第108話「善者の選択」
シュポンと、あっけない音を立てて、モンジュラ将軍の首が吹き飛んだ。
魔人化などしても、神速の剣姫の前では
剣姫アナストレアがやらかした場面特有の、シレッとした空気が流れる。
「アナ姫ェ、そりゃあかんやろ……」
ありがたい増援には違いないのだが、そりゃないだろうと魔女マヤの力が抜けてしまう。
思わず、
「えっ、なんで? 悪いやつは全員殺せばいいだけでしょ?」
いや、それをやるなら簡単だったのだ。
「待てやアナ姫! モンジュラ将軍はどうせ死罪確定やったからしゃーないけど、殺せばいいって空気ちゃうかったやん! ほら見てみい! 冥王アバドーンも、アンデッドやから表情わかりにくいけど、心なしかガックリしとるやん!」
アナ姫に空気を読めというのが無理なのだと知ってはいるが、
「クッ……」
余裕ぶっていた冥王アバドーンも、これには焦りを禁じ得なかった。
額にヌラリとしたものを感じる。
アンデッドでも、冷や汗をかくのかなどと言ってる場合ではない。
冥王アバドーンは、自分が滅ぼされることなど構わない。
むしろ死と滅びとは、常にともにあるアバドーンだ。
一矢報いる準備はしてあるのだから、むしろ滅ぼされるのは望むところだと言えるのだが。
せっかく善者ケインに断罪を迫ろうとしたのに、このままだと剣姫アナストレアが全員躊躇なく殺してしまう。
剣姫アナストレアが出てきた瞬間、全て台無しだった。
シデ山で足止めしたはずなのに……。
いや、距離はもう言うまい。
森の都といっても広いのに、なんで的確に自分たちがいる位置がわかるのだ。
なんて、はた迷惑な存在なのだ!
「状況がよくわかんないけど、こいつらが敵なのよね」
剣姫が迫り来る。
このままだと、アナ姫が全員たたっ斬ってグダグダに終わる。
しかし、それを止めたのはケインだった。
「アナストレアさん待って!」
「なに、ケイン?」
「ここは、俺に任せてくれ」
剣姫を押さえ、ケインが前に立ってくれて。
アバドーンは心底ホッとして、額の汗を拭く。
「ほ、ほほう。善者ケインは、これをどうするつもりですかね! 魔人に堕ちたものは戻りませんから、そこの剣姫の言うように殺すことをおすすめしますが……」
なんとか冥王らしい余裕ぶった態勢を、整え直した。
ケインは、こう言った。
「俺は、アーヴィンさんを信じるよ」
「信じるですと!? クックックッ、すでにこうして魔人化すらしている者の、何を信じるというのですか」
「彼の心を信じる。アーヴィンは、邪な誘惑になど負けないはずだと、精霊神ルルド様だってそう言っている……彼がどれほどこの国のために尽くしてきたか。短い付き合いでも、彼のことは見てきたつもりだ」
ケインが首に下げた、青の精霊石が光る。
アーヴィンは、これまでずっとエルフの国のために尽くしてきた。
その心情は部外者のケインにも伝わるほどで、だから彼はエルフの民にも慕われる指導者だった。
アバドーンは、内心で舌を巻く。
善者ケインは、自らを殺そうと怪物のような姿に変わったアーヴィンを、信じると言い切った。
しかし、心配はあるまい。
すでに、こうなったしまった者が正気に返ったケースなどない。
「いいでしょう。私は邪魔はしません。あなたがアーヴィンをなんとかできるなら、操られた兵士たちも解放してあげましょう」
剣姫を押さえてくれるなら、それぐらいのサービスはしていいぐらいだ。
自分の無力を悟り、挫折を味わうがいい善者ケイン!
冥王アバドーンですらも見守るなかで、ケインは
「グガガガッ! ゲイン、ぎさまが……」
ケインは、アーヴィンの憎しみにこもった視線を正面から受け止めた。
「君が俺を憎む気持ちは、わかるよ」
「グァァアア! わだじが、どんなおぼいで!」
アーヴィンは、エルフの国を守ろうとしたのだ。
ケインが、自分の大事なものを奪ったと思ったのだ。
それをケインにわかると言われて、アーヴィンはさらに激高する。
それに彼にとって、神経を逆なでされるようなものなのだろう。
おぞましい姿と化したアーヴィンが、さらに拘束されている手足を暴れさせる。
「ケイン様! どうかアーヴィンを許してやってください!」
エルフの女王ローリエが駆け寄る。
自らの手が傷つくのも恐れずに、化物のようになり禍々しい爪が伸びたアーヴィンの手を優しく握りしめる。
「アガッ、ローディエ……さ、ば」
シルヴィアもやってきて、アーヴィンのもう片方の手を、爪が突き刺さって血が出るのも構わずに握りしめて叱った。
「アーヴィン、あなたはエルフの国を守りたかったんじゃないの! そんな力に負けてどうするのよ!」
「シルヴィアさば……」
あれほど暴れていたアーヴィンが、おとなしくなる。
ハイエルフの姉妹を傷つけてはいけない。
ケインを憎む気持ちよりも、ずっと強いのは守りたい心だった。
「……これを君に返すよ。きっと、これが君の守りたかったものなのだろう。君の大事なものを、誰も君から取ったりはしない。だから正気に戻ってくれ、アーヴィン!」
ケインは、自分が預かっていた青の精霊石をアーヴィンの首にかけてあげた。
赤の精霊石と、青の精霊石が触れ合って、まばゆい光を発する。
その瞬間に、パリンと音を立てて赤の精霊石が粉々に砕け散った。
ケインの信じた通り、エルフの国を思うアーヴィンの善い心は、悪しき思いに打ち勝ったのだ。
「「アーヴィン!」」
ハイエルフの姉妹の声が重なる。
アーヴィンは、元の姿を取り戻して、そのままゆっくりと崩れ落ちた。
「まさかこんなことが、ありえない……」
これまでずっと、多くの人々を悪堕ちさせてきたアバドーンは、初めて見る光景に絶句する。
ここまで堕ちた者が再び正気を取り戻すなど、ありえなかった。
「アバドーン。もうこんなことはやめてくれないか」
悲しそうな目をしたケインは、アバドーンにもそう言う。
「冥王である私まで諭そうとするのですか、善者ケイン。それは、あまりに傲慢というものですよ」
「いや、俺は諭すつもりなんてない。お願いしてるだけだ」
ケインの飾りのない言葉に、アバドーンはなぜか
不死のアンデッドである自分が何を恐れているのか、自分でもよくわからない。
「……約束は約束。操られていた兵士たちは解放しましょう。あなたがアーヴィンを救ったことも認めましょう。しかし、私は絶対に善者など認めない!」
「俺は、自分のことを善者などと思ったことはないよ」
「なんですと?」
「アバドーン。あなたは、俺にモンジュラ将軍を殺させたがっていたみたいだけど、俺だって仕方なく他の冒険者を手に掛けたことならあるんだ」
そんなことなどさせなくても、ケインの手は汚れている。
おっさんになるまで、無垢に生きられる人間などいるはずもない。
「私のやったことは無駄だと言いたいのですか?」
「そうだよ。俺だって命を奪ったのだから、善人だなんてとてもいえないだろう」
「……そのとおりですよ! 罪のない人間など居るものか。欲にまみれ、奪い合い殺し合う。人の本質とは悪なんですよ!」
こうして冥王にまで堕ちたアバドーンも、かつては善性を信じる敬虔な聖者であった。
しかし、主神オーディアに仕える聖者として罪深き者を断罪し続けるうちに、罪がない者などいないと悟り、悪神を崇拝するネクロマンサーとなったのだ。
善人などどこにもいない、いてたまるものか。
アバドーンの人生は、それを証明するためのものだった。
「……俺はそうは思わない」
「どういうことです!」
「確かに人は罪深い……だが、その罪を許すことができるのも人だろう。悲しいことがなくならなくても、少なくしていくことはできるだろう」
ケインだって、罪の意識に苛まれたときに、それを許されたのだ。
心配そうにケインを気づかってくれた、ギルドの受付嬢のエレナさんを思い出す。
悪に堕ちかけたアーヴィンもそうだ。
ローリエとシルヴィアが、彼を許して呼び戻してくれた。
人が生きていくということは正しいだけではいられない。
ときには過ちも犯す。
それでも人は許し合い、支え合って生きていくのだ。
それが間違いなどとは、誰にも言わせない。
「人が罪深き存在であろうとも、過ちを許して善き者であり続けようとすることが、あなたの善ということですか。あなたと私は、どこまでも平行線でありつづけるようだ」
その善者ケインの在り方は、冥王アバドーンにはとても認められない。
だが、どちらの在り方も、間違いではないのか。
人の本質を悪の立場で追い続けたアバドーンにも、不思議とそう腑に落ちた。
こうして、対極的な二人の、最初で最後の対話は終わった。
「じゃあ、話は終わったみたいだから、さっさとアバドーンを殺し尽くすわね」
「アナ姫……少しは空気読もうや」
「えっ、なんで? こんなやつにまた復活されたら面倒だから、
「そりゃそうやけど、言い方ぁ!」
愛と正義のSランクパーティー『高所に咲く薔薇乙女団』のイメージを少しは考えてほしい。
楽しそうに断罪していては、どっちが悪役なのか、わかったものではない。
「それも、ちょっと待ってくれないか。聖女様、アバドーンを浄化できないだろうか」
ケインの言葉に、アナ姫やマヤも驚く。
進み出た聖女セフィリアが応える。
「アバドーンが受け入れれば、できないことはないかと思います」
「……ということだ。冥王アバドーン、俺はあなたを消滅させるのではなく、浄化したいと思う」
「一つ聞いてもよろしいですか」
「なんだろうか」
「私は、これまで多くの人間を魔人化してきました。その罪は、主神オーディアすら許しきれるものではないでしょう。なぜいまさら、この呪われし身にまで慈悲をかけようとするのです」
反発ではない。
ケインの言ってることが、アバドーンには純粋に理解できなかった。
「いまさらあなたを消滅させることに意味がないからだ。消滅させれば誰も救われないが、浄化すれば一人は救われることになる」
その一人とは、アバドーンのことを言っているのだ。
これが善者かと、もはや逆らう気も失せた。
「不死の
アバドーンは跪き、身を任せた。
「ケイン様、その
「わかった」
ケインは言われたとおりにすると、自分の神剣を手にとって、セフィリアと共に握り、アバドーンの身体に当てた。
とたんにアバドーンの肉体が崩れて、その悪しき魂も浄化されて薄くなっていく。
ケインの善行は、冥王アバドーンにすら勝ったのだ。
「善者ケイン。礼というわけではありませんが、最後に一つ忠告しておきましょう」
「なんだ」
「もし、私を力ずくで消滅させていれば、それをきっかけにして、あなたがノワと呼ぶ悪神様が、再びその力に目覚めるところだったのですよ」
「そうだったのか!」
冥王アバドーンとて、ただ滅ぼされるままなわけがなかった。
ちゃんと一矢報いる準備をしてあったのだ。
それが無駄になってしまったのだが、アバドーンは悪い気持ちはしなかった。
くしくも、アバドーンの予想を遥かに超えて浄化を選んだケインは、再び悪神の復活を阻止したことになる。
「長い年月悪神として奉じられた存在は、そう簡単に性質を変えるものではありません。これからも、その力を狙って付け狙う魔族はいることでしょう」
「それでもノワは、俺の娘だから。俺が……いや、俺だけじゃなく、みんなで守っていくよ」
ケインが一人で守るのではない。
子供の守り神として、ノワを善き存在にするために、セフィリアだって力を貸してくれている。
ケインがノワを守れば、ノワだってケインを助けてくれる。
そうやって、みんなで支え合って生きていくのだ。
「あなたならば、そうするのでしょうね。私をこうして浄化してみせたように、再び奇跡を起こすのかもしれない。その善者の選択がどういう結果を招くのか、楽しみにしていますよ……」
そんな呪いとも祝福ともつかぬ言葉を残して、冥王アバドーンは浄化されて消えていった。
「やったわ、さすがケインね!」
「……アナ姫、ほんとに話を聞いとったか? あのまま力ずくで消滅させとったら、危なかったって話やぞ」
どんなときも剣姫は相変わらずで、みんな笑うしかないのだった。
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