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 ピンクの本にまとめられているレシピ。その一番最後の一品は具体的なメニューの表記がない。何故ならそれは、本当の意味で【自分だけのオリジナルレシピ】として用意されているからだと、この前漸く気が付いた。

 ベースになる料理は一からレシピを考案するというわけではないけれど、最後に選んだ【特別な材料】だけは、きっと誰も手に入れることは出来ないはず。

 その食材を使って料理を作る日はもう決めている。

 その日は私にとって、忘れる事のない大切な日なのだから。


「今日は、早く帰ってきてね」

 いつもとは異なる朝の言葉。

「ああ、分かっているよ」

 珍しく、そう言って笑う同居人がくれたのは柔らかな口づけ。その感覚が未だに頬に残っていることに、無意識に顔が綻んでしまう。

 ここ数ヶ月の間ご無沙汰気味だった甘い空気というものは、やはり心地がよいもので。それに気が緩みそうになる自分自身を引き締めるように軽く両手で頬を叩く。

 今日は幸いにも仕事は休みだった。何故ならこの日のために貯まっていた有給を消化しようと決め、予め数日前から休みを取っていたから。

「よーしっ! やるか!」

 作業の手順は、数日前から何回もシミュレーションを済ませてはいる。まずは食材を調達すべく出かけることにしようと、手早く化粧を済ませ家を出る。

「うん。忘れ物は、無し! ね」

 いつもは使用することの少ない軽自動車が本日の移動手段。今日は荷物が多くなる予定のため、久し振りに自分で車庫から動かす事に決めていた。向かうのはいつもとは別方向のエリアだ。そこに【特別な食材】を手に入れるための場所があるのだから、慣れない運転でもそこに向かわないといけなかった。目的地までのルートは、ここ数週間の間に何回か往復してはいる。とはいえ、道筋には些か不安が残るのは仕方が無い。起動させたカーナビゲーションの指示に従い操るハンドル。法定速度を守りながら、走らせる車は、速度を調整しつつ慎重に、慎重にルートを辿る。車を走らせること約一時間程で、漸く目的の建物が見えてきた。

 この辺りは駐車場の確保に苦労するため、一番近いコインパーキングに車を駐める。地面に描かれた数字を確認してから、大きめのバッグを持って建物へと歩く。頬を撫でる風は冷たく、空は随分と高い。薄く伸びる雲をなぞるようにして、一羽の鴉が頭上を横切るのが目に止まる。

「嫌な色」

 何故か、そんな言葉が自然に零れ出てしまった。

「それより、急がなくちゃ」

 嫌な気分を払うように首を左右に振ってから、再び建物を目指し歩き出す。今日、尤も重要な食材が手に入るまでは後もう少しだ。


 この食材には何が合うのかしら?

 考えれば考えるほど楽しくなってきて仕方が無い。

 これだけの量があるなら、幾つか種類が作れるかも知れないな。

 未だ仕上がっていない完成品を想像しながら喉を鳴らして笑う。


「ああ。本当、楽しみ」

 時計の針は思ったよりもゆっくりと進いんでいる。それでも、残されている時間はあと僅かしかない。何故なら、この料理を一番に食べて欲しい相手が、今日は早めに帰宅してくれると約束してくれたのだから。だから、呑気に準備をしている余裕なんて無い。こちらも作業を急がなければと気持ちが焦り始める。

 とびきりの料理を作って、精一杯今日と言う日を祝おう。

 そうすれば、あの人もきっと、何が大切なのかを思い出してくれるはずだ。

 小さな音を立てて煮込まれる具材。ふんわりと漂う匂いに、思わず口が綻んでしまう。

 臭み消しにと入れたローリエを掴み取ると、用の無くなったそれはシンクの中の三角コーナーへ。ゆっくりとレードルを動かしながら、満遍なく火が通るようにと中身をかき混ぜる。あと少し、もう少し。玄関のドアが開かれるのを待ちながら、本日のレシピを料理という形に変えていく。

「食べて貰うのが楽しみ」

 一箇所に固まってしまっていたブロック肉。それを解し終わってから、火力を弱火に落とし蓋をして更に煮込む。その間に他の料理の準備に取りかかることにして、フライパンを取り出すと五徳の上に置き火を点ける。

「うーん……こっちはやっぱりステーキにしたほうが良いかな?」

 まな板の上に用意した肉の部位はリブロース。時計を見て暫く考えた後、一度火を止め肉の下準備だけを行う。食卓に出すときには焼きたてが良いだろう。今からだとあの人が帰宅する頃には丁度良い温度に解凍されているはずだ。

 本日のメインを後回しにしたことで空いてしまった時間。他に何が作れるのだろうと考え、付け合わせ用に添えるグリル野菜を先に用意してしまうことにする。使用するものは、ジャガイモ、にんじん、タマネギとピーマン。適当な大きさにカットし下処理を終えてから、ピーマン以外の材料を軽くレンジで温める。その間に五徳の上に置きっぱなしだったフライパンに火を点け、表面に垂らしたオリーブオイルを温めておく。背後で稼働していたレンジの音が止まり、代わりに温め終了を知らせる電子音。少しだけ柔らかくなった三種類の素材と分けておいたピーマンを重ならないようにフライパンに敷き詰めてから、焦げ目が付くようにして両面を焼いていく。片面ずつ塩、コショウを振るのも忘れずに。

 その他にも思い付く限りの品を用意する。こんなに沢山作ったところで食べられるのかと笑われてしまいそうだが、そんなことは関係無い。とにかく、とびきりの料理を一品でも多く味わって欲しい。

 そうこうしている間に約束の時間に。小さな音を立てて錠が外れると、間髪入れずに玄関の扉が開かれ帰宅を告げる言葉が耳に届いた。

「ただいま」

「あ。おかえりなさい」

 料理の手を止め玄関に向かう。帰宅した同居人からスーツのジャケットを受け取ると、先に風呂に入るよう指示を出しキッチンへ戻った。直ぐに聞こえてくるシャワーの音。彼が汚れを洗い流し一息吐いたところで、直ぐに食事が出来るようにと焼き始めるのは、下ごしらえの終わっているリブロース。厚目にカットした肉の表面に塩とコショウを満遍なく塗してから、既に熱くなったフライパンへと落とし込む。

「焼き加減はー……」

 念のため。レアに近いミディアムくらいが丁度いいのかもしれない。まずは表に成る部分を強火で焼くこと一分少々。火力を調節し弱火に変更してから更に一分加熱し、肉を裏返してから強火に戻して三十秒。大体三十秒立ったところで再び弱火に戻して1、二分ほど加熱したら焼くという作業はお終いだ。

「おお! 良い匂いだな!」

 丁度焼き上がったばかりのステーキを皿に盛りつけたところで、同居人がダイニングへとやってくる。

「もう少し待ってて。直ぐに用意出来るから」

 そう言って、事前に用意していたグリル野菜を軽く温めてから皿に盛りつけ、特性のステーキソースを添えて食卓へと並べていく。

「ステーキ?」

「そうよ」

 メインは焼き上がったばかりのステーキ。普段からよく食べる人だから、ライスは気持ち多めに。肉ばかりだとバランスが偏るためグリーンサラダもオプションで。

「スープとかもあるの?」

「もちろん」

 選択を間違えたかなと思いはしても、どうせここは自宅なのだ。多少アンバランスでも美味しく食べられれば問題は無いだろう。

「ポトフ?」

「そう」

 もう一つのメインはこのスープ代わりのポトフで。大きめにカットしたブロック肉と野菜をたっぷり入れて彼の前に並べていく。

「今日は特別だから、これも用意してみたわ」

 そう言って軽く振ったボトルのラベルを見せると、彼は嬉しそうに手を叩いた。

「こんなに奮発して大丈夫なのかい?」

「この日のためにこっそりお金を貯めていたの。あなた、このワイン好きでしょう?」

 食卓に並べられた食事は彼のために用意したフルコースだけ。自分の分はメインのないサラダと賞味期限がそろそろ切れそうなバターロールのみ。ワイングラスだけは二人分用意し、それぞれに綺麗な色の液体を注いでいく。

「さあどうぞ。召し上がれ」

 その言葉を合図に食事という時間は始まった。

「どうかな?」

 小さな音を立てて動かされる銀食器。

「んー……」

 ナイフで切り分けられたミディアムレアのステーキは、小さくなって彼の口に運ばれる。

「んー……」

 まるで消えてしまうのが勿体ないとでも言いたいのか、じっくり噛んで味わって。

「うん」

 小さく頷いてからもう一切れをソースに浸けて頬張っていく。

「美味いよ」

 舌の上で転がして、何度も何度も噛みしめて。砕かれた固まりをゆっくりと飲み込みながら嬉しそうに浮かべる笑顔に、釣られてこちらも笑顔になる。

「良かった」

 今日のために仕入れた特別なお肉。それはピンクの本に記されていなかったたった一つの食材で。段々と小さくなり皿の上から消えていくのが、何よりも楽しくて仕方が無い。

「ポトフはどうかな?」

 バターロールを千切りながらそう問えば、彼はポトフの中で浮かぶブロック肉を掬って口へと運ぶ。

「……ん……」

 まだ熱いのだろう。小さく息を吐き出しながら必死にそれを味わう彼の行動がとても可愛いい。

「うん。こっちも美味しいね」

「そっか」

 「美味しい」。そういって微笑んでくれるから、この料理を作って良かったと。心からそう思える。たった一人の笑顔のために、必死になって用意した甲斐があったと、満足気に浮かべた笑み。

「君は食べないの?」

 そう問われて、私はゆっくりと首を振る。

「貴方が帰ってくるまでに、味見をしすぎてお腹が一杯なの」

「そうか……残念だね」

 少しだけ悲しそうに肩を落とす目の前の同居人。

「こんなに美味しいのに、俺だけが食べてるなんて」

 美味しさを共有したい。そう言いたげに上目遣いにこちらを見る視線に、一瞬だけ心が動きそうになってしまった。

「良いの。だって、これは貴方の為だけに作った特別な料理ですもの」

 だからもっと、沢山食べてね。そう付け加えて空になった皿を持ってキッチンへと移動する。

「ところでさぁ」

「何?」

「この肉って何の肉?」

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