第38話「マシュマロとブライダルフェア」
【辰守晴人】
――俺は巨大なマシュマロから逃げていた。
三龍軒でバイトして、休憩しながら櫻子とコーヒ飲んで喋って、店の掃除して龍奈に回し蹴りくらって……いつものように自分の家に帰ろうと歩いていたら、突如、巨大なマシュマロが現れたのだ。
迫りくるマシュマロから全力で逃げた。しかし距離はジリジリと縮まり、とうとう体当たりをくらって仰向けに転がった。
間髪入れずにマシュマロが俺を押しつぶしてきた。柔らかいから痛くは無いものの、顔に密着して呼吸が出来ない。
まずい、苦しい……息ができない! 酸素が、空気を吸いたい……死ぬっ!!
「……む、むむ、ぶはぁっ!!」
渾身の力で巨大マシュマロを押し退けようとしたところで、目が覚めた。
「……はぁ、はぁ、フー? なんだ、夢か……死ぬかと思った……はぁ、はぁ……」
どうやら現実でも息が止まっていたようで、肺が必死に酸素を取り入れようと全力稼働している。
酸素が脳に回るとともに、段々と意識が鮮明になってきた。それにつれて状況も掴めてくる。
俺の身体には浴衣のフーが凄い力でがっしりと絡み付いていて、どうやら俺の顔はさっきまで胸に埋まっていたらしい。
――いや、冷静に分析しとる場合か!!
「……ふ、フー!? おい、離せ! 何でこっちの布団で寝てるんだよ!!」
「……んん、もう朝なのぉ。まだ寝たいよぅ……」
昨日確かに別々の布団で寝たはずのフーが、何故俺の布団で、俺の身体に絡みついているのかは知らないが、とにかく引き離さなければならない。
なぜなら朝というものは、ただそれだけで、俺の意思とは全く関係なく、息子がライジングサンしたりするわけで、そんな状況でこんなに密着するのは非常にまずいのだ。スパーキングしかねないのだ。
しかし、引き剥がそうとする俺とは裏腹に、フーはまだ寝ぼけているのか、再び俺の頭を無理矢理マシュマロ渓谷へと誘った。
旅館の石鹸なのか、それとも女の子の身体の匂いなのか、妙に甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「……ん、んんんっ!?」
いや、甘い香りがどうとかレポしている場合ではなかった。再び俺は窒息死の危機に見舞われ、何とか抜け出そうともがく。
しかし、決死の足掻きもフーのホールドには敵わず、身体がもじもじと少し動く程度だ。
「……んん、湯煙殺人事件、違う……それは、こんにゃく……」
「……んんんん!!……んむ、んんん……」
真剣に窒息死しそうになり、全力でもがくもフーが起きる様子はない。なりふり構っていられなくなり、俺は何とか呼吸しようとマシュマロに顔を押し付けられたまま、口を開けて息を吸おうと試みた。
しかし、フーの絹のような肌が口に吸い付くばかりで、空気なんて微塵も吸えない。それでも尚、薄れゆく意識の中、口を開けて懸命に空気を吸おうと試みる。
――その時、口の中に何か妙な違和感を感じた。
意識が途切れる寸前、口の中に入ってきた何かを無意識に吸った。
「……あっ、ひゃんっ、んんっ!!」
一瞬フーの身体が強張ったかと思うと、ホールドが弱まった。
俺は飛び退くように、フーからゴロゴロと転がり離れると、仰向けになってヒューヒューと空気を吸った。
短時間で二度も窒息死しかけるとは、恐ろしいマシュマロだ……!
「……んん、あれ、ハレ何で一緒の布団で寝てるの? ん、……なんか、おっぱいが濡れてる」
仰向けのまま、声のする方へ何とか頭だけ向けると、むくりと布団の上に起き上がったフーがいた。
浴衣の前がはだけてマシュマロ山脈の頂がグーテンモーゲンしそうになっていたので、慌てて顔を逸らした。
「……フー、おはよう。とりあえす、ちゃんと服着てくれるか?」
「おはよう、何でハレそんなとこで寝てるの? 寝相悪いねぇ」
「……湯煙殺人事件の、第一被害者になるところだったよ……」
理由はよく分からないが、フーが力を緩めてくれなければ本当に危ないところだった。
とりあえず、今後は布団で寝るときは別々の部屋に敷いて寝よう。まじで死ぬ。
* * *
「――ブライダルフェア……ですか?」
朝食の後、中居さんがよければどうですかと、パンフレットをくれた。
何のこっちゃ聞き慣れない言葉だったけど、中居さん曰く、カップルで行けば楽しめるとのこと。
どうも結婚式で出てくる料理の試食が出来たり、模擬挙式とやらで写真が撮れたりするらしい。
全然知らなかったけど、この近くには有名なチャペルがあるらしく、そこでブライダルフェアをやっているらしいのだ。
しかも伊里江温泉と提携しているらしく、宿泊客は写真撮影も無料ということで、特に予定の無かった俺達は、促されるままチャペルへ向かっていた。
別にカップルと言われてまんざらでもない気分になっていたわけではない。断じてない。ほんと。
「ハレ、結婚式楽しみだね!」
「……一応言っとくけど、模擬だからな。まあ写真撮るだけだし、七五三みたいなもんなのかなぁ」
「ご飯も食べれるんだよね、魚かな、お肉かな?」
「……試食だから、そんなにがっつりは食べれないと思うぞ」
温泉街の石畳を進みながら、他愛の無い会話をする。俺があげたリボンが風邪に吹かれているのを見ると、なんだか少しこそばゆい気持ちになる。
「……そんなぁ、私もうお腹ペコペコだよ」
「さっき食べたばっかりだろ」
パンフレットに載っている地図を頼りに進んだ俺たちは、所狭しとお店が立ち並ぶエリアを抜けて、既に人気のない道を歩いている。さっきまでなら、饅頭なり何なり買えたのだが、チャペルまでの道には、もう店は無さそうだ。
「でも、お腹すいたよぅ」
「んー、でも地図見る限りもう店はなさそうなんだよ。チャペルまで我慢するしかないな」
「……ハレ、アレはお店じゃないの?」
フーに言われて道の先を見ると、下り坂の下に建物の屋根らしきものがチラリと見えた。
少し小走りに近づいていくと、やはり建物の屋根だった。屋根の上には立派な風見鶏が設置されていたが、若干傾いている。
随分いい加減な大工さんに建てられたらしい。
「フー、喫茶店みたいだ。ここで軽く食べていくか?」
「うん! 食べる食べる!」
最近できたばかりの店なのか、店の外観や看板は綺麗だった。看板には手書きなのか、可愛い字体で『Wetterhahn』と書いてあった。
『Wetterhahn』ね。なるほど、読めない。
「……ねぇ、ハレ。あの鴉、なんか傾いてるよ」
「ん、ああ、アレは風見鶏だから鴉じゃなくて鶏……いや、鴉だなアレ」
よく見ると屋根の上で風に吹かれて揺れている風見鶏は、風見鴉だった。途端に不気味な店に思えてきたけど、まあ喫茶店だし変に身構えることもないだろう。
――カラン、カラン……
店に入ると、ドアについていたベルが鳴り、奥から店員がやってきた。
「あ、あ、あの、い、いい、いらっしゃい、ませなの」
妙にぎこちない店員が出てきた。外国人なのか染めているのか、髪は真っ白で前髪がやけに長い。顔なんてほとんど見えない。本人はちゃんと前が見えているのか疑わしいレベルだ。
「あの、二人なんですけどモーニングとかってやってますか?」
「も、ももも、モーニングですね、や、やってます、なの」
緊張しているのか、辿々しい歩き方の前髪さんに案内されるまま、俺とフーは奥のテーブル席に腰掛けた。
「……お水とメニューです。お決まりになりましたらお申し付けください」
席に着くとすぐに、前髪さんの横から淡いブルーの髪の店員さんが現れた。言葉遣いは丁寧だが、顔は無表情で眠たそうな目をしている。
「……し、しし、失礼します……ひゃっ!?」
前髪さんがお辞儀をして去っていく間際、青髪さんが前髪さんのお尻を揉んだ。
前髪さんは凄い勢いで青髪さんの顔面にビンタを食らわせて、そのまま奥へ走り去って行った。
何が起きているのか全く分からず、残された青髪さんを見ていたら、青髪さんがこっちを向いて目があった。
「……ごゆっくり」
頬に赤い紅葉を作った青髪さんは、何故かドヤ顔で微笑んだ後、そろそろと店の奥へ消えて行った。
「……変な店だな」
「ハレ、私このマシュマロココアが飲みたい!」
「ま、マシュマロ……お、俺は普通にコーヒーでいいや」
もうしばらく、マシュマロは見たくないのだ。
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