【前編 / 01】 二人目のファウスト ─── 04
朝の三島家は静かで、けれど慌ただしい。ぱたぱたと身支度に駆け回る母に声をかけるタイミングを失って、俺はさっきから何度も口を半開きにしては閉じる、を繰り返していた。
ああ忙しい、と口癖のように繰り返す母を尻目に、自分で焼いただけのトーストをかじる。父はとっくに出勤していた。広々としたリビングに、母のスカートが何度も翻る。
前の日に準備しておけばいいのに、と思ったが、それをすると睡眠時間が足りなくなるのだろう。リップがない、と探し回っていた彼女だが、やっと見つかったらしい。ようやく俺の正面に腰を下ろした。すぐさま鏡を立てる。視線はもちろん、交わらない。
だが、やっと母が静止したのだ。俺は意を決して、あのさ、と声をかけた。なに、と無造作な返事。
「えっと……こないだ、中間考査あったよね。その後の、三者面だ」
面談、を言い終わらないうちに、ああ忙しいから、と早口でかぶせられて、口をつぐむ。そう、とだけ返した。今回もうちは二者面談らしい。
母は忙しい人なのだ。予定を聞いても埋まっていることがほとんどだ。一方の父にはもう、聞くことすらしていない。そもそも父は早朝に出て行って、深夜に帰ってくる。泊りのことも多い。顔なんてもう何日も、下手をしたら一ヶ月くらいは見ていない気がする。
ベージュカラーのリップを塗り終えて、母が鏡を片付けた。次は髪の毛か。ばたばたと洗面所に向かう母の気配だけを追いかけて、トーストを一口。
最後に母が俺を見たのはいつだったかな、と思う。よく思い出せない。
(あんなに、あなたの未来、あなたの未来って言ってたのに)
なんだか――嘘みたいだ。現実も、俺の存在も。
さく、とトーストをかじる。冷え始めた炭水化物の、かすかに甘ったるい味。ぱさぱさしたそれを飲み込んで、コーヒーをすすった。
俺の未来。なんだかひどく現実味がない。
過去も未来も現在も、時間なんてただの概念だ。無色透明な『時』という存在がただ、目の前を通り過ぎ、流れていくだけ。自分には関係ない、遠いところの出来事みたいに感じられる。
だって誰も、俺の未来に期待していない。面談だってきっと、「あなたなら心配ない」とか当たり障りのないことを言われて、それだけだろう。少なくとも、去年一年はそうだった。どうせ今年も変わるまい。
ドライヤーの音が途切れて、母が戻ってきた。鞄を手に取り、腕時計を一瞥。と、ああ、と小さなつぶやきが聞こえた。
かさ、と折り目のついた紙を差し出される。
「先生に渡しといて」
「うん」
中間考査の結果個票。二位。母の様子は普段となにも変わらない。これが中学時代だったら、母子会議が半日開かれるところだ。
ちら、と見下ろす。個票の保護者コメント欄には、シャーペンで『よろしくお願いします』という走り書き。もうずっとこれ以外の文字を見ていない。たぶん母は個票の内容すら見ていないのだろう。
顔を上げる。母の後ろ姿が、LDKのドアを出て行くところだった。行ってきますの言葉も、もう一年ちょっと聞いていない。
ぱたん、とドアが閉まり、ぱたぱたと足音、玄関扉の開け閉めの気配、がちん、と鍵がかかる音。しいん、と耳に刺さる静寂。
「……ちゃんと渡しとくよ」
誰に届くでもない返事。さく、と冷えたトーストをかじる音が、妙にはっきり聞こえる。
俺はなんだかよくわからない気持ちになって、そっとテレビをつけた。にこやかなキャスターが今日のお天気を告げている。朝は薄曇りだが、しだいに晴れてくるでしょう。それは良いことなのだろうか。よくわからない。
(誰も……俺を映さない)
それでも、別に構わない。錨代わりの知識さえ、俺にはあればいい。心の中で何度もそう唱えて、なんだか言い聞かせているみたいだと思って、やめだ。
不安定に、なってしまいそうになる。打ち込んだ錨が抜けかけているのを感じる。早く知識を入れないとと思う。テストも終わった。今日はゲーテを再開しよう。最近は他の本に浮気していたけど、主人公の運命も気になるし。
つらつらと流れていく、上滑りの思考に身を任せる。視界の隅でずっと存在を主張している個票。二位の文字、よろしくお願いしますの走り書き。
俺は黙って個票を裏返すと、最後のトーストのかけらを口に放り込んだ。水分が足りないせいだろう、吸い込んだ息、喉の奥がひどく詰まる感じがした。
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