【前編 / 01】 二人目のファウスト ─── 05
先生が目の前でなにか言っている。言葉はわかっているし、応答もしている。でも、その本当の意味合いとか、真意だとかは、俺はまったく意識に留めていなかった。
先生とふたりの『三者面談』。予想どおり、とても順調だ。
「三島なら、今から頑張ればどこの大学も視野に入るはずだな。志望はU大か。順当に積み重ねていけば、十分現役で狙えるぞ」
「はい」
淡々とした返事。家ではどんな勉強をしてるのかとか、予備校はどうだとか、そういうことを尋ねられ、機械的に返事をする。
「予備校は行ってません」
だって俺を視界にも映さない母が、学費だの手続きだの、するはずもないから。続きの言葉は言わずに、今のところ自宅学習で問題を感じていないので、と言っておいた。
先生はさすが三島だな、と言う。俺はありがとうございます、と口の端を持ち上げて、笑みに似た顔を作った。ほとんど自動に近い応答。脳内チャートに従って、こう聞かれたらこう答える、という反応を返すだけの。
だが、続く問いかけに、俺は言葉を詰まらせた。
「それで、U大なのはわかったが。学部はどこを? 三島は、どういう学問がやりたいんだ」
「え……あ、ええと……そうですね」
そんなこと、わかるわけがない。だってそれは〝未来〟だ。
俺の未来なんて、願望もなければ、希望も、展望もなにもない。最低限のリアリティすら、そこには存在していない。ただの透明な広がりだ。
――U大は、あなたの未来のためなのよ。
(本当に――そう、だったのかな)
今となってはわからない。U大を目指している理由だって、正直ただの惰性というか、慣性に近いものだ。今までの行為を、もはや誰も望んでいないにもかかわらず、なんとなく続けているだけ。他にしたいこともないから。
仮にU大に入ったとして、なにかが変わると思えない。俺が空っぽなのも、世界が透明なのも、知識という錨で繋ぎ止めなければ、俺の足元がずっと、不安定で覚束ないままなのも。
(……)
俺は数秒だけ詰まって、止めていた息を吸って、苦笑を作って。
「少し、迷ってます。興味のある分野が複数あるので……本格的に学部を決めないといけない時期までは、どこでも対応できるよう、満遍なく学習しておくつもりですけど」
困ったような笑みのまま、すらすらと一息に言った。
先生はそれで納得したようだ。なるほど、と帳面になにかを書きつけていた。俺はかすかに息をつく。どうやら『問題なし』らしい。
まあ、問題があったところできっと、何がどうこうなるわけでもない。
だって入学以来一度も三者面談に来ない親を、シャーペンの走り書きで同じ文面が並ぶだけの保護者コメント欄を、先生は把握しているはずなのだ。それでも何も言ってこないのは、問題にしたくない、あるいは、俺なら大丈夫だと、無根拠に思っているからに他ならない。
誰の目にも俺は映らない、いつも通り、そういうことだ。
俺は成績だけは十分にいいし、問題らしい問題を起こしたこともない。頭の出来以外に特徴らしいものもないし、友人もいない、部活もやっていない。誰かが気に留めるような、要素がないのだ。なにもない、空っぽの身体。
「……」
「……、……」
「…………。……」
先生がなにか喋っている。俺もなにか喋っている。意味なんてほとんど認識していない。刺激と反応、コミュニケーションの形を取った、双方の無関心。俺も先生も、それでいいと思っている。茶番にも等しい時間。
ああ、息が詰まるな、と思った。
当たり障りない生徒の顔を作ったまま、現実味がない、肌の上に膜が張ったような感覚に耐える。半透明で曖昧で不確かな、ぼんやりした世界。過去も未来もわからない。むしろ今すら判然としない。
色のない、茫洋とした広がりの中、俺の不確かな足元は、すぐにゆらりと掬われてしまう。誰にも認識されないまま、よくわからない透明の中に広がって、きっと俺はもうすぐ無くなってしまうのだと思う。
(……だけど)
たとえ現実が、体験が、この世界が、なにもかも水のように曖昧だったとしても。知識はリアルだ。
いつだって、タブレットのページをめくるたび、参考書にマーカーを引くたびに、俺の中に、質量をともなって知識が落ちてくる。空っぽの身体の内側に、落ちてくるものがこすれていく、あの感触。あの言葉にできない手触りだけは、〝本当〟だと実感できる。
俺の空洞に詰め込まれた重石、深く打ち込んだ錨。無くなってしまいそうな俺を唯一世界に留めてくれる、確かな、〝本当〟の手触り。
(俺には――それさえあればいい)
だって知識は、俺を裏切らないのだから。
俺はかすかに目を伏せて、先生が書きつけた文字を視界の隅に収めた。
『志望はU大。学部未定。前回同様、成績、素行とも問題なし』
毒にも薬にもならない、無味無臭の、透明なセンテンス。俺にぴったりだ。
俺は笑う。先生も。心なんてどこにもこもっていない。互いの目に、互いの姿は映らない。淡々とした時間がだらだらと過ぎていく。
二人きりの三者面談という、矛盾した状況はすぐに終わった。なにか新しい話題が出るでもない。他の生徒たちよりも、十分以上短い時間だった。
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