第38話「浄化」

「「今よケイン!」」


 しかし、ケインは剣を捨てて悪神を抱きしめた。


「ええー!」


 善神アルテナも、剣姫たちもみんな驚きに声を上げる。

 ケインは苦しそうに叫ぶ。


「違う、この子は……」


 ……ただの泣いている子供なんだ。

 ケインだけには、悪神の姿がそんな風に見えた。


 悪神はそもそも、悪しき神ではなかった。

 本来、神に善いも悪いもない。


 ケインとアルテナの純粋な思いが天に届いて、神像が善神アルテナになったように。

 この名も無き神は、シデ山に集まってきた悪意に飲まれて悪神となってしまっただけなのだ。


 その昔、邪悪なるモンスターたちは、シデ山の洞窟の奥に拾った神像を奉じた。

 人間への恨み辛みを、その像に託したのだ。


 ――あらゆるものを、滅ぼす悪しき神よ。この世に現れ、破滅をもたらし給え!


 そうして、名も無き神は悪をつかさどる黒き神となった。

 それをきっかけに、王国中の様々な悪意がシデ山へと徐々に集まり、悪神は力を増していった。


 そうして、幾度かの出現と封印を繰り返して、ここに純然たる悪として存在している。

 悪神はずっと一人だった。


 暗い洞窟の底で、自らに憎悪と呪いを吐きかけるおぞましい魔人やゴブリンシャーマンの姿しか見たことはなかった。

 悪神は、夜よりもなお深い洞穴の底で光を求めていた。


 しかし、悪神の手に触れるものはすべて、傷つき、腐れ、爛れ、脆くも崩れ落ちるのだ。

 現れるたびに殴られ、蹴られ、切り刻まれ、殺される。


 無限に繰り返される闘争と絶望。

 悪神は呪われたその黒い手で、荒れ狂う苦しみと悲しみのなかで、ただひたすらに光を求めていた。


「ケイン!」


 アルテナも叫ぶ。

 こうしてはいられない。


 悪神を抱きしめ続けるケインは、荒れ狂う悪神に背中を激しく叩かれ続けていた。

 いくら善神の力で強化されているとはいえ、ミスリルの鎧が悪神の凄まじい攻撃に耐えられるわけがない。


 その絶望の痛みは、魂をも傷つける、ただの人が受けるには耐え難いもの。

 剣に宿っていた善神アルテナが、ケインを守ろうとその身体に覆いかぶさる。


 ミスリルの鎧は脆くも崩れて、ケインの背中は黒く焼け爛れ、背骨は叩かれるたびにギシッと軋みを上げた。

 それでもケインは、悪神を抱きしめて放さなかった。


 ケインには、「助けて」と叫ぶ、悪神の悲痛な声が聞こえていたから。


「俺が助けてやる。だからもう鎮まれ、もうしなくて良いんだ!」

「もう、いいの……」


 誰にも届かなかった悪神の小さな声は、確かにケインには届いた。


「もういいんだよ! 誰も傷つけなくても、何も壊さなくてもいいんだ! 君は悪い神なんかじゃない!」


 悪神を抱きしめたケインは、荒れ狂うその絶望と痛みを苦しみをすべて飲み込んで、祈るように何度も悪神に優しく語りかけた。

 もういいんだと。


 神は、人に望まれて初めて、その存在の意味を持つ。


「ありがとう……」


 決して許されることなかった罪過が、救われることのなかった絶望が、優しさに包まれる。

 夜よりもなお暗き闇が小さくなり、温かい光に飲み込まれていく。


 純粋な悪そのものであったはずの神が、幼子が母を求めるようにケインにすがっていた。

 人ならぬその身を震わせて、虚空の瞳から瘴気がこぼれていく。


 その姿は、ケイン以外の人の目にもまるで泣いている子供のように見えた。


「悪神が、浄化されていきます」


 聖女セフィリアは、祈りを捧げながら驚いていた。

 これまで、長い歴史の中で多くの勇者が悪神を倒して封印してきた。


 しかし、その心に触れて救おうとする者などいなかった。

 当たり前だ。


 悪神は、呪わしき存在、忌まわしき者だと昔から決まっているのだから。

 だが、ケインは違った。


 悪神の心に深く触れて、その呪われた身を抱きしめて救おうとしてみせた。

 なんという深い慈悲、なんという深い優しさ。


「ケイン様こそが、まさしく善者です」


 セフィリアは、こらえきれずに碧い瞳から涙を流す。

 その目の前で奇跡が起こっていた。


 決して消えることのない悪神のまとう深い闇が、その力を失い薄れていく。

 そうして、善者ケインを守り、神の力を与えていた善神アルテナの力もまた消えていく。


「ケイン、待ってるから」


 アルテナの優しい声。

 透き通るようにその存在が消えかかったアルテナは、そっとケインに口づけする。


「ああ、アルテナ。俺たちは、いつも一緒だ」


 その姿、その声を、忘れない。

 心で思っていれば、たとえ離れていても、いつも側にいる。


 ケインの腕の中で優しく抱かれた悪神の闇と善神の光は、お互いに混じり合い、やがて天へと召されていった。

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