第6話「かかと落としと回し蹴り」
【辰守晴人】
台所の水場でよく洗った雑巾を、漂白剤入りの水が入ったバケツに放り込む。
バケツの中には、さっきまで着ていたシャツとズボンも入っている。
「くそ、なんでこんなことに」
「はあ? アンタが自分でまいた種でしょ」
声に驚いて振り返ると、さっき風呂場に行ったはずの龍奈がジトっとした目でこっちを睨んでいた。
「まあ、そうだな。あの子は?」
「もう全部洗い終わったとこよ、あの子が着てた服洗濯しなきゃだから、ハレ、アンタの服出しなさいよ」
「あー、服ね。わかった。」
「かわいそうだけど、パンツもアンタの汚いの履かせるしかないわね」
「全部新品出すわ! あと別に汚くねえし」
――俺がうっかり忘れていた
一時はとんでもない災害が来た、とも思ったが、今の状況を鑑みるに結果オーライというところだろう。
状況をなんとか説明した後は、龍奈が自分から『龍奈、この子お風呂に入れてくるから、さっさと片付けときなさいよね! バカハレ!』と言って少女を風呂に連れて行ってくれた。
俺はクローゼットから在庫してある新品のシャツとズボン、そしてパンツ(男は黙ってトランクス)を取り出して龍奈に渡した。
「ていうか、なんでアンタこんなにいっぱい新品の服が出てくるわけ? バカなの?」
「バカじゃねえよ、なんでもストックが無いと落ち着かないんだよ俺は! なんかあった時にストックしてたら安心だろ?」
「キモ! 石橋を叩いて回るアンタらしいわね!」
「キモくねえし『石橋を叩いて渡る』だからな! なんなんだよその狂人は!」
「だっから、細かいのよ! もういいわ、あと、使ってない上着とかあったら出しときなさいよね!」
そう言い捨てて、龍奈は再び風呂場の方へ消えていった。
それにしても石橋を叩きながらくるくる回る俺、想像すると猟奇的すぎるな。
しばらくすると、龍奈が女の子を引き連れて居間に戻ってきた。
俺が渡したシャツは七分丈だったが、少女が着ると丁度いいサイズになっていた。
全体的にダボついているのは仕方がない。
「悪いな龍奈、お前が来てくれなかったらどうなってたか」
「ふん! 地獄に畑ってね! まじ感謝しなさいよね!」
「うん、地獄に仏ね。何育ててんだよその畑」
「だっから! いっちいち! 細かいのよアンタァ! それよりも上着は出したの!?」
「おう、これな」
俺はクローゼットに吊るしてあったスカジャンを龍奈に放り投げた。
「は? ハレ、アンタ殺すわよ?」
「なんでだよ、情緒不安定にも程があんだろ」
「これ! 龍奈がアンタに買ってあげたやつじゃない!」
「いや、使ってない上着って言うから……」
「ハレ、アンタもう殺したから!」
「過去形!? 怖っ!」
龍奈は全身をわなわなと震わせ、両手でスカジャンを握りしめている。
あまりの迫力に龍奈の後ろにいた少女も、じりじりと離れていく。
「……なにそんなにキレてんだよ、あれ、つーかその服って買ったの? 確か家にあったけど誰も着ないからって……」
「……ッ! ふ、服ごときにうだうだ言うなんてバカのすることよ! ほら、フーもなに逃げてんのよ! こっち来なさい!」
龍奈は急に口をパクパクしだしたかと思ったら、特大のブーメランを投げ放ち、少女に無理やり上着を着せ始めた。
「……え、ていうかその子フーっていうの?」
「はあ? 知らないわよ! 自分でそう言ってたのよ!」
意外だ。さっきまで一向に会話が成り立つ気配が無かったのに、自分から名乗った?
「お風呂でシャワーかけながら名前聞いたら『フー、フー』って言ってたのよ! アンタも名前くらい聞いときなさいよね!」
「……へー」
きっとシャワーが熱かったんだろうなあ。
だが名前がないとやりづらいので、便宜上ひとまずはフーと呼ぶことにするか。
「俺は辰守晴人だ、あらためてよろしくな、フー」
「よろしくなー、はれとー、よろしくなー」
ブカブカのスカジャンを着たフーは身体を小さく揺らしながらニコニコしてそう言った。
「よろしくって、ハレ、アンタこの子ここで飼うつもりなの?」
「か、飼うって、お前はフーをなんだと思ってんだよ」
「……捨て猫?」
「おい、まじめに……」
「この子さ、ミナトから来たんじゃないの?」
急に落ち着いた声で龍奈がぽつりと言った。
「……ミナトって、根拠は?」
「外国人だし、ボロボロの服に、整った容姿、で腕にこれ」
龍奈はズボンのポケットからタグのようなものを取り出して見せた。
「なんだよそれ」
「フーの腕についてたわ、よくわかんないけど番号が印刷されてる」
俺の脳裏を嫌な想像が駆け巡る。
「噂通りなら、人身売買くらいするわよ。あそこの連中は」
「フーは外国から売られてきたってことか?」
「確信は無いけどね、それが一番納得いく話でしょ。で、どうすんのこの子?」
もし本当に、フーがどこかから売られてきた奴隷で、ミナトから逃げ出してきているんだとしたら、警察に引き渡しても、この子の身の安全は良くて五分五分程度じゃないだろうか。
俺の服を着てニコニコしているフーをしばらく見つめる。
「――俺が撒いた種だ。面倒見るよ」
今日出会ったばかりだし、素性もよく知れない謎の少女。けど一緒に鍋をつついた仲だし、今更放り出すことは出来ない。
龍奈には怒鳴られるかもしれないけど。
「……そう、じゃあ明日の朝また来るから出掛ける用意しときなさいよね!」
しかし、意外なことに龍奈は怒るどころか少し頬を緩めてそう言った。
「出掛けるって、どこに?」
「はあ? アンタね、フーちゃんの服とか日用品とか、一人で用意できるっての?」
「できなくは、ないんじゃねえの?」
「ふーん、買えるんだ? ブラジャー」
「……えっ!?」
「ふーん、そうなんだぁ。せっかく龍奈がついて行ってあげようと思ったのに、自分で買えるんだあ! ショーツとか! 生理用ひ……」
「何卒ご助力お願いします龍奈様っ!!」
俺は路地裏で殴り飛ばしたチビよりも素早く土下座した。
た、たしかに、それはハードルが高すぎる!
龍奈は床に深々と這いつくばる俺を、ふん、と仁王立ちで見下ろして言った。
「情けない人のためならばってね!」
「……いや『情けは人の為ならず』じゃね?」
龍奈のかかと落としが炸裂した。
* * *
「――ハレ! 龍奈様がきてやったわよ! いつまで寝てんの!?」
耳をつんざく怒鳴り声で、俺は爽やかな朝を迎えた。
「……お前、インターフォンのない国からきたの?」
「アンタ、大家の娘に向かってそんな口聞いていいと思ってんの? 家賃上げるわよ!」
龍奈はこの家の合鍵をブンブン指で回しながら恐ろしいことを言った。
「……お前の血は何色だよ」
「はあ? 可愛いピンクに決まってんじゃない!」
「いや赤であれ!!」
渾身のツッコミを入れたせいで完全に目が覚めてしまった。
ソファの脇に置いているスマートフォンで時間を確認する。
――午前四時三十分。
「え、怖。お前イカれてんの?」
「はあ? 死にたいの? 殺すわよ死ね!」
「会話が蛮族かよ」
とにかく目が覚めてしまったものは仕方ない。
俺はソファから身体を起こし、ググっと伸びをした。背中が痛い、ベッドの必要性を強く感じる。
「まったく、フーちゃんはとっくに起きてるみたいよ!」
「……冗談だろ? まだ四時半だぞ」
「じゃあ見てきなさいよ」
フーは昨夜、二階にある寝室に寝かせた。
この家にはベッドがあるのはその部屋だけで、俺は居間にあるソファを寝床にした。
したがって今叩き起こさればかりの俺は一階の居間にいる。
龍奈に促されて、階段を上がると途中から何やら音が聞こえてきた。
これは、寝室のテレビの音か?
どうやら音の正体はフーを寝かせた部屋に置いてあるテレビのようだ。
俺はつけた覚えはないから、いつからかは知らんがフーが勝手につけたんだろう。
「フー、入るぞー」
言葉が通じないのはわかっているが一応そう言ってノックをしてから扉を開けた。
「ん、ハレだー。こんにちはわー!」
「……」
――絶句した。
今確かに、フーが言葉を話した。
おうむ返しではない。昨日みたいな棒読みでもなく、正しいイントネーションで言葉を選んで話した。
「フー、お前言葉話せたのか?」
「んー、勉強したのよ? これで勉強したの」
やっぱり会話が出来ている。所々違和感はあるが、会話のキャッチボールは確かに成立している。
「ハレー、フーの話、変じゃないわけ?」
「あ、ああ全然変じゃないぞ、少なくとも龍奈よりはまともに会話が出来てる」
「は? アンタ今なんつった?」
振り返ると龍奈さんがいた。
「ハレがねー、龍奈よりフーの方がいいってー」
素晴らしい、たった一晩でこれだけの言語能力を身につけるなんて、あとは空気を読めたら完璧だ。
もちろん、龍奈の回し蹴りが俺の尻に炸裂した。
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