08

「きゃああっ!!」

 その拳は、間違いなく佳穂乃に向かって振り下ろされた筈だった。

「相田さん!」

 咄嗟に顔を庇うために振り上げた左腕。目を瞑り衝撃に耐えるよう佳穂乃は身を固める。しかし、覚悟した痛みは彼女に襲いかかること無く、代わりに引き攣るような愛実の叫び声が辺りに響く。

「愛実ちゃん!?」

 声に驚き瞼を開くと、そこには信じられない光景が広がっていた。

「…………な……に……これ……」

 まるで時が止まったような。そんな曖昧な感覚がある。男は中途半端に振り下ろした腕を振るわせ、固まって動けないようだった。そんなことよりも気になって仕方がないもの。

「愛実ちゃ……」

 佳穂乃は我に返ると愛実の姿を探し辺りを見る。少し離れた場所で座り込み、震えながら泣きじゃくっている彼女を見つけ駆け寄り抱きしめながら、もう一度男の方へと視線を向け呑み込んだ唾。

「……あれ……っ……て……」

 男の様子も気になるが、それ以上に気になるものがそこに在る。

 それは、先程まで無かったはずのもの。

 いつ現れて、何故そこに在るのかは分からない。

 ただ、そこにそれが【在る】と言うことだけは【分かる】のだ。

『…………う…………て……』

 それは言う。

『……う…………じゃな………………し……?』

 幾重にも重なる不鮮明な音で紡ぎ出すのは途切れる言葉のようなもの。

『わ…………な……な…………を…………の……』

 それはどこかしら寂しく、そして、悲しく、辺りに響く。

『そ……な…………そ…………』

 一度途切れた言葉。次の瞬間、地響きのような強い振動が【それ】を中心に広がり通り過ぎていく。

『いっだぢゃないっっっっっっっっ!!』

 それはひたすら叫び続ける。

『わだじだげだっでいっだぢゃないっっっっっっっっっ!!』

 その度に、男の口から鈍い叫び声が上がる。

『おばえのがみがいぢばんぎれいだっで、いっでだぢゃないっっっっっっっっっ!!』

 それが叫ぶ度、コンクリートで固められた空間に音が反響して立つ鳥肌。耳を塞ぎ視界を閉ざしても、【それ】が在ることが肌で感じられ、どうしていいのか分からなくなってしまう。

『わだじだげだっでいっだぢゃないのぉぉぉぉぉぉっっっっっっっっっ!!』

 一際大きな音が広げる波紋。それと重なるようにして聞こえたのは、男言った一つの『名前』だった。

「やめてくれっっっっっ!! キリコォォォッッッッッッッッッッッッッッ!!」


 何故、顔を上げたのかは分からない。

 それでも、何故かそれを【見る】と言うことを選んでしまった。

 そこに在るものは真っ黒な【影】だ。

 黒い、黒い、揺れる、影。

 【ソレ】が言葉らしき音を叫び続けている。

 【ソレ】に答えたのは目の前の【男】。

 【彼】は、ただ、ただ、赦しを請うように【ソレ】の名前を繰り返している。

 【ソレ】の名……は…………


「……きり……こ……?……」

 愛実は震える声でそう呟く。とても小さく、か細い声。だが、【ソレ】は愛実の言葉に動きを止め、ゆっくりと彼女の方へと身体を傾ける。

「愛実ちゃん!!」

 【ソレ】が叫ぶのをやめたことで佳穂乃も我に返る。慌てて愛実を庇うように【ソレ】との間に割って入るが、【ソレ】は佳穂乃のことなど気にすること無く愛実へと近付くと、目の前でピタリと止まり暫しの間動きを止めた。

『ああああ、あみぢゃんだぁぁぁ』

 黒い影は揺れる。ゆらゆら、ゆらゆらと境界を曖昧にしながら。

 やがて、その影の中に浮かび上がった白い顔。血の気の無い死んだそれが、嬉しそうに口を歪め目を細める。

『あみぢゃんだぁぁぁ、あみぢゃんだぁぁぁ。ひざじぶりだねぇぇぇえええ』

 眼窩に眼球というものは存在しておらず、そこに在るのはただの真っ黒な闇。【ソレ】が表情を変える度、愛実の背に寒いものが走る。

『ぞうだぁぁぁ』

 楽しそうな声でそう言うと、【ソレ】は唐突に向きを変え愛実から離れた。

『がいでぐでる? わだぢのごど』

「…………え…………?」

 未だ動けずにいる男の傍に素早く移動すると、【ソレ】は楽しそうに嗤いながらこう続ける。

『ギレイにずるの。ギレイなギレイなあぐぜざりぃぃー。わだぢのごど、ずぎだっでいっでだごのじどで、ギレイをづぐっでみぜるがらぁぁ』

 【ソレ】が腕らしきものを振り上げる。黒い長い腕の先にあるのは鋭い爪のようなシルエット。それが男に振り下ろされる度、男の口から絶叫が響く。

『ギレイになるのぉぉぉっっっっ! ギレイに、ギレイにぃぃっっっ!!』

 何度も何度も振り上げては下ろすを繰り返す。その度に男の悲鳴が無機質な空間に響き耳を覆いたくなる。切り裂かれる衣服から見える身体は、皮膚が開き赤い液体を吹きながら別れた肉の断面を容赦なく見せつけてくる。

 一つ、一つと、増える傷。

 一つ、一つとそれが増える度、彼の身体に模様が刻まれていく。

「…………まるで…………切り子細……工みたい…………」

 隣で口元を押さえながら震える佳穂乃の零した言葉。身体に刻まれていく傷は、確かに彼女の言ったように規則性を持った模様として見えてしまう。

「…………あくせ……さり…………」

 その言葉を呟いたところで、愛実は何かに気付いたようにして顔を上げる。

「そんなっっ!? そんなことってっ!!」

 【ソレ】は言ったのだ。『キレイを作る』と。『飾るための装飾品』を『大好きだったもの』を使って『自らの手』で『キレイに作る』と。ならば佳穂乃の言った「切り子細工」という言葉は間違いでは無いのかも知れない。

 人の身体を刻んで創り上げる、幾何学的模様を描く造形物。傷が増える度上がる声と、溢れ出る赤が異常さを更に助長させる。いつしか【ソレ】は嗤っていた。何度も何度も傷を付けながら、大きな声で繰り返す狂った笑い。


『愛実ちゃんも、文字を書かなくなっちゃうのかな?』


 ふと、あの時言われた彼女の言葉が蘇る。


『だから私は文字を書くの。そうやって私が感じた大好きな世界を、記録として残していきたいなって』


 そう言って悲しそうに顔を伏せる彼女の姿は寂しそうで。それ以降、二度と彼女の笑顔を見る事は出来なくなってしまった。

 綺麗な文字を書くことが大好きで、その文字で世界を作りたいと願っていた彼女。

 控えめで目立たないところはあったが、それでも彼女は美しく、愛実にとっての憧れでもあった。


『あみぢゃんんんんん、あみぢゃんんんんん』


 それなのに、今目の前に在る【モノ】にはその面影はない。


『みでよぉぉぉぉっっっっっ、ギレイでしょぉぉぉぉっっっっっっっっ!!』


 真っ黒な影が歪に動きながら、ひたすらに不快な音を吐き散らかしている。


『わだぢぃぃぃっっっ、ギレイっで、ごのじどが、わだぢのごど、ぞういうがらぁぁあああああああああああ』


 不快な【音】は止まることはない。灰色の空間に空気を震わせ響き続けている。聞きたくない不協和音で奏でられる音の波が、容赦無く愛実の鼓膜を震わせ涙が溢れてくる。


『わだぢはぁぁぁあああああ、うれじがっだのにぃぃぃっっっっっっっっっっっっ』


 次第にその嗤いに含まれるのが、愉悦とは異なる感情だという事に気が付き始める。


『ただ、ただ、嬉しかっただけなの………』

「うぅぅ……」


 キレイだと思った。キレイだと憧れた。

 キレイだと羨ましく思って居たあの子は、もう何処にも居なくなってしまった。

 それがとても悲しかった。

 離れてしまったのは自分。

 彼女との距離を作り、寂しそうな彼女の前から姿を消したのは自分自身。

 それを謝る事も出来ぬまま、彼女はこの世界から姿を消した。

 それを後悔したのは当然、彼女という【存在】を失った後だ。


 たった数ヶ月の間だけ仲の良かった【友達】。


 それでも【彼女】は、愛実にとっては【特別】な存在だった。


 純粋に【羨ましい】と感じていたからだ。


「い……や……」

 作り出される切り子細工は、赤く赤く染め上げられていく。

「…いゃ……だ……よ……」

 痛みのせいだろう。飾りを付けられる【男】はもう反応を返す気力も無いようだ。

「……きり…こ……ちゃ……」

 【ソレ】が装飾を施す度、喉を引き攣らせて、小さくなった鈍い音を吐き出し苦痛を浮かべ藻掻き続けている。


「貴理子ちゃん、やめてっ!!」


 いつまでこれは続くのだろう。

 愛実は目の前で起こる【ソレ】を否定するように首を振る。


「書くから!! 私、書くから!!」


 【ソレ】が望むなら、【書く】事が自分の【役目】なのだろう。

 【ソレ】が現れた理由は分からない。でも、【今】起こっていることには何か意味があるはずだ。それはきっと、【彼女】が生きている内に叶えられ無かった【想い】を【紡ぐ】こと。そうすることで、【自分の罪】が償えるのなら、【私】はそれを【行う】べきなのだ、と。


「書くから…………だから、お願い…………」


 悲願するように繰り返しながら、愛実は影に向かって頼み続ける。鞄の中に入れっぱなしの手帳。それを取り出し、未だ何も書かれていないページにペンを走らせる。涙で視界が滲むせいで、上手く文字を書き込むことが出来ない。

「書くから…………貴理子ちゃんが主人公のお話、書くから…………だから…………」

 それでも必死に手を動かし、【彼女】の事を思い言葉を綴る。

『ほんどにぃ?』

 いつの間に傍に居たのだろう。顔を上げると、表情の無い白い【ソレ】がニタリと嗤いながらこちらを見ていることに気が付いた。

「書く! 書くから! 私、書くから!!」

『…………やっだぁぁぁあ、うれじぃぃ…………』

 そう言って何度も頷く愛実に、【ソレ】は大きく左右に身体を揺らしながら喜んでみせる。

「だから、貴理子ちゃん…………許して…………」

 漸く言う事が出来た謝罪の言葉。一度声に出してしまうと、少しだけ気持ちは軽くなる。

「ごめんね、ごめんなさい。わたしが、わるかったから…………だから、もう、ゆるして…………おねがい…………」

 この恐怖を終わらせることが出来るなら、貴方が望む文字を使って、貴方の生きる世界を私が作る。そう訴えると、【ソレ】は歓喜の声を上げて震えて見せた。

『うれじぃぃぃっっ! あみぢゃんにぞおいっでもらえるなんでっっっっっ!!』


『いいよ、赦してあげる』


 その声は、今までとは違いどこまでも優しかった。


『書くことを忘れずにいてくれた愛実ちゃんのこと、大好きだから。赦してあげる』


 そして少しだけ寂しさが混ざる。


「きり……こ……ちゃ…………」


 そうか。私は赦されたんだ。少しだけ和らいだ表情。止める事が出来ない涙を袖で拭うと、愛実はゆっくりと顔を上げる。


『ナーンテ。ほんとニワタシガ貴理子ダト思ッテタノ?』


 目の前には悪意に満ちた笑顔。


「いやぁああああああああああああああああああああああああああああああっっっっっっっっっ!!」

『アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!』


 狂った笑い声が響く。

 どうやら、この悪夢は未だ終わりそうに無いらしい。

 現実を受け入れたくなくて愛実はゆっくりと意識を手放す。目覚めたとき、【ソレ】が跡形も無く消え去ってくれていることを願いながら。




「ねぇ知ってる? 切り子さんの話」

「何ソレ? 知らなーい」

「どうやら、一時期流行った【口裂け女】とか【赤マント】みたいな都市伝説みたいなんだけどさぁ」

「うん」

「名前は分かるのにどう言うモノなのかよく分からないみたいな話らしいよ」

「えー……なんだか嘘くさーい」

「うん。でもね、どうやらさぁ、捕まると最後、何処までもつきまとわれ続けるんだって」

「つきまとわれる?」

「そう。気が付いたらそこに居るみたいな……のかな?」

「何ソレ、嫌すぎ!」

「うん。何かさぁ、それってさぁ…………とっても…………怖いと思うんだよね…………だって……」



【ソレから逃げるための方法が、分からないっていうんだもの】

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