第四章「切り開かれた未来」
第142話「災厄」
北守城砦の前に、三十万もの帝国軍の軍勢が集結していた。
それに対し、王国軍がかき集められたのは二十五万。
他の国境線でも、対峙する帝国軍と王国軍の戦力比は似たようなものだ。
数でも質でも王国軍は劣っているが、城砦に籠もっての防衛戦ならば、なんとかできる……はずであった。
「おいおい、なんだありゃ!」
北守城砦の最前線で叫んだのは、オルハン将軍代理の副官であるヘルムだ。
地平線の彼方より現れたのは、
だがそれだけでは、
驚愕するしかないのは、群れの中央にそびえ立つ超巨大な
雲にも届こうかというその巨大さといい、足を踏み鳴らすだけで、街を一つ踏み潰しそうなその迫力といい、もはやその存在自体が常軌を逸していた。
その巨大な邪竜が身にまとう禍々しい瘴気は、昼間だというのにあたりが闇夜のように暗く覆われるほどだ。
漆黒の翼を纏い二本足で立つその姿は、もはや竜というよりも降臨した伝説の邪神そのものに見えた。
その恐ろしい形相は、世界を呪う憤怒に満ちている。
こんな化物に、人間が勝てるわけがない。
城砦の兵士たちは、みんな浮足だっている。
オルハンとて持ち場を離れて逃げ出したい気持ちでいっぱいだが、数万の兵を預かる将軍代理としての責任がある。
恐れを抑えて、決然と命じる。
「……ヘルム。前線の砦全てに伝令を送るぞ」
「前線に兵を集めて、防衛を強化するんですかい?」
「バカ、逆だ! あんな神話クラスの化物と戦える兵士が居るわけ無いだろ。あれはもう人間の手に負えるものじゃない。兵を下がらせるんだよ!」
「しかし、下がると言っても、どこに向かって逃げれば……」
それは、オルハンの方が聞きたいことだが。
「ともかく守りの固い本城まで全軍後退、急げよ!」
あんな巨大な化物相手に、城砦など何の役にも立たないとわかっているが、それでも兵の安心感が違うだろう。
こんな時に北守城砦の将軍代理を引き受けているなど、つくづく自分は付いてないなとオルハンは苦笑する。
しかし、自分にはこれまで何とか絶体絶命の危機を切り抜けて来た悪運の強さもある。
「また剣姫や、ケイン殿が来てくれればなあ……」
近頃、このあたりの地方で流行っている善神アルテナの首飾りを、オルハンも買い求めて身につけている。
神話クラスの化物を前にすれば、人はもう神に祈るしかない。
※※※
一方、アウストリア王国側の首脳部と最後の談判をしていたドラゴニア帝国皇帝ジークムントは高らかに笑った。
「フハハハハ! あれが、ジークフリートが呼び出した最強の
皇帝の傍らにいる老将ホルストは、とても付き合って笑う気にはなれなかった。
自分は、皇太子を守り切ることができなかったのだ。
「しかし、陛下。あの邪竜は、ジークフリート様を飲み込む形で出現しており……」
「戦力として使えれば細かいことはいい。これでドラゴニア帝国の勝ちは決した!」
息子が息子なら、親も親ということか。
力さえあれば、正義でも邪悪でも何でも構わないというのだ。
最強こそがドラゴニア帝国の国是であり、皇帝の血筋に生まれた者の定めであった。
剣姫アナストレアの嫁入りの話など、最初からただの時間稼ぎに過ぎない。
高らかに勝ち誇る皇帝ジークムントに、アウストリア王国国王ディートリヒが叫ぶ。
「皇帝ジークムント! あれは、悪しき
「ディートリヒ王よ。それがどうしたというのだ」
「ドラゴニア騎士団は、善き竜を駆り悪しき竜より人々を守るのが古来よりの役目のはず。その正義すら忘れたというのか」
「邪竜の洞穴に君臨していた
「クッ、魔女マヤの言っていたアルテナ同盟軍はまだなのか……」
王国とて、アナ姫の嫁入りの話が破綻したのはすでに知っている。
交渉を引き伸ばしながら、アルテナ同盟軍が動くのを待って時間稼ぎをしていたのだ。
しかし、もはや
国境線を越えて溢れ出した
天まで黒く染める勢いで、禍々しい瘴気が吹き上がった。
――ギィイイイイイイイイイイイ!
地の底から響くおぞましい絶叫と共に、
地走りする漆黒の闇に飲み込まれた北守城砦の砦が二つ、溶けるように崩れ落ち、立っていられないほどの激しい揺れが起こる。
荒れ狂う衝撃波が通った後には、古の森まで届くほどの大きな地割れができていた。
オルハン将軍代理の撤退指示がなければ、王国軍に大きな損害が出ていたところだ。
あまりの事態に震撼して総崩れになる王国軍であったが、驚いたのは皇帝ジークムントも同じだ。
「おい、ホルストどうなっておる。まだ攻撃の手はずはしておらんぞ」
皇帝とて、無駄に
戦争も外交の一手段。
これはあくまで王国側に圧倒的な力を見せつけ、帝国が世界の覇権を握るための外交である。
まだ宣戦の布告すら行われていない。両国の首脳は、交渉の席にいるのだ。
――ギィイイイイイイイイイイイ!
その皇帝の疑問にホルストが応える間もなく、再び地揺れが起こった。
膨れ上がった瘴気から、漆黒の衝撃波が幾度も放たれ、その一つは皇帝と国王が会談している地にも飛んできた。
これはもはや、無差別な破壊だ。
乱れ飛ぶ瘴気の渦に、王国軍はもとより帝国軍にすら被害が広がっている。
明らかに、
「ジークフリート様! どうか正気にお戻りください。こちらには皇帝陛下もおわすのですぞ!」
皇帝を守るように前に立ってそう叫ぶホルストに、再び漆黒の衝撃波が放たれる。
自らを飲み込まんばかりに広がっていく眼の前の闇を見て、これも殿下を止められなかった報いかと、ホルストは瞳を閉じた――
「大丈夫か、爺さん!」
「あなた方は……」
辛くも飛び込んだ魔女マヤと聖女セフィリアの防御魔法によって、
「ホルスト将軍。ジークフリートは封印されてた
まさか、ジークフリートがここまでやるとはマヤですら思わなかったのだ。
「その通りです。側仕えの私が至らぬばかりに、殿下があのような無残なお姿に」
「呪具を使いすぎて、意識まで邪神の呪いに取り込まれてしまったんか。あの黒い翼の悪魔が、軍神に愛された皇太子の成れの果てっちゅうのは哀れなもんやな」
大賢者ダナたちも、国王や皇帝のいる陣地を防御するために集結する。
「魔女マヤ、それに大賢者ダナ殿ら七賢者も、来てくれたのか!」
期待していた応援を得て、ディートリヒ王は嬉しそうに言った。
「戦争を止めなならんのや、陛下らを殺させるわけにもいかんしな」
「これで形勢逆転だな、皇帝ジークムントよ! そもそも、あれは皇太子が操っているのではなかったのか。何故、敵味方問わずに殺そうとするのだ」
ディートリヒ王にそう責められれば、皇帝ジークムントも言いよどむしかない。
「まさかこうなるとは余も……。力を取り込むのに失敗して、暴走しているのか。愚か者め!」
そうこうしている間に、ケインの率いるアルテナ同盟軍がやってきた。
剣姫アナストレアの薫陶を受けた獣人戦士隊や、冒険者たちはモンスターとの戦いには慣れていた。
恐れおののくだけの両軍の兵士たちとは違い、
そして、荒れ狂う
「何よそれぐらい! 私にもできるわよ!」
アナ姫がそんなことを叫びながら
すると神剣から光の帯が放たれ、ズババババと地割れが発生した。
どうやら、敵の攻撃を真似てみたらしい。
マヤが慌てて叫ぶ。
「アホか! 張り合ってそんな真似したら周りに被害が広がるやろが! 中和せい中和!」
アナ姫が辺り構わず暴れまわるので、マヤや七賢者たちは、外に漏れないように必死に魔法の防護壁を張った。
どっちが暴走してるのかわかったものではない。
――ギィイイイイイイイイイイイ!
深々と身体を斬られて、絶叫する
「図体ばっかりデカくたって!」
漆黒の両腕が、暴れまわるアナ姫に掴みかかろうとするが、刹那の速度で斬り飛ばされる。
哀れジークフリート。
全てを捧げた代償として邪神に迫るほどの力を手に入れても、まだ天然の最強にはかなわないのか。
そのままアナ姫がやたらめったら
「これで終わりよ!」
ジークフリートが死ねば、この化物も死ぬはず。
一瞬の躊躇もなく、ジークフリートを斬り捨てようとしたアナ姫だったが――
「なっ!」
その斬撃は、弾かれてしまう。
慌てて何度も神剣を振るうが、ジークフリートが身につけている
再び復活した無数の腕が、アナ姫を捕らえようと迫る。
それらを軽々と斬り飛ばしながらも、決め手に欠けるとアナ姫は舌打ちして距離を取った。
「フハハハ! よくやったぞジークフリート! 剣姫アナストレアにも負けぬ力ならば、やはり世界は我が帝国のものよ!」
この期に及んでもそんな妄言を吐く皇帝ジークムントに、マヤは吐き捨てるように叫ぶ。
「言っとる場合か、アホ皇帝! アナ姫にも止められない化物を作り出してしもたら、世界が終わるだけやろ!」
そこに
「あなたが、ジークフリートくんの父親か!」
ケインは、なんとそのまま老皇帝の襟元を掴んで、吊るし上げた。
状況が混乱しているということもあったが、皇帝の側近ですら咄嗟に動けぬほどの気迫だった。
ケインは、怒っていたのだ。
「き、貴様、皇帝に向かって」
「何故あんなになるまで、自分の子供を止めなかった!」
「……しれたことよ。ドラゴニア皇族に生まれた者は、最強の
「それでも人の親か!」
「親である前に、余はドラゴニア帝国の皇帝だ。子である前に、ジークフリートは皇太子なのだ。皇族としての務めが果たせぬならば、皇帝を継ぐ者としての資格がなかっただけの話よ」
「あなたにはあの叫びが、聞こえないのか。あれは苦しんで泣いている子供の声だ!」
――ギィイイイイイイイイイイイ!
世界を憎悪するような悪魔の叫びが、善神アルテナの加護に助けられてか、ケインにだけは助けを呼ぶように聞こえる。
「ジークフリートが、泣いているだと……」
「そうだ。父親なら、何故自分の子供の声がわからないんだ。皇帝だからって、自分の子をあんなふうになるまで追い詰めていいわけがない。何が神器だ、何が最強だ、子供は親の道具じゃないんだぞ!」
聖女セフィリアが、ケインに呼びかける。
「ケイン様!」
「わかっている。今から、俺たちはあなたの息子を助けに行く!」
ケインは皇帝にそう言い放つと、輝く
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