薔薇と死神
稲光颯太/ライト
薔薇と死神
薔薇と死神。死神と、薔薇。
死神とは死の神なので、死——つまり、遍く生命に平等に訪れるもの——を体現したような姿をしていなければならない。
世の中に描かれる死神には、寂しそうな顔をしたものや、あまつさえ人を嘲笑うかのように不敵に口角を上げているものもあるが、死という平等なものの神なのであれば、平等的に無表情でなくてはいけない。僕はそう思った。
そして死神は必ず、死後ではなくて死の前に姿を現し、死を迎える者にその宣告を行う。
それはなぜかと言うと、ほとんどの人が恐怖を持って迎える死という現象を、死の神の職務として可能な限り穏便に迎え入れてもらう為ではないだろうか。穏やかで、緩やかで、静粛に。ならばきっと、自殺者や事故で即死した人の前には姿を現さない。
でも、死を穏やかに受け入れてもらう為には一体どうすれば良いと言うのだろうか。死を魅力的に見せるというのはなかなかに難しいことだと思う。時間をかけて様々な生と死に触れてもらい、世界の仕組みとか命の神秘とかに言及する余裕があるなら死にも美しさが宿るかもしれないが、死ぬ直前で即効性を必要としているのならば、その人の人生で一番美しい姿を見せることが効果的なのではないだろうか。つまり死神をこれ以上ない程に美しい姿に見せるのだ。死を体現した神の姿がこの世の何よりも美しい。この上なく妥当なことのように思う。それぞれにとって一番美しい姿をしているのなら、それはもう平等ですらある。
僕のおばあちゃんは薔薇が何よりも大好きだったから、あの日は薔薇の姿をした死神が現れたんだろう。そして死神なんて存在をすんなりと受け入れてしまった僕だから、その姿を描く役割を任命されたのだろう。きっと、死神は平等的に無表情で、全ての人に等しく美しい姿をしている。僕はあの日、死神の本当の姿を知ったのだと、そういう風に思っている。
あの日、僕のおばあちゃんはベッドの上にいた。
僕の実家からおばあちゃんの家までは徒歩十分ほどの距離しかなくて、母は週に何度もおばあちゃんの家に行っては面倒を見ていた。僕と弟が幼い頃に離婚という形で母はシングルマザーとなっており、おばあちゃんがまだママと呼ばれていた頃におじいちゃんは亡くなってしまい、やはりおばあちゃんもシングルマザーとなっていた。そんな親子だったから特に仲が良かった訳だ。
物心ついた時から元気な姿しか見たことがなかったおばあちゃんだけど、四日ほど前から急に様々なことが億劫になったらしく、病院で見てもらってもどこにも異常は見つからないとのことで、それでも元気の出ないおばあちゃんはベッドの上から動くのも嫌だと言い、二ヶ月ぶりに僕はおばあちゃんの家に呼ばれていた。
僕はと言えば、絵描きというものを一応の肩書きとしていた。小、中、高とずっと野球部だったにも関わらず、もうお勉強はしたくないし絵を描くのは好きだしという理由で地元の冴えない美術系専門学校に通い、画家を生業に出来る程の実力と熱意はなく、しかしまともな会社勤めなどしたくないという理由で、実家暮らしコンビニのアルバイトで地元の知り合い相手にお金を貰って絵を描くという生活で二十四歳。絵描きと言っても嘘にはならないし、フリーターと呼ばれたら口を紡ぐしかないのが僕という人間だ。
「おばあちゃん、起きてる?」
そう僕はベッドの方に向かって問い掛け、半分寝てたようなおばあちゃんは身体を起こして迎え入れてくれた。寝室は空気が止まったまま静かで、もう昼前だというのにカーテンは閉じたままだった。「
「どうしたの、そんな疲れた感じで。カーテンくらい開ければ」
「あんまり眩しいのがどうも……ね。近頃どうしてか、お日様もずっとぎらぎらしてるようで嫌じゃない」
そう言ってカーテンを開けようとした僕をおばあちゃんは止めた。まだ五月で、昼前で、おまけに空は曇りがちだったのだが、おばあちゃんには充分に眩しいらしかった。僕は仕方なく部屋の電気を点けた。
「あんたらとお母さんの世話をしてたような頃には風邪もひいた事なかったのに、はあ、どうしたもんかねえ。歳って今さら言うようなもんじゃないけど、この間から急によ。なんか、何をするにもやる気が起きなくて、ご飯もろくに食べてなくて。あんたほら、お昼ご飯まだでしょ。冷蔵庫に昨日買った弁当があるからそれお食べ。おばあちゃんにはお茶注いどくれよ」
部屋の明かりを点けるとおばあちゃんはより白く細く見えたが、声はそれなりにしっかりとしているので僕は安心した。それでも記憶にないくらいに疲れた様子は気になり、とりあえず言われた通りにお茶を用意してそれから話を聞こうと思った。僕が呼ばれたのは絵を描いてほしいという理由で、描くのはおばあちゃんの肖像画だった。
「やっぱり、自分の最期みたいなものを意識し始めると、どうしても何もしないままって訳にもいかなくてねえ。ほらあの、終活ってのはさ、それなりに考えたりもしてね、あんたらへの財産のことくらいはちゃんとやったから。それでまあ孫がせっかく絵を描くんだから、遺影代わりの肖像画でも描いてもらいなさいって、あのすぐ近くの松方さんが言うもんだから、あたしもまんざらじゃなくなってね」
お茶を注いだ後に肖像画の話をすると、おばあちゃんはそう説明してくれた。孫としては何をそんな、と冗談として笑い飛ばしたい気にもなる話ではあったが、実際に目の前の力無きおばあちゃんの様子を見ると冗談で片付けられない真実味があった。それでも僕は冗談の方向に持っていきたくなる。
「なんだよ、孫に遺影を描かせるって。ちょっと趣味悪いぜ。普通に肖像画でいいじゃん。十年後くらいに、ご先祖様の写真飾ってるところの隣にでも飾る用のやつ」
「ええ、あれ、おじいちゃんのだって遺影よ。お通夜の時に使ったんだから。古い写真の隣に最近の綺麗なカラー写真飾るのも、ちょっとあの人に悪いなあと思ってたから丁度いいわ。あんたほら、白黒だし」
僕が思っているよりも、そしてこの部屋の中の諦観的な空気よりも、おばあちゃんは明るく笑った。おじいちゃんの遺影はもう五十年も近い昔に撮られたものだから、当然色味も薄く褪せている感じだったが、僕の描く絵ならその横に並べても余り悪目立ちしないだろう、ということだった。今の時代はデジタルなら相当に鮮やかな色の絵も描けるし、アナログでも遥か昔から美しい色を
「まあ何でもいいから、美人に描いてちょうだいね」
おばあちゃんにとって肖像画などを描いてもらう経験は初めての事であるはずなのに、まるでその道で生きてきた人であるかのように綺麗な姿勢で窓の方を見て笑みを浮かべた。ここにきてようやく普段の元気の半分ほどを取り戻したおばあちゃんに、僕は正直なところ恥じらいもなく安堵した。まさか本気で死期が近いのだとは考えてなったが、それでも今までとは違うような、
おばあちゃんが先に描かれる準備を始めてしまったので、僕の方も描く準備を始めない訳にはいかなかった。準備と言ってもマルマンのスケッチブックを机の上に広げ、消しカスや鉛筆を削った時のゴミを捨てる用に折り紙のゴミ箱を用意する。下書き用に鉛筆をカッターで削り、消しゴムと、芯の細さの違う油性ボールペンを三本並べる。これで全部が終わりだった。五分もかからない。
「ちょっと、肖像画なんだからこっち向いてよ。横顔描いたって遺影にすら使えないし」
「ええ、いいのよこれで。おばあちゃんは横顔が一番美人だって、おじいちゃんに昔言われたんだから。正面見たって恥ずかしいし、依頼主の希望通りに描いてちょうだい」
僕は少し呆れながらも短い溜息をつき、これでこの絵を遺影としなくていい良い理由が見つかったと思うことにした。描き上げた後にこれじゃあ
カーテンも開いていないのに窓の方を向いて、まるで柔らかな日差しを受けているような顔でおばあちゃんは描かれるのを待っているので、日光を求める植物みたいだと思いながら僕は鉛筆を手に取った。家族ほどの身近な人を描くという気恥ずかしさを少しは覚える。だから、これは仕事なのだと、僕はプロで相手は顧客なのだと思い込み暗示をかけるようにして、下書き用の軽いタッチを意識しながら、おばあちゃんのほのめかす死などという冷たさを押し退けるようにして、ようやく肖像画の制作に取り掛かり始めた。
「あら」
おばあちゃんの輪郭を取って、目や鼻のアタリを付けたり髪の毛の形を整えている頃に、おばあちゃんはふと呟いた。僕は一度集中してしまえば他人の意思で作業を中断させられるのを嫌うタイプなので、絵を描いている最中はほとんどの問い掛けには生返事で返すことにしているのだけど、おばあちゃんは本当に何か意外な出来事を目にしたように驚いていたので、僕の方から何事かと尋ねてしまった。
「ああ、あら……そうなのね」
僕の問い掛けはおばあちゃんに届いていないようで、変なことを呟きながらカーテンの方を見て視線を動かしていた。これでは立場が逆転してしまっていると感じつつも、僕はもう少し大きな声を掛けてみた。
「なに。ああ、いやちょっとねえ。何て言うの、ここにいるのよ。何かしらねえ、難しいけど……そう、きっと死神よ、これ。死神が来たんだわ。宗一、あんた見える?」
不思議な気分だった。日常生活に突然ミュージカルが紛れ込んでくるような、フラッシュモブのような、それも本当に何でもない日に行われるやつ。ドッキリというのが一番適切なのかもしれないけど、もちろんおばあちゃんはドッキリなんてしない。なんだこれとは思いつつ、コーヒー豆を噛んだ時のような苦い顔をしながらも、僕はおばあちゃんの言うカーテンの方に視線を移した。もちろんそこには何も存在などしていない。敢えて言うなら空気や空間とか、カーテンが存在しているというひねくれた言い方をしてもいい。でも、「なにも」と正直に一言だけ答えて、何だか不思議な雰囲気のおばあちゃんに視線を戻した。おばあちゃんは相変わらずその空間を見つめていた。
「えええ、まさか噂には聞いてたけど、あたしんところに来るなんてねえ。家は仏教なのに。ねえ宗一、死神には宗教とか関係ないのかしらね」
「え、さあ、どうだろ……」
おばあちゃんのほとんど自然な態度を見ていると、僕の感情は不審や驚きから不安に変化した。まさかこんな風な冗談を真剣な顔で言い始める人ではないし、かと言って冗談でないなら死神なんて恐ろしいものは現れないでほしい。もしも死期を意識して錯乱し始めたのなら
「えっと、死神ね……。なんか、ガイコツが黒いマント被って鎌でも持ってんの?」
「え、そんな怪しい姿してないわよ。もう、何かしら、美しいの。美しい姿をしているわ……。あんたにはわからないかもしれないけど、なんてねえ、美しくて……。そう、きっとこうやってあたしたちを誘ってるんでしょうね、あんたもう死ぬのよって、おいでなさいって。蝶々みたいだわ。ああそうよ宗一、肖像画はもういいから、死神の絵を描きなさいよ」
「はい?」
「死神を、そう、死神の肖像画をね。丁度こっち正面向いてるし、おばあちゃんが言う通りに描くのよ。ほらページめくって」
こんなことは言いたくないけど、とうとうおばあちゃんもボケてきたのかと僕は思った。あれだけはっきりとしていたおばあちゃんが。そう思わざるを得ない程に突拍子もない展開だった。大学の友人から、祖父母がボケた時には自分の世界で生きてしまって、だからこっちとは上手くコミュニケーションが取れないのだという話を聞いていたのを思い出した。こちらの存在は認知していても彼らの世界では別の光景が広がっているから、飼い犬と孫の区別までつかなくなったと言っていた。正直、話を盛っているくらいに感じていたが、おばあちゃんの傍若無人な様子を見ているとあながち冗談と笑えないかもしれない。
「ほらあ、何してんのよ。もう死神が来てんだから、時間ないのよ」
まるでお出かけに呼んだタクシーを待たせているようなおばあちゃんの言葉に、微妙な違和感は残しつつも、僕は意外なことに納得を覚えている気分だった。自分にプロとしての暗示をかけていたからかもしれない。お客は自分の肖像画を描いてもらおうとしたが、その最中に死神が来てしまったのでそちらに変更することにした。死神が来ているということは死期が近い。死神が他人に見えないのであれば、自分がその姿を伝えるしかない。そして自分にはもう時間がないので、死神を描くことのできる時間も残り僅かとなる。ならば急がなければならない。理路整然としていて、おかしいと思ったこっちがおかしいようにすら思えてくるようだった。半分は無意識にページをめくって鉛筆を持つと、おばあちゃんは死神の姿をじっと見つめ始める。
なんだか、おばあちゃんはここ最近で一番に元気になったんじゃないかと思った。さっきまでの様子とは打って変わってハキハキとしている。健康的に汗をかいているようにすら見える。心なしか部屋も明るくなったように感じる。カーテンは未だに開かれていなかった。しかし、そのすぐ手前には死神がいるという。何だろう、何もない普通の日常って何だっけ、と僕はまるで自分が死の淵に立たされているような、でもそれはそれは落ち着いた気分でいるような、無理に言葉にしようとすればそういう風な状態になった。
「……死神は薔薇の姿をしているわ。ええ、あたしが薔薇を好きなのをわかって来てるんでしょうね。ほら、薔薇よ薔薇」
「え、薔薇が一本浮いてんの?」
「違う違う。もうたぁくさんの薔薇よ。それで、やっぱり人間の骨の形してんの。茎はなくて、赤と言うか白と言うか、黒っぽいような、でも黄色に近い花の色ね。それがたくさん集まって、人の骨なの」
正直なところおばあちゃんが何を言いたいのかなんて全くわからなかった。薔薇の花を人間のガイコツの形に並べるようだが、赤や黄色なんて言われても僕は色を塗れないし、おばあちゃんにはどのような色が見えているのかが見当も付かない説明だった。もしや、死神ってカラフルなのか。なんか嫌だ。
「上半身の、頭蓋骨から肋骨までね。それより下は見えないわ。頭と、首は七個の
おばあちゃんは大きな手振りでその様を僕に伝えようとし、ベッドから動かない老人とは程遠い身軽さを見せてくれた。やけに専門的な言葉を知っている。つまり肋骨はあるけど、前の軟骨部分はないのか、と僕は自分の身体を触って確かめてみながら、おばあちゃんの元気な様子に少し嬉しくなってきた。死神とか言ってはいるが、こんなに元気を取り戻したのなら当分は大丈夫だろうと、すっかり安堵する。
これでも一応は美術系の専門学校に通ったので、人体をより上手く描く為に筋肉や人骨のデッサンはしたことがある。僕にとってはかなり興味深い領域の学びで、それなりに筋肉の形や骨の位置は覚えることができた。とりあえず頭骨の大まかな形をとって、首を含めて十九本の脊柱を測り、肋骨の位置に線を引いた。なるべく早く、筆圧は薄くやっていたのだが、おばあちゃんには僕の様子が気に入らないらしかった。
「ちょっと何してんの。時間ないって言ってんだから、下書きなんてやってる場合じゃないよ。あんたそんなもんがないと絵を描けないの?もう直接ボールペンで描き始めなさいって」
おばあちゃんは少し理不尽に、少しきつめの怒鳴り声で僕を叱った。僕や弟がこんな風におばあちゃんに叱られたのは、小学生の夏休みにこの家に泊りに来ていた時が最後で、弟の抜けた上の乳歯を屋根の上に投げてしまったからだと思う。上の歯は地面に埋めて下の歯は屋根の上に投げろと、そうしないと歯が丈夫に育たないので若くして入れ歯や差し歯になってしまうのだと、おばあちゃんは本気で心配してくれて想像以上に声色がシリアスだった。ちょっと本人も意外だったようで決まりが悪そうだった。
あの時に似たおばあちゃんの声色を聴くと、下書きを咎められた理不尽さよりも懐かしさの方が優位にきて、僕はすんなりとおばあちゃんの言うことを聞くことにした。一番ペン先の細いボールペンを手に取り、ちょっと薄く小さな薔薇を描いてみる。この部屋にはおばあちゃんが年がら年中いつでも薔薇を飾っていたので、僕はそれをチラチラ見ながら薔薇を描けば良かった。幸いなことに輪郭の線は取れていたので余り悩まずにどんどん薔薇を配置していった。色の事はもう気にせず、立体的に陰影を付けようと意識しながら薔薇でできたガイコツを描いていく。おばあちゃんは少し落ち着いて僕と死神の方を交互に眺めていた。
「……薔薇は何本くらい?」
何個も何個も薔薇を重ねていく内に僕は浸透する水のように集中力が高まってきたので、僕自身のペースで質問しながら描いていくことにした。しかし僕のおばあちゃんはもうおばあちゃんな訳で、ふとした小さな声の質問は一度で聞き取れない。「え?」と聞き返されるが僕のおばあちゃんなので特別に不問として質問を繰り返した。不思議な冷静さと穏やかさが二人ともを覆っているような気がした。
「何本って言っても、ねえ、それはもうたくさんよ。身体を薔薇で作ってるんだから、すごい数。あたしがこれまでに飾ってきた薔薇とどっちが多いかね。……あの真ん中にあるのはあの人がくれた……。あ、ちょっと見せて」
その時の僕はおばちゃんの忠実な絵描き人形のような気分で、自分の世界に入り込む手法をしているにも関わらず、小言や注文にいちいち応えた。僕がスケッチブックを持って見やすいようにおばあちゃんに近付けると、おばあちゃんはどこか嬉しそうに眺めて、「手とか足はないのよ。神様だし、浮いてるんだから」と訳のわからない付け足しをした。神様だって手足は欲しいだろう。でも僕は何も言わずに従って描くことにした。
「薔薇はねえ、とても綺麗よ。死神様は美しい姿で最期のお迎えに来てくれるのねえ。おじいちゃんがプロポーズの時に渡してくれて、それからいつも結婚記念日にプレゼントしてくれたわ。あれは十年も続かなかったけどねえ、事故で、あっさり……。お母さんも生まれたわねえ。一回は火事になりかけて、可愛いお弁当をねだられたけど上手く作れなくて、孫は二人も、男の子の喧嘩はとても怖くて……。そろそろ庭のトマトが食べ頃。あんたより先にお嫁さん連れてくるわ。娘は両親で育てきるといいけど……」
おばあちゃんの走馬灯のような、未来予知のような小声を、僕は音楽のように聴いていた。死神の形は大まかに把握できたので、ここからは口を開かずにひたすら指ばかり動かす時間だ。死神はまだそこにちゃんといるのだろうか、僕にもどうにか見えないものかと思いつつ、見たいと思う人も少ないだろうなと少しおかしくなった。ボールペンが机の上でゴリゴリ鳴る音が耳に触る。おばあちゃんの声はしない。
「腕はなくても、鎖骨は?肩甲骨とかは、ないの?」
「……ないわ」
「じゃあ他には?」
「そう……。少し、キラキラしてるわ。首の辺りや、胸の近く。心臓、頚動脈、下半身……。そうね、あれは死神の血管かしら。腕のようにも見えるわ。欠けてる部分にもしっかり血は流れているのよ。細くて、ピアノの線みたい。綺麗ね……」
おばあちゃんはキラキラした細い線だと言うので、僕はろくに考えもせずにフェザータッチで紙を幾度もなぞった。考えていないと言うよりは、だんだんとおばあちゃんの言わんとすることが言葉を飛び越えて伝わってくるような気分になって、ある程度はどう描けばいいのかわかってしまう感じだった。ゴリゴリゴリと薔薇を重ねて重ねた後に、サッサッサッと細い線を引く。意識的に引くというよりは、連続的に紙をペンでなぞってインクを落とせたものが線になっていく、そんな具合だった。
おばあちゃんがすっかり静かになってしまったので、これ以上の補足がないなら僕は絵だけを考えることにした。突如来訪した死神の肖像画という注文を、これまでの絵の依頼のどれよりもやりやすさを感じながら進めていった。十人が十人はフリーターと呼ぶ僕も、不自然なくらいに自然と大画家の貫録を身に付けている。死神の力だろうか。それともおばあちゃんの力なのだろうか。この部屋の静けさか、太陽を遮ってくれるカーテンの功績か、いつでも飾られている薔薇のおかげか。どれだって構わないけど、心地良かった。
とりあえず適当に薔薇を配置して、好きな位置に細い線を引いたので、ゆっくりと陰影を付けていくことにした。既に数えるのも億劫な程の薔薇を描いたが、おばあちゃんの「たくさん」の言い方にはこれ以上の薔薇を要求されていると感じた。一度描いた場所の上にも重ねるように薔薇を描いて、人骨の形が浮かぶように陰影を調整して、ずっと右手を動かし続ける。普段はこんなに集中できない。華奢な感じが出るように影を付けていって、明るい部分には手を加えずに。骨に表情などあるはずもないけど、神様ということだから超越して微笑んでいるくらいのことはできそうだが、死神ということなので僕は無表情のままで進めることにした。死は平等なのだろうし、平等であってほしい、最期だから。集中が波のように続く、最後だから。最後だから、最後、何が?
そう考えた時、不意に僕の集中は終わった。指が止まって、目の前の絵が無機物に戻った。様々なことを意識的に考えるようになってしまって、呼吸もわざとやって、烏が鳴いた。空が茜色になる時間だった。カーテンの隙間からオレンジ色が射し、いつの間にと思った。窓も開いてないのにカーテンが揺れた気がして、死神の存在を思い出し、おばあちゃんの方を向いた。おばあちゃんは目を閉じていた。
「…………」
もう、息はしていなかった。脈を測ろうとしたが、弱すぎてわからないのか、止まっているのか判断できずに、一度だけ強めに肩をゆすってみた。ああ、せっかく死神が来たというのに、僕はどうして絵なんて描いていたのだろうと思い、無意識的にカーテンを開いていた。
空は見事な夕焼けで満ちている。小学校の頃、夏休みに泊りに来ていた僕に、おばあちゃんはよくこの鮮やかな空を見せてくれた。なぜか弟には内緒で、空が晴れて遠い彼方でグラデーションができる度に僕に見せてくれた。そうか、こんなにも綺麗なら、頑張って色を塗ってみるのもいいのかもしれないな、と思う。カーテンを開いたのはこの景色を最後におばあちゃんと一緒に見る為だったのか、日光を求める植物みたいだと思ったおばあちゃんの為だったのか、死神が帰って行く道を開く為なのか、今でも僕はわからない。
おばあちゃんの通夜も葬式も終わって、ご先祖様が並んでいた場所には五年くらい前のおばあちゃんの写真が飾られた。遺影も同じものが使われた。
母は僕が肖像画を描いていたことを知っていたので、おばあちゃんと同じようにその絵を遺影にしようと提案されたが、まさか死神の絵を見せる訳にもいかないのでいろいろと言って誤魔化すことにした。その結果としておばあちゃんの最初にして最後の肖像画は行方不明扱いとなり、祖母と孫の秘密の絵という具合で母は了承してくれた。おばあちゃんの葬式には例を見ない程の薔薇の花が送られて、僕の前に現れる死神はどんな姿をしているのだろうと長いこと考えるきっかけとなった。姿を現してくれたら肖像画を描いてみるのもいい。おばあちゃんの薔薇と死神の絵は、今もあの部屋のベッドの下で眠っている。
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