03
結局、あの後教師を追い掛けた腕がどうなったのかは分からないまま。渡真利自身それを確認することはしなかった。
あの腕を見たのは一度きりだし、教師の身に何か変わったことが起こるかと言えばそんなこともない。色が少し変化したような気がした紙も、あの日以来一度も目にすることはない。多分、あれはただの思い過ごしだろうで気のせいだったのだろう。日が経つにつれそんな風に考えるようになり、やがてそのこと自体を忘れ始めていた。
慌ただしく走る足が音が廊下に響く。廊下は走ってはいけませんなんて警告も、彼女は今気にしてる余裕がないのだろう。器用に人を避けながら目指すのは自分の席がある教室だ。
「ちょっと! 聞いてよ!!」
そう言って勢いよく飛び込んで来たのは、噂好きのお喋りなクラスメイトだった。
「先生、腕折ったらしいよ!」
「え?」
彼女の口から語られる内容は、この前の男性教師の話題である。
どうやらその教師は数日前に階段で転倒し、運が悪いことに利き腕の骨を折ったのだとか。最近腕に巻いていたギプスはそのせいなんだと、彼女はさも得意げにそう口にする。
『なんて言うか……運が悪いなぁよなぁ、先生も』
考えれば分かるような内容は、実に下らないニュースで特に気になる話でもない。そんなことを考えながら教室を出て、渡真利はゆっくりと歩き出す。向かうのは自動販売機の設置されているエリア。珍しくスカッとする飲み物が欲しいと、手の中で小銭を遊ばせながら階段を下りていく。
階段の踊り場で背後からクラスメイトに声を掛けられ振り返ると、彼はバスケをやるからメンバーに入らないかと渡真利を誘ってきた。
「あー……」
面倒臭いと思いながら断る理由を思い付かない。曖昧な反応で言葉を濁している内に、気が付けば体育館前まで来てしまっていた。
「なぁ、良いだろう? 頼むよ、渡真利!」
「あー……でも……」
「メンバー、丁度一人足りねぇんだよ。付き合ってくれたら後で何か奢ってやるから!」
半ば強引に手を引かれ気が付いたら館内に足を踏み入れている。彼以外のメンバーは既にその場に集まっており、彼と急遽メンバーに入れられる事となった渡真利が揃えば直ぐにでもゲームが開始される状態でスタンバイしていた。
「それじゃあ、チーム分けるから」
結局、最後まで断れずにメンバーとして加わってしまったゲーム。ボールを持った友人が、バランスを考えながらチームを分けていく。
「ん? 何だ、コレ」
それの作業を中断させたのは、一緒にバスケをやらないかと誘ってきたクラスメイトの一言だった。
「あ? なにやってんだよ」
「ああ。何か落ちてた」
屈んで床に手を伸ばした彼は、何かを掴みそれを参加メンバーに見せる。
「紙?」
彼の手の中には一枚の小さな紙。
「何か書いてあったり?」
「うんにゃ。何も書いてねぇな」
サイズはA7ほどで、表にも裏にも何も書かれている形跡はない。
「ゴミ?」
「かなぁ?」
拾ってしまった手前そのまま放り投げる事もしづらく、彼はその紙を丸めてポケットに突っ込み両手を軽く振ってみせる。
「後で捨てとくわ。そんな事より、ゲーム始めようぜ!」
もう既に彼等は少人数で行うミニゲームへと意識を切り替えてしまっていた。ただ、渡真利だけはその場から動かず、下を向いたまま固まってしまう。
「渡真利?」
「……俺……無理、だわ」
無意識に一歩。
「ごめん。プレイ出来そうにねぇから教室に戻る」
更にもう一歩。
「はぁ? 何言ってんだよ。早く来いって!」
目の前の彼はそう言って手を大きく振るのだが、それを断るように首を振ると、渡真利は逃げるように体育館を飛び出した。
「渡真利!!」
見てはいけない、気付いてはいけない。
それでもそれはハッキリと見えてしまった。
『嘘だ……そんなはずは……』
今見たものを必死に否定したいと願うのに、その映像がとても強烈で鮮明に記憶に残ってしまう。
『あれが存在しているはずが無いじゃないか! だって、あれは……』
きっかけは紙を拾ったこと。
『あの場所に在るはずがないものなんだぞ!?』
それは青く染まった小さなもので。
『腕の他に顔まであるなんて冗談じゃない!』
その紙に触れた瞬間、それは何も無い空間から突然現れたのだ。
『俺は、見てない。見てないんだ!』
現れた腕は迷うことなく真っ直ぐに、紙を持った手に向かって伸び絡みつく。
『俺は知らない。何も知らない』
やがてその腕の先に白い顔が浮かび上がり、紙を持ったクラスメイトに寄り添うようにしてくっついてしまう。
『あんなもの、見えるはずがないんだって!!』
そして嬉しそうに眼を細め、口角を吊り上げ浮かべる笑み。
『みぃつけた』
それは確かにこう言った。
酷く雑音混じりで不鮮明な音で気味悪く。
眼球が収まっているはずの眼窩は暗く、深い闇が広がっているかのように真っ黒で。
向こう側が透けて見える何なのか分からない異質な物が、彼の腕を取り込むようにして自分の腕を搦めていく。
その後、彼は大怪我を負うことになる。ゲームの途中で着地に失敗し、その時に取った体勢が悪かったせいで手首の骨を折り病院に搬送されることになってしまった。
その場所はあの紙に触れた方の腕で、救急車に乗せられる彼の横で、それは満足そうに嗤いながら寄り添って居た。
ねぇ、知ってる?
白い紙はね、『呼び寄せ』のためのものなんだよ。
それがこの場所に出てこられるようになるまで、何度も何度も現れるんだって。
でね、『呼び寄せ』が終わると、今度は紙の色が変わるんだってさ。
紙の色は白から青に徐々に変わっていくんだって。
で、完全に青に変わってしまうと、必ず不幸が起こるんだって。
何故なら、その紙が『白い者』と繋がる目印になっちゃうからって話だよ。
え? 何でそんなことをするのかって?
さぁ? そんなことは分からないよ。
だってこれ、噂じゃん?
何のためにそれをするのか何て、やった人にしか分かんないじゃん。
もしかしたら気に入らない奴に悪戯するためかも知れないし、嫌な奴に復讐すためかもしれないし。
まぁ、どっちにしても、『呼び寄せ』が終わっちゃったら、ホントにやばいことになるって話だよ。
だからさぁ、気をつけてよね。
『青い紙』を見つけたとしても、絶対それに触っちゃ駄目。
それに触ったり拾ったりしたら、『白い者』に目をつけられちゃうよ。
最悪ソイツに付きまとわれて、ずーっと嫌な思いをするかもしんないから。
そうなりたくないならさ、『青い紙』を見つけても無視するんだよ。
そうすれば、助かることができるはずだからさ。
多分、ね。
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