02
普段気付かない事に気が付くと、次々と新しい情報が目に止まるようになる。ほんの些細なことではあったが少しだけ軽くなる足取り。落ち込んでいた気分が上向きに変化すれば、自然に顔に浮ぶのは笑顔だ。そうやって歩き続けていると、見慣れない建物が目に止まった。
「何だろう?」
足を止めたのはただの興味。
吸い寄せられるようにその建物へと足を運ぶと、その建物が図書館だと言う事が分かる。
「こんな所に図書館なんてあったんだ」
時間内であれば自由に利用することが出来る施設は、地域住民であれば貸し出しカードを作成することで、そこに収められた蔵書を借りることも出来る。一度空を仰ぎ見ると、まだ日が傾くまでには時間がありそうで。携帯端末のディスプレイに表示させた数字も、夕方よりも大分早い時刻を示している。
「……寄ってみようかな」
ただの時間潰し。そのまま帰宅するか寄り道するかの二択。その答えなんて実に呆気なく出てしまうものだ。小さく溜息を吐いてから肌に滲む汗をハンカチで拭うと、誘われるようにしてその施設の扉をけ開く。繋がった空間から逃げ出すように流れるのは程良く冷やされた空気で、脇をすり抜けていく瞬間、掠めた肌に感じたのは肌寒さだった。
館内は空調が程良く効いていて、火照った身体には涼しすぎると感じてしまう。人の姿は疎らにしか確認出来ず、リラックス効果のあるオルゴールの音色が流れる空間にはゆったりとした時間が流れている。思ったよりも建物の規模は大きい様で、本棚の数は予想よりも多めに存在している様だった。
一階のロビーでは、一番目立つ広いスペースで企画の用の展示物がディスプレイされていて。受付カウンターを横切って進むと、目の前には新聞や雑誌をまとめたコーナーが現れる。その奥には幼児から小学校低学年を対象とした児童書と保育スペースが存在しているようだ。
向かって右手側には先程の年齢以上の学年を対象とした児童書。更に奥の棚には、寄贈された蔵書が保管されているらしい。
左手側にはトイレの場所を表すピクトグラムが貼られた案内板が見える。そこに用事は無いので敢えて無視し、更に足を進める。
改めて入り口まで引き返すと、もう一度そこから見えるものを確認する。展示ブースから向かって右側に受付カウンター、左側には二階に上がるための階段が見える。
階段を上ると、下のフロアと比較するのも大変な量の蔵書を並べた棚が所狭しと並べられていて、思わずその迫力に圧倒され息を呑む。
棚の側面にはラベリングされたローマ数字とジャンル。右奥から順に、【神書・宗教】【哲学・教育】【文学・語学】【歴史・伝記・地誌・紀行】と続き、折り返して【国家・法律・経済・財政・社会・統計学】【数学・理学・医学】【工学・兵事・美術・諸芸・産業】【総記・雑書・随筆】となっている。
背の高さが合うように揃えられた本は、作者別に分けられ仕切りを差し込まれていた。ただ、著書の少ない作者は各五十音毎の末尾にまとめて一括りにされている。目線の高さにある蔵書のタイトルだけをなぞるように眺めながら棚から棚へと移動していく。
宗教書から雑書を経由し美術書で足を止める。数冊ほど閲覧し棚に戻して次のジャンルへ。数学は嫌い。理学も苦手。医学は専門的すぎて読む気になれない。
興味が無いジャンルは殆がど素通り。反対に多少興味を引かれたジャンルでは立ち止まり、背に指を引っかけて収められているそれを取り出すと適当に開いてパラパラと頁を捲る。
「……………………」
手に取った分厚いハードカバーの本は、右綴じで縦書きの和書だった。その他の本も適当に選んだのは大体和書で、挿絵の有無はあれど、どれもこれも印象が堅く気が滅入る。勿論ジャンルによってその体裁はそれぞれ異なる。それでも、気軽に読めるムック本や雑誌と違って、綴られた情報量の多さが違いすぎるため、どうしても拒否反応が先に出てしまうのだ。
先程の書店と同じように、一度は手に取り頁を捲る。それから小さく溜息を吐いて棚に戻す。それを繰り返しながら棚の間を歩き続ける。
何度も何度も繰り替えす同じ行動。取り出す本の種類と立ち止まる棚の場所が異なるだけで、捲る頁も適当に眺める情報の量も変わらない。頭に入らない。やっぱり気になってしまうのは反故にされた約束と会えなかった相手のこと。
始めは直ぐに現れると思っていた。五分経った頃に寝坊したのかと疑問に思う。十分経って遅刻が確定。二十分経って来ないことが不安になり落ち着かなくなってきた。三十分経ったところで通信アプリを起動して。三十五分で打ち込んだのは「どこに居るの?」というメッセージ。四十分で既読が付かないことに出た溜息は、五十分で涙に変わる。そうやって経過した一時間で漸く帰ってきたメッセージは「行けなくなった」という無情な一言。
正直これは今回が初めてのことではない。
頭のどこかでは分かっているはずだった。
この関係は、もうそろそろ終わりが近いのだという事は。
それでも縋り続けているのはまだ未練が残るからで、寂しくて、寂しくて仕方が無い。
居なくなってしまうのが怖い。
弱い繋がりでも構わないから、消えないで欲しい。
そう願い続けている自分が、とても悲しくて仕方が無いと。
「…………っっ」
いつの間にか溢れ出した涙を誤魔化すようにして目元を抑える。流れ落ちそうになる鼻水を啜ってからゆっくりと吐き出す息。
暫くそうやって立ち止まり、本を読む振りをして感情を抑え込む。揺れ動く振り幅が大きくなれば成る程、熱くなる瞼から溢れ出した水が逃げだそうとしてしまう。
もう嫌だと何回呟いたのだろう。
もう一度チャンスが欲しいと、何度願ったのだろう。
常に一方通行なメッセージは、必要最小限の返事が返されるときだけしか振動しない。今日はもう、どれだけ言葉を送っても、相手がそれを受け取る事はしないのは分かっている。だからこそ、悔しくて仕方が無かった。
何とか暴れ出しそうになる感情を抑え込み、持って居た本を棚へと戻してから袖で涙を拭えば、瞼に付いた水が生地に染み込みそこだけ色を変えてしまう。こんな顔ではみっともないや。態とらしく首を左右に振ると、両手で一度。軽く頬を叩いて切り替える気持ち。
再び本のタイトルを眺めながら足を動かし始める。これだけ大量の本があっても、興味を惹くものなんて極僅か。その殆どは無視され、記憶の片隅にも残らず忘れ去れれていくものばかり。それでも哲学書の棚で足を止めたのは、そこに収められた本の種類に違和感を感じたからだった。
「……ん?」
その本は、一冊だけ混ざっていた種類の異なる本。
「……りょう…り…?」
頭の痛くなるようなタイトルの中に混ざっていたのは、一冊のレシピ本。
「何で?」
素直に疑問を口にして直ぐに気が付くこと。誰かが間違えてここに置いたのだろう。そうでなければ、専門的な分野の本に混ざってこの本がここにあるのはおかしいのだから。
何となく手にとって表紙を眺めると、可愛らしい料理とキャラクターの絵が描かれ、その上にポップな文字で「幸せのレシピ 〜美味しいで毎日を彩る方法〜」とタイトルがあった。
「幸せのレシピ……か……」
皮肉だと思った。鳴らない携帯と既読を無視され続けているメッセージ。幸せだった時間が少しずつ遠のく自分にとって、『幸せ』という二文字がとても辛く悲しい。この本の存在が余りにも対極にありすぎて、衝動的に本を床に叩きつけたい気持ちになる。
「っっっ!!」
本を持った右腕を勢いよく振り上げて。でも、それは駄目だと意識が歯止めを掛ける。空いた左手を当て右手をゆっくりと下ろすと本を抱き込み唇を噛む。
「……よか……た」
その言葉は何に対して出たものだろう。感情に任せて備品に八つ当たりをしなかったことなのか、叫びたい気持ちを抑え冷静さを取り戻したことに対してなのか。何れにせよ、幸せという言葉を掲げたこの本は、未だこの手の中に在る。先ほどまであった棚に戻すか、ジャンルのカテゴリまで移動させるか悩みつつ試しにページを捲ってみれば、桜色の上質紙の見返しと遊び紙。扉には表紙と同じデザインの書体でタイトルだけがあり、一頁開けて目次が続いていた。
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