06
特に何かあるわけでも無いのに、言われた言葉に対して感じてしまうストレス。意味深な一言が頭から離れず落ち着かない。
あの日以来、見えない恐怖がずっとつきまとっている感覚に、愛実は酷い疲れを感じていた。
「どうしたの? 愛実」
「う……うん…………」
ここ最近はよく眠れていない。そのせいか、身体が怠さを訴えてしまう。心配させないように作った笑顔は、直ぐに相手に見抜かれてしまうほどボロボロなものだった。
「ねぇ。本当に大丈夫?」
心配そうに顔を覗き込んでくる美夏の手が、愛実の額に触れる。
「熱は無いみたいだけど……」
「大丈夫だよ」
数日前に愛実が遭遇した事件。それに対して、マネージャーに怒られたことを美夏は知っていた。だからだろう。彼女の言う「大丈夫」に大人しく引き下がらず、そっと寄り添うように背中を撫でてくれたのは。
「無理はしちゃ駄目だよ」
普段はハッキリした性格で、勢いがありメンバーを引っ張る立場にいる美夏は、面倒見の良い穏やかな一面もある。この状況で取るべき行動がなんなのかを悟った彼女は、柔らかい声で愛実にこう伝えて表情を和らげて見せる。
「恐い事あったんでしょ? 平気って笑い飛ばせるほど、簡単な話じゃないと思うから」
そう言った貰えた瞬間、愛実は泣き出してしまった。
「愛実!?」
愛実の様子に美夏は驚きはしたものの、何も言わずただ彼女を慰め続ける。気持ちが落ち着くまで時間が掛かることを知っているのだろう。繰り返される「大丈夫」に、愛実は何度も頷く。
「大丈夫、大丈夫だから」
今はその寄り添う優しさが何よりも有り難い。吐き出せずに押し込めていた感情を涙と共に言葉にし、外へと吐き出してしまおう。紐の切れた緊張から嗚咽混じりで吐き出される本音。ずっと怖いと感じていたこと、得体の知れない不安に囚われていること、そのせいで上手く眠ることが出来なくなってしまったのだということ。それを一つずつ美夏に伝えると、彼女は「そうか」と愛実の肩を抱き寄せゆっくり頭を撫でてくれた。
自分の中に押し込めた感情がこれだけ存在してたことに気が付いたのは、涙が漸く止まった後のことである。
「ごめんね、美夏ちゃん」
渡されたハンドタオルで涙を拭いながら笑うと、隣に座る美夏が軽く愛実の頭を小突いてみせた。
「バーカ。謝る必要なんて、どこにもないんだよー」
だって、友達でしょ? 頼って貰える事は嫌いじゃないから。そう言って笑う美夏の明るさに、自然と愛実の表情も柔らかくなる。
「ってかさぁ……そんな風に悩んでるなら、なんでもっと早く相談してくんないの?」
「え?」
「水臭いよぉ」
頬を膨らませて拗ねて見せる美夏は、早くもいつもの調子に戻っているようだ。先程までのお姉さん的な雰囲気は消え、明るいキャラの彼女がそこに居る。
「アタシだって、ちょっとは愛実の役に立てることがあるかもしんないじゃん?」
「……何て言うかさ、私自身、こんなに追い詰められているんだって……美夏ちゃんに話して始めて気付いたから……」
吐き出して初めて自覚した自分の本音。あの日取った行動に対しての後悔と恐怖が時間差で現れたことで頭が混乱したのと、誰に相談して良いのか分からないという不安でずっと見ない振りをしてきた結果が今の状態で。言葉にした事で自覚する恐怖は確かに存在しているが、本音を吐き出せたことで心が大分楽にはなったと息を吐く。
「……ってか、愛実って一人暮らしだっけ?」
「……うん」
「……そっかぁ……」
そう言って美夏は暫し考える。
「うーん……」
数十秒間唸った後、溜息混じりに呟いたのはこんな一言だ。
「マネージャーに頼んで、ホテルとかに泊めて貰うとかした方が良くない?」
「…………」
美夏が出した提案。それに思わず愛実は身体を強張らせ口を噤む。
「まぁ、家に居て何かが起こるとか……そいううのがあるって訳じゃ無いけどさぁ……」
美夏の言いたいことは分かる。歯切れが悪いのは、考えすぎだと彼女も自覚しているからなのだろう。それでも、あの未遂事件が近所で起こっていることや、愛実に対して吐き捨てられた捨て台詞の存在から、どうしても最悪の可能性が頭を過ぎってしまうのだ。
「何かあってからじゃ遅いから……」
「……そう……だね……」
膝の上に置いた両手、それを強く握り込み、愛実は暴れ出しそうな感情を必死に押さえ込む。『どうしてこんな事になってしまったんだんだろう?』。その問いは幾度となく繰り返したが、結局あの時の自分はそうすることを自然に選択してしまった。どちらを選んでも味わうのは嫌な思い。いっそのこと、あの時の事が無かったことに出来れば良いのに。
「愛実?」
「っっ!?」
気が付けば口中に広がる鉄の味。無意識に噛んだ唇からうっすらと血が滲み出ている。
「無理、しない方が良いよ」
今度ばかりは「大丈夫」という言葉は信じて貰えそうに無いだろう。愛実は観念したように肩の力を抜くと、「分かった」と呟き小さく頷いてみせる。それを確認すると、美夏はマネージャーを呼ぶために一度部屋を出て行った。
「……心配しすぎだよ……大丈夫……何も、起こらないんだから……」
結局、美夏の提案通り、愛実は暫くの間ホテル住まいをすることになった。手配は収録の合間にマネージャーである
「愛実ちゃん!」
既にホテルを手配した事を告げられ、荷物をまとめたらいらっしゃいと出される指示。私物を手早く鞄にまとめると、美夏と麻由に「お疲れ様」とだけ伝え控え室を出る。
二人の脇を慌ただしく掛けていく制作スタッフ。背後から聞こえてくるのは、待機しているしている出演者を呼ぶ声だ。数秒後閉ざされていた扉が開き中から出てきた芸人の男性の声が廊下に響いた。
「迷惑をかけてごめんなさい」
愛実は振り返ることなくそんなやりとりを聞きながら、数歩前を歩く佳穂乃に小さな声で謝る。その謝罪に対して返されたのは「そうね」という一言。矢張り、迷惑だったんだなと愛実が俯き鞄の紐を強く握り込んだときだ。
「一人で抱え込んで何かあったりしたら、そっちの方が大問題よ」
ヒールが床と擦れる音が廊下に響く。少しずつ縮まる距離は、あと数歩のところでぴたりと止まった。顔を上げれば自分の事を真っ直ぐ見つめる佳穂乃と目が合ってしまった。
「良い、愛実ちゃん」
カツカツと響くヒール音が少しずつ愛実へと近付く。ふわりと香る優しい匂いは、佳穂乃が愛用している香水のもので。少し苦みが混ざるその芳香は、相田佳穂乃という女性にとても良く似合うものだ。
「私は愛実ちゃんのことはすっごく大事だと思ってるわ。だから、こういう相談をされることは全然迷惑なんかじゃないの。寧ろ、それを黙ってて取り返しの付かないことになる方が大迷惑!」
軽く握られて作られた拳。それが愛実の頭に優しく触れて離れていく。
「困ってるなら困っている。怖いなら怖いってハッキリ言いなさい! 私はね、貴方たちの事を見捨てたりしない。全力で守ってあげるから」
おずおずと顔を上げると、にっこりと笑う佳穂乃の顔。身に纏う爽やかな香りと同じように朗らかに笑う彼女は、愛実を元気づけるように軽く頭を撫でると肩を抱き寄せ頬を擽りながら、はっきりした言葉でこう付け加えた。
「大丈夫! きっと、何も起こらないわよ」
断言することで得たかったのは安心なのだろう。
「そう……ですかね?」
「そうに決まってるわよ!」
それが本心から言っているのか、単なる気休めなのか。その真意は分からない。それでも、こうやって自分の事を心配し、大切に思ってくれる人が居るのだと言う事が嬉しいと感じ、愛実は恥ずかしそうに表情を和らげる。それを見て安心したのだろう。触れていた佳穂乃の熱がゆっくりと離れていく。
「とは言え、暴行未遂事件の犯人と遭遇したのが家の近くっていうのは良くないかもね」
佳穂乃が再び歩き出す。それに気付いた愛実は、慌てて彼女の後を追い足を動かした。
「スケジュールを調整して、引っ越しができるか確認してみようかしら……」
鞄を漁り取り出した手帳。先に歩く佳穂乃は、それを捲りながら独り言を呟く。そんな二人の後ろから、先程スタッフとやりとりをしていた芸人の男性が現れ、軽く会釈をし通り過ぎていく。彼が向かう先は収録スタジオ。二人が向かう場所はエレベーターだ。目的地までの距離はあと少し。
「社長と相談してみないとどうにもかぁ……」
目的地に着いたことで止まった足。閉ざされた扉の前に立つと、佳穂乃は階下に降りるための矢印を押す。表示されたデジタルの数字は二階。この場所まで昇降機が上がって来るまでは、今暫く時間がかかるだろう。
「ねぇ、愛実ちゃん」
「はい」
「もし引っ越しをしましょうって言ったら、直ぐに片付けって出来たりする?」
その提案は有り難かったが、現実的に考えると素直にハイと頷く事は難しい。直ぐに返されることの無い返答に、「そうよねぇ」と佳穂乃は溜息を吐く。
「話を聞いた時点で相談しておけば良かったのよね。ごめんね。気が利かないマネージャーで」
「い、いえ! そんなことはありません!」
言い終わると同時に開く鉄の扉。空っぽの昇降機が扉の向こう側で二人を待つ。幸いにもこの箱はこれ以上昇る事は無いようで、乗降を示す矢印は、今は下のボタンを点灯させていた。
「取りあえず、乗りましょうか」
先に愛実に乗ってと促し、後から佳穂乃が乗り込むと駐車場のある地下のボタンを押して扉を閉める。
「取りあえず、引っ越しの件は後で相談しましょうか。それよりも、愛実ちゃん」
広げていた手帳を音を立てて閉じると、佳穂乃はにこっと笑いこんな提案を愛実に出した。
「お腹空かない?」
「え?」
「今日は、私も事務所に戻らず直帰する予定なの」。そう言葉を続けながら佳穂乃は軽く腹を撫でる。
「お腹ペコペコなのよ。奢ってあげるから、何か食べて帰りましょうか」
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