【前編 / 02】 流星に至る ─── 01
「――入部?」
淡々とした実直な視線が、まっすぐに俺を見据える。乾いてしまった喉をこくりと鳴らして、俺は小さく頷いた。
「う、うん。これ、入部届」
「ふうん」
すっ、と手の中から紙切れが取り上げられた。視線が、さらりと紙面に走る。切れ長の目、静かな瞳が左右に動いて、確認するような仕草。
なんとなく落ち着かなくて、大柄な体躯から視線をそらす。すると、赤黒いものが目に留まった。作業台の上にきっちり並べられていたのは、生き物の一部のようだ。おそらくだがマウスかなにかの、解剖摘出後の脳と脊髄だった。
(うわ、えげつな……)
実験動物の処遇に対してどうこう言うほど純粋ではないけれど、実際に目の前に動物の脳を晒されると、さすがにちょっとびっくりする。俺はそそくさと視線を宗像に戻し――俺をじっと見つめている実直な瞳と、目が合った。びく、と一瞬肩が跳ねた。
「な、なに」
「いや。うち、こういうこともする部だけど。三島は大丈夫かと思って」
「う……だ、大丈夫」
「え? なんて」
声が小さかったらしい。宗像が、怪訝そうな顔で耳を寄せてきた。整った雄っぽい顔面が近付いてきて、俺はぎくりと身を強張らせる。なにせ、こんな至近距離で誰かと接することなんてなかったのだ。
小学生くらいのときなら、両親が傍に来ることも、笑いかけることも、頬や頭を撫でることだってあった。だがその記憶も、薄れかけた遠いものだ。今はもう、家の中での俺は透明で、誰の目にも映らなくて、それは学校でも変わらない。
俺は小さく息を吸うと、どん、と宗像の胸を押し返した。きっ、と顔を上げる。
「……っ、大丈夫だから!」
「あ、そう」
思い切って出した大きな声に、宗像は驚くこともなく、あっさりと頷いた。ひら、と入部届を机に置くと、同じ机に軽く身をもたせかける。そんな仕草もいちいち男っぽくて、言ってしまえば格好が決まっていて、ちくちくと癪に障った。
「三島は、どうして生研部に?」
「え……な、なんでそんなん聞くんだよ」
「良く知ってたな、と思って。うちの存在」
とりあえず研究だけできればいいと思って、特に宣伝とかしてないんだけど。そう言って、宗像は辺りを見回す。マウスのケージやら解剖用の道具やら、染色用の薬品やら。メモもノートも筆記具も、すべて一人分だ。宗像が薄く目を細める。
「どこで聞いたのかなと思って」
「そ……それは……」
まさか教室で聞き耳を立ててましたとも言えず、俺はもごもごと言いよどむ。そんな有様を、宗像は淡々とした眼差しで、じっと見つめていた。落ち着かない。
宗像の、質実剛健、といった切れ長の目。よく見ると黒に近い焦げ茶のそこに、俺の姿が映り込んでいる。五月末の光を受けて光るなめらかな眼球、その表面にかすかに映る、痩せた男子のシルエット。なんだか変な感じがする。こういうのに慣れていない。
俺はそっと宗像から目をそらすと、生研部に入ろうと思った理由を、なんとか絞り出した。理系分野が好きで、とか、実験データの取り扱いとか今から慣れておきたいし、とか、本格的な論文が書けるって聞いたから、とか。
寄せ集めの知識、打ち込んだ錨にしがみついて、なにもない身体から、必死にそれらしい言葉を吐き出す。うまく言えている自信なんてない。でも、追い出されるわけにはいかない。だってこの完璧な男に、せめて一矢報いなければ、俺はとても浮かばれない。
俺の決死の努力による説明に、宗像はまったく平常の声で、ふうん、とだけ言った。
(そ、その『ふうん』は、どっちの『ふうん』なんだよ……!)
いいのか、駄目なのか。ひやひやしながら、垂れた腕の先、手をぎゅうっと握りしめる。緊張で乾いてしまった喉。宗像の方を見ることができない。
一方の宗像は、たぶん、俺をじっと見つめている。こういうのは慣れていない。誰かの視界に入るなんて、意識の上に留められるなんて、ちっとも落ち着かない。
いたたまれなくなって、詰めていた息をそっと吐いた、そのとき。
「わかった」
実にあっさりと宗像は言った。へっ、と顔を上げる。途端、視線がばっちり交わって、俺はふたたび下を向く。宗像がなぜか、喉の奥で笑った。
革靴の爪先を見下ろしていた視界、そこにすっ、と紙束が入り込んでくる。そこには細胞の染色写真と思われる画像と、いくつかのグラフが並んでいた。宗像の、研究資料。
そろそろと顔を上げる。宗像が、俺の胸元に資料を押しつけた。慌てて受け取る。
「部員第二号として。よろしくな、三島」
「あ――え? う、うん」
あまりにもあっさりと言われ、現状の認識に数秒を要する。渡された紙をぺらぺらめくった。内容は――知らない用語がちょこちょこあるものの、一応、理解はできる。
(これは……入部を認められた、ってことでいいんだよな)
ほっとした。密かに息をつき、胸をなでおろす。俺はそろりと顔を上げ、宗像、と呼びかけた。
「なに」
「その……これ、実験データだよな。そもそも、どういう研究なわけ」
「精神病のマウスの行動実験とか、いろいろ。まあでも、メインの活動は――……こいつらの世話かな」
こんこん、と軽くケージを叩く。いくつも並んだ狭いケージの中では、真っ白いマウスが鼻をひくひくさせていた。正直、ちょっとかわいい。
思わず頬をゆるめた俺に、宗像が情を移しすぎるなよ、と苦言を呈す。
「あくまで実験動物だからな。敬意はいるけど、可愛がるのは違う」
「わ……わかってるって」
「ならいい。手伝ってくれ」
短く言うと、宗像はぱちんとゴム手袋をつけた。無造作にケージに手を突っ込む。マウスをつかみ取り、別のケージに移す。たちまちケージが空になった。
「これ、交換して清掃するから。新しいケージに床敷しいて、餌と水足しといて」
手慣れた様子だ。俺は慌ててうなずくと、見様見真似でケージの用意をはじめた。宗像は手慣れた様子で、すでに用意された新しいケージにマウスを次々移していく。メインの活動は動物の世話、というのは本当のようだ。
「これ捨てといて」
「う、うん」
「あと、これはそこじゃなく、こっちな」
「わ、わかった」
じっ、と静かな目が俺を見る。落ち着かない。宗像は小さく苦笑して、おまえなんでそんな吃ってんの、と言った。返事に詰まる。
勢い込んでやってきたは良いものの。実際に至近距離で宗像と対峙すると、ひるんでしまう自分がいた。
だってよく考えれば、宗像の弱みを握るためには、こいつの懐に入らなければならないのだ。越してきてさほども経っていないが、今のところ宗像は、どんな親しい相手にも完璧な姿を保っている。つまり俺は少なくとも、あいつらよりも深く、近しい存在にならなければいけない。そうでなければ弱みなんて握れない。
宗像はいつも人に囲まれている。この完璧な男とお近づきになろうと、一山いくらの大量の友人候補が、いつだって彼の前に列をなしている。そいつら全員押しのけて、彼の隣に収まるなんて芸当、果たして俺にできるのか。
(いや、できるのか、じゃない。やるしかないんだ)
でなければ、俺はずっと空っぽの、なにもない、どうしようもない人間のままだ。誰の目にも映ることのない、知識だけが全ての、それなのにその知識すら宗像に負けたままの。それだけは嫌だった。やるしかない。
水の容器をケージに設置し、ペレットをざらざらエサ箱に入れる。そのとき、急に宗像に声をかけられた。
「そうだ。おまえ、副部長な。がんばれよ」
「え……えっ、……へっ!?」
ざらっ、と勢いよくペレットがこぼれた。そんなの聞いてない。だが、部員は二人しかいないのだ。再建者の宗像が部長なら、もう一人の部員が副部長になるのは、ごく自然な理だった。
「そ、そ、そういうことに、なるのか」
部活に入って、ポジションがついて、誰かと放課後を過ごす。そんなの、一度もしたことない。やり方なんてわからない。それでも、うまくやらなければならない。失敗は許されなかった。
(ぜ、前途多難すぎるだろ……!)
コミュ力向上プログラムの、マニュアルがほしい。あるいは『典型的な高校生活の概要』とか、そういう案内書。裏切らない、安心感のある知識を、痛いほど俺は求めた。もちろん、そんなものが降って湧いてくるわけもない。
ううう、と内心で小さくぼやきながら、こぼれたペレットをかき集める。宗像が、ぷっ、と吹き出した。
「ははっ、どんくさ」
まっすぐに俺を見つめる、実直な視線。眼球の表面に、俺の姿が映っている。いたたまれなくなる。
醜態を面白がる口調のくせに、宗像の大きな手は、当たり前のように俺を手伝って、ざらざらとペレットを集めていった。気をつけろよ、と低く呼びかけられ、小さく頷く。肩と肩がぶつかって、ぴくり、と指先が跳ねる感覚。
そういえば、宗像に笑いかけられたのは初めてだ、と思った。ちらと盗み見た横顔はやっぱり雄っぽくて、整っていて、その癖清潔感もきちんとあって、あまりにも出来すぎた男のものだった。気に食わなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます