づいてもすぐ気づくもの」
「そうですか? まぁ犬っぽいか猫っぽいか言われたら、猫っぽいでしょうけど」
つけていたエプロンを外して、棚にフックで吊るされたハンガーにかけた。
その様子を裕里さんはじっと見ている。気恥ずかしいが、私はなるべく平静を装っていた。
「美月ちゃん、お茶でも飲みましょうか。持って行くから先にリビングに戻ってて」
裕里さんは冷蔵庫から麦茶を取り出し、水色の涼し気なグラスに注いでいるのを尻目に、私はリビングに行った。
お盆にお茶とお菓子をのせて、裕里さんが戻って来る。お茶の他に茶色のお菓子がのった小皿もあった。ふっくらとした鳩の形。鎌倉銘菓・
私たちはおやつを楽しみながら、ラジオに耳を傾けた。ゆるやかな午後にふさわしいまったりとした曲。
「ところで裕里さん、何でさっき気づかれないように近づこうとしてたんですか。いたずらでも考えてたんですか?」
「まさか。ただちょっとクルミの真似をしたかっただけ」
「全く、おかしなことを考えますね」
「そうね。何となくたまに猫の気持ちになりたいって思うの。そうしたら天使になったクルミに会えそうな気がするから」
裕里さんは常にクルミと共にある。彼女にとっては大事な家族であり、分身のような半身のような存在。亡くなってもそれは変わらない。
時々、私はそれが悔しくもあるし、寂しくもある。
私という存在はもうこの世にいない猫を越えられない。裕里さんの一番にはなれない。
お菓子を食べ終えて、私たちの間に沈黙が流れる。ラジオはそれを邪魔するかのように夏っぽい賑やかな曲を流す。
外はまだ雨が降っている。
「美月ちゃんは猫になりたいって思ったことある?」
「なくはないですね。猫みたいに一日中ごろごろできたら幸せだなって思いますよ」
本当は猫になれば裕里さんが存分に可愛がってくれるからだけれど。
「そうね。うん。私も。ちょっとだけ猫になってみてもいい?」
裕里さんは子供みたいにはにかむ。
「どういうことですか。まぁ、いいですよ。猫になりたそうですからね」
実際に今の裕里さんがどうしたいのかは分からないけれど。
裕里さんは立ち上がると私の横に座った。私も体の向きを変え、膝と膝を突き合わせ、息づかいが聞こえるほどに距離が縮まる。
「美月ちゃん」
私の胸に裕里さんが飛び込んで来た。私はそっと受け止める。シャンプーの香りだろうか。爽やかな香りがふわっと目の前に広がった。手に裕里さんの柔らかな体温を感じ、さらさらの長い髪が指に触れる。
「私がもし猫だったら、こうして美月ちゃんの傍にいたいなって思ってて」
「そうですか。私でいいなら、いつでも傍にいますよ」
予想外の展開に心臓がどぎまぎして、音が漏れているのではないかと、不安になる。心臓の脈動が耳元で聞こえていた。
さっき後ろに立っていたのも、こうして甘えたくなったのだろうか。
私は裕里さんにとってそういう存在になれているということだろうか。
雨がだんだんと強くなる。無音で降っていた雨は屋根や軒を、音を立てながら叩いた。窓の向こうに視線を向ければ、雨で外は白くなっている。盛りの紫陽花も今は雨の中。
世界からこの部屋を隔離するかのように雨は降る。まるで私たち以外、地球から消えてしまったような錯覚すらする。
「あのね、美月ちゃん。私にとってクルミはすごく大切なの」
「知ってますよ」
「だけど毎日毎日クルミのことばかり考えて忘れられずにいたら、きっと駄目な気がするの。クルミだって私を心配するだろうし、いつまでも天国に行けなくて困らせてるかもしれない」
「そうですね。でも無理に忘れる必要もないと思います。それだけ愛されてクルミも幸せですよ、きっと」
「うん。でもね、今はねクルミと同じくらいに、もしかしたらそれ以上に大切な人がいるの」
裕里さんは私から体を離すと、潤んだ瞳で私を見つめる。
「私は⋯⋯、美月ちゃんと過ごす時間が好き。すごく、すごく。美月ちゃんのことが⋯⋯」
次に来るであろう言葉を私は自分の唇で塞いだ。一瞬触れるだけのキス。
裕里さんは驚いたように固まっている。
「美月ちゃん、どうして」
「私も多分、同じ気持ちだから。間違ってましたか?」
首を横に振り、裕里さんは再び私に体を預けた。
「間違ってないよ、美月ちゃん。どうしよう、さっきからずっとどきどきして、心臓が破裂してしまいそう」
「私もです」
夢を見ているようで、頭が、心がふわふわしている。
「美月ちゃんと私は姉妹のようなものでしょ。だからこんな気持ちは駄目なんだって思ってたんだけど、傍にいるとだんだんその気持ちが抑えられなくて⋯⋯」
「別に姉妹でも何でもいいじゃないですか。できればその気持ちは隠さずにいてくれる方が私は嬉しいです」
私は裕里さんの白い陶器のような頬に手を伸ばす。すかさず裕里さんは私の手に自身の手を重ねた。
大好きな人に触れている。
好きという気持ちを押し殺すことなく。
ただ私たちはお互いの温度を感じていた。
相変わらず雨はざぁざぁと全てを流すかのように降っている。
『にゃぁん』
雨音をすり抜けて猫の声が響いた。
裕里さんは顔を上げて、私も辺りを見回す。外からではなくすぐ近くから聞こえた。
『にゃぁん』
私たちは顔を見合わせて廊下の方に自然と視線を向ける。その先には飴色のツヤツヤした廊下があるだけで何もない。何もいない。
けれど猫が走り去るような足音がして、じっと気配に意識を傾けた。
「クルミ⋯⋯」
裕里さんはふらりと立ち上がり廊下を覗き込む。
「いない」
こちらに振り返り頭を横に振る。
「クルミの鳴き声、美月ちゃんも聞こえたよね」
「ええ」
雨脚が弱くなってきたのか、だんだんと水滴が落ちる音が小さくなっていく。それはまるで閉じられていた世界の幕が開くようでもある。
「やっぱりあの子は私の傍にいたのね。たまにね、あの子の鳴き声がするの。
最初は外にいる野良猫かと思ったんだけど、絶対部屋の中から声が聞こえて、いるんだなって感じてた。きっと私たちのことも見守ってくれていたのね」
「気を利かせてどこかに行っちゃったみたいですけど」
「クルミはそういうところあるから」
私たちはクスクス笑いあった。
雨は上がっていた。
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