【前編 / 01】 二人目のファウスト ─── 06

 別室で面談のあと、教室へと廊下を歩く。放課後までもつれ込んだ三者面談のおかげで、廊下はとても静かだった。たまに誰か、親を連れた生徒とすれ違う。クラスメイトかどうかすらわからない。ただ、母親を鬱陶しがる息子あるいは娘、という、思春期ならではの光景を何度か見かけて、そのたびに俺は目を伏せて、足早にその場を通り過ぎた。理由はわからない。

 戻ってきた教室の前は静かだった。俺はドアに手をかけようとする。しかし、不意に中から聞こえてきた言葉に、ぴくり、と手が止まった。

「この席誰だっけ。えーっと……三島か」

「あー、あのいっつもタブレットで本読んでる?」

「そうそれ。いっか。借りちゃお」

 がたがた、と椅子を引くような音。複数人が談笑する気配。

 どうやら俺の椅子は占拠されてしまったらしい。なんとなく入りづらくなって、ドアの前で手を浮かせたまま、俺はぼんやり立ち尽くした。

 扉の向こうから、さざめくような声が聞こえてくる。

「三島って、あれだよな。なに考えてるかわっかんねーの」

「たしかに。話しかけても無言だし。授業以外で声聞いたことないわ」

「その授業でもめちゃめちゃ声ちっせーけどな。聞き取りづらいったらない」

(……これは、入っちゃ駄目なやつだよなあ)

 いくらなんでもこのタイミングでは入れない。俺は小さくため息をついて、どうしたものか、と思案した。

「下向いて本ばっか読んでるけど、なに読んでんだろうな」

「エロ小説だったりして」

「教室で? せいぜいラノベだって」

「あーでも、ああいう奴の好きそうなのってサブカルとか、アングラ系かもな。前衛的でアーティスティックで、グロがキツいやつ」

「はは、中二かよ」

 好き放題言ってくれる。押し殺した息を吐いて、浮いたままだった手が、ゆるゆると落ちていく。これは――よそで時間を潰したほうがいい。

「それ、現実とフィクションの区別が付かなくなって、陰で虫とか捻り潰しはじめるやつじゃん」

「やめろって。なんかホントにそれっぽいから嫌」

「いずれ虫じゃ満足できなくなって、猫、犬、人と発展する定番コース」

「よせって」

 よせと口では止めていても、声は半笑いだ。たまに他人に認識されたらこれか、と頭が痛くなる。聞いていても意味がないと、俺は踵を返そうとして、


「――三島は、虫を殺さないと思う」


 初めて聞こえてきた、はっきりとした声に、びくっと足が止まった。

(……宗像の――声?)

 あの良く通る、少し掠れたような低い声は、間違いない。宗像だ。教室にいたのか。

 俺はおそるおそる振り返って、半歩だけ近付いて、ドアの向こうに聞き耳を立てた。宗像は少しだけ嗜めるような声音で、だが咎める口調ではなく、さらりと言った。

「どっちかっていうと、虫に怯えそうだろ、あいつ。無害だよ」

 な、と笑みまじりの声。その奥に、話題を健全な方向に戻そう、というはっきりした意思を感じる。囃し立てていた男子ふたりもそれを感じ取ったのか、そうかも、と笑って乗ってきた。

「ヘタレっぽいし、まあ、殺しはやらないか」

「だよなあ」

 俺は詰めていた息をそっと吐いた。扉から静かに離れ、ふーっ、と肩を落とす。かすかな安堵。

 だが、あの宗像に庇われた、という事実が、じわじわと胸の奥でなにかを主張しはじめた。気まずさと紙一重の、反感めいた不快感。

 そんな俺を知りもせず、ドアの向こうでは雑談が続いている。

「つうか宗像、三島と接点あったっけ?」

「ないけど。三島って、正面から見たら案外きれいな顔してるぞ」

「はあ? ウッソだろ?」

「あ、でもあいつ確かに、下のタブレットしか見てねえからな……俺、つむじくらいしか覚えてねえわ」

「今度見てみるか?」

「無理に見るのはやめろよ」

「ちえ、わかってるって。宗像はほんとかっこいいよな。武士かよ」

「なんだそれ」

「立ち居振る舞いの話ですぅー」

 扉一枚へだてて、宗像はまた、淡々と俺を庇うようなことを言う。もやもやする。俺はあいつの机を蹴り飛ばして、猫殺しだなんだって叫んだのに。その俺をおまえは、虫も殺さないって庇うのか。

 よくわからない、見当違いの不快感に胸元を押さえて、俺はつとめて平静の呼吸を行おうとした。教室では、宗像が話題を切り替えるのに成功したらしい、これからどうすんの、という話に変わっていた。

「俺は父さんの見送りも済んだし、生物室で部活してくる」

「あー、おまえんとこ父親だったっけ」

「女子がめっちゃ騒いでたよな。宗像君ってお父さんもかっこいいんだ、って」

「よせよ。俺からすればただのオヤジだって」

 宗像はそう笑って、かた、と椅子だか机だかを鳴らした。

「母親も、かなり面談を気にしてたんだけどな。都合がつかなくて」

 それで父が来たんだ、と言う。へえ、と友人二人が感嘆する。

「だからって、仕事休んでまで父親が来てくれるなんて、あんまないよな」

「父さんがわりと、息子のこと気にする人でさ」

「はー……その年代にしちゃ、めっずらしい」

(宗像んちは……父親が、来たんだ)

 その上、母親もどうしても都合がつかなかっただけで、来たいって言ってたんだ。そうなんだ。

 ぼそぼそと心の中でつぶやいて、心臓の奥のあたりが、妙な脈動を立てている。なんだか息が詰まる。そんなの四者面談になるとこだったじゃん、と思う。うちの倍だ。

「両親そろって熱心だから、そんだけ頭いいんだなおまえ」

「いや、頭悪いつもりはないけど、そこまで極端に良くもないぞ。ここに来る前の学校だって、ここほど偏差値高くなかったし」

「またまたあ。俺、知ってんだからな」

 にやけた声と、がたがたと椅子を鳴らして、人と人が小突き合うような気配。

「聞いたぞ? おまえ、最初はM高受かってたんだろ。それを蹴って、前の高校に行ったって」

(え――っ?)

 ざあっ、となにか、血の気とか、他の色んなものとかが、下の方まで一気に落ちていくのがわかった。すうっと頬が冷たくなる。

 ずっと実直な口調だった宗像が、初めて、いやまあ、と言葉を濁した。明確な否定じゃなかったことが、その情報が事実なのだと明示していて――眩暈が、した。

「前の高校の方が、やりたいことやれそうだったんだよ」

「はあー、それでよりによってM高蹴るかね」

「だって偏差値だけが全てじゃないだろ。特色とか」

「うわ、俺も言ってみてえ。『偏差値だけが全てじゃないだろ』」

「おい、からかうなって」

「偏差値だけがァ! 全てじゃないだろォ!」

「そろそろ殴るぞ」

「うっわ目が怖ぇ!」

(……そんな、のって)

 気が付けば、胸元のシャツをぎゅうっ、と握りしめていた。息が浅くて、心臓がばくばくと、嫌な鼓動をしきりに打ち鳴らしている。冷たい汗が背中をつうっと伝い落ちて、頭の後ろのほうで、ぐるぐると色んなものがめぐっている。

 忙しいから、と被せられた声。誰より早く終わった〝二者〟面談。シャーペンで殴り書いただけの結果個票。自分で焼かないと出てこないトースト。先々月から顔を見た覚えがない父親。誰の目にも映らない、空っぽの自分。二位の印字。

「……っ……」

 ぎりっ、と歯の奥が音を立てた。シャツと一緒に握り込まれたネクタイがぐしゃぐしゃになって、どくどくと鳴る冷えた鼓動、乾いてしまった喉をこくりと鳴らした。

 宗像は――俺とは正反対の人種だ。忌々しいくらいに。

 あいつはなんでも持っている。俺の持っていないものも、むかし欲しかったものも、本当は手に入れるべきだったものも、なんでも。

 俺にはなにもない。空っぽで、誰の目にも映らない。この水みたいに半透明な世界の中で、いつか無くなってしまうんじゃないかと思う。

 空洞の内側に、重石のようにざらざら知識を詰め込んで、ようやく重心は安定する。錨が水底に落ちていく。少しだけ、まだ猶予があるんじゃないかって気持ちになる。

 端末にダウンロードした電子書籍。マーカーで埋め尽くされた参考書。付箋で持ちづらくなった英和辞典。びっちり並んだ本棚の中身。重い錨をいくつも打ち込んで、今日も俺はかろうじて、ここに留まっていられる。

 知識は俺を裏切らない。たったひとつ、俺に〝本当〟を与えてくれる。知識だけが、俺を。

(なのに、あんな奴に――知識なんか、必要ないだろ……!?)

 恵まれた、なんでも持っている、誰よりも優れている、あんな奴。宗像はきっと、錨なんて打ち込まなくても立っていられる。〝本当〟を希求しなくったって消えたりしない。誰も彼もが彼をその目に映している。

 宗像と俺では、切実さが違う。知識というものに対する希求が違う。必死さも、必要性も、緊急度も、ぜんぜん違う。それなのに。

(なんで俺じゃなくて、あいつが――)

 胸の奥が苦くてたまらない。息が詰まって、とても苦しい。耐えられない、と思って踵を返した。歩き出した歩幅はしだいに大きくなって、気が付けば走っていた。

 息が上がる。廊下を駆けていく、不格好な足音。走るのなんて慣れてない。疲れるからこんなことしたくない。でも、やめられなかった。

 俺は頭が真っ白なまま走って、階段を駆け下りて、転びそうになりながら職員室に辿り着いて、そして、ほとんど衝動的に、一枚の紙をもらった。長ったらしい説明もそこそこに聞き流し、ボールペンで学年とクラスと名前を書きつけて、ぐしゃぐしゃに握りしめたまま、特別教室棟に向かって無茶苦茶に走った。


 はあっ、はあっ、と息を切らせながら、立ったのは生物室の前だった。閉じたドアの向こうで、人間が動いている気配がする。いるのだ。あいつが。

 ぎゅうっ、と職員室でもらってきた紙を握りしめた。

(これは――契約書だ)

 生物研究部への入部届。俺は生物なんて好きじゃない。本当は物理がやりたかった。でも。

 たとえ悪魔と契約したっていい。あの正反対の、忌々しい男に近付いて、なんでもいい、なにか弱みを握ってやるんだ。あの完璧な男の仮面をひっぺがして、白日のもとに晒してやる。そうでもしなければ――俺はとても浮かばれない。

(だってどうせ、俺にはなにもないんだ)

 それならば、嘘だって演技だってしてみせる。仲間になりたい顔をして、友人になるふりをして、あの男を引き摺り下ろしてみせる。

 そうしたら俺はやっと安心して、落ちた錨に身を任せることができる。そんな気がしていた。

 さあ、と気合を入れ、息を吸って、吐く。ノックを三度。はい、と低い返答。

 俺はこくりと唾を飲み、震えそうになる指先で、生物室のドアに手をかけた。



 

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