03

 女性の話によると、この屋敷では度々不思議なことが起こるのは間違い無いと言うことだ。

 無くしたと思っていたものが、机の上に置かれていたり、誰も居ないはずの部屋から人の話し声が聞こえてきたり。廊下を走る子どもの足音や、離れで点いたり消えたりを繰り返す灯りなど。たった二人しか居ない屋敷では考えられない事は、数えればきりがない程上げられるのだと彼女は言う。

 ただ、それは何れも怖さというものを感じた事がなく、逆にどこかしら温かみがあり落ち着くものだと説明してくれた。

「私がこちらの家に嫁いできた時からずっとあるの。確かに初めはとても驚いたわ。でも、不思議なものね。長く付き合っていると、逆に愛おしさを感じてしまうのだもの」

 世間ではそれを座敷童と呼ぶのではないのかなど、野暮なことを考えはしたが口にすることなくメモに書き記す。

「それにね。泊まりに来たお客様からも、帰られて暫くしてから連絡を頂くことがあるの。良い事がありましたなんて」

「それじゃあ、やっぱり座敷童が居るんですか!」

「さあ? どうでしょうね」

 目で見えないモノは信じられない。そう言った類のものを真っ向から否定してかかる私としては、単なる偶然だろうとしか思えない話ではあるが、青鹿は目を輝かせてその話に食らいついている。

「来た人に良い事があるのなら、僕たちにもきっと何か御利益があるってことですよね!」

「どうだろう? 分からないわよ」

 運が良いのか悪いのかなんて、それを受けた人間がその時感じた事で判断するものだ。他人にとっての不幸でも、自分にとっては幸福である。逆もまた然り。呆れたように小さく息を吐けば、「白木さんは夢がない」と文句を言われてしまった。

「まぁ、座敷童と言うものが居るのかどうかは分かりませんが、不思議な事が起こるのはきっと、このお屋敷を守って下さる『姫(ヒ)御(ゴ)様』がいらっしゃるからじゃないかしら」

「姫御様?」

「ええ」

 そこで始めて耳にする単語に、私は思わず反応を返してしまった。

「それはどういったものなのでしょうか?」

 言った後でしまったと口を噤む。もしかしたら聞かれると拙い内容なのではないのかと。相手の顔色を窺うように反応を待っていると、たっぷりの沈黙の後で女性は静かに言葉を紡いだ。

「気に、なりますの?」

 次の瞬間、足元から背筋を通って全身を駆け上る寒気に私は目を見開いた。

「……え、……ええ」

「そう。そう、気になると仰るのね」

 さっきまではあんなにも柔らく温かな雰囲気を纏っていたはずの女性から感じたのは、無機質な違和感。

「興味を持って頂けてとても嬉しいわ」

 クスクスクス。

 まるでこの状況を楽しむかのように響く笑い声には抑揚が無く、それが恐くて仕方が無い。

「ならばこちらへ。今、丁度良いものをお見せ出来ると思いますから」

 そう言って女性は静かに歩き始める。

「白木さん? 行きますよ」

「え……ええ、分かってるわよ」

 彼女の後を追い青鹿も歩き始めたようだ。少しずつ私と二人の距離が開いていく事に感じた焦り。ここで置いて行かれたら帰れない。何故か本能的にそう感た私は、慌てて二人の後を追い掛ける。

「こちらですよ」

 奥へ、奥へ。彼女はどんどん足を進める。まるで迷宮に誘われるかの如く進み続ける長い廊下。同じような座敷が並んでいるせいか、途中で方向がよく分からなくなってしまった。

「随分歩くんですね」

 同じように感じたのだろうか。青鹿が不安そうに彼女に問いかける。

「余り人に見せる機会もありませんし、今から行く場所は屋敷でも一番奥にある場所ですから」

どれくらい歩いたのだろうか。

 携帯端末のディスプレイに表示された数字を見て、それが一日のうちの何時頃を差しているのかは分かっているはずだ。それなのにこの数字が、体感できる時という概念と上手く結びつかずに覚えてしまう不安。相変わらず同じような部屋が続いている。足を進める度、廊下もより複雑に入り組み始めているのは気のせいなのだろうか。そう言えば、ここに来るまでに何度か階段を下りたような気もしてはいるのだが、今が何階なのかを思い出すことが出来ない。

「……白木さん」

 隣を歩く青鹿も、同じように不安を感じているのだろう。明るかった声は随分と小さくなり、そこに多少の震えが混ざっていることに気が付いた。

「取りあえず、着いていくしかないわ」

 今、自分たちが置かれている状況。本能では既に、何か異様なものを感じ取っては居る。それでもここで帰るという選択肢は浮かばない。何故なら、それを選ぶと二度とこの屋敷から出られないと、そう思ってしまうからだ。

「彼女から離れたら、多分、ここから出られないと思う」

「そんな……」

「大丈夫。離れなければなんとかなるはず」

 変わる事のない速度で、軋みを上げる板の上をひたすら歩き続ける。奥に進めば進ほど、少しずつ失われていく明るさ。外光から蛍光灯、蛍光灯から白熱灯へ、そしてついには、不安定に揺れる蝋燭の灯りへと変わってしまっているのはいつからだろう。

「何か……もう……」

 こうなると視界も随分効きにくい。足元すらよく見えない程辺りが暗くなってしまった事に、ただ、ただ恐ろしさを覚える。不安定に揺れる灯りはこんなにも、人の不安を掻き立てるのかと。それなのに、目の前を歩く女性は速度を緩めることなく奥へと進んで行ってしまうのだ。

 そうして漸く辿り着いたのは大きな扉の前だった。

「こちらです」

 黒光りのする寄せ木の扉は、四隅と中央に黒ずんだ鉄の金具が嵌められているもので。無骨な黒鉄の閂に引っかけられた大きな南京錠は、今は肩側の扉にぶら下がっている。普段はこの扉が閉ざされており、この様に解放されることが珍しいのだということは、奥から漂う黴の匂いの強さで分かった。

「丁度主人がこの奥にいますの。どうぞ」

 そう言って誘われる向こう側。今立っている位置からは光量が足りず、奥の様子を伺い知ることは難しい。ただ、何か作業をしている様な音は先ほどから耳に届いていたため、女性の言う様にこの奥に誰かが居るのだと言うことは辛うじて分かる。

「そ……それじゃあ、お言葉に甘えて」

 知りたい気持ちと知りたくない気持ち。両方を天秤に掛けて傾いたのは知りたくないというものだった。それでも進むことを選ぶのは、見なければ帰さないという雰囲気に逆らえないから。私は重い足取りで目の前の扉を潜った。

 まずは私。その次に青鹿。最後に女性の順番で部屋に入ると、一度女性から立ち止まるように指示を出される。

「お待たせしました。こちらですわ」

 擦ったマッチの匂いが仄かに香ると、温かな赤色が暗い室内をぼんやりと照らす。彼女の手には小さな蝋燭台。その上で、真新しい蝋燭が静かに炎を揺らし辺りを明るくしている。

「さぁ、こちらへ」

 彼女から離れないように後を追いながら伺う室内の様子。

「……土塀……です……か?」

「ええ」

 この部屋に来るまでは、この屋敷の壁は確かに漆喰を用いたものもだったと記憶している。それが突然土塀へと変化したのには何か意味があるのだろうか。

「この部屋の壁は、特別ですのよ」

 その含みのある言い方で、何か意味があるのだと言う事は分かった。だが、それが何を意味するのかまでは分かる事はない。

「この先に行けば、その答えは分かると思いますわ」

 見透かされているのだろうか。ふと過ぎる疑問を口にする前に、彼女がそう呟いたことに驚き跳ねる肩。

「それは、私たちが見ても良い物なんでしょうか?」

 敢えてそう言葉にしたのは、出来ることなら知らずにこの家から出たいと思う気持ちの表れからだ。

「これを見せた事は今までありませんが、貴方たちでしたら大丈夫ですわ」

「何故?」

「だって、それを知るためにわざわざいらしたのでしょう? それに……」

 そこで一度、彼女は足を止め蝋燭台を高く掲げる。

「姫御様も歓迎していらっしゃるようだし」

「…………」

 心許ない灯りが高く掲げられたことで、少しだけ照らされる範囲が広くなる。それでも、目の前に広がるのは飲み込まれそうな闇で、何かが先にあるのだということがぼんやりと分かる程度。

「もう少しですわ。嗚呼、足元にはお気を付けてくださいね」

 相変わらず足下の冷たい床は、小さな軋みを上げ続けている。場所を移動する度、新しい板の部分に触れた皮膚を通して伝わる冷たさが嫌で仕方が無い。そこに触れた部分から体温を奪っているかのように感じられて泣きたくなってきた。

「この部屋ですわ」

「この部屋……」

 そう言って女性が立ち止まった先にあるのは、中途半端に閉ざされた真っ白な襖だった。

 まるで中を覗いてくれと言わんばかりに、丁度人の顔半分ほどの隙間が空けられた襖の向こう側。中から響くのは、規則正しく奏でられる耳に馴染まない音である。

「さあ、どうぞ」

 彼女が襖に手を掛け静かにそれを開いていく。音もなく少しずつ移動する目隠しが無くなれば、其処に何が在るのかが見える様になり思わず息を呑んで固まってしまった。

「あなた、お客様がいらっしゃったわよ」

 襖の向こうで一人の老人がひたすらに手を動かしている。

「おお。漸く来たか。良く来たな」

 あなたと呼ばれた老人は、作業の手を止めゆっくりと振り返ると、人の良さそうな笑顔でそれに応えた。

「これがあなた方が知りたいと願ったこの屋敷の秘密じゃよ。どうだ? 綺麗じゃろ?」

「……朱い……」

 部屋を充たすのは紅い色。それは、四方どの壁にもびっしりと敷き詰められ吐き気がするほど強烈な色彩を放っている。

「この朱がな、重要なんじゃ」

 そう言って、老人は練り合わせた土を鏝に絡ませ、紅を塗り固めるようにして被せていく。

「今年はとても良い色が出てくれてな。丁度壁も修繕しなければならんかったから、助かったわい」

 先ほどから聞こえていた音の正体は、この壁に土を塗り込む音だったようだ。一定のリズムで行ったり来たりを繰り返す鏝が、少しずつ壁の朱を消していく。

「この朱は……」

 そう言いかけてふと気が付く。

「……彼岸……花?」

 壁から剥がれた一輪のそれは、彼岸の時期に良く目にする特徴のあるもので。それが壁一面にびっしりと敷き詰められていると分かった瞬間、寒気に囚われ全身が震え出すのを止められなくなってしまった。

「ええ。そうですよ」

 それを特に気にする様子もなく、女性はさらりと言葉を返す。

「この花じゃないと姫御様は喜んでくれんのじゃ。姫御様はこの花が一番好きでなぁ」

 老人も手を動かしながらその言葉に何度も頷き言葉を続けた。

「この花が、一番姫御様を綺麗に見せてくれるんじゃよ。だから、こうやって壁を直すときは、丁寧にそれを塗り込んであげるんだわな」

 ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。

 それは何度も何度も往復を繰り返す。

 独特の臭気が立ちこめる空間は、気のせいだろうか、とても息苦しく感じて心地が悪い。

 目の前には目も眩むような朱。だが、その朱は混ぜられた土により少しずつ塗り固められ姿を消していく。

「ああ、そう言えば」

 突然止まる作業音。何かを思い出したように老人は呟くと、流れ出る汗を首にかけた手ぬぐいで拭いながら、振り返りこう呟く。

「どうせなら、アンタ方、姫御様の御姿も拝見されるかね?」

「……え?」

 突然の提案に思わず固まってしまったのは私だけではなかった様だ。興味よりも動揺が先に来てしまっているのだろう。普段なら「是非!」と声を高くして言いそうな青鹿の反応が随分と鈍い事に気が付き隣へと視線を移す。

「白木さん……」

 どうしましょう。彼は困った様に私を見ながら、表情だけでそう訴えていた。

「なぁに、遠慮するこたぁねぇぞ」

 次の瞬間、豪快な笑い声が空間に響く。

「妻もいっていたと思うが、姫御様はアンタ方の事に興味を持たれているようじゃて。特別にお会いしても良いと仰って下さっとる」

 こちらの返事など待つ気は無いらしい。老人は作業していた壁に背を向けると、燭台を持つ妻へと何やら指示を出す。

「分かりましたよ。それじゃあ、準備しますね」

 それに同意するかのように頷くと、彼女は持って居た燭台を老人に手渡し一度姿を消してしまった。

「ちょっ……待って下さい!」

 慌てて彼女を引き留めようと手を伸ばしたが、彼女が居たはずの空間には何も触れるものが無く、ただ指だけが空気を撫でる。

「大丈夫じゃよ。妻は何処にも行ったりはせん」

 私のその行動を面白そうに見ていた老人がそう言うと、背後でゆらりと灯りが揺れ、再び彼女が姿を現した。

「姫御様のいらっしゃる座敷は、こちらの蝋燭の灯りの方が綺麗に映えますの。さぁ、こちらですよ」

 彼女はそう言うと部屋の左側のに位置する壁に向かって歩き出す。

「待って! そこはか……べ……」

 言いかけた言葉を止めたのは、そこに襖があると気付いたからだった。

「くすくす。紛らわしくてごめんなさいね。こちら、普通に開くのですよ」

 全ての壁に彼岸花を埋め込んで赤く染め上げているのかと思っていたのだが、どうやらそれは間違っていたようだ。部屋の壁の部分にはその花を埋め、上から土で塗り固めているのに対し、襖の部分は元々彼岸花を模した模様が書き込まれているのだと言う事に始めて気が付く。

「……描かれた華……だったんです……ね」

「ええ。姫御様はこの花がとても大好きですから」

 何て紛らわしいことを。そんな悪態を心の中で吐きながら、私は胸を撫で下ろす。

「さぁ。どうぞ」

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