第44話「エンジンと鼻血」


 【馬場櫻子】


 温泉合宿の二日目、わたし達は社長監督の元、様々な特訓に勤しんでいた。


――といっても、わたしは皆と違ってまだ初心者なので、そこまで難易度の高い事は要求されなかった。


「よいか櫻子、魔法を使うには当然魔力が必要じゃ。しかし魔力というのは常に垂れ流しにしておるわけではない。それゆえ体内に眠っておる魔力を解放しなければならんのじゃ」


「なるほど、よくわかりませんね」


「ふむ……例えるなら、車はガソリンが入っておっても、エンジンをかけんことには動かんじゃろ? そんな感じじゃ」


「……社長、まともな例え話とかできたんですね……あ痛っ!?」


 あまりの驚きについ口が滑ったけど、後悔する暇もなく社長のデコピンが炸裂した。このデコピン……しばらくオデコが腫れ上がるほど痛いのだ。


「……で、ひよっこ魔女が魔法発動で一番手こずるのはそこじゃ、そもそもエンジンの掛け方がわからんというな……その点お主は少し集中すれば魔力が始動しておるから、あとは始動までの時間を短くする訓練をひたすら行う」


「……なんか、合宿に来たのにやっぱり地味ですね……わたしの特訓」


 ヒリヒリと痛む額をさすりながら、わたしは小さくため息をついた。


「そう落ち込むでない。敵と遭遇した時に反射で魔力を始動出来んことには、即殺される事もあるからのう……それに地味な特訓にはせん、此方こなたが直々に敵役を買って出てやるゆえな」


「……え、ヴィヴィアンさんが……敵役ですか?」


 既にせっせとアキレス腱を伸ばしている社長。もしかしなくても、嫌な予感がしてきた。


「……今から此方と鬼ごっこじゃ。十数えたらお主を追いかけるゆえ、此方にデコピンされたくなければ、せいぜい黒羽で身を守るんじゃの」


「え、ちょ……そんな急に言われても……!?」


 そんな特殊な鬼ごっこ聞いたことがないし、追いつかれるたびにあのデコピンをされたのでは、頭蓋骨が陥没骨折しかねない。


 地味なのにはうんざりだったけど、こんなとんでもないデスゲームは歓迎できない。


「ほれいくぞ、一……二……」


「……ひいぃ、助けて誰かああっ!!」


 狼狽するわたしを尻目に、死へのカウントダウンが始まってしまった。わたしは離れたところで特訓している皆の方へ、助けを求めて走り出した。


「――おう櫻子、特訓頑張ってんなー! アタシら休憩がてら温泉街の茶屋でも行くけど、櫻子も一緒に行くかー!?」


 数十メートル先から、ヒカリちゃんの声が聞こえてきた。姿を確認しようと、わたしは声の方へ目を凝らした――


「……此方との鬼ごっこの最中によそ見とは余裕じゃのう、これは本気で追いかけても良いということじゃの?」


 いつの間に追いつかれたのか、社長が音も無く背後に忍び寄っていた。


「……いや、無理無理っ!! 無理ですから!!」


 迫りくる殺人デコピンを命からがら躱して、わたしは再び走り出した。もう何処に向かって走っているのか方向も分からない。


「――無理ならしょうがねえなー! でもしばらくいると思うから、後から来いよなー!」


 明後日の方向から再びヒカリちゃんの声が聞こえた。しかもどうやらわたしを置いて休憩に行ってしまうらしい。


「……ちょ、違う……その無理じゃなくて……」


「ほれ、魔力を始動せんと痛いぞ?」


「……っあ痛ったああああッ!?」


 本日二度目のデコピンが炸裂した。



* * *



 ヴィヴィアン社長のスパルタ指導の甲斐あってか、わたしはものの三十分ほどで魔力始動をマスターした。


 もはや社長が視界に入るだけで咄嗟に魔力を始動するレベルである。まあ魔力始動したところで魔法を使って防がなければ、結局はデコピンをくらうわけなのだが、始動状態でくらうのとそうでないのとでは、ダメージが雲泥の差だった。


 体内に魔力が通っているだけでも、基礎的な身体能力が爆発的に上がるようだ。これでわたしもオフィスビルの窓から出入りできるようになるかも知れない……まあ、エレベーターでいいけど。


「……あれ、もしかして道間違えたかな?」


 とりあえず特訓に一区切りついたわたしは、ヒカリちゃん達の後を追って温泉街の茶屋へ向かっているのだけど、考え事をしながら歩いていたせいか、いつの間にか随分と寂しい道を歩いていた。


 舗装された石畳みを道なりに歩いてきたけど、もしかしたら何処かで別れ道があったのかもしれない。


「……あ、もしかしてアレかな?」


 来た道を引き返そうかと思った時、建物の屋根が視界に入った。下り坂の下にあるようで、進むにつれて建物の全容が見えてくる。屋根の上には立派な風見鶏……妙に傾いているけどいいのだろうか。


「えーと、風見鶏ヴェッターハーン……か。お茶屋さんというか……喫茶店かな」


 建物の正面に回り、ドイツ語で書かれた看板を見る限りどうやら喫茶店か何からしい。少し気になるお店ではあるけど、やはり道を間違えていたようだ。


 走り回ったせいでかなり喉も渇いているし、お腹も空いているから後ろ髪を引かれる気持ちもあったけど、ヒカリちゃん達を待たせている。わたしは渋々踵を返した――


「むはぁ? オメー櫻子ちんじゃーん!」


 背後から唐突に聞こえた声。瞬時に声の主が頭に浮かんだ。この独特な話し方……おそらく先日会ったばかりの人だ。


「……あ、おはようございます……えっと、バブルガムさん?」


 振り返ると、案の定バブルガムさんが立っていた。先日、魔女協会で会ったときのような真っ黒なローブ姿ではなく、可愛い給仕服のようなものを着ている。


「むはぁ、ちゃんと私ちゃんの名前覚えてんじゃーん! 感心、感心……てかこんなとこで何してんの?」


「……えっと、ちょっと合宿で……バブルガムさんこそどうして此処に?」


 余りにも予想外のエンカウントに、つい聞かれるがまま答えてしまった。鴉とは出来るだけ関わらないようにとローズさんにも念を押されているし、適当に相手をして何とか逃げなければ。


「……むふぅ、合宿ってなんだ、まあ分かんねーことはいいや……んで、私ちゃんは見ての通り仕事中だ!」


「もしかして、このお店で働いているんですか?」


「むはぁ、もしかしなくても働いてるよぅ不本意ながらなー! 話せばなげーけど、まあコーヒーでも飲んでいきなよ!」


 ……これはよくない。会話の流れが不味い方向に進んできた。どうしてわたしときたらもっと上手いこと出来ないのか……


「……お、お言葉に甘えたいところですけど、実は人を待たしているので……またの機会にお邪魔しますね」


「むっはぁ、櫻子ちん! いい女ってのは人を待たせるもんなんだよー、いいから入った入った!」


 渾身のコミュニケーション能力を発揮して断ったのに、バブルガムさんは全く意味不明な理由でわたしを店に連れ込もうとする。


 ダメだ、この人はっきり言わないと伝わらないタイプの人だ!


「……っ、あの! わたしほんと急いでるんで……か、帰ります!」


「むはぁ……お前、私のコーヒーが飲めねぇのか?」


「……こ、こここ、コーヒー……飲みたい、です……」


 振り絞ったわたしの勇気が、バブルガムさんの怒気で吹き飛んだ。恐い、恐すぎる、なに今の低い声!? 助けてヒカリちゃん!!


「むはぁ、お客様一名ご案内だコラー!!」


 結局バブルガムさんに腕を引っ掴まれて、わたしは店の中へとズルズル連れてこられてしまった。


 こうなった以上もう大人しくコーヒーを飲んで早急に退散しよう……大丈夫、わたしはコーヒーを飲みにきただけ。何も恐いことは起こらない……はず!


「――珍しいね、バブルガムが仕事してる」


 震えながら店に入ると、何の気配もなく急に現れた青髪の女性が、バブルガムさんの髪を撫でながらそう言った。同じ制服を着ているから、店員なのは間違いないけど……なんだろう、なんだか妙に色っぽい人だな。


「むふぅ、触んな妊娠する!!」


「……あがッ!!」


「……えええ!?」


――急にバブルガムさんが、髪を触っていた女の人を殴り飛ばした。それもグーで。


 青髪の女性はホールをきりもみ回転しながら飛んでいき、壁際のテーブル席に激突した。激突の衝撃でテーブル席はおろか椅子までバラバラに壊れている。


「むはぁ、じゃあコーヒー淹れてくるからここ座ってまっててねー」


「……あ、あわ、あわわわ」


 前言撤回、この店コーヒー飲むだけでも死ぬかもしれない。


 それにしても、人間慌てふためくと本当にあわあわ言うものなのか。我ながら非常に情けない姿だ。


 正直こんな店今すぐにでも逃げ出したいところだが、困ったことに恐怖で足が動かない。


 わたしがテーブルの前で硬直している間に、先程飛んでいった青髪の人がガラガラとテーブルの残骸を払い除けて起き上がった。


「……大丈夫? 随分顔色が悪いけど」


 鼻血をダラダラ垂らした青髪さんが、通り過ぎ様にそう言った。


 こっちのセリフだよ……

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