【前編 / 02】 流星に至る ─── 04

 小降りになった雨はじきに止んで、薄曇りの向こうから淡い日差しが差し始めた。部活動の生徒たちが、ぬかるんだ校庭にぽつぽつ復活しはじめている。

 染色の反応待ちの間、手があいた俺たちは、いつものようにどうでもいい世間話(ただし俺にとっては真剣な観測気球だ)に精を出していた。

「今、欲しい本あるんだよな」

 ぼそりと宗像が言った。手元には科学雑誌。初心者から専門家まで興味深く読めるというそれに視線を落として、大きな手がぱらりとページをめくる。

「どんな」

 短く問うと、宗像は淡々と書籍名を言った。聞いたことのない本だった。タイトルからして、また学術書のたぐいだろう。案の定、宗像は脳の構造の遺伝に関する新しいやつ、と言った。翻訳されるのを待っていたのだという。

「宗像なら、原書でも読めるんじゃないの」

「まあ、そうだけど。あれはどっちかっつうと趣味の読み物だからな。わざわざ原書に手を出すのは面倒なんだよ」

「はあ……」

 こいつの、趣味の読み物と研究資料の違いが、俺には未だにわからない。どれも生物・医学系だろうに。

(宗像って、医学部も向いてそうだよな……)

 U大の医学部でも、こいつはあっさり受かるだろう。白衣だって、むやみやたらと似合いそうだ。ああでも、こんだけ胸板厚くてガタイのいい医者は、なにかが勿体ないような気もする。身体を使う仕事の方がいいだろうか。いやでも、そしたら頭が勿体ないか。あれこれ想像してみたが、肉体労働から頭脳労働まで、イメージの中の宗像はなにをさせても様になっていた。忌々しい。

 つらつらと埒もないことを考えていた俺に、宗像が小さくぼやく。

「この辺の本屋覗いたけど、やっぱ売ってなくてな」

「そりゃそうだ」

 教科書や参考書が中心の高校生向けの本屋には、専門書なんてそうそう置いていない。俺は少し考え込むと、ならさ、と顔を上げた。

「B書店ならあるんじゃない?」

「え、あの本屋、こっちにもあるのか」

「そりゃ全国展開だし。電車乗り継ぐけど、K駅の近く、大きい繁華街のあたり」

「ああ。飯田とか斎藤が、いつも遊んでるとこ」

 そうなのか。飯田も斎藤も誰だか知らないが、そうらしい。まああの辺は、若者の遊び場としては最適らしいので。そういうこともあるだろう。俺はB書店くらいしか行ったことがないが。

 スマホを取り出し、マップ検索をはじめた宗像をよそに、俺は軽く頬杖をついた。ずらりと並んだ大量の本棚と、明るいフロアを思い出す。

「本屋かあ。しばらく行ってないなあ」

 本当はもっと行きたいんだけど、そういう訳にもいかなかった。

 俺は予備校に通っていない。完全にひとりで行う自宅学習は、プロ講師の授業ほどには効率的じゃなかった。学年トップクラス(トップ、と言えなくなったのが本当に忌々しい)を維持するには当然、他の奴らより学習時間を必要とするのだ。おかげで本屋まで遠出する余裕もない。

 まあ、物質的に場所を圧迫するから、電子書籍の方が取り回しはきく。実際、俺の蔵書の半分以上は電子だ。でも、ぶらぶら棚を眺めて新しい本に偶然出会う、という得がたい体験は、ネットショップじゃ絶対にできない。あてもなく棚の間を歩き回る、心躍る時間が恋しかった。

「なら、一緒に行くか」

「えっ」

 思考を打ち切って飛び込んできた言葉。あまりにもさらりとした一言に、俺は鳩のように目を丸くする。宗像はスマホを見下ろして、どうやら予定を確認しているらしい、低い声でさらりと言った。

「今週土曜なら大丈夫だけど。いつなら空いてる」

「え、あ、う――えっと」

 慌ててスマホのカレンダーを立ち上げる。だが、当然のごとくカレンダーは空っぽだ。とっさに宗像の真似をしてしまったものの、俺の予定なんて、ひとつたりともあるわけない。

 俺はぱっと液晶から顔を上げた。

「ど、土曜日、空いてる、行ける」

「ははっ。なんで片言なんだよ」

 面白そうに宗像が肩を揺らす。じゃあどこで待ち合わせる、と尋ねられ、簡単に場所を打ち合わせた。あまりにもとんとん拍子に詳細が決まり、テストの予定以外はまっさらだったカレンダーに、『宗像と会う』の文字が並ぶ。

(……こんなこと、はじめてだ)

 休日に、クラスメイトと待ち合わせて、外に出かけるなんて。心臓が少しだけ早くなって、喉の奥がかすかに震えた。思いがけず得られた幸運な展開に、無性に、笑ってしまいそうになる。

 これは――宗像も、だいぶ気を許してきたんじゃないだろうか。

 つい、ほくそ笑んでしまいそうになるのを、なんとか堪えた。片頬だけが持ち上がりかけるのを、俺はせめて健全な笑みへとすり替えて、じゃあ土曜日な、と笑ってみせる。宗像はおう、とだけ言うと、スマホをポケットに滑りこませた。



 

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