02

 その日を境に二人の関係は、とても仲の良い友達へと変化していった。特に、共通の趣味である本の事に関すると、どうしても熱が入ってしまう。どういった本が好きだとか、この本のここが面白かったとか。互いに同じタイトルを好きなこともあれば、片方しか分からない本の情報を交換し合うこともあったりで、図書室に居る一時はいつしか双方が心待ちにしている時間となっていた。

 愛実が貴理子のノートを見せて貰ったのは、それから半年ほど過ぎた頃の事である。

「貴理子ちゃんって、本当に字が綺麗だよね〜」

 テストが近づいてきた学期末。読書の話はお休みし、急遽開催される勉強会に、広げられたノートを眺めながら愛実は呟く。

「ノートがすっごく丁寧で見やすいんだもん。いいなぁ、憧れちゃう」

 言葉通り、貴理子のまとめたノートに比べ、愛実のノートは自由奔放で。一応カラーペンを使い重要そうな部分に装飾はされているものの、まとめ方は大雑把で内容を把握しやすいかと言われると首を傾げるようなものだった。

 書き込んだ文字もお世辞にも整っているとは言い難い。極端に崩れた字を書いていると言うわけではないが、その文字は丸っこく、文字というよりはデザインされた書体に持つ印象に近いものだ。

 愛実自身、以前はこの文字がとても気に入っていた。その理由は至ってシンプルで、親しくしている友人達の書く文字の多くがその形態を取っていたからというものである。ただ、学年が上がり感性が変化し始めると、その文字はとても幼く見える様に感じてしまうのも事実で。好みの価値観がずれ始めてしまった時点で、感じるようになった違和感。それは、貴理子という友人を得たことで更に大きく育ってしまった。

 だからだろう。「貴理子の文字が羨ましい」と呟いたのは。

「ノートはね、取り方にコツがあるんだよ」

 そう言って貴理子はノートのまとめ方を愛実にレクチャーし始める。

「授業の内容で気になる所を先に書いて、それを補足するように言葉を繋げていくの。覚える内容はブロックとしてまとめてあげれば、それを見るだけでどういう関連を持って居る内容なのかわかるでしょ?」

「へぇ」

「でね。沢山色を使っちゃうと、どこを見て良いのか分からなくなっちゃうから、基本的には必要な部分だけをマーキングするの。例えば……」

 成績が良い理由は、こういった小さな工夫に出るものなのかもしれない。確かに貴理子の教えた通り手順を踏んで事柄を整理していけば、覚えた方が良いと思われる重要な情報が一つにまとまり分かりやすくなる。授業の内容をおさらいしつつ、愛実は必死に貴理子の文字の真似をする。それは、少しでも彼女に近づきたいと無意識に思っていたからなのだろう。

 この勉強会のお陰で、愛実は随分と席次の番号を伸ばすことが出来た。両親は当然それを喜び、彼女の欲しがっていた携帯端末を購入する許可を出してくれる。選んだカラーはホワイト。新しくなったデザインは角が丸いフォルムで可愛らしい。それに以前から購入すると決めていたピンクのカバーつければ満足度は八割強。それが嬉しくて貴理子に見せると、彼女は少しだけ寂しそうに眉を下げ顔を伏せた。

「貴理子ちゃん?」

「愛実ちゃんも、文字を書かなくなっちゃうのかな?」

 愛実は始め、その言葉の意味するものが何なのか分からなかった。

「え? 字は書くよ? だって授業中にスマホ使えないし、テストは紙だし……」

「そうじゃないよ」

 そんな当たり前の事じゃないの。静かに左右に首を振ると、貴理子は一冊のノートを取り出し、机の上に静かに置いた。

「ノートを一冊使い切るのって、とっても大変なことなんだよ。でも、その中には沢山の文字が収められているの」

 突然始まるそんな話。貴理子の口から何が語られるのかが分からず、愛実は黙って耳を傾ける。

「その文字は何も、勉強の記録や過かなきゃいけない重要なものばっかりじゃないんだよ。このノートね、私がずっと書いてるお話をまとめたものなんだ」

「……お話?」

「そう」

 ワンコイン+消費税で買える安っぽいノートは、有名なキャラクターの見た目を真似したデザインの量産品。表紙だけ厚くなった紙を一枚捲ると、そこには愛実の大好きな字で沢山の文字が書き込まれていた。

「一つずつは短いものだけど、いつかこれを本に出来ると良いなっていうのが私の夢なんだ」

「本……」

「だから私は文字を書くの。そうやって私が感じた大好きな世界を、記録として残していきたいなって」

 書き込まれた文字で黒くなった紙の表面を愛おしそうに指でなぞりながら言う貴理子に、愛実は思わずこんな言葉を返してしまう。

「でも、それってスマホを使うのと意味が全然違うんじゃない? スマホはスマホ、ノートはノートでしょ?」

 それは本当に心から思った小さな疑問だった。

「……そう言っても、スマホを触るようになると、みんな字を書かなくなっちゃうじゃない」

「そうかなぁ?」

「そう……だよ」

 気まずい空気と場を支配する沈黙。あれだけ仲の良かった関係は、この日を境に崩れてしまった。

 図書室で顔を合わせても声を掛けるきっかけが掴めず、関係を修復することが出来ないまま終わってしまった学生生活。その事に当然心残りを覚えなかった訳では無い。だが、今はもう、それを改めることは出来なくなってしまった。

 貴理子が亡くなったという知らせを耳にしたのは、学校を卒業してから半年後。ほんの短い期間、共に時間を過ごした親友は、永遠に愛実の前から姿を消してしまったのだ。


 文字を見る度に複雑な思いを抱えつつ、愛実はずっと手帳に文字を綴り続けている。あの頃練習した文字は、少しずつ記憶と共に形を忘れつつあるが、それでも以前書いていた自分の字と異なるそれを記す度に、もう一度謝る事の出来なかった彼女と言葉を交わすことが出来るような気がしてやめられない。

 吾妻貴理子が亡くなってからずっと買い続けている手帳は、今年で三冊目になる。一年目、二年目と年数を重ねる毎に、簡単に書ける可愛らしいキャラクターのものから、本格的にスケジュールを管理する機能を持つシンプルな物へと形を変えていった。

「その子に謝る事が出来なかったから、愛実は文字を書き続けているの?」

 学生の頃の思い出を聞いた美夏は、困った様に腕を組みながらそう尋ねる。

「謝る事が出来なかったからっていうよりは、文字を書けばその子の言った言葉が分かるのかな? って思ったからって感じかな」

 貴理子と仲違いをして以来、一時期は彼女の言うように愛実が文字を書く頻度は格段に減ってしまったのは否定出来ない。つい便利だからと手にする電子機器は、画面をタップしキーボードをフリックすれば、記録しておきたい情報を簡単に収納することが出来るのだ。

 調べたい情報にアクセスするのも数秒待てば直ぐ表示してくれる。その利便性に忘れてしまった【書くと言う楽しみ】。文字をこれほどにまで書かなくなっていたのかと自覚したのは、貴理子の存在がこの世のどこにも無いんだと理解した時が初めてだった。

 失って始めて気が付くというのは確かに存在しているらしい。あの時にこうしておけばなんて、後悔してももう遅い。選び間違えた選択肢は、分岐した時点で確定した未来で。それを変えたいと願っても、戻らない時のせいで、結果を覆すことは不可能である。

 そう思うと、それはとても寂しいことなんだと愛実は思ってしまった。素直に謝ることが出来て居たら、今頃は違った未来があったのだろう。その後悔が大きくなる毎に、貴理子という存在を思い出し気持ちが暗くなる。だからこそ、愛実は文字を書くことを選択した。それは多分、自分の気持ちを整理するためのツールとしてそれを用いることで、貴理子という存在と向き合い、前に進んでいこうと彼女がそう決断したからなのだろう。

「貴理子ちゃんのノートは、沢山の文字で一杯だったの。それは彼女が作った物語だって言っていた。私は結局、一つもそれを読む事が出来なかったんだけど、あのノートに書かれたお話は一体どんなものだったんだろうって……今でもその事ばっかりきになったりするんだ」

「ふぅん」

 懐かしい思い出話はここまで。丁度話の切れが良いところで開かれたのは部屋のドアだ。

「お待たせ〜」

 そう言って現れたのは二人の女性。一人は愛実や美夏と同世代の若い女の子で、もう一人は一回り上のスーツを着た女性だった。

「今日のスケジュールはこれね。今から移動するから、メイクは着いてからスタイリストさんにお願いする形になります」

「はぁい」

 手渡される資料の表紙には、大きなタイトルロゴが印刷されている。お世辞にもセンスが良いとは思えないそのデザインは、如何にも質の悪い恐怖企画だと分かるような言葉に合わせて作成されているものだ。

「こういう企画ってさぁ、全然人気がない子達がやるっていうイメージあるよねぇ」

 資料を見ながら文句を口にしたのは美夏だ。

「でもぉ、マユはこういうの嫌いじゃないよぉ〜」

 おっとりした声でそう答えるのは、後から部屋に入ってきた麻由という女の子。

「まぁ、しょうがないよ。テレビにレギュラーで出られるって言う訳じゃないし、来たお仕事だもん」

 美夏を宥めるようにそう呟くと、愛実は手帳を閉じ鞄に仕舞う。

「それじゃあ、移動しましょうか!」

「はーい」

 漸くメンバーが揃ったところで今日の仕事が始まる。彼女達は、マネージャーの後を追うように部屋を後にした。

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