第107話「冥王アバドーン」
正体を暴かれた森の賢者、冥魔将アバドーンはつぶやく。
「魔女マヤ、それに聖女セフィリア……どうしてですか、あなたたちは剣姫アナストレアとシデ山にいたはずでは」
「そんなわけないやろ。アナ姫とテトラと一緒に行動してたのは、うちらの偽物や」
これだけアンデッドが湧き出していたのだ。
ネクロマンサーの冥魔将アバドーンが動いていたのは、もうとっくに察知済みだった。
マヤとセフィリアは監視の目があるのを承知の上で、テトラたちに自分たちの偽物を随伴させて、こっそりケインの近くで隠れていたのだ。
後は見ているだけで、まんまとアバドーンが尻尾を出したというわけだ。
ちなみに、テトラには事前に計画を話しておいたが、演技ができないアナ姫にしゃべるとバレてしまう可能性が高いので、彼女だけは蚊帳の外であった。
「め、冥魔将だと!?」
今の今まで、自分が協力してきたのが魔王軍の幹部だと知り、アーヴィンが驚愕する。
「魔王軍はもうありませんから、すでに魔将でもありません。そうですね、私のことは冥王アバドーンとでも呼んでください。どうぞ、以後お見知りおきを」
策が破れたというのに、アバドーンは余裕で会釈してみせる。
以前は辛うじて人間としての形を保っていたアバドーンだが、死ぬことによってさらに高い力を持つアンデッドの最高位リッチへと転生した。
画策した悪神復活の儀式が失敗し、その力が逆流したことも手伝って、アバドーンは冥王としてランクアップしている。
思わぬ副作用であったが、その状況を最大限に利用させてもらった。
「ふざけるな! 貴様は私を騙していたのだな! うっ……」
アバドーンに殴りかかろうとしたアーヴィンだったが、首から下げた赤い精霊石が妖しい輝きを放ち、アーヴィンが苦しげにうつむいてしまった。
明らかに異常な状況だ。
「アーヴィンに、一体何をした?」
ケインが尋ねるのを聞いて、アバドーンは楽しそうに呵々大笑する。
「クックックッ、私は何もしておりませんよ。全ては赤の精霊石の力に頼ろうとした、アーヴィン族長の自業自得といえます」
「赤の精霊石?」
アーヴィンの首から下げてるものか。
「赤の精霊石は、人の強い念に応えるのです。どうやらアーヴィン族長は、溜まりに溜まった善者ケインへの憎しみに加えて、騙した私への怒りでついに力に飲まれてしまったようですね」
赤の精霊石は、私欲のために力を使おうとすると暴走すると教えたはずなのにと、ほくそ笑む。
悪神を奉じるアバドーンにとって、人が堕ちていく様を見るのはこれ以上ない愉悦だ。
「グググッ、グガガガッ!」
正気を失ったアーヴィンは獣のように吠えた。
まるで獣魔化だ。
眼を赤く血走らせたアーヴィンは、口からよだれを垂らしながら牙を剥き出し、まるで獣のように憎きケインに爪を立てて襲いかかろうとする。
「させんで、
エルフの族長をいきなり殺してしまうわけにもいかない。
マヤは、呪縛系魔法を使って、アーヴィンの身体を取り押さえる。
「おや、やりますね万能の魔女。ですが、まだまだ駒はございますよ!」
続いて、魔人と化したモンジュラ将軍が現れる。
将軍が率いている兵士たちは、皆一様に目がうつろだ。
「やらせんわ、
強大な魔力を持つマヤは、出てきた敵全てを呪縛系魔法で押さえてみせた。
「モンジュラ将軍も、魔の力に操られているのか?」
ケインがそう尋ねたが、魔人化しているモンジュラ将軍は、他の者とは違い正気を保っていた。
「操られるだと! 俺はアバドーン殿の力を借りて、自らこの新しい力を受け入れたのだ。そこのエルフの族長も同じであろう。貴様が悪いのだケイン! 貴様さえいなければ、俺はこうはならなかった!」
「あなたは国を守る将軍ではなかったのか。魔人まで堕ちて、どうするつもりだ」
「黙れ! 貴様らのせいで、もはや国にも戻れぬこの身! 毒を食らわば皿までとはこのこと!」
「将軍、あなたは……」
眼を赤く血走らせ、身体を何倍にも膨れ上がらせていくモンジュラ将軍。
まさに、その姿は醜き化物となった。
「フハハハ、身体から力が満ち満ちてくるわ。こうなれば、魔人も悪くない。憎き貴様にも、女王ローリエにも、俺と同じ屈辱を味わわせてやる!」
モンジュラ将軍は、完全に悪に堕ちた。
ネクロマンサーであるアバドーンは、その心地よい音色を聞いて高らかに笑った。
彼はずっとこの手で、力の強いエルフや人間を魔人化して、新たな魔族に仕立て上げてきたのだ。
赤の精霊石や、赤の魔石を渡すときに、アバドーンが嘘偽りを言うことはない。
ちゃんと、私欲で使えば身の破滅を招く力だと教えている。
それなのにみんな、悪しき力に溺れてしまう。
当たり前だろう。
恨み、憎しみ、恐怖、敵意、蔑視、嫉妬、反感、
人の本質とは悪なのだ。
人は所詮、殺し合い、奪い合うが定めの悲しき生き物だ。
つけ入る心の隙間がない人間など、存在しない。
今はまだ心の一部が抵抗しているらしいアーヴィンも、すぐに悪へと堕ちるだろう。
そうして、元は古の森のエルフであった炎魔将ダルフリードのように、平然と祖国の森を焼き、同胞とて殺す悪しき魔人へと変貌するのだ。
きっと、アーヴィンも、すぐに心地よい音色を奏でるようになる。
「さあ善者ケイン、あなたの選択を見せてください。お優しいあなたは、運命に翻弄された哀れな人間どもを殺せるのでしょうか」
そうだ。
冥王アバドーンは、これが見たかったのだ。
最初から勝ち負けなどどうでもよかった。
思えば、アバドーンが悪神を崇拝するネクロマンサーとなってから、永劫とも思える長い年月が過ぎた。
アバドーンは、魔王軍でただひたすらに悪神復活のために全てを捧げてきた。
そんな中で現れた敵、善者ケイン。
その存在を知って、アバドーンは自分の過去を思い出していた。
遠い昔、古王国ドーマの敬虔な聖者であった、かつての自分にその姿を重ねる。
そして、だからこそわかる。
そんな善人面は、長くは続かないと。
人の本質が悪だと、いずれわかって絶望することだろう。
善者ケインなど、力も弱いし、取るに足らぬ存在。
そう思っていたのに、善神アルテナの力を授けられたケインは、蘇った悪神を抱きしめて浄化し、こともあろうか自らの愛娘としてしまう。
アバドーンは、それを知って身が引き裂かれるような衝撃を受けた。
とうに心など死に絶えたと思っていた自分に、これほどの激情が残っていたのかと驚いた程だ。
それは、アバドーンの全てを捧げてきた悪の価値観に、ゆらぎが生じたからか。
永劫のときを生き延び、自らの身体すら死霊と化して。
自らの滅びすら、もはやどうでもいいと思えるアバドーンも、善者ケインの存在だけはどうしても許せなかった。
悪神すら浄化する大いなる善意など認めてたまるものかと、だから汚してやるのだ!
「くっ、うちの
魔女マヤは、
聖女セフィリアが、聖なる祈りで冥王アバドーンの力を押さえ込もうとしてくるのだが、それでも無数に展開している
ここで解放するのは、もちろんケインへの復讐に燃えているモンジュラ将軍。
「さあ、もうこうなれば戦いは避けられない。決断するのです、善者ケイン!」
「ケインさん。すまんけど、うちが押さえきれん分は、しゃーない!」
ケインは、神剣である
今ならモンジュラ将軍とも戦える。
身を守るためには、悪と戦うしか無い。
くしくも、ここで冥王アバドーンと、魔女マヤは同じことを言ってしまう。
「俺は……」
モンジュラ将軍は、確かに悪人だ。
だが、それでも争い合うしか手段がないのだろうかと、ケインには迷いがあった。
「さあ、善者ケインよ、何を躊躇することがある。相手は極悪人ですよ! 殺さなければ、殺される! さっさと殺せ! 全員殺すのです!」
早く殺れと、冥王アバドーンは叫ぶ。
「ケイン。貴様は、俺に大人しく殺されりゃいいんだよぉ!」
目を赤く血走らせ、魔人と化したモンジュラ将軍が、剣を振りかぶってケインに襲いかかった。
上手く行った。
そうだ、これでいいとアバドーンは歓喜に包まれた。
戦いの中で、善者ケインはその手を血に染める。
襲いかかってきたモンジュラ将軍を殺し、そそのかされて操られているだけの同じ人間たちを殺し、エルフの国を守る気持ちが強すぎたがゆえに、悪へと堕ちてしまったアーヴィンを殺し……。
やがて善神に与えられたその力で、あらゆる悪を許さぬ独善の道へと堕す。
そして、それもまた一つの悪の形だ。
あるいは、優しさと弱さゆえに、そのまま悪の
どっちでもいいことだ。
もうそのときに、純粋な善者などという許されざる者は滅びているのだから!
冥王アバドーンの策謀が達成されようとした、そのときだった。
天空からドーン! と大きな音を立てて、何かが落ちてきた。
盛大に上がる砂煙。
その煙の中から、ニュッと赤髪の少女が姿をあらわす。
「な、なんだぁ!」
「それは私のセリフよ」
頭を斜めに傾けてすごんだモンジュラ将軍のその首に、剣姫アナストレアの断罪の神剣が、無造作に叩き込まれた。
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