参ノ噺:【キレイ】の証明

第3話:【廃校】【切り子さん】【髪】

 —ねぇ、どうして?


 彼女は悲しそうにそう呟いた。


 —どうして私じゃないのかしら?

 

 黒い瞳にたくさんの涙を溜めて。

 

 —私じゃないのなら誰を選ぶの?

 

 迫られるのは二つの選択。

 

 —それならいっそ…………

 

 

 手元にあるスケジュール帳。

 今時手帳を利用するなんてアナログも良いところだと笑われてしまうが、これが無いと落ち着かない。薄いドットの罫線が印刷された誌面。そこにはまだ何も書かれていない状態で。それにペンを走らせていく感覚がとても心地良くて仕方が無い。

 終わってしまったマンスリーカレンダーに書き込まれた予定は、思った以上に量がある。これらは全て、この一ヶ月の間に彼女がこなした仕事や行った用事の内容だった。

「また書いてんの?」

 部屋に入ってきたばかりの同僚が今日もまた同じ言葉を繰り返す。

「いいじゃん。コレが好きなんだから」

「ふぅん」

 用意された椅子は全部で四脚。その内の一つに腰掛けると、同僚は携帯端末を取りだし画面をタップし始めた。

「スマホの方が便利じゃん。アナログ手帳なんて、荷物になるだけじゃない?」

 確かに。その言葉通り利便性を考えると、端末一つで全てを賄えるのは手帳よりはスマートフォンの方なのだろう。

「文字書くの好きだからね」

 それでも彼女は手帳を使う事を止めようとはしなかった。

「物好き」

「面白いよ? 字を書く事って」

 個人の好みについてあれこれ言うのはお節介だと。それが分かっているから同僚もこれ以上は何も言ってこない。

「後から読み返すと、こんな事があったんだって思ったりするしね」

 そう言って中途半端に文字を書いた紙面を指で静かになぞる。

 元々、彼女には手帳を付ける習慣というものは無かった。手帳を付けるようになったきっかけは、高校時代の友人にある。

 その友人はとても文字の綺麗な子で、書くという行為を純粋に楽しむ物静かな女の子だった。控えめで引っ込み思案な性格と、派手なものを好まない事で印象は随分と地味なもので。ただ、彼女の書く文字はとても不思議な魅力があったことを鮮明に覚えている。そんな友人の名前はキリコ。とうとことわりの子と書いて『キリコ』と言った。

「ねぇ、

 いつの間にか隣に同僚が立ち彼女の手元を覗き込んでいる。

「いつも思うけどさぁ、アンタって字、綺麗だよね」

 愛実と呼ばれた女性の隣まで椅子を引っ張り移動すると、同僚はそこに腰掛け口を開く。

「いいなぁ、羨ましい」

 机の上に置いた腕。肘を立て頬杖を突くポーズを作り手に顎を乗せてから、彼女はつまらなさそうに口を尖らせ息を吐き出す。

「アタシさぁ、字、ヘッタクソなんだよねぇ。愛実みたいに字が上手ければ、手帳とか書くの、楽しいって感じるのかなぁ?」

「何言ってんの。ちゃん、字、汚くないじゃん」

 何を以て【キレイ】とするのか。その基準は実に曖昧だと愛実は思う。

「そんなことないよ。アタシ、字丸っこいから愛実みたいな字に憧れる」

「そうかなぁ? 私は美夏ちゃんの字好きだよ」

「ちょっ! 何言ってんの!」

 賑やかな笑い声が響く室内。確かに、美夏という女性の書く字は少し癖があった。若い女の子特有の可愛らしい字と言えば分かりやすいかもしれない。それは、友人間で手紙をやりとりする分には問題は無いのだが、書類など硬い誌面に書き込まれると違和感を感じてしまう事も多い。

「やっぱさぁ、綺麗な字も書けるようになってみたいなぁって、愛実の字を見てるとすっごい思うよ」

 手帳を書くのは物好きだと言いながら、それが出来ることは羨ましいと。そんな風に美夏はぼやき瞼を伏せる。

「書いてみたら?」

「え?」

 鞄の中から取り出されたのは小さなペンケースとメモ帳。閉まっていたペンケースの中にあるペンの中から、ピンクのゲルインクが詰まったボールペンを取り出すと、それを差し出しながら愛実は続ける。

「字は変えられるんだよ。私だって、昔は美夏ちゃんの書く字に近い感じの字を書いてたもの」

「え? そうなの?」

「そうだよ」

 そう言って、愛実は再び手元の手帳に視線を戻した。

「この字はね、すっごく綺麗な字を書く友達のものを真似したもんなんだ」

「……へぇ」

 卒業したから一度も会ったことのない貴理子ちゃん。彼女の字を思い出し和らぐ表情。

「その子ね、とっても素敵な字を書く子でさ。私、その子の字で書かれた文章を読むのが好きだったの」

 ゆっくりと紐解く記憶。それは今でも鮮明に覚えている、懐かしい思い出だった。

 

 ヅマ貴理子は図書室という空間がとても好きだった。彼女は幼い頃から身体が弱く、激しい運動をすることが出来ないと言うリスクを抱えていた。小学校の頃は病院に入院することも多かったため、自然と多くなったのは読書の量だ。中でも幻想小説は彼女にとって何よりも大好きなお話のジャンルだった。

 いつかは自分もそんな世界を作り出してみたい。

 そんな小さな願いは、少しずつ重なりアイデアを綴ったノートが何冊も増えていく。それは、彼女が高校生になってからも未だに続いていた。

 彼女の書く物語に興味を持ったのは、図書委員をしていた榎本エノモト愛実である。

 愛実は本を読むことは好きだったが、望んで図書委員になったわけではない。何となくという理由だけでその役職に就いただけ。群れる事が余り得意ではないのもその場所に向かうきっかけになったのだろう。そこで出会ったのが吾妻貴理子という女子生徒だった。

「ねぇ、何を書いてるの?」

 先に声をかけたのは、愛実の方だったように思う。

「本の感想?」

 突然話しかけられたことに驚いた貴理子は、慌てて広げていたノートを閉じ顔を背けてしまった。

「あっ! ごめんね。ビックリしたよね」

 少しだけ気まずい雰囲気。慌ててそれを謝ると、愛実は困った様に鼻の頭を掻く。

「私、二組の榎本愛実。あなたは?」

 初めまして、よろしく。何となくそうしたい気持ちになり求めた握手。それに対して相手がどう反応を返してくれるのかは分からなかったが、取りあえず作った笑顔はそのままで愛実は静かに返事を待つ。

「……吾妻……貴理子」

 すると、彼女は恥ずかしいそうに小さな声でこう答えてくれた。

「六組の吾妻貴理子です。よ、よろしくお願いします」

 ビックリはしたものの、印象自体は悪く無かったようで。控えめながらも貴理子と名乗った女子生徒は、差し出された愛実の手を軽く握り替えし表情を和らげてくれた。

「ねぇ、少しだけお話しない?」

 手に持って居た数冊の本。チェックが終わり棚に戻さなければならないそれを机の上に置くと、愛実は隣に座って言葉を続ける。

「吾妻さんって、本、好きなんだね」

 湧いたのは、ほんの小さな興味だった。

「図書室ってさぁ、静かでゆっくり出来るかと思ったんだけど、委員になると結構雑用も多くてさ」

 一方的に話し始めたのは愚痴で。思って居た事と違う、こんなはずじゃなかったなんてジェスチャを加えながら愛実は貴理子に話し続ける。

「確かに本が好きな生徒が来くることもあるんだけど、そう言う人ってレアケース。見てよ、アレ」

 そう言って彼女が指刺した先には、机の上に突っ伏して眠りこけている男子生徒の姿があった。

「殆どはあんな感じで眠りに来たり、隠れに来たりする奴ばっかだよ。そんな奴等は本なんて一切見向きもしないの。何のための図書室なんだーって感じしない?」

 日頃吐き出せない鬱憤というものが随分溜まっていたのだろうか。捲し立てるように一気に吐き出してしまうと、驚いた顔でこちらを見ていた貴理子が、クスクスと小さな声を立てて笑い出した。

「そうだね。図書室は本を読むところだもの。図書委員の榎本さんからしたら、そう思うのも当たり前だね」

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