18
それを聞かれるのは想定済み。でも、敢えて不思議そうに返す言葉は「何故?」という一言だけで止めておく。
「いやぁ……何かさぁ、今まで食べたこと無い味な気がして……」
その反応は当然のものだろう。
「そうね。この日のために奮発しちゃったから、味はいつも以上に美味しいものだと思うわ」
答え合わせはまだ保留。含みのある言い方で言葉を濁すと、冷めてしまったポトフを温めながら鼻歌を口ずさむ。
「鶏じゃないのは確かだけど、豚とも違うし、牛…………って感じでもないなぁ……うーん……」
まだ完全に皿の上から姿を消していない肉厚のステーキ。それをカットしながら彼はこの御馳走が何の肉を使用して作られているのかを必死に考えているようだ。湯気の立ち上る鍋の中で回るレードル。その動きに合わせるように、具材が右へ左へと移動し転がっていく。
「気になる?」
敢えてそう質問してやれば、彼はステーキを頬張りながら一言「うん」とだけ返した。
「そう。じゃあ、そのステーキを完食したら教えてあげる」
十分に暖まったスープ。先程よりも少し少なめの量を皿に移すと、どうぞ彼の目の前に置いてあげる。
「因みにこのお肉、いつものスーパーで売ってるようなものじゃないことだけは言っておくね」
「へぇ」
一切れ。また一切れ。
順調に皿の上から姿を消していく特別な料理。
「こういうの聞くのはアレかも知れないけど、値段とか、高かった?」
綺麗に片付けられていく皿の上の料理は、もう殆どが彼の胃袋の中に収まってしまった。残されたのはあと一口分の肉片が一切れ。
「んー……どうかなぁ?」
「どう言うこと?」
態とらしく。考える仕草をしながらゆっくりと言葉を選ぶ。
「今日だけは特別だから、値段気にしないで用意しちゃったの。もしかしたら高いかもしれないけど、今はそんなこと、考えないって感じ」
「ふぅん」
皿の上の最後の一切れ。たっぷりとソースを付けられたそれは、ゆっくりと彼の口の中へ。消えて無くなるのが勿体ないとでも言うように、ゆっくりと時間をかけてかみ砕かれ、呑み込まれていく。
「ごちそうさまでした」
盛り付けられた料理が綺麗に目の前から消えると、使用済みの汚れた食器だけが食卓の上に残る。
「どういたしまして」
口直しに綺麗な紅色のアルコールで喉を潤し、満足げに笑う彼。
「美味しかったよ」
その言葉は、私にとって何よりのご褒美だ。
「頑張った甲斐があったなぁ。ありがとう」
広げられていた食器は一つにまとめて、汚れを落とすためにシンクへ移動させる。冷凍庫から取り出したのはカップのバニラアイス。以前から彼が好んで買っている値段の高いそのアイスクリームをスプーンとセットにし手渡してから、もう一度キッチンへと戻る。
「で、一体何の肉を使ったんだい?」
カップの蓋を取り外し、未だ堅さの残る白の表面にスプーンを突き刺しながら彼が問いかける。
「知りたい?」
もう一度だけ。それが知りたいのかと敢えて口にし問いかける言葉。
「ああ。美味しかったから、また作ってもらえるなら食べたいなぁって思ったからさぁ」
熱伝導のスプーンからアイスへと伝わる指先の体温。それによって程よく溶かされていくのは固まったミルクアイスの表面で。ほんのり香るバニラの香りを楽しみながら、味の上書きを計っている彼の反応が楽しくて、つい声のトーンが上がってしまう。
「それなら、教えてあげるね」
ゆっくりと開く冷蔵室の扉。流れ出る冷気が白い帯となって外へ逃げ出していく。確保されたスペースは広く、丁度鍋一個分ほどの高さ。広めの皿の上に置かれているそれを見て、微かに口角が吊り上がる。
「あの肉はね……」
大きな皿ごとそれを取り出すと、彼の元へと移動する慎重に足を運ぶ。
「値段なんて、始めから付いてなんかないの」
彼の前に立ち、手に持った皿を差し出す。冷気を纏う物体は彼が知りたいと願った肉を持っていた何か。それを見て、彼は大きく目を見開いた。
「だって、貴方が食べたあの肉って、ぜーんぶここから取ったんだもの」
そう言って笑顔を浮かべる私とは対照的に、彼の顔はどんどん青ざめていく。震えている手が口元を多い、目に沢山の涙を浮かべて零す嗚咽。
「この肉、どこにも売ってないんだ」
目の前で嘔吐き始めた彼の頬は異様なほど膨らみ、口元を押さえつけている指の間から溢れる出ているそれは、逆流してきた食べ物と胃液が混ざったものだ。それが彼の腕を伝い、小さな雫となって床に水たまりを作っていく。
「だって、一度きりしか取れない貴重なものなんだもの。同じ物は、二度と手に入らないと思うんだよね」
目の前で彼が身体を前に倒す。次の瞬間、大量の吐瀉物が床一面に吐き散らかされた。
「あーあ。勿体ないなぁ」
汚らしい水音を立てながら、何度も何度も繰り返される嘔吐。その度、彼は唸るように泣き声を上げ、苦しそうに腹や胸を掻き毟りながら必死に胃の中の物を吐き出そうと藻掻き続けている。その様も実に面白くて仕方が無い。
「美味しかったんでしょう?」
そんな彼の目の前に、料理として提供された肉の持ち主だったものを差し出しながら続ける言葉。
「気に入ったって言ってたじゃない」
それを嫌がるように、彼は目の前のそれから顔を背ける。しかし、私はそれを許す気は更々無い。
「また食べたいって言うくらい、貴方の舌に合うものだったんだよね?」
彼の髪の毛を掴むと、無理矢理正面を向かせてそれを見せつける。至近距離に態と置き、瞼を開くと直ぐにでもそれが視界に入るようしながら。
「良かったじゃない」
再び吐き気が込み上げてきたのだろう。彼がまた口元を手で覆うと、乱暴に頭を振って私の手から逃れる。逃げ出した再引き千切られた髪の毛の束が、気持ち悪い状態で指の間に絡まっているのが気持ち悪い。
「本当の意味で、一つになれたんだよ?」
いい加減、その皿を持ち続けることは疲れてきたと。食卓の上にそれを置くと、彼の前にしゃがみ込み、優しく微笑んでこう付け加えてあげる。
「私はただ、貴方に美味しい料理を食べて欲しかっただけ」
実際、この気持ちは本当に思っていることだった。自分が欲張りかどうかなんて分からないが、料理を食べて「美味しい」と彼が言ってくれることが純粋に嬉しくて仕方が無いのは今も変わることはない。だから、彼のために料理をすることは極当たり前の事で、その作業をすることは今でも好きだし、楽しいとすら思ってしまう。
「貴方が満足出来る食事は何なのかを、一生懸命考えて作っただけだよ?」
私という存在を裏切ってしまった貴方。少しずつ、私から気持ちが離れていってしまうのならば、せめて最後の記憶くらい、美味しくて楽しいものに出来ればいいなと腕をふるっただけなのに。
「どうして吐いてしまったの?」
足の裏に伝わる不快な感触。先ほどまで彼の胃袋に収まっていた料理は、半分以上が床の上に広がり私の足までも汚してしまっている。
「好きだったんでしょう? 私よりも」
滑る感覚に表情を歪めながら、彼の両頬を手の平で包むように掴むと、無理矢理こちらに向かせて睨み付ける。
「それならば、この食材で料理を作るのが、一番妥当だと私は思うんだけどな」
机の上には皿の上に乗せられた物体。
「もう、貴方を包み込む腕や胸は無いけれど、貴方が食べることであれは貴方と一つになれる。あれにとっても、それが一番幸せなことなんじゃないかしら?」
形としての面影は残されているのに、最早動く事も出来ないただの物へと成り果ててしまった残骸。光を失った双眸は、虚ろな眼差しで彼のことを見下ろしている。
「大丈夫。なーんにも心配なんて要らないから」
床に広がる饐えた匂いに混ざるアルコール臭さ。目の前には、情けなく泣き続ける一人の男の姿があった。
「貴方はただ一言、美味しかったよって言ってくれるだけでいいの」
ピンクの本に記された最後のページ。空白部分に存在しなかった一番最後のレシピは、彼の腹の中にそれが収まった事で漸く完成されたのだ。
「この料理は、貴方だけのために作られている特別なもの。だからぜーんぶ、残さず食べて、ね?」
部屋中に響き渡る絶叫。だが、その音すら上手く耳に捉える事が難しい。
「クスクスクスクス」
私から逃れるようにして身を小さくした彼が、必死に言葉を紡ぎ続けている。
「ふぅん」
彼の口から吐き出される言葉の意味は謝罪。それは一体『誰に対して』向けられたものなのだろう。でもそんなことはどうでもいい。まだ料理は残っている。食材も、いくつかの部位は冷凍庫にしまわれたまま。
「まぁいいわ。私は変わらず料理を作り続けるから、貴方はそれを食べて頂戴」
それを聞いた彼の顔に絶望の色が浮かぶ。
嗚呼、実に、楽しくて仕方が無い……。
「まだまだ作りたいレシピがあるの。だから、材料がなくなるまで、貴方は私に付き合って頂戴ね」
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