【前編 / 02】 流星に至る ─── 02

 それから、特筆すべきこともなく、六月になった。

 二人だけの生研部で過ごす時間は、表面上は意外にも穏やかに過ぎていった。宗像はあの『机蹴り飛ばし事件』を持ち出すことはなかったし、俺もあえて彼に突っかかることはない。宗像は口数多い方ではなかったが、それはおそらく、予期せぬ言葉をかけられるとすぐに吃ってしまう俺を気遣ってのことだった。生研部は平穏だ。

 敵意を隠して接する分には、宗像は評判通りの男だった。男らしくさっぱりした性格で、目上には礼儀正しく、同級生には面倒見が良く、何事にも責任感があって頼りになる。運動も勉強も難なくこなし、たまにどこかの部活の助っ人を頼まれている。野性味と清潔感の同居した、男っぽい雰囲気は女子に大人気で、表立って告白こそされていないが、秋波を送る女子は盛りだくさんだった。本当、俺とは正反対だ。

(ただ格好いいだけなら良いんだけど。こいつ、ガード固いんだよな……)

 放課後の生物室。飼育室として間借りした準備室から、取り出して並べたケージたち。宗像は真剣な顔で、マウスの健康状態をチェックしている。凛々しい稜線を描く横顔をぼんやり眺めて、相変わらず忌々しいほど男前だ、と思った。

 見た目も中身も、宗像は男らしく、格好いい。人間らしいマイナス感情が見えることもあるけれど、ちょっとした笑い話で済む範疇。強い負の感情なんて、ちらとも見せはしない。俺の『悪魔との契約』は、ちっとも順調ではなかった。

「うし……っと。異常なし。全員健康。水分、餌、両方ともちゃんと減ってる」

「わかった」

 頷くと、俺はマウスの健康データを書きとめた。今日も目立った変化はなし。

 宗像の研究はまだ本格的な段階ではなく、今は実験の下準備中なのだという。一方の俺はまだ研究テーマが決まっていないため、生物室での時間の大半は、マウスの世話と、宗像との世間話に費やしている。

 あれこれと何匹もいるマウスの世話をして、必要なものを取り替え、新しいケージを消毒する。ケージの乾燥待ちになって、ようやく人心地ついた。ふー、と二人で息を吐く。

 背もたれのない椅子を引いて、宗像ががたんと腰を下ろした。俺も同じように座り込む。

「ちょっと休憩」

「うん。疲れた……」

 小さく呟いたのが耳に入ったらしい。宗像が軽く眉を持ち上げた。あんなんで? と言わんばかりの表情に、俺はくちびるを尖らせる。

「作業自体はあれだけど。やっぱり、扱うのが小さくて弱い生き物だろ。気疲れするんだよ」

「ああ、そういう」

 納得の表情を浮かべ、三島らしいな、と宗像が笑う。ぎし、と椅子を鳴らすと、彼は大きく伸びをした。そのまま背を反らして窓の外を見る。柔軟性がすごい。

「とうとう梅雨入りか」

「らしいね。今年は空梅雨かもしれないって」

「あー、今日なんか普通に晴れてんもんな」

 ぐぐぐ、と伸びを続ける宗像。満足したらしい、ふは、と息を吐き、彼はすとんと肩を落とした。ぐりぐりと首と肩を回している。なんというか、身体を動かすことに慣れた仕草というか、スポーツできる人間特有の関節の動きだった。

(……別に、運動できるようになりたい訳じゃないけど)

 それでも、こうも些細な仕草でさえ『持てる者』のさまを見せつけられると、少しだけ気が滅入る。俺はかすかに目をそらし、胸元をそっと押さえた。宗像といると、ときどき息が詰まる。早く弱みを握りたい。

 俺はこいつみたいに恵まれた人間になりたいわけじゃない。ただ、打ち込んだ錨を、不安定な足元を、これ以上さらわれたくないだけだ。知識は俺を裏切らない、ずっと信じてきたその言葉を、もう一度、確かなものにしたいだけ。

 こく、と喉を鳴らして、息を整える。そのとき、にゅっ、と視界の真ん中に宗像の顔が現れて、死ぬほどびっくりした。うわあ、とものすごい声が出る。

「な、な、な、な、な、なに……!」

「吃りすぎ」

 呆れ顔の宗像が小さく笑う。至近距離で見る男らしい顔、よく見ると黒に近い焦げ茶の瞳に、俺の姿が映っている。落ち着かない。変な気持ちになる。

 俺は顔を背けると、あんまじろじろ見るな、と言った。宗像が喉の奥だけで笑う気配。はいはい、とつぶやくと、彼はあっさり椅子に戻った。

「深刻そうな顔してるなと思って。なんかあるのか」

「な……ない。別に、なにも」

「そう。ならいいけど」

 さらりと流される。胸をなでおろした。

 きっとこの男は、俺が「なんかある」と言ったら、親身に相談に乗るのだろう。ならいいと流したのは、無理に聞き出すのを良しとしなかったからだ。まだ入部してさほども経っていないが、毎日二人きりで過ごしているのだ。それくらいのことは、もうとっくにわかるようになっていた。

 ふーあちー、とつぶやきながら、宗像は手で顔を扇いでいる。そのくせ、きっちりと締めたネクタイをゆるめることもしない。優等生だ。俺は小さくつぶやいた。

「確かに、暑いよな。朝晩はまだ涼しいんだけど」

「だな。もうちょっとしたら、早朝も地獄になるんだろうが」

 あからさまに顔をしかめる素振りに、俺は少しだけ迷って。意を決して、あのさ、と口を開く。宗像の、なんだと言いたげな視線。

「早朝が地獄になるって、もしかして、朝なんかやってる?」

 学外の行動、要するにプライベートのことを尋ねるのは、何度やっても緊張する。この質問に対する返答が、すなわち、俺がどれだけ奴の懐に入れているかの指針になるからだ。

 宗像はあっさりと返事をした。

「朝はいつも、何キロか走り込みしてる」

「え。運動? 朝から?」

 目を丸くする俺を見て、宗像が面白そうな顔をする。そのままとん、と頬杖を付くと、

「そう。運動。朝から」

 わざとらしい口調で復唱した。完全にからかうような上目遣いで見上げられ、俺はごまかすようにへえ、と適当な相槌を打つ。

「走り込みか。俺は無理だな」

「三島はどっちかというと、運動より勉強だもんな」

「うっ」

 大当たりだ。運動は苦手だし、早朝の時間はそんなことより勉強に使いたい。というか、実際そうしている。

 宗像が目を細めて、おかしそうに笑った。

「そういや、今日の体育。おまえ、ラケット握って死にそうな顔してた」

「っ……バドミントンは……タマが速すぎるんだよ」

 あんな爆速で飛んでくる物体が、眼鏡にでも当たったらどうするんだ。たしかバドミントンのシャトルの最速は490キロ近く。新幹線より早い。絶対、眼鏡を貫通して、顔までへこむに決まっている。危険だ。死にそうな顔のひとつやふたつ、したってしょうがないだろう。

 だが宗像は、俺の言葉がよほど面白かったらしい。肩を揺らして笑い始めた。

「っくははは……! そうだな、たしかに……速いよな、ウン。新幹線よりな」

「笑うなよ! 約1.5倍の速さだぞ!」

「三島、質量って知ってる? 運動エネルギーの計算式は?」

「K=1/2mx^2だろ! 知ってるよ!」

「さすが」

 ぱちぱち拍手されて、俺はくそっ、と毒突く。宗像は面白そうな顔で俺を見ていたが、悪い悪い、とあっさり謝った。この男はこういうところでも引き際を心得ていて、そつがない。忌々しい。

 舌打ちせんばかりの俺に、宗像は今度教えてやるよ、とさらりと言った。えっ、と口が半開きになる。

「バドミントン。ラケットで打ち返せば、おまえの眼鏡も安全だろ」

「それは、そうだけど……」

「ま、三島の気が向いたらだけどな」

「……うん」

 こういうときでも無理強いはしない。完璧だ。俺はもやもやしたものを感じて、うんとかああとか返事をすると、下を向いた。

 宗像は愛想がよくて、誠実で、俺の本気で嫌がることは決してしない。よく笑うし、部活動中はあれこれ任せてくるし、頭がいい分、込み入った話でも即座に的を射た返事をしてくる。

 でも――ちっとも、懐に入れている気がしない。この男が完璧であればあるほど、俺は閉じたドアの向こうをうろうろさまよっている惨めな犬、みたいな気持ちになってくる。

 プライベートのことは、多少なら答えてくれる。でもそれは、『誰に聞かれても話せる』範囲のことでしかない。特別警戒されている訳ではないけれど、懐にも入れていない。

 感じたことのない、焦躁に近い情動を持て余して、俺は胸元を押さえる。こういうとき、俺の中身がもっと詰まっていたら、もっと上手に立ち回れたのじゃないかと思う。でも、もしそうだったなら、俺はこんなに、この男を妬んだりはしなかった。

 息が詰まる感覚にじっと耐えていると、ふと、宗像がじっと俺を見つめているのに気が付いた。なに、と尋ねると、彼は表情のない顔で、いや、とだけ答えた。ときどき見る、なにを考えているのかよくわからない表情だった。

 俺はいたたまれなくなって、ほとんどヤケクソで口を開く。こうなったらプライベートの懐情報を、なんとしてでももぎ取ってやろう。

「話題を変えよう。宗像って何座」

「めちゃくちゃ急角度で来たな。たぶん山羊座だけど」

「誕生日は?」

「十二月の、二十八」

「年の瀬じゃん」

「そう、冬休み。学校あれば、友達からあれこれ祝ってもらえるんだろうけどな」

「……そ、そういうものなんだ」

 正直、誕生日を友達に祝ってもらう、という経験がほぼ皆無なため、誕生日に学校があったらなあ、みたいな発想が微塵もなかった。親でさえ、無条件で誕生日を祝ってくれたのは小学校に上がるまでだ。そこからの誕生日は、『俺の成績に準じてプレゼントやお祝いのランクが決まるイベント』でしかなかった。去年の誕生日はもちろん、なにもなし、だ。

 目を丸くしている俺を見て、宗像はちょっとだけ黙った。そして、何気なく頬杖をつくと、言った。

「じゃあ、おまえは」

「俺?」

「誕生日」

「あ、ああ……六月三十日」

「へえ。夏越の祓じゃん」

「……出てくるワード渋くない?」

「いいじゃん。茅の輪くぐりしようぜ」

「バカ」

 男子高校生が二人して茅の輪くぐり。どういう絵面だ。俺は宗像がでかい長身をかがめて茅の輪をくぐっているのを想像して、ふ、と笑ってしまった。内心で、小さく拳を握る。

(宗像は冬生まれ――ちょっといい情報かも)

 たしか、こいつの誕生日については、まだ一度も教室で話題になったことはない。つまり、俺だけが知っている情報だ。これは、一歩前進と言えなくもない。

 毎日毎日、ほんとうに少しずつ、宗像の個人情報を聞き出していく。じれるほど少しずつ、距離を詰めていく。もうちょっと聞いてやろうという衝動を押さえながら、そんなことを日々、繰り返している。

(はやるなよ、一歩ずつ、着実にだ)

 ひとたび警戒されたらそれまでだ。俺は誰よりも深くこの男の懐に入り込んで、こいつの心のいっとう柔らかい場所に、いちばん近くで立つ存在になるのだから。焦ってはいけない。

 ひとり決意を固める俺を、宗像がじっと見つめていることに気付く。ときどき見る、なにを考えているのか今ひとつ掴めない、静かな瞳。首をかしげる。

「なに」

「……いや」

 ふっと俺から目を逸らして、宗像はああ、とケージの方に目をやった。ぴかぴかになったケージが日に照らされて、柵の形に影を落としている。かたかたとマウスが動き回る音。

「そろそろ乾いたな。〝お仕事〟と行くか」

 宗像はさっぱりと笑った。俺はううう、と小さくうめく。マウスを新しいケージに移す作業は苦手だ。小さい命を手で掴むと、無性に緊張して、全部終わる頃には気持ちがへとへとになる。

 俺の「ううう」を聞いて、宗像はおかしそうに笑った。ほんと三島らしいよ、というささやき。いい意味なのか悪い意味なのかはわからない。ただ、今のところ嫌悪は抱かれていないようだ。

 それだけを幸いとして、俺はおそるおそる作業に取り掛かった。マウスを逃がすことも潰すこともなく『お掃除』は終わり、俺たちはしばらくデータ取りだの雑談だのをして、梅雨入り初日とは思えない、茜色をした夕方の下駄箱で別れた。



 

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