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 再び出てきたレシピブックという単語。それが妙に引っかかって仕方が無いのは何故だろう。何かを思い出しそうなのに、それが上手く掴めないもどかしさ。

「そのレシピブックがどうしたというのですか?」

 証言台に立つ彼女の言葉の意図が分からない。そう感じているのは裁判官も同じようで。なかなか噛み合わない会話をどう進めれば良いのかという戸惑いを見せながら、被告人に対して新たな質問を投げかけている。

「レシピブックに全て書いてあったんです」

「書いてあった?」

「そうです」

 そう言って語り出した彼女の話によると、その文字はいつの間にかそこにあったのだそうだ。

 中途半端に残された白紙のままの数ページ。始めにそれに気が付いたときは、確かに印字された文字は中途半端な行数しか存在しなかったのだと彼女は語る。そこまでの情報は誰にだって理解は出来る。だが、問題はその後に続いた言葉の方にあった。

「突然、文字が増えたんです」

 それに変化が起こったのは『何を使って料理を作るのか』を決めた後。医学解剖書を注文して数日後。部屋の片付けをしていた時に何気なく本を手に取りページを捲ったところで気付いた違和感に、彼女はとても驚いたんだと証言する。

「始めは信じられませんでした」

 今まで無かった情報が突然現れたことに『あり得ない事』だと本を閉じる。見間違いだろう。そんな事はあり得ないと。しかし、何度本を閉じたところで、現れた情報が消えることは無く、寧ろ開く度に増える文字の内容はより詳細なものへと変化していく。そして、気付いてしまったらしい。

「これは、食材を捌く方法なんだなって。気付いたんです」

「…………」

 本に現れた情報。それは、食材を処理するための方法だったと彼女は証言を続けた。

「驚くほど丁寧に、その手順は説明されていました」

 まず、何をするのか。説明はそこから始まっていたらしい。料理を提供しようと思う日を基軸に、いつまでに被害者と落ち合い、何処で、どのように、何をして、処理を進めていくのか。それが、次々に白紙だったページに浮かび上がっていく。その内容は作業の進み具合に併せて、今、行う作業がどういうものなのかを伝えるべくどんどん変化していく。

「よく分からないなと悩むと、その内容も変化していくんです」

 時にはイラストなどの図解を交えて『失敗しないように』展開されていったと、彼女はそう言葉を続けていく。

「こんな作業は始めてだったので、当然不安はありました。でも、その不安を分かっているかのように、ページに新しい情報がどんどん現れていくんです。確かに、難しくて作業に手こずった部分もあります。それでも、何とか処理が出来たのは、レシピブックがあったお陰なんです」

『そんなことって……ありえ……』

 そこで思い出したのは過去の傍聴記録だった。

「待てよ…………そう言えば…………」

 メモを取る手を止め捲る手帳のページ。所狭しと書かれた文字の羅列の中に見つけたのは似たような証言に関しての殴り書きである。

「……………………っ」

 感じていた違和感の正体はこれだったのかも知れない。何となくそう思い顔を上げる。

「レシピブックの通りに作業を進めた……と貴女は仰いましたが、そのことについて…………その…………違和感、と言うものを覚えなかったのですか?」

「違和感、ですか?」

「ええ。ですから、それをやってしまうのはいけないことだ。おかしいことなんだと言う事を、疑問には思わなかったのかをお伺いしたいのですが」

 そう聞いてしまうのも仕方が無い話だろう。普通ならばそんな情報を見つけたところで、それを実行しようと思う人はまず居ない。そう考えるのが一般的な考えだ。だからこそ敢えてそれを言葉にする。それはもしかすると、正常な感覚が残っていて欲しいという願いも込められているのかもしれない。

「思いませんでした」

 しかし、現実はどこまでも残酷な様で。動揺を見せることも無く、彼女はハッキリとそう言い切ってしまった。相変わらず傍聴席側からは彼女の後ろ姿しか見えず、その表情がどうなっているのかという詳細は分からない。しかし、前を真っ直ぐに向き堂々とした声で語る事から考えると、「思わなかった」という言葉は本心から出たものだという事が嫌と言うほど分かってしまう。

「それは何故ですか?」

 その言葉に対しての返答なんてきっと一つしか存在していないのだろう。

「だって、あれは特別な食材だったから、です」

 矢張りそうか。私は小さく心の中で呟く。

「食材……ですか?」

「そうです。食材です」

「……………………」

 静まりかえる法廷内。だれも言葉を発する気配は無い。それは、この公判を取り仕切るはずの立場にある人間も同様に、だ。

『……やっぱり、そうなるのか』

 暫くは誰も発言をすることは出来ないだろう。そう判断し再び手元の手帳へと視線を戻す。

『以前にあった事件。今回はそれにとてもよく似ている気がする』

 振り返るのは過去の記録。それは、この乱雑にまとめられた手帳の中に残されている。

 今回の公判に於いて、こういった証言を聞くのは、これが始めてというわけでは無い。過去に何度か同様の証言を耳にした事がある事を思い出したのは、二つの言葉に引っかかりを覚えたからだった。

 【レシピブック】と【無いはずの情報が現れた】。これで以前の事件の傍聴記録と今回の事件の内容が結びついた。

 とても酷似している殺人事件。それは定期的に繰り返されており、一番新しい記憶は去年の秋頃のものと記録してある。内容はというと今回の事件同様、人間を食材として料理を作り提供したという……そんな感じのものだった。

 その時に証言台に立った被告人も今回と同じく女性で、殺人事件など起こさないような平凡な印象のある人だったことに驚いたことを、今でも鮮明に覚えて居る。

 何故こんな人がこんな事件を?

 そう思ったのが犯人を見た時の第一印象だった。だが、公判が進むにつれ、その時に感じた【平凡である】という印象が少しずつ強烈な違和感へと変化していった。

 何かがおかしい。

 初めは何故そう感じるのかが分からず、気持ちの悪い感覚がつきまとったままペンを走らせていた。

『レシピブックに書いてあったんです』

 その時の加害者も、今回と同じようにそう証言をしたというメモの部分を指でなぞりながら、呼び起こす過去の映像。

『違います。あれは料理に使う食材だったんです』

 法廷内に響く動揺の声。被告人の口から驚きの発言は更に続く。

『殺人を犯したという意識はありません。殺してしまいたいほど強い殺意を持っていたと言うわけでもありません。ただ、欲しかったんです。あの人に食べて貰えるための、最高の食材が欲しかっただけなんです』

 あの時の彼女は、証言が進むにつれ語気を荒げ、感情を昂ぶらせていた。伝えることに必死で、懸命に自分の中の殺意を否定するように訴え続けていた。

『私はそんなつもりじゃなかった!!』

 最後の言葉は悲痛にも近い叫び。

『あのレシピブックに書いてあっただけなの!! それを使って、料理を作れば、幸せになれるって!!』

 狂乱し暴れ回る彼女を待機していた職員が取り押さえる。公判は有耶無耶のまま閉廷し、判決は後日に持ちこされた。と、手元の紙面にはそう記されている。

 結局、その事件の結末は人づてに聞いたところで終わってしまった。最後の公判はタイミングがあわず傍聴することが叶わなかったからだ。

「私はただ、食べて欲しかっただけです」

 急に現実へと引き戻される意識。ゆっくりと顔を上げると、誰に答える訳でも無く、彼女はゆっくりと語り始めていた。

「料理を作ることが好きなんです。何故なら、それを食べてくれた相手が、美味しいと嬉しそうに笑ってくれるからです。だから何よりも美味くて最高の料理を作ってあげたかった。その為に必要とした材料が彼女だったんです。それだけですよ」

 悪びれる様子なんて矢張り無さそうで。彼女は驚くほど淡泊にそう言い切った。それがさも当たり前のことだとでも言うように。

「貴方の旦那さんはそんな料理を喜んでくれるのでしょうか?」

「ええ、喜んでいました。美味しいといって、綺麗に食べてくれましたよ。また食べたいから作って欲しいってまで言ってくれましたし」

 多分、この人には、何を解いても意味が無いのだろう。何となくそう思いペンを手帳に挟み瞼を伏せる。

「だって、そうでしょう? 大好きで仕方の無いものを食べられるんですから。それって、何よりも幸せなことだって、そう思いませんか?」

 伏せた瞼に映し出される被告人という存在の残像。声の調子だけで見える筈も無い彼女の顔に笑顔が浮かぶ。

「食べる事で、一つになれるんです。彼が死ぬまで、ずーっと一緒に居られるんですよ? 彼しても彼女にしても、離れられないほど近い存在になれたんです。ほら、ね、幸せな事でしょう?」

 まるで楽しそうに。その言葉は重たい空間に響いていく。

「だから私は料理を作ったんです。二人のために、とびきりの美味しい料理を」

 クスクスクス。その言葉を最後に、彼女は一言も語る事無く口を閉ざしてしまった。どんな質問を投げようとも、返されるのは小さな笑い声のみ。今日はここまでが限界だ。そう判断されるのも時間の問題だろう。

「っっ!?」

 突然感じる強い振動。反射的に取り出した携帯端末のディスプレイを確認すると、宛先不明のメッセージが一件。

『……何だ? これ』

 何となく指を動かしスリープモードを解除すると、受信したはずのメッセージは跡形も無く消えてしまっていた。代わりに表示されたのは、先程まで閲覧していた被告人のSNSページの画面。

『…………え?』

 それは、一番最後に更新された料理の写真。勝手に指が動き、スクロールされていく画面を目が追ってしまう。

 写真の下に表示されたのはユーザーから投稿されたコメントの一部。一番始めに投稿されたコメントには、こう記されていた。


 ね? 作ってみて、良かったでしょう?


 投稿者のアカウント名は『ハッピーレシピ』。まるで全てを知っているかのような一言に、気持ちの悪い怖気が背筋を駆け上る。

『…………まさ……か…………』

 法廷内に響くガベルの音。我に返り顔を上げると、本日の公判が閉廷となる旨を告げられた。

 一人、また一人、と。法廷内から人が消えていく。私はと言うと、まだ席についたまま、ぼんやりと退出していく人の姿を見送っていた。

 丁度自分の目の前を、被告人である彼女が通り過ぎていく事に気が付き無意識に口を開く。

「貴方は、本当に旦那さんが浮気をしたと思っているのですか?」

 何故、そんな言葉をかけたのかは分からない。でも、それはとても自然に吐き出されてしまっていた。慌てて係の人間が遮るように彼女と私の間に立つ。急ぎ歩けと促される彼女はと言うと、大きく目を見開いてこちらを見たあと、とても綺麗な笑顔を浮かべながらこう答えた。

「そんなこと、関係無いわ。浮気なのかどうかなんて、本当の事を私が知る必要は無いんだもの」

 それだけを告げると彼女は法廷から出て行ってしまう。

「…………浮気……ではない……としたら…………」

 真実は闇の中。これに関しては、彼女の旦那は口を開いてくれないだろう。そもそも、そのこと自体思い出すことを拒む可能性の方が高い。彼の人柄を考えると、親しくしていた知人を自分が食べてしまったなんて事実。それを、喜んで受け入れるような人間とは到底思えなかった。

 数日後。事件の関係者からこんな話を聞いた。

 公判で彼女が証言していたレシピブックは、押収品の中には存在していなかったそうだ。証拠品の記録を見てもそれに該当するものは無く、そんなものは初めから存在していなかった。だからこそ、あの時、法廷で彼女が証言するまで、その本のことを言及する者は一人として現れなかった。

 彼女の言うその本が、今、どこにあるかなんて分からない。本当に存在していたのかも謎のまま、事件は被告人への有罪判決が降り幕を閉じた。

 結局の所、この事件が彼女の妄想から引き起こされたものなのか、旦那側の浮気が切っ掛けで起こったものなのか分からずじまいのまま。数日前まで確かにあったSNSのページも、いつの間にかインターネットの世界から忽然と姿を消してしまっていた。


 果たして、彼女は幸せだったのだろうか?


「私は、ただ、料理を作りたかったの。だって…………」



 美味しいって笑ってくれるだけで、幸せな気分になれるでしょう?



 あの時に見た彼女の笑顔が、未だに忘れられない。

 私はそっと瞼を伏せると、ゆっくりと深く息を吐き出した。

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