07
何気ない会話。それによって晴れていくのはずっと感じていた靄だ。不安によるストレスは、美味しいものを食べるという目的で少しずつ上書きされ薄まりつつある。この後の予定で何処のお店に向かうのか。それを話ながら二人して盛り上がっている時だった。
「あれ? 止まった?」
突然止まった昇降機。表示されている数字は、押したボタンよりも上の階を表すもので。目的の階ではない数字があることに、佳穂乃は軽く首を傾げる。
とは言え、階下に降りる目的がある人間は、何も自分たちだけと言うことではない。この大きな建物には、様々な目的で施設を訪れる客や従業員が存在しているのだ。当然、昇降機が止まった三階から下の階へと移動したい人間が存在する可能性は零ではない。閉ざされた扉の向こう側にそんな相手が立っていたとして、何ら不思議はないだろう。もう暫くするとこの扉が開かれる。それは、考えなくても直ぐに分かることではあった。
「こっち側に寄っておこうか」
そう言って愛実を箱の隅へと誘うと、佳穂乃は開閉ボタンの【開】を押し扉の向こう側に立つ相手を待つ。
「すいません」
開いた扉の向こう側に居たのは、配達業者の制服を着た男性だ。彼は一言謝ってから狭い箱の中へと足を踏み入れた。
「何階ですか?」
「地下です」
どうやら目的地は一緒のようで、新しく階を表示させるためのボタンを点灯する必要は無いらしい。男は被っていた帽子を深く被り顔を隠すと、軽く会釈し壁に背を預けるようにして向かいに立つ。彼と二人の女性との距離は成人した人間が二人分ほどのもの。押さえていた【開】から指を離すと、開けっ放しだった鉄の扉がゆっくりと閉まり、昇降機は静かに降下を始めた。
「…………」
「…………」
先程までの和やかな雰囲気は一転。居心地の悪い沈黙が閉ざされた空間を包み込む。
「……で、何処に行こっか?」
余りの気まずさに我慢が出来ず、携帯端末のディスプレイをタップしながら口を開いたのは佳穂乃の方だ。
「私的には明日のこともあるし、軽めの食事が良いかなって思ったりするんだけど」
液晶画面に表示されているグルメサイトの情報。その中から佳穂乃が気になっている店の名前をタップしページを切り替える。
「ココね、前から気になっていたんだけど、美味しそうじゃない?」
喋り始めたらこの場を包む空気は気にならないらしい。佳穂乃の意識は既にディナーの店を決めるという事にシフトしてしまっている。行きたい店を愛実に伝え、それ同意が返されれば直ぐにでも押せるようにと指を持って行った予約のボタン。
「愛実ちゃんが嫌いじゃ無ければ予約を取ろうと……お……も……」
しかし、その指はそれ以上動かすことが出来ないまま固まり、点灯していたはずの携帯端末のディスプレイは、無情にも真っ黒な画面に切り替わってしまう。
「……どう、したの?」
「……い……いえ……何でも……」
隣に立つ愛実の様子がおかしい。それは佳穂乃にも分かった。
「…………何でも…ない……です……」
言葉の歯切れが悪く声が小さいのは勿論だが、ずっと下を向いたまま何かに怯え、小刻みに震えてしまっている。先程までは楽しそうに言葉を交わしていたのに、どうしたというのだろう。
「愛実ちゃん?」
「…………へぇ。気付いたんだな、アンタ」
愛実が答えるよりも先に耳に届く言葉。声のする方へと視線を向ければ、先程エレベーターに乗り込んできた配達員がこちらを見ていることに気が付いた。
「……なん……ですか?」
「いや。何も」
帽子のせいでハッキリした表情を見る事は出来ない。それでも感じ取れる薄ら寒さに、佳穂乃は思わず唾を飲み込み身構える。
「偶然だなぁと思ってね」
言い終わると同時に、男の口角が吊り上がる。ゆっくりと、綺麗に弧を描くその形に含まれるのは悪意だ。
「でも、本当は偶然なんかじゃ無かったりしてね」
その言葉に感じた薄ら寒さ。
「愛実ちゃん……」
愛実を庇うようにして佳穂乃は一歩前に出る。そんな彼女の行動を嘲笑うように喉を鳴らすと、男は両手を挙げからかうようなポーズを取って見せた。
「ふぅん。まぁ、良いけど」
帽子のつばが持ち上がることで現れる表情。そこにある笑顔に感じる嫌悪感。佳穂乃は苦い表情を浮かべながら男を睨み付ける。
「ふぅん」
そんな佳穂乃の反応を気にする様子もなく、品定めをするように上へ下へと動く男の視線。そう言うことをされて快く思う人間は居るはずもない。当然、その行動に覚えるのは『不快感』だ。閉ざされた空間では逃げ場というものは存在しない。数歩足を動かせば手が届いてしまうほどの近い距離で不利なのは当然、立場の弱い女性側。性別や体格的に見て力で勝てるとは考えられない。それでも、佳穂乃が無意識に取ってしまうポーズは格闘を意味するそれだった。
「やろうっての? 凄いね、オネエサン」
これが虚勢だということは相手も分かっているのだろう。彼は呆れたように緩く首を振った後で、ゆっくりとこちらに向かって歩き出す。
「…………愛実ちゃん……」
「……相田……さん…………」
目の前の相手と距離が縮まる度走る緊張。背後で震える愛実が小さく悲鳴を上げている。階数が表記されたボタンの上で点灯するデジタル数字は、漸く『1』に辿り着いたところ。この扉が開かれるまでは今暫く時間がかかりそうで、手に脂汗が滲む。
「んー、どうしようかなぁ」
まるで獲物を狩る獣の如くゆっくりと。時間をかけて近付く男を前に、思わず叫び出しそうになってしまう。どんなに自分を誤魔化しても矢張り怖いものは怖い。得体の知れない存在が何をしでかすか分からない状態に恐怖を感じるのは、佳穂乃だけではなく愛実も同じで。一秒でも早く、この箱が外の世界へと繋がる事だけを祈り警戒を続ける。
「あ。でも、やっぱいいや」
距離にして約三十センチ。そこでピタリと足を止め、男は浮かべていた笑みを消し冷たい目で佳穂乃を見た。
「アンタ、好みじゃ無いから」
言い終わると同時に響くベルの音。重たい鉄の扉がスライドし、漸く向こう側に広がる空間と箱が繋がった。
「愛実ちゃん!」
先に動いたのは佳穂乃の方だった。大声で愛実の名を呼ぶと、彼女の腕を掴み箱の中から飛び出すようにして走り出す。
「早く!」
考えるより先に身体は動く。伸ばされた男の手を擦り抜けるように身を屈め躱してから、真っ直ぐに向かう愛車を駐めた駐車スペース。鞄からキーを取り出しロックの解除ボタンを押しながら走り続ける。
コンクリートにヒールの底が触れる度、渇いた音が反響し空気を揺らす。少し離れた場所から聞こえてくる電子音だ。同時にハザードの光が点灯し鍵が外れたのだと言う合図を持ち主に送る。
「急いで!!」
見てくる愛車のシルエット。完全にそれが視界に収まったところで、佳穂乃は掴んでいた愛実の腕を離し、転席側に回り込んでドアを開く。
「愛実ちゃん!」
車内に身体を半分滑り込ませながら佳穂乃は愛実の名を呼ぶ。それに愛実が小さく頷くと、助手席のドアに手を掛け、急いで乗り込もむべく片足を上げた。
「きゃあああああああああああああああ!!」
「愛実ちゃん!?」
フロア内に響き渡る叫び声。次の瞬間、愛実の身体が後方へと引っ張られ大きく傾く。
「そういうの、駄目だと思うんだけどなぁ」
突然の事に失われる身体のバランス。受け身をとる事もできないまま、愛実は勢いよく地面へと倒れ込んでしまう。
「なぁ、アンタ」
強く打ち付けた身体。それを庇うようにして小さく身を固めながら愛実は呻く。その様子を楽しそうに眺めていた男は、ゆっくりと距離を縮めながら更に言葉を続ける。
「まさか忘れたとは言わないよなぁ?」
未だ動く事が出来ず蹲る愛実へと迫る男の気配。逃げ出したいと焦るのに、痛みのせいで身体を上手く動かすことが出来ない。そうこうしている間に前に男が履いているスニーカーが視界に現れ、愛実は恐怖で固まってしまった。それを確認してから男はゆっくりしゃがみ込み、彼女の髪を掴んで引っ張り上げ口を開く。
「俺、アンタにこういったよな? 『覚えてろよ』って」
その言葉を聞いた途端、鮮明に蘇るあの時の光景。漸く薄れかけていた恐怖が一瞬にして呼び戻され愛実は目を見開く。
「あれ以来さぁ、アイツ、勝手に消えちまったんだよなぁ。連絡先も言わねぇで消えやがったから、俺、すっげぇ困ってんの」
合わされる視線。大きく見開いた瞳に映るのは、表情の消えた男の顔で。
「あの髪、すっげぇ気に入ってたんだけどなぁ」
空いた方の手で愛実の頬を撫でる男の目が細く弓なりに弧を描く。
「どうしてくれんの?」
「愛実ちゃん!」
声が耳に届いたのが先。次の瞬間、目の前にあった男の顔が視界から消える。代わりに現れたのは真っ黒なヒールのシルエット。それが左から右へとスライドし消える。
「大丈夫!?」
何が起こったのかが分かるまでに暫く時間がかかってしまうのは仕方無いのだろう。目の前にあった男の顔が消えた方向へと視線を向ければ、顔を押さえて尻餅をついているその姿が目に止まる。呆然と座り込んでいると強い力で引っ張られる腕。肩に回された細い腕が、大丈夫だよと言うように愛実を包み込むと、感じていた恐怖は少しだけ和らぎ涙が溢れてしまう。
「警察呼ぶわよ!?」
自分の事を守るように男と対峙する佳穂乃の存在が、とても頼もしく感じる。でも、ここで泣いているだけでは、事態が解決しないことも愛実は理解していた。
「相田さん……」
倒れていた男がゆっくりと起き上がる。
「大丈夫……大丈夫……」
佳穂乃が繰り返す「大丈夫」という言葉。その声は思った以上に震えてしまっている。不安そうに愛実の肩を抱きながら、取り出した携帯端末を操作し呼び出そうとしたのは緊急通報を示す番号。だが、そのボタンを押す前に携帯端末が男に奪い取られてしまった。
「何すっ……」
「そんなこと許すはず無いだろっっ!!」
佳穂乃の取った行動により激昂した相手の顔は、怒気で真っ赤に染まっている。先程までの冷静さは失われ激しい怒りで肩を振るわせると、男は売り上げた拳を彼女に向かって勢いよく振り下ろした。
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