第10話 秩 Methot


 あっという間の出来事だった。


 血走った目つきの男が本田に寄りかかるようにしていた。


 本当にあっという間のことで…。


 俺は何もできなかった…。



 本田…。




   🌘




 都内にある葬祭場。



 制服を着た男女が整列をしている。

 見覚えのある顔も大勢いる。


 女性は皆、涙を流している。

 俺の姉、美梨ネエも参列をしている。

 

 最前列から順に、お焼香しょうこうが始まる。


 お務めを終わらせた人が部屋を後にする。

 皆がお務めを終わらせる中、俺は式場の最後列で未だ座っていた。

 

 すると、美梨ネエと一緒に、美梨ネエと同い年くらいの女性が俺の近くに来た。

「初めまして、成瀬さん。美梨さんと本田さんの新体操の監督をしていた山岡です。」


「初めまして…。」

 俺は一言だけ、言う。


「ヒーロ立って。お焼香をしなさい。」

 美梨ネエに言われ、俺は席を立ち上がる。


 腰が重い…。


 足が重い…。


 頭が痛い…。


 気持ちわるい…。


 祭壇に近づくにつれ、それらの激しさが増してくる。



「ほら。」

 美梨ネエが俺をうながす。



 本田の両親だろうか、瞼を腫らせた二人が俺に頭を下げる。

 

 俺も頭を下げる。


 もう涙も出ない…。

 俺の涙は枯れ果てたようだ。


 震える左手でこうを摘む。

 額の近くまで香を持ち上げるが、震える手が全てを振るい落とした。

 

 何かの雫が俺の右手に持つ数珠を濡らしていく。


 俺の涙は枯渇していなかったようだ。


 横隔膜を痙攣させたような泣き声が、式場に響く。


 その泣き声は俺の自身から発しているようだ。


「Sono stato rinunciato da Dio.....」


「何?」


「Sono stato rinunciato da Dio.....」


「何を言っているのかわかんないよ。」

 美梨ネエが俺の背中を抑えるように言っている。


 山岡さんが俺の左手首を持ち、一緒にお務めをしてくれている。

 

 情けない…。


 自分じゃ何もできない…。


 お務めを終わらせ、式場横の振る舞いの間へ、美梨ネエと山岡さんが俺を誘導する。

 

「俺…無理…。」

 俺はそれだけ言い、振る舞いの間へは行かず、建物のエントランスを通り抜けた。

 

 正面玄関を抜け、空を見上げると、今にも降り始めそうな雨雲が夜空を覆っている。


「成瀬…。」

 後方から俺を追いかけて来た中山が、俺に話しかけてきた。


「Vaffanculo…。」

「えっ?」


「Vaffanculo!」

(ふざけんじゃねぇ!)

「成瀬?」


 中山に怒鳴りつけても意味がないことはわかっている。

 ただ、大声で叫びたかった。

 

 そして降り始めた雨の中、俺は神に届くように言ってやった。


「Sono stato rinunciato da Dio!」

(俺は神に見放された!)


「成瀬、落ち着いて! 大声を出さないで!」

 中山が俺の腕を掴んでいる。


 何もかもが嫌だ…。


 俺はその場に座り込んでしまった。


「礼服が濡れちゃうでしょ。立って、中に入ろう?」


 中山、お前はいつも優しいな…。


「中山…。」

「何?」

「ありがとう。今は一人にしてくれないか?」

「嫌だ。」


 たぶん、中山は笑顔で言ってくれているんだろう…。


「成瀬。私もここで一緒に泣いてあげるよ。」


 中山は、座り込んでいる俺の頭を抱きしめてくれた。


「タマコ…。」

 中山の声が鳴き声に変わっていた…。


 中山のすすり泣く声が、俺の頭の中に響き渡る。


 手足の感覚が無くなってくる…。

 

 目を開けているのに、段々とボヤけてくる…。


 ああ、真っ白だ…。

 目の前が真っ白だ…。

 本田…やっと会えたのに…。


 すると、遠くから笑い声のような、人を小馬鹿にしたような声が聞こえてきた。


 ああ。俺、女子に抱きしめられてるわ…。

 情けねえな…。


「初めて本田を見た時から好きになりました! だってさ! あははは!」


 はっ?

 この声!?


「僕の恋人になってください! うぅわっ! キッモ!」


 江川?


 本田?

 本田が廊下でうずくまっている。


 なんだよこれ?


 小学校?


 本田がランドセルを背負っているじゃん!

 てか、本田? が小学生?


「成瀬、あの手紙、江川さんから取り返してきなよ!」

「おまっ! お前、佐藤?」

「はぁ? 何言ってんの! 麻子が可哀想でしょ! 早く!」


 俺は佐藤に言われるがまま、江川に近寄り言ってやった。


「殺すぞブサイク。その手紙を返せ。」


 江川にそう言ってやった瞬間、俺は宙に舞った。


 背中に激痛が走る。



 あ、思い出した。

 江川って、家が柔道の道場をやっていたんだよな…。

 

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