02

 そんな奇妙な紙事件なのだが、ある日を境にぴたりと起こらなくなってしまった。

 何がきっかけでその現象が収まったのか。それを知る人間なんて誰も居るはずもなく、それが止まったことに誰もが胸を撫で下ろす。

『無くなって良かった』。

 ただそれだけで、この話は呆気なく終わりを告げることとなる。そしていつの間にか、そんなことがあったことすら忘れてしまっていた。そうやって戻ってきた日常は実に穏やかに過ぎていく。笑えないほど退屈に。


「ねぇねぇ、こんな噂知ってる?」

 休憩時間に数人で集まった女生徒達の会話。渡真利の耳にそんな話が聞こえてきたのは、つい先ほどのことである。

「前に教室の入り口に、小さい紙が毎日落ちてた事があったじゃん」

 特に聞く気もなかったその会話だったのだが、噂好きな女子が直ぐ側の席で話しているのだ。嫌でも内容が耳に入って来てしまう。なるべく無関心を装いながらも机に突っ伏し寝たふりを決め込み、渡真利は黙って話が終わるのを待つ。噂好きなクラスメイトは、本当かどうかも分からない内容にきゃあきゃあと声を上げながら盛り上がっていた。

『……くだらねぇの』

 話の内容は大凡こんな感じだ。

 教室の入り口に落ちていた白い紙。あれは『知らせ』なのだと誰かが言う。何の知らせなのかと誰かが問えば、『呼び寄せ』の知らせだと誰かが答えた。

 内容は実に曖昧で、本当かどうかも怪しい限り。それでも盛り上がれる話題があることが楽しいのか、彼女たちは更に続きを話始める。

 呼び寄せに成功すると、あるものがそこに訪れるのだと誰かが言った。それは何だと誰かが問いかければ、それは『白い者』だと誰かが答える。呼び寄せが終わると再び紙が現れるらしいと他の誰かが付け加えた。

『……また、紙が現れる?』

 誰かがやったと勝手に思っている悪戯。それが漸く収束したというのに、またしても悪戯が繰り返されるということだろうか。ふと気になり、あたかも今起きたと言うように身体を起こすと、態とらしく欠伸を零しながら、渡真利は一度大きく背を伸ばす。溢れ出た涙を乱暴に拭いつつ向けた視線の先は、何度も教師が紙を見つけることとなった教壇側の出入り口付近だ。

「やっぱねぇじゃん」

 誰に言う訳でもなく、渡真利はそう呟く。もしあったら面白いだなんて。一瞬でもそんなことを思った自分が情けない。未だに噂話で盛り上がるクラスメイトに呆れながら、渡真利は窓の外へと視線を移す。憎たらしいほど晴れた空には、眩しい太陽が光り輝いていた。

 ぼうっと外を眺めていると突然耳に届く始業開始のベルの音。いつの間にか教師が教室に入ってきて、授業開始の号令をと指示を出している。現実へと引き戻された渡真利は、みんなの動きと合わせるように慌てて前を向き教科書を取り出し広げる。この時間の授業もあの日と同じ公民で、教師も同じくあの五十路過ぎの男性だった。

『今日は、あの雑誌の発売日だっけかなぁ』

 相変わらずワンパターンな授業スタイルは今日も変わる事はない。教師が一方的に内容を話し、テストに出すであろう部分を黒板に書き込んでいく。それを適当にメモに取りながら、授業が終わるまでをひたすら待つ。そうやって五十分を耐え抜けば、再びやってくるのは休憩時間だ。渡真利の手の中で廻るシャープペンシルと、広げられたノートの描かれた漫画のキャラクター。少しだけ以前と違う事があるとするならば、教科書の端に棒人間が動くパラパラ漫画が付け加えられていることと、落書きがコマ割をした漫画調にレベルアップしたことくらいだろう。

 小気味良い音を立てて黒板と触れ合うチョークは、筆圧が強い教師の手に寄って先端をどんどん削られていく。書くときの癖が有るのか、文字を書くリズムは一定で、時々強い音が混じり、手が止まる。手が止まれば底から暫くは教師の声が室内に響く。そんな感じで進んでいく授業風景。

「………と、このようになるわけだが……」

 いつもなら、最後の締めくくりには決まった文句を言って話を終わらせるはずの教師の声がくぐもり消える。何とも歯切れの悪い違和感に、ノートから顔を上げ教壇へと視線を向けると、教師は不思議そうに首を傾げながら何かを手に取り持ち上げた。

「何だね? これは」

 それは一枚の小さな紙だ。

「誰だね? この紙をここに置いたのは」

 突然起こった不可思議な現象に、反射的にそう口にしたのだろう。教師はその紙を持ち上げながら教室内に居る生徒全員に問いかける。

「誰も置いたりしてませんよー」

 真っ先にそう答えたのはお調子者の男子生徒だ。

「誰も席から立ったりしてませんし、近づいたら気付くでしょ?」

 その言葉に、何人かの生徒は「そうだ、そうだ」と頷いて見せる。

「先生が挟んだ紙なんじゃないですか?」

 教壇から近い席に座る眼鏡女子の生徒が、言いにくそうにそう答えると、教師は困ったように禿げ上がった頭を撫でながら「そうだったかなぁ……」と呟いた。

「まぁいい。授業を続けるぞ」

 結局、犯人は分からずじまいのまま。中断してしまった授業を再開させるべく教師は紙を置き黒板へと向かう。

「……青い……紙」

 その小さな違和感に、渡真利は妙な引っかかりを覚えて表情を歪める。

 先ほど教師の手の中にあった紙は、以前教室の入り口に落ちていたA7サイズと同じくらいの大きさをした小さなものだ。それほどじっくり見ていたわけではないため、正確なサイズまでは分からなかったが、何故かアレと同じような物だと言う事は分かる気がして妙な気持ちになる。

 ただ、以前とは異なる部分も存在はしていて、前は白かったはずの紙は、今は薄い青色に染まっていたような気がする。しかし何故、そんな紙が教師の手元に置かれていたのだろうか。

 確かに、教師が黒板に向かっている間、生徒達は自由気ままに動き回ることはあった。しかし、今日に限って珍しく、どの生徒も席から立った気配は無い。勿論、渡真利自身一人一人チェックをしていた訳ではないためハッキリそうだと断定が出来る訳では無いが、少なくとも教壇に近い席に居る生徒は誰一人として席を立っていないことは確かだった。

 紙の形状から考えるに、それは折られた形跡は一切無い。紙を遠くに飛ばすためにはそれなりの工夫が必要なため、距離の離れた場所から教壇にそれを乗せることは不可能だろう。だとしたら考えられる一番高い可能性は、教師が元々それを持ってこの教室にやってきたということ。

「何やってんだ、俺」

 ちょっとした推理ごっこをして思わず零した自嘲。簡単に終わってしまった謎解きは退屈を紛らわすには不十分で、余計な疲れだけを残して終わってしまう。

「ふわぁぁ……」

 壁に掛けられた時計を見ながら残りの時間をカウントしていた時だった。

「…………?」

 視界に捉えた奇妙な違和感。始めそれが何なのか分からず、渡真利は何度か瞬きをし首を左右に振る。眠気のせいで見た幻かと思ったのに、次に黒板へと視線を向けると、それは先ほどよりもハッキリと見える様になっていて驚いた。

「気のせい……だよ……な?」

 今度は作った拳で目を擦り、軽く頬を叩いてからもう一度黒板へと視線を向ける。

「…………」

 しかしそれは気のせいなどではなく、気の迷いだと思えば思うほど、よりハッキリとした輪郭を持ち存在を明確にしてしまうのだ。そうやってなんどか抵抗を繰り返すことで、それが何なのかを理解し渡真利は凍り付いた。

「……うそ……だろ……」

 それは一本の白い腕。長く細い腕が蛇のように上下に揺れている。

 本来ならば腕は身体に連結しているはずなのに、そこに身体というものは存在していない。代わりに壁にかけられた無機質な黒い板が、腕と身体の繋がりを遮るかの如くそこに在る。

「…………っ」

 何故か悟られてはいけないと渡真利は思う。片手で口元を覆うと、ゆっくりと視線を逸らし俯き繰り返す深呼吸。顔をあげることなく視線だけで前の状況を確認すれば、黒板から映えたその腕は、何かを探すように左右上下を行ったり来たりと繰り返していた。

「…………気付かねぇのかよ」

 腕の生えた黒板の前には、授業を進める男性教師の後ろ姿がある。彼はそれがそこに在ることに一切気が付いてる様子を見せず、淡々と説明した内容の詳細を黒板へと書きだし続けていた。時々白い腕と男性教師の手が重なるのだが、それでも彼はそれに気が付くことはない。それは、授業が終わるまで変わることなく続いていた。

「それじゃあ、本日の授業はここまでだ。次の授業までに、各自、予習をしてくるように」

 いつもと同じ決まり文句で締めくくられる本日の授業。未だに現れた白い腕は、何かを探すように黒板中を這い回り動き続けている。

「ありがとうございましたー」

 授業を行った教師に向かって定例句の様な挨拶を言い終わると、教師は教材を脇に抱え部屋から出て行くべく扉に手を掛けた。

「あっ、先生」

 そこで一度、教師は生徒に呼び止められる。

「落ちましたよ、コレ」

「ん?」

 拾い上げられたのは先ほどの小さな紙。

「ああ。どっから出てきたか分からない例のゴミか」

 教師にとってそれは要らないものだったのだろう。少しばかり迷惑そうな表情をみせつつも、一応は教師という立場上『要らない』と言い切る事も難しく、彼は渋々それを受け取り生徒に礼を言う。

「これは先生の方で処分しておく」

「あ。はい」

 そう言って生徒の手から教師の手へと青い紙が移動した瞬間だった。

「っっ!?」

 渡真利の目はそれをしっかり捉えてしまった。

「それじゃあ、また次の授業でな」

 そう言って教室から出て行く教師の後を追う様に、黒板から伸びた腕が彼の後を追い掛けるのを。

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