19

「静粛に!」

 どよめく法廷内に響き渡るガベルの音。

 裁判官の振り下ろす木槌が打撃板に触れる度、乾いた音が重苦しい空間に音の波紋を広げていく。それを合図に傍聴人席から上がる声の全てが、一瞬にして消えて無くなるのは実に面白くて仕方が無い。とは言え、裁判官の鳴らすガベルの音を以てしても、今し方耳にした言葉に対して感じる動揺を隠す事は難しい様で。疎らに埋まる席に腰を下ろしている傍聴人の表情はどこかしら不安げに曇ったまま、ある者は口元を手で覆い隠し、またある者は瞼を伏せ俯いた状態で、静かに呼吸を繰り返しているのが現状といったところ。

 実際、自分自身もこの話は冗談だろうと乾いた笑いを浮かべるのが精一杯だった。

 それ程にまで、この話の内容が衝撃的なものだったことは間違いない。

「では。被告人はもう一度、証言をお願いします」

 柵で区切られた向こう側。証言席に立つのが今回の裁判の主役で、被告人の女性である。

「殺意なんて、有りませんでした」

 もう一度、彼女の口から語られる事件のあらまし。それは、実に奇妙で、不可解なものだと手帳に記していく。

 この事件は、被告人の同居者……つまり、彼女の夫からの通報により発覚したものである。

 事件の概要としては至ってシンプルなもので、彼女が作り夫に提供した料理の材料が、普通ならばあり得ない物を用いて作成されていたというもの。それは、通報を受けた警察の人間も目にし、その記録もしっかりと残されているとのことだった。

 彼女が材料として用いた物とは、人体の一部。要するに、人を殺してその肉を使い作った料理を、夫に提供したと。そういうことらしい。

「その人は多分、夫の浮気相手だったんだと思います」

 殺害された女性は、夫の関係者であることは検察側からの証言で理解出来る。それは、被告人の女性が述べる陳述の内容とも一致してはいるのだ。間違いはないのだろう。

「浮気相手であるという確証は?」

 裁判官の質問は真っ当な意見だと考えられる。何故なら、夫は一度たりとも『被害者の女性との交際関係がある』という事を肯定はしていないからだ。

「確証はありません」

 意外にも、彼女は質問された事に反論を述べるでもなく、素直に確証はないのだと答えた。

「それならば何故、貴方は被害者の女性が、夫の浮気相手だと思ったのですか?」

 そう。第一の疑問はこの点である。

 彼女ははっきりとこう言った。「夫の浮気相手だったのだろう」と。しかし、彼女はその直後こうも述べている。「浮気相手だという確証はないのだ」と。語られる内容に耳を傾けながら、手元の紙面に殴るようにして書かれた文字を見て考えを巡らせる。普通だったらまず、この浮気だと思われている関係が、本当にあるものなのかを確かめるのが先のはずだ。それが本当の事実だとして、そこで殺意が芽生えて殺してしまったのだとすると、一応は納得することが出来る。それ程にまで愛していた相手を、他の誰かに渡したくないという心理。そこから強烈な衝動が起こり、被害者の女性の命を奪ってしまった。こう考える方がとても自然だと思う人間は、少なくともこの法廷の中に多数いることは間違い無いだろう。

 しかし、加害者である彼女は、その辺りの部分を非常に曖昧にしか答えていない。

「何故、貴方は、夫と被害者の女性との関係を確認しようとしなかったのですか?」

 矢張り誰もがその部分に引っかかりを覚えるのだろう。動揺の色を浮かべながら、裁判官は被告人へと質問を続ける。

「だって、確認する必要はなかったんですもの」

 穏やかな表情でうっすらと笑みを浮かべながら彼女は続ける。

「彼女の事は誰よりも良く知っています。だって、ずうっと長い事親友でしたから」

 つまりはこういう事だろうか。何も書かれていない真っ新なページを開くと、再びペンを走らせながら考えを書き込んでいく。

 彼女の夫と親友が親しげに歩いている姿を見かけたことが確信に変わった。元々、疑わしきことは少なからずあり、その疑心は燻ったままこころの奥の方にずっと在り続けていた。だが、一度は気のせいだと整理した考えだったため、その小さな違和感に気が付くことなく結婚生活は続いていた。それを壊すきっかけは、たまたま見かけた二人の姿。近い距離で親しげに肩を寄せ合い歩くそれを見て、彼女は瞬時に理解した。その関係がなんであるのかということを。

「うーん……」

 思い付いたまま殴り書いた文字を眺めながら唸り声を上げる。何となく彼女の言いたいことは分かるような気がするのだが、どうしても理解するには何かが足りない。まるで噛み合わない歯車が、絶妙なバランスで大きな絡繰りを動かしている。そんな印象がどうしても拭えないまま、裁判は続いていく。

「先ほど貴方は、殺意は無かったと仰いましたが、それは本心から言っている事ですか?」

 誰もがその違和感を感じながら答えを探し藻掻いている。だからこそ、問いかける言葉は何とも歯切れの悪いものになってしまうのかもしれない。

「ええ。間違いありません」

 それでも彼女は否定することもなく、たった一言だけでその質問を肯定してしまった。

「確かに。裏切られたという悲しさを感じなかった訳ではありません。あの日、帰宅した直後は、夫にその事を問い詰めるべきかどうかを悩みました」

「悩んだ……でも、貴方はそれをしなかった。それは何故ですか?」

 掴み所のない空気を相手にしているかのように感じてしまう居心地の悪さ。質問をなげかける相手の眉間に深い皺が刻まれるのも仕方のない話である。

「する必要が無かったからです」

「する必要が無いとは?」

「そのままの意味です」

 とても饒舌に語る彼女の口調は、実に楽しそうで。まるでこのやりとりをすることが面白くて仕方無いとでも言うように、次の質問を待ち構えている。

「しかし、普通ならばまず事実確認からしますよね? だが、貴方はそれをすることをしなかった。それは何故ですか?」

 どうにも得られない決定打。それを探るように言葉を選びながら、裁判官は新しい質問を彼女へと投げかける。

「気付いてしまったからですよ」

「気付いてしまったから?」

「ええ。そうです」

 そこで一度、ペンを走らせていた手を止め顔を上げる。

「気付いてしまったって……どういう事だ?」

 傍聴席側からは被告人の後ろ姿しか見えない。彼女が今どのような表情を浮かべているのかは、裁判官の反応からしか伺うことは出来ないが、彼女の向かいにいる人間の反応は余り芳しいものとはいえない。見て捉えられるのは混乱しているのだという事実。

「レシピブックですよ」

「レシピブック?」

「ええ」

 今までの公判では一度も出てこなかった単語が、ここで始めて彼女の口から語られた。

「つまり、どういうことでしょうか?」

「実は私、SNSをやっているんです。料理の写真とレシピを公開しているアカウントなんですけどね……」

 降って湧いた新しい情報。それを聞き逃さないように耳を傾けながら、急いで携帯端末を取り出し情報を入力していく。確かに彼女の言う通り、語られたアカウント情報で料理のレシピを公開しているページは存在しているようだ。彼女の話を辿るようにしてページの閲覧を進めていくと、そのページは思った以上に人気のあるものだということに気が付く。

「そのページを開設するきっかけになったものがレシピブックなんです」

「レシピブック……」

「ええ。ピンク色のカバーの本で、幸せのレシピっていう本なんですけどね」

 そこで覚えたのは妙な引っかかりだった。

「その本は図書館で見つけたものです。確かに図書館で借りたはずなのに、当館の蔵書ではないと言われて持ち主に返すことが出来ないまま、ずっと保管していたのですが」

「……そうですか。で、その本がこの事件と何か関わりがあると、貴方はお考えですか?」

「さぁ? どうなんでしょうか」

 ここで始めて彼女の声に動揺が走った。

「関係があるかどうかは、私には分かりません。ただ、あの料理はあの材料でしか作れないんだって気付くきっかけは、確かにあのレシピブックだったように思います」

 戸惑いながらも彼女は少しずつ記憶を紐解いていく。

「確か、あの本の最後のレシピにはこんな事が書かれていたと思います」


 最後の料理は、思い出の一品を作ってみましょう。

 思い出の一品とは、貴方の記憶に一番強い印象として残っているもので構いません。

 それが、この本に収録されているレシピなのか、貴方が考えたオリジナルメニューなのかは分かりませんが、そのレシピを作って、是非幸せを感じるための最高のスパイスとしてご活用下さい。

 ただし、その一品を作るのに、一つだけ条件があります。

 それは、今までのレシピに一つだけ【特別な食材】をプラスすることです。


「始めは何のことなのか分かりませんでした。中途半端に記された白紙のページは、本を作るときに失敗した部分なのかと思っていましたから。でも、あの日気付いたんです。彼と彼女が楽しそうに歩いている所を思い出した瞬間、『特別な食材』が何を示しているのかということに」

 そこで一度、彼女は言葉を切ってゆっくりと息を吸い込む。緊張しているのだろうかと思ったがどうやらそうではないらしく、再び語り始めた彼女の口調が先ほど以上に弾んでいる事に気が付き持って居たペンを強く握りしめてしまった。

「そう思ったら居てもたっても居られなくて、直ぐさま医学解剖書を注文しました」

「解剖書」

「ええ。だって、彼女を食材として扱うのなら、まず下処理をしなければならないじゃないですか。でも、そんな方法、ネットで調べる訳にもいきませんから。じゃあどうすればいいのかを考えたところで思い付いたのが医学の本でした」

「……なるほど」

 成る程。確かに理にかなっているような気はする。しかし、素人がそう簡単に人を捌くなんてこと、出来るはずもないと、この場に居る全ての人間は思うだろう。

「当然、それだけでは全然情報が足りません。医学の知識が付いたからと言って、それを直ぐに出来るようになるとか、上手く処理が行えるとか、そう言うわけではないことは私にも分かっています」

「しかし、貴方はそれを実現することが出来た。それは何故ですか?」

「レシピブックですよ」

「レシピブック」

「ええ」

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