【前編 / 02】 流星に至る ─── 03

 今年は空梅雨らしい、という情報は半分くらいしか当たらなかった。たしかに例年より雨の日は少なかったが、そのぶん降る時は三十分とか一時間で一気に降る。梅雨というよりゲリラ豪雨。風情もへったくれもあったものじゃない。

 今もそうだ。十五分ほど前から降り出した雨は、あっという間に勢いを増していた。窓ガラスを後から後から伝い落ちる雨を眺めていると、かた、と誰かが隣に立つ気配がある。

「生物室行こうぜ」

 当たり前のように話しかけてきたのは宗像だ。ああうん、と返事する。このやりとりも、ずいぶん『おなじみ』になってきた。

 初めて教室で宗像が声をかけてきたときは、周囲が一瞬どよめくのがわかった。俺のことなど誰も、認識すらしていなかったのだ。そんな奴に、学年一の人気者が誘いを呼びかける。そうそうある話じゃない。

 遠巻きに見ていた友人たちに、おずおずと三島と仲いいの、と尋ねられ、宗像はあっさり俺を指差した。「これ、うちの副部長」と。ものすごい視線と注目が、一瞬で集まるのを感じた。あまりにもいたたまれなくなって目を伏せたあのときから、もうしばらく経っている。

 今ではもう、わざわざ俺たちをじろじろ見る人はいなくなった。それでも、誰の目にも映らなかった以前と比べれば、『認識されている』ような気配を感じる。話しかけられたり、親しい相手がいるわけじゃない。でも、完全に透明ではない。なんだか変な感じだ。

 鞄を用意する俺の前の座席から、宗像が椅子を引っ張り出した。篠田ぁ、椅子借りるぞ、と誰かに呼びかけると、返事を待ってがたりと腰を下ろす。長い脚を無造作に組んで、切れ長の目がじっと俺の支度を待っていた。

「おまえ、まだそれ読んでんの」

「え? ああ、ファウスト」

 タブレットの電子書籍が起動しっぱなしだった。

(ん――〝まだ〟?)

 ゲーテなんて、こいつの前で読んだことはなかった気がするが。不思議に思いつつ、とりあえず頷く。軽く覗き込んだ顔が、なんだ、まだ序盤じゃんか、と呟いた。

「あー……わりと文章がその、華美で回りくどくて。つい、他の本に浮気ばっかしてる」

「それ、わかる」

 宗像がくすっと笑った。どうやら彼は既読らしい。俺はかち、とタブレットの画面を落とした。

「まだ、悪魔と旅に出るところ。ほんとに序盤。これからどうなるんだか」

 かすかに目を細め、せめてもうちょっと読みやすかったらな、と俺は笑う。宗像は淡く笑うだけで、先の展開を一切話しはしなかった。

 普通なら、面白くなるとかわくわくするとか、逆に期待はするなとか、つい口を出したくなるところだ。だが宗像はネタバレをしない。しばらく一緒に過ごして実感したが、宗像にはそういう思慮深いところがある。美点ではあるが、俺からすれば『ガードが固すぎる』の一言だ。

(早くこいつの、人間らしい、醜いところを見つけたいけど)

 しばらく難しそうだな、と宗像を見上げる。身体のサイズがなにもかも違うせいで、同じ椅子に座っているのに若干の身長差が出るのだ。これもまた忌々しい。

 宗像は軽く目を伏せて、俺の机の上を見つめていた。実直な視線が動いて、参考書の辺りで止まる。大きな手が伸びて、手持ち無沙汰なのだろう、何気なくページをめくる。途端、マーカーと付箋と書き込みまみれの紙面を見て、うわ、という顔をされた。

「すご」

「……別に。ふつうだよ」

「いや、普通ではないだろ。ここまで使い込まれたの、初めて見たぞ」

「だって俺、これがメイン教材だから。予備校行ってないし。ほら、返せよ」

 無骨な手から参考書を取り上げる。あれこれ紙を貼り付けたせいで、参考書は厚くふくらんでいる。教科書やノートとまとめて強引に鞄に押し込んでいると、宗像が今度はタブレットを取り上げた。ヒマなのか。

 俺のタブレットは電子書籍専用で、読書以外はなにもできない代物だ。代わりに目にやさしいので、何時間も眺めていても疲れない。

 宗像がひらりとタブレットをひっくり返した。型番を見たらしい、ああ、と声が漏れる。

「ひとつ前の世代か」

「あー……うん」

 思わず口ごもってしまった。使い込まれたタブレットはあちこち傷が入っていて、かなり使用感がある。言ってしまえばぼろぼろだ。でも、俺はどうしても、そいつを買い換えることができなかった。

 このタブレットを、買ってもらったのは中二の秋だ。初めてM高のA判定が出たときに、ご褒美に買ってもらったものだった。それ以来、ずっと俺の読書の相棒となっている。

 正直、使い込みすぎてあちこちガタが来ているし、現行機ではないため不便も多い。新しい型がほしいなとしょっちゅう思う。それなのになぜか、買い換えることができないでいる。

 少し黙って目を伏せた俺に、宗像がどことなく遠慮がちに声をかけてきた。

「もしかして……小遣い、少ないの」

 控えめな、絶妙に周囲に聞こえない声量の問いかけ。ぼろっちいタブレットと、予備校に行ってないという情報から推察したのだろう。相変わらずこの男は、ちょっとした気遣いまで完璧だ。思わず、ふ、と笑ってしまった。苦笑まじりに首を振る。

「お金なら困ってないよ」

 これは本当だ。金に困ったことは一度もない。むしろ余っていると言ってもいい。

 俺は小遣いをもらっていない。その代わりに渡されるのは『生活費』だった。食費、学校の必要経費、学習にまつわる費用や身の回りのもの、スマホ代、その他諸々、すべてこれで賄うように、と。毎月二十六日に、それなりの額を渡される。高校生が管理するには過ぎた金額だ。

 その金で、両親は俺に対して、俺の管理を〝外注〟する。俺の生活に、いっさい関わらずに済むように。俺は渡された〝給料〟で、彼らの息子を管理する仕事をしているというわけだ。

 宗像は、それ以上なにも言わない俺を、ただじっと見つめていた。なめらかな眼球に映り込む、俺の姿。そっとそこから目を伏せた。

 口をつぐんだまま、ああ息が詰まるな、と思う。胸元を押さえて、ずいぶん細い息をした。

 普段から、余計なことは考えないようにしている。知識以外のことにかかずらいたくない。空っぽの身体にひたすら重石を詰め込んで、後から後から錨を落としていかないと、俺の足元はすぐに不安定になってしまう。半透明で曖昧な、現実味のない世界の中で、無くなってしまいそうになる。

 息苦しさをごまかすため、使い古したタブレットを片付けて、視界から消した。書籍まみれで狭くなった鞄をごそごそやりながら、ゲーテの本を思い出す。退屈で全然進まない戯曲の、序章の言葉。

『人間は、希求する限り道惑うものだ』

 残酷な文章だよな、と思う。夢と向上を描いて努力すればするほど、人は迷いためらい、過ちを起こすのだと言う。作中でそれを言ったのが神様だっていうんだから、余計ひどい。

 それでも、俺は知識を希求する。たとえ道惑ったっていい。いずれ無くなってしまう俺を、ここに留めておくためなら、悪魔と契約したってかまわない。

(そのためには――目の上のたんこぶを、早く片付けてしまわないと)

 片付けを終え、すっと顔を上げる。宗像の、実直な視線とぶつかった。淡々とした、なにを考えているのかよくわからない瞳。宗像はたまに、こういう顔をする。そういえば、他の人と一緒の時は、この顔を見ないような。

 かすかに首を傾げる。宗像が、なんでもない、と視線を窓の外へ向けた。雨のピークは過ぎたらしい、ガラスを伝う雨滴は、少しだけ小降りになっている。

「……行くぞ」

 それだけぼそりと言うと、宗像が俺の鞄を取り上げた。大きな背が立ち上がる。

 二人分の鞄を持った宗像は、長い足を存分に発揮した大股で教室を出ていった。待てよ、という俺の小走りが、雨音に混じってあとに続いた。



 

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