04

 再び開かれた襖の向こう側。矢張りその先にあるものは、ぽっかりと穴が開いたように広がる真っ黒な闇で。其処に足を踏み入れた途端に、吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚え思わず後ずさってしまう。

「大丈夫。姫御様は何もいたしませんわ」

 それでも相手は繰り返す。おいで、おいでと動く白い手。おいで、おいでと何度も何度も。ゆっくり、上下に揺れる。

「……仕方無いわ」

 結局は、この屋敷から出る為には一つずつ、提示された条件をクリアしていかないと駄目ということらしい。一度青鹿と目を合わせ、確認するように頷き会うと、私は開かれた襖の向こう側を確認すべく足を動かす。

 少しずつ迫り来る闇は何処までも深く、先の見えない不安が寄り一層大きく強く感じられ逃げ出したいと訴える。それを何とかねじ伏せて、距離を詰めていくこの屋敷の秘密。描かれた朱に近づいたところで漸く、その先にある闇の中には黒以外の色があることに気が付いた。

「……白い……何?」

 まさか。こんな所に人が居るの?

 思わずそんなことを考え、それはないと慌てて首を振る。幾ら何でも生活するには環境が悪すぎる。そうでなくとも、この部屋は普段は扉で閉ざされ南京錠で鍵を掛けられているようなのだ。とてもじゃないが人が生活出来る環境だとは考えられない。

「じゃあ、あれは何です……かね?」

「……分からないわよ、だって、良く見えないもの」

 あちら側とこちら側。その境界にある襖の前に立ち止めた足。其処までくると何となくその白いものの形がどういったものなのかが分かる。

「僕にはあれが、人の形をしている様にしか見えないんですけど」

 青鹿が言った言葉。それは私も同じように感じているもので、否定するのは難しかった。確かにそれは何となくだが人の形をしている様な気はしている。

「人形……かしら……」

 それでもそれを人だと認めたくないのは、この状況が余りにも異常だと感じているから。常識で考えればあり得ない光景に、それが真実だと認めたくないと意識がブレーキを掛けるからである。

「人形などではありませんよ」

「っっ!?」

 耳元で響く柔らかい声。驚いて声の方向へ視線を向けると、いつの間にか左斜め後ろに女性が立ち、口元を押さえながら小さく笑っていた。

「もっと近くで見ていらして」

 ふっと空気が揺れ、先に女性が奥の部屋へと足を進める。さぁ、こちらですよ。と差し出される白い手は、再びおいで、おいでと上下に揺れ私たちを誘っていた。

「姫御様が貴方方にお会いしたいと仰っているの」

 少しずつ離れていく燭台の明かり。それが部屋の奥へ奥へと向かう度に、こちらに残された光量は少なく不安を煽られる。このままだと背後から忍び寄る闇に囚われ抜け出せなくなってしまうのでは。そう思うと居ても立っても居られず、慌てて彼女を追うように脚を動かしてしまうのだから悔しくて仕方が無い。

 そうやって、結局相手の思い通りに連れてこられた部屋の中。

「なんでっ……」

 そこにあるモノが何なのか分かった瞬間、私は恐くて叫び出しそうになってしまった。

「この姿を見られるのも今だけですから、遠慮せずにそのフィルムに姿を収めて差し上げてくださいな」

 目の前にあるものは、一人の女性の姿。

 それは、人形などではなく、明らかに生物だと分かるもので。

 ただ、それがもう二度と動き出さないのだろうと言う事は何となく分かった。

「白木さん、これって……」

 目の前に居る彼女だったものは動きたくとも動けないのだろう。

 何故なら彼女は死に装束を身に纏っていたから。

 死化粧を施され真っ白な着物に包まれた彼女は、死者が纏う着物の袷でそこに在る。在ると表現したのは、彼女の姿がある場所がどう考えてもおかしいとしか表現出来ないからだ。

「壁の中に女性が埋まってるって、これ……あって良い事……なんです……か……」

 流石にこの異様な光景に向かってシャッターを切る勇気は無いのだろう。青鹿は持った一眼レフカメラを握りしめながらどうすればよいのか悩んでいる様子だ。

「普通に考えたら良いわけじゃないじゃない」

 そう。常識で考えればこんなこと、あって良いわけがない。ただ、この場所に措いて、自分たちの常識なんてものは通用しないという予感は確かにあった。閉塞的な村という環境で、昔から伝わる異様な風習というものがあり、それが長い間守られていたとするならば……そう考えると、その可能性は否定出来ないのも事実なのである。

「私たちの常識は、私たちの社会においてのルールにしか過ぎない。だから、今起こっている事を否定する権利は私たちにはないわ」

 あえてそれを口にしたのは、精一杯の強がりだった。否定してはいけないというのは、身に迫ると感じていた危険を回避するためのただの口実。だが、それが間違いではないことは直ぐに分かる。

「嗚呼、矢張り貴女は素晴らしい女性ね」

 嬉しそうに。そして楽しそうに口元を吊り上げる女性の目が綺麗な弧を描く。

「ほら、見て。姫御様も嬉しそうに嗤ってらっしゃるわ」

 ゆらり。ゆらりと揺れる焔。温かな光は闇と混じり、白く浮かび上がる女性だったものの顔を照らす。閉ざされた瞼に長い睫。すっと通る、形の良い鼻筋に、色の映える紅を引かれた薄い唇。

「…………まっ……て」

 気付きたくないと心が叫ぶ。

「白木さん……」

 青鹿の声も同じように震えていて。

「なんで、動いて……るん……です……か……」

 目の前の女性だったものの口が、ゆっくりと動き作る笑みという形。

「わかん……ない、わよ」

 それはとても穏やかなものなのに、底知れぬ恐怖を与えてくる。

「夢、見てるんです……かね……」

 これが夢であるならば、どれほど良かったと思う事だろう。

「確かめたいなら自分で自分を殴ってみなさいよ」

 それでも、感じているこの感覚が現実の延長にあることだけはしっかりと分かってしまうのだ。

「どう……すれば……」

 青鹿がそう言いかけた瞬間、背後から老人の大きな声が響き渡った。

「写真を撮れぇぇぇぇっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!」

振り返った視線の先。襖の向こう側には、仁王立ちで立つ老人の姿がある。

「早く写真を撮れ!! お前達はその為にここに来たんじゃろうがっっっ!!」

 気迫迫る勢いで求められる要求はたった一つで、この部屋で一番強い存在感を放つ女性の姿をフィルムに収めろと老人は繰り返している。

「何をやっとるか! 早く写真を撮れと言っているんじゃっっ!!」

「はっ、はいっ!!」

 老人に言われるがまま、勢いに負けた青鹿がカメラを構える。慌ててシャッターを切ったせいで、上手くフラッシュの設定が切り替わらず収められるデータは真っ黒なモノが数枚続く。

「姫御様を綺麗に撮るんじゃぞ!! 分かっているな!!」

「分かりましたっ! 分かりましたからっっっ!!」

 そう言って一度ファインダーから目を離し、カメラの設定を切り替えるべく背面のディスプレイを見ながら行うボタン操作。環境に置ける光量を自己判断しフラッシュが自動で切り替わるようにし、ナイトモードで撮影出来るように設定を変更してから、青鹿は再びシャッターを切る。暗い室内に一瞬だけ走る強い光。それが消えると直ぐさま、ストロボが起動する音が響き、再びシャッターボタンが動く音と共に閃光が走った。

「そうですよ。そう。沢山、姫御様のお姿を収めになって下さいね」

 光が部屋を満たす度、老人と女性は嬉しそうにそう繰り返す。

「……………………」

 朱い朱い華の海。その真ん中には、壁に身体の半分を埋めて塗り固められた女性の姿。死に装束を身に纏い、綺麗な死化粧を施されたそれは、嬉しそうに眼を細め、こちらに向かって微笑んでいる。

 彼女の口が言葉を紡ぐ。だがそれは、音というものになることはなく、私たちの耳には届かない。

 私はただ、その光景を黙って見ている事しか出来なかった。

 

 気が付いたら、広い座敷にぼうっと座っていた。

「お疲れになられましたでしょう?」

 目の前にはがっしりとした作りの座卓。隣には疲れた様子で項垂れる青鹿の姿がある。

「さぁ。どうぞ」

 そう言って差し出されたのは一杯のお茶と茶請けに乗せられた和菓子だ。

「あり……がとう、ございます」

 それに対して辛うじて、お礼の言葉を返すことはできたものの、何故かそれに口を付ける気は起こらなかった。それは青鹿も同じらしく、礼の代わりに小さく頭を下げただけで、目の前のものに手を付けることなく、ずっと下を向き顔を上げようとしない。

「そろそろ日も傾いてきましたねぇ」

 そう言われて視線を窓の外へと向ければ、少しずつ空が茜の色に染まり始めていた。

「どうでしょう? 遅くなりましたし、本日は泊まって行かれませんか?」

 客人に部屋を開放することもあると言っていたのだから、来客が訪れたときに客間を用意することは容易いのだろう。女性はさも当たり前の様に、私たちに宿泊することを勧めてきた。だが、私はその提案を断ることに決める。

「……いえ、明日も早いので……」

 例え帰り道が心許なくとも、この場所に滞在することだけは避けたいと。適当な理由を付け早くこの場から立ち去るために始めるた帰り支度。

「そう? それは残念なことですわ」

 意外なことに、彼女が私たちの事を引き留めることはないようだ。

「それじゃあ、玄関までお見送りいたします」

 座敷を出て廊下を歩き向かう玄関。訪れたときよりも随分と少なくなった外光の代わりに、室内灯の明るさが細長い空間を照らしている。切り取られた空間の中だけが明るい状態に、両端から迫り来る圧迫感を感じて酷く息苦い。漸く玄関まで戻ると、急いで靴を履き引き戸を潜る。

「っっ」

 冷えた外気が肌寒いと感じ、思わず両手で抱えた肩が震えた。

「それじゃあ、お邪魔しました」

 軽く頭を下げ礼を言ってから、足早に門を潜り駐めてあった車へと駆け寄る。

「また、いらしてくださいね」

 背後からは女性の穏やかな声。

「今度は、祭りの時期に合わせて来て下さいな。村がとても綺麗な時期です。取材も兼ねて是非」

 それに対しての返答は言葉としてのものではなく、曖昧な態度で頭を下げることで返し車へ乗り込む。既に運転席に座っていた青鹿は、私が助手席に収まった事を確認すると直ぐにエンジンを掛けギアを操作しアクセルを踏んだ。

「今日は、ありがとうございました」

 最後に一度だけ。お礼の言葉を言うと、私たちはこの屋敷を後にする。

 行きに通った道を反対に辿ると、丁度村の入り口で出会った男性とすれ違った。

「もう、帰るのかい?」

 彼は人の良さそうな笑顔で私たちにそう言葉をかける。

「ええ。明日も急ぎの仕事がありますので、この辺りで」

「そうか、そうか」

 そう言って気をつけてと言われる別れの言葉。少しだけその優しさに安堵を覚え、表情を和らげたときだった。

「…………朱……」

 男性の後ろにある色に気付き、私は顔を強張らせた。

「どうかしたのか?」

「い、いえ……」

 何でもないと首を振り、青鹿に車を出すよう合図を送る。彼は何も言わずその指示に従い、車を発進させた。

 暫くは無言のままドライブが続く。夜に降りる帳が茜を塗り替えていくにつれ、ヘッドライトの灯りで照らされた光が心許なく感じ気が滅入る。

 今日あったこと。見たもの、聞いたこと。あれは一体何だったのだろう。記憶を辿り情報を整理していくのだが、上手く理由付けが出来ずまとまらない。それに対して覚えたのは頭痛だ。

「……あれ、何だったんですかね……」

 沈黙に耐えられなくなったのか、青鹿が小さな声でそう呟いた。

「私が知りたいわよ」

「そうですよね」

 両端を木々に覆われ、蛇行している道はとても視界が悪い。早くこの場から逃げ出し明かりの灯る場所に出たいと願うのに、アクセルを踏み込み速度を上げることが恐いと感じるため、速度はいつも以上に低速で。唯一の救いは一人であの場所に訪れた訳では無かったということだろう。

「あれ、生きてる人間……だったんですか?」

「わかんない」

 こうやって言葉を交わせる相手が居るだけで、感じている恐怖が多少和らいでくれるから有り難いと感じてしまった。

「俺たち、どうやって、あの部屋から出たんすかね?」

「わかんない」

 鮮明に覚えている映像は突然ぶつ切れ、次の瞬間切り替わるスクリーンのように。先と後を繋ぐための記憶の一部が抜けてしまっている事に、どう説明を付ければ良いのか分からないと私は返事を返す。

「あれは全部夢だったとか?」

「それで片付けられるなら、それが一番楽で助かるわ」

 そうあって欲しいと願うのがお互いの本音だった。だが、未だに鼻の奥に残っている臭気が、あの場所に行ったという事実が現実であることを物語っている。

「ねぇ、青鹿」

「なんでしょう?」

 ヘッドライトで照らされた小さな空間を見つめながら私は静かに言葉を紡ぐ。

「貰った野菜、食べずに捨てなさいね」

 頂いたものを捨てるなんて罰当たりな、と。普段ならそう思うのだが、今回ばかりはそうする方が良いと思い口にした言葉。

「そうですね。そうでなくとも、アレを口にする勇気は僕にはありませんから」

 もしかしたら彼も見たのかも知れない。村を訪れたときには気が付かなかった、季節外れの赤い花の存在に。

「食べたら多分、捕まって逃げられなくなるわよ」

「はははっ。冗談きついッス。でも……それ、嘘に聞こえなくて辛い」

「そうね」

 空はすっかり紫から濃紺へ。気が付けば白い月と小さな星が輝いている。

「町まで、未だ暫くあるのよねぇ」

 終わりの見えない道。月が出ていることで、少しだけ周りが明るくなっていることは幸いだった。

「早く、見たいですよね。街の明かりを」

「そうね」

 今は喧しいと感じる雑踏がとても恋しくて仕方が無い。

「ねぇ。CD、かけてもいい?」

 そう言って私は青鹿のバッグを手繰り寄せると、中から適当に選んだCDケースを取り出す。

「デスメタですが大丈夫です?」

「気分を変えたいから。煩いくらいが丁度いいんじゃない?」

 吸い込まれていく薄いディスクは、書き込まれた情報を読み取る数秒間の沈黙の後に、ノイズ混じりの爆音をスピーカーから吐き出して車内を騒がしいものへと変えていく。

「……やっぱり煩いわね、コレ」

 そう文句は言ってはみたが、それを止める気は無い。

「外が静かすぎるんで、余計に煩く感じるだけですって」

 その騒がしさのお陰で、互いに笑いあうだけの余裕が戻ってたことに、私は漸く胸を撫で下ろすことが出来た。

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