空底

八暮コト

第1話



 退院した日は雲ひとつない青空で、降り注ぐ陽射しが街を白ませていた。点滅する信号機のリズムに合わせて、タクシーのメーターがまたひとつ上がる。お大事にと声をかけてくれた運転手は、僕が足を折った経緯を知ってもなお、退院日和だと笑ってくれるのだろうか。

 松葉杖を抱えて過ごす狭い車内からは、ぞっとするような濃い青の空が一層遠く感じられた。


「向こう一週間は晴れ続きらしいですよ。やはりいい天気ってのはスッとするもんです。まあ、仕事のことを考えれば雨の方が有難いんですけどねえ」

 はは、と笑ったその声もからりと乾いて聞こえる。


 車通りもまばらな昼下がりをゆくタクシーは、僕を家へ送り届けるべく走った。窓ガラスに頭を預けて遠い空を仰ぐのは、落ち込んだ心に劣等感に似た感情を湧き上がらせていけない。

 今日から、地べたを這う人生が再開する。



 故に、久しぶりの帰宅には憂鬱の一言に尽きたし、2週間前の健康そのものな自分の雑な生活を呪った。

 床に積まれた本はさながら都会のビル街のようで、つまずきかけて辿り着いたテーブルの上は行き場のない食器で手をつく場所にも困ったし、その向こうに埋もれるようにして請求書が散乱している。

 テレビの近くに置かれていたリモコンに手を伸ばし、よろけたフリをしてテーブルに手をついた。その拍子にたまたま請求書がバラバラと床に落ちて、僕はそれを拾わない。



 目の届かないところ、自分より下に落ちたものは、世界での優先順位が下がった気がして清々した。



 やっとこさ椅子に体重を預けたところで、ぴんぽん、と間の抜けたチャイムが鳴った。


「よう、色々買い込んできた」


 重い身体を引きずって扉を開くなり、白井は間髪入れずビニール袋を差し出した。反射的に受け取ったはいいものの、これでは身体を支えられないことに気付いてやむなく床に置く。


「買い出しなんて頼んでないよ」

「まあ、いいだろ。見舞いには結局一度も行けなかったし」

 それは僕にとって有難いことだった。幼なじみと言えど、入院中の自分を見られるのは、想像し得る限り最大級の恥ずかしさと不甲斐なさがあったからだ。

「いいんだ、忙しかっただろうし」

 まあねと頷いて白井は玄関の壁にもたれ掛かる。どうやら長居する気はないらしい彼の服装は、明らかに気合いが入ったものだった。靴はピカピカに磨かれているし、ジャケットははじめて見る新品だ。

 いつもの癖で髪をかきあげながら、白井は僕の右足を見た。


「怪我したんだろ。どう、良くなった?」


 どうして怪我をしたのかとか、これからの僕の人生はどうなるのかという答え難い疑問を全てすっ飛ばした質問だった。

 僕はその優しい問いかけにさえ曖昧に答える。どうして自室のベランダから飛び降りてしまったのか、医者や看護師に問われても、恋人に問われても答えることが出来なかった。あの時はそうしなきゃいけないと、見えない何かに追い立てられるようにして自殺未遂をしたわけだけど、今となってはその感情すら確かではない。

 僕を殺そうとした犯人は、結局どこかへ隠れてしまった。


「食えるもん色々買ってきたから。お前めっちゃ痩せてて気持ち悪いよ、しっかりしてくれ」

「しっかりかあ」

「食って、飲んで、寝て、遊ぶんだよ。そしたら少しずつ元に戻る」


 白井は笑った。


「そしたら、また飲みに行こうや。奢ってやるよ」

「いつもすまないなあ」

「気にすんな。じゃ、俺はもう行くわ。これから予定あるし」


 どうせ合コンだろと言うと、また彼は笑う。エスパーだと仰け反ってみせる。付き合いだけは長いのだ、分からない方がどうかしている。そう思えば、僕はまだまだ正気なのかもしれなかった。


 閉じたばかりの扉を開いて、白井はピタリと動きを止めた。

「そういやさ、小野から全部聞いたよ」

「ああ」

「俺みたいなやつが力になれるとは思えんけど、話くらいは聞けるから」


 小野、というのは僕の恋人で、白井を含めて僕ら3人は昔から仲がよかった。なにを聞いてもうまく答えられない僕の有様に辟易して、彼女が白井を頼ったであろうことは想像に難くない。


 白井が帰って静まり返った部屋に、不甲斐なさだけが残った。


 仕事は辞めなくてはならないだろう。

 生きるために必要な金はない。足を折ったことでさらに困窮した。いっそのこと死んでしまえば良かったとも思うが、住んでいるアパートからひょいと飛び降りて、片脚を折った程度で済む最低の奇跡に救われた。

 いまの自分に一体なにが出来るんだろう。

 食って、飲んで、寝て、遊ぶ。

 食欲はないし、遊ぶ気力なんて以ての外だと、白井が放った言葉を虚空で反芻した。


 仕方がないから、コップに水道水を注いで口をつける。

 それを飲む。底に残って揺れる一口分の水を眺めていると、不思議と尚更に喉の渇きを覚えた。

 結局のところ、僕は生きようとしている。




 足を折り曲げないように、負荷をかけないように、敷きっぱなしの布団の上に寝転んだ。やっと見慣れた天井の下に戻ってきた、という事実が眠気を呼ぶ。ぼんやり過ごしていた入院生活だったけれど、自分でも気づかぬうちに気を張っていたのかもしれない。

 微睡んで薄い布団に沈んでいく。病院で幾度となくみた夢が、帰宅した僕を追ってきていた。差し込んだ真昼の日差しが傾いていく。


 枕元に投げ出したスマホに彼女からのメッセージが届いていたのだけれど、それに気づくのはすっかり夜が更けてからになるのだった。







 小さい頃、海で溺れかけたことがある。

 当時仲の良かった友達一家に連れられて近くの海岸で泳いでいた僕は、足がつかない深さのところを漂っていた。周りを山に囲まれた小さな砂浜は石混じりで、海へ入ればすぐに深さが増す、子供を遊ばせるには些か不向きな場所だったけれど、友達一家は漁師をしていたから、そのあたりの認識は今思えば大雑把だったように思う。

 風が強い日だった。

 波に煽られて少し流された僕は、何とか足がつく場所がないかと探していた。やっとこさ見つけた岩に軽く足をつけたけれど、フジツボで右足の裏をざっくり切った。

 痛みと一際大きな波のせいで、僕は少しだけ海に沈んだ。ゴーグルをつけていたから視界だけがいやに明瞭だったのを覚えている。


「かえりたい」と思った。


 海水を飲むより先に鼻にツンとした痛みが走って涙が出る。耳元で騒いでいた泡は時間とともに落ち着いて、水が揺らぐ音だけになると海中は静かだ。

 かえりたい。


 家に帰りたいのだと思った。足を怪我したし、泳ぎ疲れていたし、もう眠ってしまいたかったのは事実だけれど。

 帰れば休まるかと言われれば、そういうわけでもなくて。

 家の中には父親が張り巡らせたピアノ線みたいな怒りの糸があって、それに触れると怒号が飛んだ。幼い僕が泣いてもピアノ線は揺れる。母親はいい人だったけれど、僕はあの人を見ていると異常な不安に苛まれるようになっていた。


 じゃあ、僕は一体どこにかえりたかったのか、その答えは未だ見えない。


 波に混ぜられて更に沈んだ僕の耳に聞いたことのない音が届いた。ちょうど真後ろから、誰かが唸っているような低い音が迫ってくる。

 なんとかもがいて振り返って、その正体を確かめようとした時だった。

 海に沈みかけた僕の肩がぐいと引かれる。難なく僕を助けた友達は、手に海鼠を持っていた。

「長く潜ってるとあぶないよって、父ちゃんが」

「ああ、うん」

 それなに、と何でもないように問いかけると、友達は笑った。

「ほんとはダメなんだけど父ちゃんが獲ったことにしようぜ」

 僕は不器用だったから、溺れかけていたことがバレなくて心底安堵した。疲労を隠してなんとか浜辺に戻ると右足が血塗れになっていて辟易し、もう海へは戻らなかった。


 荒い砂浜と何かを隠している海は、波が引くように遠ざかっていく。

 夢は覚める。








 目を開くと夜だった。カーテンを開きっぱなしにした窓から、近くの街灯の光が差し込んで影を作っている。枕元を探って手にしたスマホを見て、一気に覚醒した。


 メッセージが3件、着信が1件。

 そのうちひとつは白井からで、あとは全て彼女からだった。退院を祝い、身体を心配し、今から顔を見に行くという旨が記されている。着信は1時間前の夜8時だ。

 しまった。退院の日付は伝えていたけれど、今日はメッセージひとつ送っていない。


 慌てて飛び起きようとして、足に入れた軽い固定が邪魔になって冷静さを取り戻した。まずはそう、連絡を入れなくては。

 着信履歴をタップして、折り返す。3コールもしないうちに繋がった。


「もしもし? ごめん、すっかり寝てて」

『これで遊び呆けてたらどうかしてやろうかと思った』


 はは、と彼女は短く笑った。僕は慌てて問いかける。


「今どこ?」

『アパートの裏』


 そこで通話は切れた。立ち上がり、寝癖を押さえつけるまでにかかるいつもより長い時間を酷く億劫に感じる。骨を折って2週間経っても、こればかりは慣れることがなさそうだ。


 僕が住むアパートは埃とカビだらけの雇用促進住宅で、裏には寂れた公園があった。ブランコが4つ、砂場がひとつ、滑り台がひとつしかない、公園としての体を保つギリギリのラインだったけれど、彼女がそこでブランコを漕いでいると、それだけで僕を待っている特別な場所に思えた。

 錆びた金具が不快な音を立てている、そんな月夜だった。僕が松葉杖をついて現れても、彼女はニコリともしない。


「意外と元気そうだね」

 皮肉だった。

「本当ごめん、連絡入れれば良かった。退院して、帰ってきて、白井が来たんだ」

「白井くん心配してたでしょ」

 どうだろう、と僕は誤魔化した。身体を気遣って持ってきてくれた食料品からも、僕を見舞うタイミングからも彼の配慮が滲み出ていたけれど、自分と比べると彼は酷くドライに思える。その執着のなさに救われる場面が多い反面、掴みきれない雲みたいな性格がもどかしかった。


 しばらく沈黙して、また彼女が口を開いた。

「どうして飛び降りたの?」

 入院中に幾度となく問われたそれに、やっぱり答えることが出来ない。

 もとより期待していなかったのだろう。彼女はすぐに次の言葉を紡いだ。

「どんな感じだった?」

「え?」

「飛び降りた時、どんな感じがしたの」


 え、と馬鹿みたいにもう一度呟く。いつも、僕がやったことの理由を問われると責められている気がして頭が真っ白になった。そんなの自分が知りたいやと不貞腐れる時もあった。

 だからこそ僕は動揺したのだろう。中途半端にも程がある自殺未遂の理由を探るために、僕の思考に彼女が踏み入ってきたのだ。

「いや、怖かったけど……」

「けど?」

「安心したんだ。なんだか、正しいことをしている気持ちになれた」

「正しいことって?」

「今までの僕が間違っていて、その全部を一気に取り戻せるような……僕が居るべき場所に帰るみたいな、そんな感覚で」

 彼女は短く頷いた。動揺したまま、言葉が堰を切ったように零れていく。

 少し緊張がほぐれた僕は、松葉杖でよたよたとブランコに近寄った。彼女が支えてくれた隣のブランコになんとか座って、不安定に揺れる。



 そうだ、あの時ベランダから身を乗り出して空を見た。高くて、青くて、綺麗だった。

 曝した喉を風と陽射しが撫でる。

「かえりたい」

 僕は自宅のベランダにいるのに、やっぱりどこかへかえりたかった。

 ゆっくりと重心が前へズレていく。そっと目を閉じて、先へ進むように右足を踏み出した。


 そこで記憶は途切れている。確かなのは、結局僕が失敗したという事実だけ。



「上手くいかないことは今まで沢山あって、嫌なこともあって、でもそこそこ楽しいこともあって。どれが最後に背中を押したのかは今となっては分からないけど……僕はいつだってかえりたいと思ってたんだと思う」

「それは、どうして?」

「いいことも悪いことも、全部間違ってる気がした」


 そう、と彼女は言った。

「僕がやったことだから、なんだって間違いなんだ。みんな嫌いな奴がやったことは全部憎いだろ」


 空を見上げた。街灯のせいで星は見れないけれど、真っ暗な空はやはり高い。


「じゃあ、これからどうしたい?」

「それは、」

 反射で口を開いて、言葉に詰まった。キイ、とブランコの金具が鳴く。またしても、取り返しのつかない間違いをしてしまった気がする。

 彼女は珍しく僕を真っ直ぐ見た。


 ねえ。


「別れようか?」








 暗い部屋に幽霊みたいに浮かび上がったのは僕のスマートフォンで、開く気にもならないメールが一通届いていた。入院費と治療費は一銭たりとも出さないと長文で喚く父親の堅苦しい文面が、悪夢みたいに脳裏を掠める。

 着替えを持って、風呂場へ。

 慣れた家での久しぶりのルーチンワークで気持ちが逸らせるかと考えたが、思うようにいくはずもない。自分の思考がより深く、暗く、確かな方向へ向かっていくのを感じる。


 背中を丸めて頭の先まで湯船に沈めてしまうと、ごう、と体内の音がいやに耳についた。徐々に早くなる心臓の音を掻き消したくて、僕はゆっくりと息を吐いた。

 大量の泡が肌を撫でて昇っていく。吐いても吐いても足りないような気がして、何度かに分けて肺から空気を押し出そうとした。僕の中に蓄積された無駄が泡となって消え去っていく。


 待っている。もう少しで、それは来る。


 吐ける空気がなくなると水の中は静かになった。鼓動は早まっていく。僕が思わぬ行動をしてしまわないように、ふやけた手で強く強く膝を抱えた。


 あと少し。


 まず、頭が膨らむような独特の不快感が僕を襲った。水の中で脳が肥大して、ここから出せと騒いでいる。さらにじっとしていると手足に痺れが走った。末端の感覚が溶けていくようで、僕はさらに水へ近づく。


 とうとうその時が来た。

 僕のちょうど真後ろ、まだ遠いところで低く唸るような音が聞こえる。大きな黒い虫の羽ばたきのような、深夜の冷蔵庫のようなそれが近付いてきていた。苦しさで身動ぎをして水が大きく波打つ。

 もちろん僕の背中は湯船に接しているし、ボロアパートの浴室は大きくない。背後に何かがいるわけもないのだけれど、音は確かに迫っている。


 それが僕を飲み込んだ時にどうなるのかはまだ知らないけれど、未知の先には今まで手にしたくても届かなかった答え、真理に近いものが待ち構えているように思えた。

 かえろうとする僕を追いかけてくる。もう少しで僕を捕まえ、不甲斐ない手を引いて本来の居場所へ連れて行ってくれる。



「じゃあ、これからどうしたい?」



 音に紛れて、膨れ上がった脳から声が聞こえた。錆びたブランコに揺られて問いかける彼女の、感情が読み取れない目を見た。起伏の乏しい声が反響した。

 あれは、あなたが僕に残した最後の——。




 ざ、と心臓が止まるくらい大きな音がした。僕が勢いよく体を起こし、水中から脱する音だった。

 僕の前髪から次々と水が滴る。ひゅうと悲鳴のような音を立てて息を吸って、吐いた。ポンプみたいに肺が動いている。目の奥が痛い。浴室が点滅している。

 僕があんまり五月蝿いから、あの低く唸る音はどこかへ消えてしまった。


 でも、ああそうか。


 結局どこへもかえれない自分の、水に溶けてなんかいない手のひらを見た。いま僕がどこにいるのか、何をしたのかを見た。


 救いようのない馬鹿で涙が出る。目から零れた水も全て、指の間から落ちて湯船に消えた。ふっと思い出したのは、入院生活中に菓子とイヤホンを持ってきてくれた彼女の顔だ。ベッドの縁に手をかけ、固定されて動けない右足を見て笑ったあなたは確かにこう言った。


「ほんと、いつも独り善がりで馬鹿みたい」








 ベランダから乗り出すようにして、白井は空を仰いだ。

「あー、うざいくらいにいい天気。これしばらく続くらしいよ」

 僕は大きめのカップに水を注ぎながら生返事をする。

 急な連絡に応えて朝一番で車を飛ばしてきてくれた彼は、到着するなり僕の布団を奪って仮眠をとり、昼も過ぎた先程やっと目を覚ました。

「はい、ちゃんと水飲んで」

「助かる。もう二度と酒なんて飲まない。空見るだけで気持ち悪いわ」

「それ、なんも見てなくても気持ち悪いんだろ」

 白井は、返事の代わりに手渡した水を一気飲みするとガラガラの声で呻いた。この状態でうちまで来たことは無茶が過ぎるけど、今はただ感謝の気持ちしかない。


 昨夜の、風呂を上がってからのぼろぼろのメンタルでは、何もせずに一人でいることに耐えられなかった。誰かと話をしなかったら今頃僕はどうなっていたのだろう。


「それで?」

 ポケットから潰れたタバコの箱を引っ張り出しながら、白井が言う。

「別れ話になったんだろ。どう返したわけ」

 彼を呼び出すには、僕と彼女の話は格好の餌だった。それが破局の危機ともなればすっ飛んで来ないはずがないという打算も少なからずあった。

 というのは建前で、僕は本気で彼女との関係に悩んでいるわけだけれども。


「いや、なんも」

「はあ?」

「だから何も返事してないんだよ。ちょっと待って欲しいって彼女に言ったくらいで」


 白井はその場で失神する真似をした。二日酔いで顔色が悪いせいか、なかなか真に迫った演技に見える。


「信じられん! それで、小野は待つって言ったわけ?」

「うん」

「はーもう、よろしくやってろよ。じゃあ別れたくないんだろ」

 そうに決まってるだろ、と不貞腐れて言う白井は何故か怒っているようだった。

「あとはもうなんて返事をするかって部分にしか問題が残ってないじゃん。別れるも別れないもお前の一存だろ」

「いや……うん、そうか」

 彼女は、これからどうしたいか僕に問いかけたのだ。今まで渡さずに見逃されてきた沢山の言葉たちの代わりに、僕は彼女に納得してもらえるような答えを自分の言葉で用意しなければならない。


「こんな話、恥ずかしくてお前にしか聞かせられないけどさ……僕は昔から自分の言動に潔癖だったんだよ」

 取り出した煙草に火をつけないまま噛んで、白井は頷く。

「自分の嫌いなところが山ほどあって、それが目について仕方なかった。気になった自分の汚点を並べてひとつひとつ直したかった」

「出来るわけねえわな」

「そう、土台無理な話で」


 僕が僕の汚点を見つめれば見つめるほど、それは遠ざかっていった。自分と向き合うだけで直せるなら苦労はなかった。

 いや、自分が苦労しない道を選んだだけなんじゃないかと今では疑わしい。程度のいい自己嫌悪と手を繋いで、いくら日が暮れて明けても変わり映えのしない僕を眺め続けるのは、いい気持ちはしないけれど安定した日々だった。

 そんな人生に恋人が現れても僕のスタンスは変わらなかった。噂にばかり聞いていた恋愛のイベントや、友達より近くなった他人との関わりはあっという間に稚拙な失敗で埋め尽くされ、その度に不甲斐ない自分を嫌悪した。僕は独りになっていく。

 独り善がりだとあなたは言った。僕があなたを見つめられていないことなんて、とうの昔から分かっていたのだろう。


「馬鹿だと思う?」

「いやどうだろね。俺は頭が良くないからくっそだせぇなとしか思えん」

「……直球だ」

「俺みたいにかっこよくならなくてもいいから、人並みになろう。な?」

 真っ青な顔した友人にそれを言われては、不甲斐なくて笑うしかない。

 ひらひらと手を振った彼は、やっと煙草に火をつけた。


 あとはもう、思ったことをそのまま彼女に言えばいい。この思考のプロセスこそ求められているもので、要約はむしろ不要だろう。僕がやっと人並になれるかを賭けた遅すぎる大一番が、これから始まろうとしている。



 ああ、と大きく伸びをした白井はそのまま青空を仰いだ。

「こういうの、底が突き抜けたような天気って言うんだろ」

 言葉に釣られて見上げた空は、目と心を吸い取っていくほど青い。このベランダから飛び降りようとしたあの時のように、僕の喉を陽射しが撫でた。

「夏目漱石かあ」

「いつから文豪の話になったわけ」

「いま白井が自分で言っただろ、空の底が突き抜けたって。坊っちゃんの一節だ」

 へえ、と興味もなさそうに相槌を打つ白井は、魅せられたみたいに視線を上から逸らさない。

「でも僕はその表現があんまり好きじゃなくてさ。そもそも、どうして自分より上にある遠い空なのに、底が抜けたって言い方になるんだ」


 こいつめんどくせえなと、ちらりと僕を盗み見た目が言っている。

「お前めんどくせえわ」

 しっかりと言葉にされて、僕は笑った。

「空は高くて遠いから、むしろ空の底は僕が生きてるこっち側だと思う。天井が取り払われたような青い空って表現の方がしっくりくる」

「青天井って言うしな」


 そうして、僕たちは底から天井を仰いだ。



 かえりたいと思う。僕はかえらなくてはいけない。小さい頃は分からなかった自分の行き着く先は、今ならはっきりと言葉にすることが出来る。

 空の底よりも下にある、深い海を脳裏に描く。


 自分より下に落ちたものは、世界での優先順位が下がった気がして清々する。

 テーブルから請求書を落とすみたいに、あのとき僕は僕自身を下に落とした。自分が行き着くべき、かえるべき場所へはいつだって利き足から踏み出した。

 結局は毎度の如く失敗して、未だに空の底でもがいているし、それは恐らくもう少し続く。いつかきちんとかえる時のために備えなくてはいけない。


「海に行くにはまだ足りないんだろうなあ」

「は? 空の話してんのに、どうしていきなり海が出てくるんだよ」

 口を尖らせた白井を見て、僕は笑ってしまった。

「そういや、海に行きたいなって」

「あー、この夏は車飛ばして沿岸行くか。昨日の夜知り合った女の子もさ、海水浴したいって」

「もう好きにしろよ。僕は下見するだけだから」

 怪訝そうな目を避けるようにベランダから身を乗り出して、小さな公園を見下ろした。



 もっと、もっと下へ。僕は僕を世界の底に沈める。



 青空を汚しちまえと言わんばかりに、ふっと白井が煙を吐く。青に溶けていく。

「見てらんないや、こんな天井」

 僕はそう言ってひとり暗い部屋に戻った。覚束無い足取りで台所に立ち、グラスになみなみと水を注ぐ。

 かえるときを夢想して、一杯の水で欲望を誤魔化しながら生きていく。


 飢えているのか、僕はそれを一気に飲み干した。

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空底 八暮コト @8gureKoto8

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