第32話「コーヒーとタコ足」
【馬場櫻子】
魔獣は事務所から数キロ離れたオフィス街に出現した。巨大な翼をもつコウモリのような魔獣だった。
「おい、派遣の! ここは
ヴィヴィアンさんは、私たちよりも先に現場に到着していたエミリアさんに向かって叫んだ。
「私一人で問題ありません! 貴女達こそ邪魔しないで下さい!」
しかし、エミリアさんは聞く耳を持たず、再び魔獣に向き直った。魔獣が地面を強く蹴り、その勢いのまま低空飛行でエミリアさんに突っ込んでいく。
しかしエミリアさんは衝突する寸前に跳躍し、ふわりと魔獣を飛び越えて身を躱した。
「……っ!? なにを……」
――だが、空中のエミリアさんを赤黒い触手のようなものが捕らえた。予想外の方向からの攻撃に、エミリアさんはなすすべも無く、ぐるぐると触手に巻き取られていく。
「派遣じゃろうが何じゃろうが
触手の出元はヴィヴィアンさんだった。幼い外見には似合わない、タコの足のような気持ち悪い触手が腰のあたりから生えていて、エミリアさんを捕まえていた。
ヴィヴィアンさんはさっきまでと打って変わって言葉に怒気がこもっており、ただならぬ迫力があった。
「……わ、分かりました」
「うむ、分かればよい」
完全に
あの触手、一体どういう原理なのだろう。明らかに本体よりも触手の体積の方が大きいのに出たり入ったり、おぞましい魔法もあったものだ。
「お主ら、特別講習じゃ。目を離すでないぞ?」
ヴィヴィアンさんはエミリアさんがわたし達の隣に待機したのを確認すると、身体をこちらに向けたままそう言った。
しかし、背後からは再び魔獣が猛スピードでヴィヴィアンさんに迫っていた。
「一つ、戦闘中は相手から目を離してはならん」
しかし、魔獣の突進がヴィヴィアンさんに当たることはなかった。ヴィヴィアンさんはわたし達の方を向いたまま、片手を突き出し、さっきのタコ足で魔獣を絡め止めた。
今度の触手は突き出した腕から生えており、さらに信じ難いことに、腕には触手以外にも無数の目玉が付いていた。おそらくその目玉全てが、魔獣を捉えている。
「二つ、あらゆる可能性を想定し、常に警戒を怠ってはならん」
がんじがらめにされて身動きの取れない魔獣が、急に口を開けたかと思うと、物凄い勢いで炎が噴射された。
直撃だった。数秒間ヴィヴィアンさんは炎に飲まれて姿が見えなくなった。……が、魔獣が炎を吐くのをやめると、服に焦げ目すら付いていないヴィヴィアンさんの姿が現れた。
「三つ、相手の弱点を把握し、無駄無く動く」
魔獣を縛っていた触手が解けたかと思うと、その瞬間、破裂音と共に魔獣の頭部が消し飛んだ。
魔獣の身体が地面に崩れ落ちてからようやく、解いた触手で頭部を攻撃したのだと理解した。
まったく見えなかったが、うねる触手の先端から魔獣の血が滴っているからきっとそうなのだろう。
「四つ、最後まで気を抜かぬこと」
唖然とするわたし達を尻目に、懐からカードのようなものを取り出すと、地面に横たわる魔獣に向かって投げた。
その途端、魔獣の身体が青い炎に包まれた。普通の炎ではないのだろう、物凄い勢いで魔獣がボロボロと崩れて、炎が消えると地面には黒いシミしか残らなかった。
「まあざっとこんなもんかの、魔獣退治は時間との勝負じゃ。奴ら発生してからマナを取り込んで、どんどん強力になっていくからの」
スカートについた埃を払うヴィヴィアンさんは、やはりどこからどう見てもいたいけな幼女に見える。
しかし、たった今起こった事実が証明している。彼女がロードと呼ばれた
素人目に見ても、異次元の強さだった。
「ちなみに今、
ヴィヴィアンさんは真顔で言い切った。たった今、人間のだったものをその手で殺して焼き払ったというのに、彼女の赤い瞳には一切の後悔や曇りが感じられなかった。本心で言っているのだ。
「……ひどい」
エミリアさんが呟いた。咄嗟に口から溢れたのだろう、本人も言ってからギュッと唇を結んだ。
さっきまで複雑な目で地面のシミを見つめていたヒカリちゃんも、ヴィヴィアンさんを睨みつけていた。
「……ひどいときたか、ヒカリ、お主もそう思うか?」
ヴィヴィアンさんは猫のような大きな眼を細めて、ヒカリちゃんを見つめた。
「……このクズ野郎が、ぶん殴ってやりてぇよ」
強気な言葉だったけど、深い悲しみのこもった声だった。きっとヒカリちゃんは目の前で魔獣が殺されたことに悲しみを抱いている。……そしてきっと、これまで自分が殺した魔獣にも。
「……そうか。であれば、なればこそお主がその慈愛の心を持って魔獣を送ってやるがよい。
「……」
ヴィヴィアンさんは並んで待機していたわたし達の間を通り抜けて、事務所の方へ歩いて行った。
ヒカリちゃんは俯いていて、表情が窺えない。
「……そういえばヒカリ」
歩き去ろうとしていたヴィヴィアンさんが、立ち止まってそう言った。ヒカリちゃんは返事をするでもなく、俯いたままだ。
「お主がこれまで勝手に魔獣を退治した時、死者は一人も出ておらんそうじゃな。お主が、魔獣を人殺しにせずに死なせてやれたのじゃ。誇るがよいぞ」
それだけ言うと、ヴィヴィアンさんは再び踵を返して歩きはじめた。
ヒカリちゃんは返事をしなかったけど、足元の地面には、ぽたぽたと涙のシミが出来ていた。
* * *
「――あの、飲み物はコーヒーでいいですか? 一応リンゴジュースもありますけど」
「え~ビール以外も置いてあるん〜?」
「ドイツ人はビールしか飲まないと思っているんですか? だいたい私は未成年です」
「エミち~そんな怖い顔せんと~ジャパニーズジョークだし〜あ、ちなみに私リンゴジュースね〜」
「
「貴女はなんでそんなに育ちを知りたがるんですか……」
「アタシは水でいい」
「水ですね。炭酸はどうしますか?」
「え、なんだその質問。……普通の水で頼む」
「わたしはコーヒーを貰おうかな、ていうか、わたしも何か手伝うよ?」
「いえ、結構です。お客様は座っていてください」
「ご、ごめん……そうだよね。こんなわたしにキッチン触られたく無いよね、ほんとごめん、でしゃばって……」
「いや、別に誰もそんなことは……ええぇ――」
* * *
――今日は本来ならば学校に行く流れだったが、魔獣災害が発生した日は原則休校になるため、わたし達はヴィヴィアンさんと八熊さんが去った後しばし途方に暮れていた。
「ひ、ヒカリちゃん、大丈夫?」
しばらくの間地面にしゃがみ込んで泣いていたヒカリちゃんに、わたしは恐る恐る声をかけた。
魔獣災害の事後処理部隊の人たちが集まってきて騒がしくなって来たし、ぼちぼち移動しようという話が出たからだ。
「泣いてねぇし!」
「うぉっ!?」
あまりにも急に立ち上がって叫ぶから、つい野太い声でびっくりした。ていうか泣いてたじゃん。目の周り真っ赤だし……
「いいかお前ら! さっきのはアレだからな、花粉症だ! それも重度のな!」
ヒカリちゃんはカノンちゃんとカルタちゃんに向かってそう言った。言い訳が下手とかの次元を超越している。
「はいはい、花粉症ですわね」
「花粉症もう治ったんか~?」
二人は呆れたように、でも少し嬉しそうに微笑んだ。わたしだって同じ気持ちである。
「――あ、あの」
まだ聞きなれない声にわたし達四人が振り返ると、エミリアさんが立っていた。彼女はヴィヴィアンさん達について行くわけでもなく、この場に残っていたのだ。
「……なんだよ」
目の周りを真っ赤にしたヒカリちゃんが、エミリアさんを睨みつけた。正直そんな顔で凄んでも全然怖くない。むしろちょっと可愛い。ちょっとだけど。
「あの、私、さっきは貴女達に酷いことを言ってしまったから、その、一言謝りたくて……ごめんなさい」
「……な、何だよ急に、吐いた唾飲み込むようなこと言いやがって」
深々と頭を下げるエミリアさんに、酷く狼狽するヒカリちゃん。でもヒカリちゃんの気持ちも分かる。正直意外な展開だった。
「私、先祖返りの魔女で、七年間協会に隔離されていました。先日ようやく派遣任務で外に出られるようになったんです。だから、偉そうなこと言いましたけど、私も魔獣を殺したことなんてなくて、本当はすごく怖くて……でも、ちゃんとしないと、また、協会に、う、うぅ……」
エミリアさんはボロボロと大粒の涙を流して、それでもまだ続けた。
「そ、それで、凄く勇気を出して、覚悟を決めて、社長に会った、のに、私が今日から派遣されること、忘れてたし、ドアの前で待たされた時も、ひぐ、ちょっと忘れられてたし、ドア越しに聞こえる会話も、全然、緊張感とかなくて、なんか、腹が立っちゃって、あんな、こと、う、ひっく、ご、ごめんなさいいぃ、うわぁぁぁん……」
エミリアさんはとうとう天を仰いでわーわー泣き出してしまった。まさかこんな子だったとは、とても豪快に泣く女の子である。
「そっか~不安だったよね~もう大丈夫だよ、私がついてるかんね~」
あまりの泣きっぷりに固まっていたわたし達だったけど、なんとカルタちゃんがエミリアさんを優しく抱きしめた。あまつさえ頭をぽんぽんし始めた。誰だ、カルタちゃんにお金を握らせた奴は……!?
「私もさ~マミーが居なくなって、協会に預けられたこともあったけどさ~独りぼっちはさ、辛いもんね~」
どうやら、エミリアさんと過去の自分の境遇を重ねたみたいだった。つまりアレは心からの抱擁で、優しさ百パーセントの頭ぽんぽんというわけだ。なんかごめんカルタちゃん。
「ヒカリちゃん、こういう事情があったわけだし、許してあげようよ……え、泣いてるの?」
「ばか、花粉症だって言ってんだろ、うう……」
花粉症じゃないのは知っているけど、エミリアさんの境遇に同情して泣いているということでいいのか、それともカルタちゃんの方なのか、もしくは両方か……
なんにせよヒカリちゃん、結構涙もろいんだな。
「はいはい、事後処理部隊の方の邪魔になりますからとにかく移動しますわよ」
カノンちゃんがパンパンと手を叩いて呼びかけた。周りには随分と沢山の人が集まって来ている。確かに移動した方が良さそうだ。
「うわ~やばいよ、エミち~のギャン泣きまじきゃわ〜まじ尊いわ~」
「ほら、カルタちゃん、にやにやしてないでエミリアさん連れてきて。ヒカリちゃんも花粉症してないで行こ」
「泣いてないで行こ、みたいに言ってんじゃねぇ!」
今朝から大波乱の連続だったけど、ヒカリちゃんが元気になってよかった。なんだかんだ言っても、ヴィヴィアンさん優しかったし。
「で、カノンちゃん。どこに行くの?」
「そうですわね、学校はもう休校決定ですし、お店もしばらくは開店規制がかかるはず、どこか集まれる場所があれば……」
「あ、あの、私の、家でよければ、すぐそこですけど、ぐすん……」
朝とは一転、楽しそうにする三人を見ながら、キッチンから漂ってくるコーヒーの香ばしい香りに、わたしは胸を膨らませた。
ああ、今がずっと続けばいいのにな――
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