16

 曖昧だったはずの疑惑。それが少しずつ、明確な形を持った確信へと変わっていく気がして覚える目眩。

 見たくもない光景を目の当たりにして、目の前が怒りで真っ赤に染まっていくような、そんな感覚に頭が痛む。

 しかし、意外にも冷静にその事を受け止めている自分もそこに居て驚いた。てっきり、そういう状況に置かれたら発狂して手当たり次第当たり散らすのかと思っていたのに、意外にもそうはならなかったことに対して渇いた笑いが零れてしまう。

 音を立ててゴミ箱へと投げ込まれた透明のカップの中身は空っぽ。大好きなはずのその飲み物なのだが、今日に限って全て飲み干す頃には、味が随分と薄くなってしまっていて。いつもよりも不味くなってしまった液体を飲み込むのに随分苦労をしたことが、余計に腹が立つ。

「…………」

 一度だけ。右手で作った拳を振り上げそのまま動きを止める。

 沸々と湧き上がる怒りと、それを制御しようとする冷静さ。二つの感情が自分の中で葛藤を繰り返し、握った手の平に爪が食い込み痛みを訴える。

 結局。振り上げた拳は振り下ろされる事のないまま、ゆっくりと元の位置に戻すと盛大な溜息を吐いただけで終わった。


 私は幸せだと思っていた。

 触れられる距離にそれがあり、いつも温かいものに包まれて。

 欲しい言葉がいつでも届けられて。

 だから、その幸せを疑う事はしないとずっと思っていた。


「それなのに……何故……」

 その情報はまだ確定では無い。

 頭では分かっているはずなのに、以前抱いた薄暗い感情がゆっくりと呼び覚まされ、状況が悪くなるのではないかという不安を煽り思考はマイナスに向かってしまう。

 今日もまた、携帯端末を操作して開いくのはアプリ画面。鳴らない着信音と新着の来ないメッセージに、本日何度目か分からなくなってしまった溜息が吐き出される。

「…………はぁ……」

 その声と同時に鳴ったのは空腹を訴えるお腹の音。顔を上げ時計を見ると、帰宅してから既に三時間が経過していた。

「ご飯……」

 いつもなら、帰宅して色々済ませたのち直ぐに取りかかる食事の支度。今日はまだ、一度もキッチンに立っていないことに気が付き自分でも驚いてしまった。

「何か……作らなきゃ……」

 同居人が帰宅するまでにメニューを決め、食事を作る。いつ帰ってくるのかは未だ分からないが、準備する時間はそれほど多くは残されていないだろう。手早く出来るものは何かと考えながら冷蔵庫の前に立ったときだった。

「っっ!?」

 待ち望んでいた音を耳が捉え、反射的にダイニングテーブルの上に放置している携帯電話の元へと駆け寄る。忙しなく振動を繰り返す小さな機械を引ったくるように手に取ると、煩く鳴り響く音を止め急いで内容を確認するべく動かす指。ゆっくりと切り替わる映像に、思わず目を見開き言葉を呑んだ。

『今日は会社の付き合いで遅くなる』

 表示去れているのは、たった一言だけのメッセージ。

「……何よ……」

 呟いた声は、自分でも驚くほど低かった。

「ご飯、要らないなら要らないで、もっと早く言えばいいのに」

 返事を返してくれない機械に向かって悪態を吐いた後、小さく舌打ちを零す。送られてきた言葉が嘘なのか、本当なのか。その事はさほど問題ではない。今はそんなことよりも湧き上がる怒りをどう宥めるかの方が問題だ。

「………………」

 ゆっくりと時間をかけて返せたのはこんなメッセージ。

『分かった。ごゆっくり』

 メッセージを受け取った相手が直ぐに返信をしてくれる可能性は低いだろう。もう見たくないとバックライトの設定をオフにし、持っていた端末を液晶画面を伏せた状態で机に置いてから、重い体を引きずるようにしてキッチンへと戻る。開いたのは冷蔵庫の扉ではなく食器棚の下段にある収納スペース。余り減ることの無いカップ形状の即席麺は、買い置きで補充したときから数は変わらないまま。その中から適当に一つ取り出し包装用のビニールを破ってから、電気ケトルに水を入れスイッチを入れる。

 いつもなら時間をかけて行う料理の下ごしらえ。今日は銀色の袋にパッケージされたドライフーズと粉末調味料をかけただけで終わってしまう。お湯が沸くまでの時間もそれほどかからない。

「こんなにつまらない料理なんて、久しぶり…………」

 確かにこれは便利だとは思う。食欲を満たすという目的に於いて、とても効率の良い方法だとも思う。それでもこの手軽さに対して強く感じてしまう違和感。

「…………のばか……」

 電気ケトルの中で加熱された水がお湯へと変化する音が聞こえる。スイッチの跳ねる音が聞こえてきたら、それをカップの中に濯ぎ三分待てば出来上がり。独りぼっちの食事は静まりかえった室内で直ぐにでもスタート出来る状態。

 テレビを付ける気力は無い。今日は、これを食べたら必要最小限の事だけして、さっさと寝てしまおう。そしたら、夢の中でくらいは、幸せに食卓を囲んで美味しい物を食べられるかも知れない。

 傾けたケトルの口から流れ出す熱い液体。それがカップの中にある乾燥した麺の上で跳ねる度、白く濁った湯気がカップの蓋の内側に小さな雫を作った。


 その日を境に、二人で行う食事の回数はぐんっと減ってしまった様に思う。

 一応、毎日朝食は二人で食べている。これは今までと何ら変わる事はない。

 昼食に関しては、平日は弁当を二つ分。それを持ってそれぞれの職場へ出勤する。が、スタンダードだったはずだった。だが、今はその頻度も大分少なくなってしまっている。週の何回かは、用意する弁当箱が一つだけ。それを持って出勤するのは私一人という状況になってしまっているのを寂しく感じてしまう。

 夕食に至っては、今では殆どが一人分の量で。分量を二人分で作ったとしても、食卓に着くときの食器はワンセット。残りは冷蔵庫で電子レンジにて温められるのを待っている状態になることが多くなってしまっていた。

 今までは作ることが楽しかった料理は、今では作ることがつまらないと感じてしまう。

 更新をずっと続けていたSNSへの投稿も、段々更新の間隔が開いてきたのは気付いていた。

「…………分かってる……わよ……」

 新しく書き込まれたコメントの一言に乾いた笑いを零す。

『大丈夫ですか?』

 そのメッセージに、どう言う意味が込められているのかなんて分からない。画面越しの私という存在の、体調や心境を心配するための言葉かも知れないし、頻繁に更新していたSNSの動きに対して更新しろという催促の意味かも知れない。表面的な言葉をどちらの意味で受け取るのかは、受け取った私が決める事。だからこそ、その言葉に対して出た反応は、非常に淡泊な物になってしまっていた。

 申し訳無いという気持ちは勿論ある。楽しみと言ってもらえる人がいるからこそ、頑張って続ける事が出来ていた毎日の習慣。再読み込みのアイコンを押しても最新の情報が表示されなくなってからは、少しずつ繋がってくれている名前も知らない相手を示す数字が減り続けている。このまま行動を起こさなければ、この数字はいつか零になる日がくるのかもしれない。

「それでも、料理を作ることがつまらないって感じちゃうんだもの…………どうしようもないじゃない…………」

 今日もまた、一人きりの食卓で。

 中途半端に口を付けたまま皿の上に残った料理を睨み付けながら吐き出す悪態。手には料理を運ぶ箸の代わりに握った携帯端末。通知が止まってしまったSNSの画面をひたすらスクロールしながら表情を歪める。

「どうすれば良いのよ……もう…………」

 携帯端末を机に置き、手で瞼を覆い視界を遮る。そっと寄り添う闇にこのまま呑まれてしまえれば楽になれるのかな、なんて。そんな馬鹿なことを考え、それは違うと首を左右に振り瞼を開いた時だった。

「…………あ」

 目に止まったのはピンクの背表紙。懐かしさを感じるその本は、今の自分にとっては皮肉にしか聞こえないタイトルのもので。何となく立ち上がり本棚の前に移動すると、その本を手に取りページを捲る。

「…………最後の……レシピ…………」

 紐栞の挟まれた場所は、最後のレシピの冒頭部分。中途半端に書かれた文字があるだけで、その他は真っ白な紙が続いている何とも奇妙な状態に、以前見た時と同じ反応を返し本を閉じるべく手を動かす。

「……あ。そうか」

 閉じられそうになった本のページ。それは中途半端な位置で止まり、再び開かれる。

「そうだ」

 相変わらず、そのページに印字された文字の量は中途半端。情報も増える訳でも無く減っているわけでも無い。

「そう言うことだったんだ」

 白紙の部分をゆっくりと指でなぞりながら口角を吊り上げる。

「そっか。そう言うことだったんだ」

 何も書かれていない不自然なページ。それが何故存在するのかに漸く気が付いた。

 そんな気がして無意識にこみ上げてくる笑いが止められない。

「なーんだ。簡単なことじゃない」

 そう思うと居ても立っても居られない。本を閉じると中途半端に食べ残したままだった食事を手早く済ませ、使用済みの食器を片付ける。台拭きでダイニングテーブルの上を軽く拭いたあと、普段は余り電源を入れないノート型パソコンを取り出し、Webブラウザを立ち上げる。画面に大きく表示されるサーチエンジンのシンプルな検索画面。テキストボックスにキーワードを幾つか打ち込みエンターキーを押すと、即座に画面が切り替わり、様々な種類の検索結果が表示された。

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