不要不急の外出を自粛する同棲カップルの休日

不要不急の外出を自粛する同棲カップルの休日

 ちいんっ、とオーブントースターが軽やかに鳴ったので熱々の食パンを2枚取り出し、シンプルな白い皿の上に置いた。パンはどちらもいい具合にこんがり焼けていて、表面は黄金色の小麦畑みたいに輝いている。


「バター? ジャム?」ぼくは選択肢を提示し、質問した。彼女は目玉焼きとレタスとプチトマトが乗った水色のプレートをテーブルに並べながらご機嫌に答えた。「ジャムっ」


 ぼくは冷蔵庫からバターとマーマレードジャムを取り出し、それぞれ1枚ずつに塗った。この家の冷蔵庫にはマーマレードと苺の2種類のジャムが常備されているけれど、彼女は決して苺ジャムを使わない。彼女がジャムと言えば、それは必ずマーマレードを指している。「苺ジャムは甘過ぎてパンの味がわからなくなるからいや」だそうだ。


「さてさて、愉快な朝食を始めましょう」と彼女が言い、「いつも通りだけどね」とぼくが言った。トースト、卵料理、サラダ、コーヒー。いつも通りだ。


 木の椅子(4年前に神戸を訪れた際、洒落た家具屋で購入したものだ。あのあと彼女は中華街で調子に乗って小籠包を食べ過ぎ、お腹を壊した)に並んで座り(もちろんぼくが右で彼女が左だ)、いただきます、と声を合わせて言い、朝食が開始された。


 ぼくはまず目玉焼きの黄身に箸を突き刺し、とろとろの黄身の液を白身の上に流れさせた。これが目玉焼きの最もおいしい食べ方だとぼくは確信している。黄身と白身が混ざり合うのがいいのだ。でも彼女は逆に、黄身がかちこちに固くなるまで焼くのを好む。だから彼女はいつも焼き加減をぼく用と自分用とでわけて調整してくれる。


 彼女はレタスをぱりぱりとハムスターみたいにかじる。「最初に野菜を食べると血糖値の上昇が緩やかになるので太りにくい」らしい。もしゃもしゃとうさぎみたいに咀嚼しながら、「今日は何をしようか」と彼女が話題を持ち出した。「外出できないって退屈だよね」と。


「そうかな。どっちみちぼくらは普段からインドアじゃないか。新型ウイルスの感染が拡大しなくても、休日は大抵自宅で過ごしてたよ」

「まあそうなんだけど、『外出するな』って言われると逆に外出したくなるよね」

「あまのじゃく」

「そうだよ。わたしはあまのじゃくだよ。知らなかったの?」

「もちろんよく知ってる」


 だから彼女をコントロールするのは簡単だ。例えば、「窓を拭きたい、あんなに気持ちいいことってないからなあ、後でぼくがやるからそのままにしておいてね」と言っておけば、大抵彼女は拭いてくれる。そしてそ知らぬ顔で「あれ、窓を拭きたかったんだっけ? 忘れてたよ」などととぼける。ぼくは「拭きたかったのにぃ」と言ってあげる。


「映画でも観るか、ゲームでもするか、本でも読むか」ぼくは選択肢を例示列挙しながら、バターを塗ったトーストに目玉焼きを乗せ、かじった。

「君はいつもトーストに卵を乗せるよね」彼女が指摘した。


「いつもではない。例えばパンに苺ジャムを塗った場合は乗せないし、パンにバターを塗った場合であっても、ゆで卵は乗せない」ぼくは正確に訂正した。

「そんなの当たり前じゃん。ゆで卵をトーストに乗せたらころころ転がっちゃうよ。追いかけて穴に落ちたらねずみたちがもてなしてくれるかもしれないけど」

「君は何を言っているんだ。スライスして乗せるに決まってるじゃないか」

「え、乗せるの?」

「だから乗せないんだってば」

「でもさっき乗せるって言ったよ」


 会話が混迷を極めてきたのでぼくは「つまり人それぞれのスタイルがあるってことだな」と雑な結論を下し、話題を強制終了させた。彼女は「なるほどね」と訳知り顔でふむふむとうなずいた。もしゃもしゃレタスを咀嚼しながら。らくだみたいに。


 二人ほぼ同時に食べ終え、どちらが食器を洗うかを決するため、じゃんけんをした。ぼくはチョキ、チョキ、パーの順で出し、2回あいこになった後に負けた。彼女が3回連続でチョキを出したのだ。彼女は「3回連続で同じ手はないというのは愚かな思い込みよ」と鬼の首を取ったように自慢気に言った。「そうだね」とぼくは言った。


 食器を洗っている最中、彼女はスマートフォンで音楽を再生していた。『森のくまさん』だった。彼女は控え目な声で歌っていた。あるぅ日ぃ、森の中ぁ、くまさんにぃ、出会ったぁ、花咲く森のぅ道ぃ、くまさんに出会ったぁ。


「いい歌だよね。舞台が花咲く森の道というのが美しくて素敵」彼女がしみじみと言った。ぼくはマグカップをスポンジでこすりながら、「白い貝殻の小さなイヤリングも素敵だよね」と応じた。彼女は「貝殻のイヤリングは少女趣味過ぎるでしょ」と答えた。ああそうですか。


『森のくまさん』の次はビートルズの『イエロー・サブマリン』を流し、やはり歌っていた。彼女はビートルズのファンだけれど、その中でも特にお気に入りの曲だ。ふーんふーんふーんふーんイエロォサブマリンっ、イエロォサブマリンっ。“イエローサブマリン”以外の歌詞は全て“ふーんふーん”で済ませているようだった。


 “We all live in a yellow submarine.”

 それほど難しい英語でもないのに。


「どうしてイエローサブマリンなのかな。黄色い潜水艦。わたしはワインレッドとかのほうがいいと思うけどなあ。ワインレッドサブマリン」

「ぼくは緑色がいいな。グリーンサブマリン」皿についた洗剤を水道水で流しながら答えた。


 そのあと彼女は『イエロー・サブマリン』の替え歌を歌っていた。ふーんふーんふーんふーんワインレッドサブマリンっ、ワインレッドサブマリンっ。すごく語呂が悪い。ぼくの考えたグリーンサブマリンは歌ってくれなかった。


 食器を洗い終えリビングに戻ると、彼女はソファーに腰かけて熱心に文庫本を読んでいた。ぼくも本棚から1冊文庫本を取り出し、彼女の邪魔をしないように静かに隣に座り、読書を始めた。太宰治の『人間失格』だ。昔、学生時代に読んだときはひねくれた主人公だと感じたけれど、今読むとむしろとても真っ直ぐだと感じる。むしろ、世の中に合わせて上手く曲がれなかった人なのだと感じる。


 物語に没入しかけた頃、隣から奇妙な唸り声が聞こえた。んーむっ。んーむっ。左に目をやると、彼女が虚ろな目で空中の一点を見つめながら規則的に唸っていた。うしがえるみたいな声だった。


「何をしているのかな」

「うしがえるの真似」

 本当にうしがえるだったのか。

「楽しい?」

「あまり楽しくない」

「じゃあなぜそんなことを?」

「うしがえるは普段どんな気持ちで鳴いているのか、ふと気になってね」

「興味深い問いだね。考察に値するよ」


 彼女はぼくの皮肉には反応せず、唸り声を再開した。んーむっ。んーむっ。その声を無視して再度『人間失格』に取り掛かろうとしたところ、「君はうしがえるの気持ちがわかる?」と質問され、またしても読書は中断された。ぼくは本を読むのを断念した。太宰もうしがえるの唸り声を聞きながら読まれたくはないだろう。


「さっぱりわからない。何故ならぼくはうしがえるではないから」

「そこは想像で補ってよ」

「無茶言うなあ」

「想像力は現代ビジネスマンに必須よ」

「ぺらぺらの自己啓発本みたいなこと言わないでよ。大体ぼくはビジネスマンではない」

 ぼくは公務員だ。地元の市役所に勤務している。

「公務員に欠如しているのは想像力よ」

「マスコミみたいなこと言わないでよ」

「そういうのいいから」

 ぼくはおほんと一つ咳払いをし、真剣な回答を試みた。

「君はトマス・ネーゲルが1974年に発表した『コウモリであるとはどのようなことか』という論文を知っているかな? この論文でネーゲルはコウモリの主観的体験はコウモリの生態や神経系の構造を調査するといった客観的・物理主義的な方法論ではたどり着くことができない事実であり、意識の主観的な性質は、科学的な客観性の中には還元することができない問題であると主張し……」

「そういうのいいから」

 ぼくは黙った。仕方なく、回答の方針を転換した。

「夜に鳴くうしがえるは、夜空に浮かぶ星々の美しさに感動しているのかもしれないね」

「そういうのいいね。素敵」


 きっと、彼女が欲しいものは理屈ではなく、心なのだろう。ぼくは「ところでさっきまで何を読んでいたの?」と訊ねた。彼女はぼくに文庫本を手渡した。カミュの『異邦人』だった。


 新型ウイルスの影響で『ペスト』の売上が伸びているらしいけれど、敢えて『異邦人』を選択するところが彼女のあまのじゃくな性格をよく表していると思う。


「実存主義に触れているうちに、自分以外の生き物の主観が気になってきたのかな」ぼくは軽い気持ちで訊いてみた。ほんの軽い気持ちだったのだ。


 しかし彼女は目の色を変え、「カミュはサルトルと並べて実存主義作家として一括りにされる場合が多いけど実際のところは……」と熱く語り始めた。ぼくは「そういうのいいから」と止めようとしたのだけれど、「まあ聞きなさい」と強引にねじ伏せられ、結果的に彼女の文学観を長々と拝聴する羽目に陥った。彼女は文学部を卒業しているごりごりの文学マニアなのだ。不用意に変なスイッチを押すとこういう羽目になる。


 彼女は一通り喋り終えると(15分喋った)、唐突に「そうだ。最近いいものを買ったんだ」と呟き、押し入れをがさごそと漁り、「じゃーん」とわざわざ効果音を発声してあるものを取り出した。


 彼女が取り出したのは、シャボン玉で遊ぶための道具だった。シャボン液が入ったピンク色のプラスチックケースが5本と、シャボン玉を吹くための黄緑色のストローが2本、ポリ袋に詰まっている。


「100円ショップで買った」

「不要不急の外出の典型じゃないか」

「他に買わないといけないものがあったからついでに買ったんだよ」

「なるほど」そういうことにしておこう。


 ぼくたちはシャボン玉セットを持ってベランダに出た。ぼくらが住むこの部屋はマンションの5階で、ベランダからは特徴に乏しい地味な町並みを見渡せる。何の変哲もない、見慣れた、親しみのある、ぼくらの町。


「へくしっ」


 彼女がくしゃみをした。花粉症なのだ。「この季節は辛いね」と労ると、「んーむ」と唸って返事をした。うしがえるみたいに。


 ぼくらはベランダからシャボン玉を飛ばした。シャボン玉を吹くのなんて20年ぶりくらいだったけれど、やってみると案外楽しめた。彼女と一緒だからかもしれない。虹色の光をまとったいくつもの透明な球体が青空に漂う光景は、素直に美しいと思った。


 どちらがより大きいシャボン玉を作れるか勝負をした。彼女は途轍もなく下手だった。吹く強さを上手く調整できないのだ。0か100かの二択なのだ。彼女は自動車の運転も下手なのだけれど、その理由がわかった気がした(恋人として交際し始めて間もない頃、彼女が運転する車に乗って海岸までドライブをしたことがあるけど、10分もしないうちにぼくは車酔いした。それ以降、車の運転は常にぼくの役目として定着した)。

 彼女が途中で「ストローが悪い気がする」と言い出したので、ぼくのストローと交換したけど、やはり結果は同じだった。


「間接キスだね」ぼくは言ってみた。

「今さら何を言ってるんだか」彼女は一笑に付した。ぼくはほんの少しだけ切なくなった。お腹の奥にある小さな塊がきゅっと収縮する感じがした。春風で彼女の軽めの前髪がふわふわ揺れている。


 初めてキスをしたときから、もうずいぶん長い年月が経ってしまった。初めてしたのは、モネだとかルノワールだとかの印象派絵画を美術館で鑑賞した帰り道の、人通りの少ない路地で、まだ明るい時間帯だった。唇を離して目を開けると、彼女はやたらとにやにやしていた。ぼくは恥ずかしくなって、視線を脇に逸らすと、茶色い野良猫がぼくたちをじっと観察していて、目が合った。よく晴れて空気が乾燥した冬の午後で、ぼくの唇はかさかさに荒れていた。


 今ではセックスをするときですら、ぼくらはほとんど緊張しなくなっている。それは悲しいことだろうか。それとも喜ばしいことだろうか?


 遠くのほうに馴染みの喫茶店が小さく見える。新型ウイルスの感染が拡大する以前の普段通りの休日であれば、昼食はしばしばあの店でとっていた。ぼくがよく注文するメニューは衣がさくさくに揚げられたコロッケ定食で、彼女がよく注文するメニューは熱々の鉄板でじうじう焼かれたナポリタンだった。


 不意に彼女が「マスクをすれば大丈夫なんじゃないかな」と呟いた。「どういうこと?」とぼくは訊ねた。


「ちゃんとマスクをして、帰宅後は丁寧に手を洗ってうがいをすれば、外出しても大丈夫なんじゃないかな」


 ぼくは慎重に言葉を選んで答える。


「確かに万全の対策をすれば感染確率は格段に下がるかもしれないけど、絶対安全なわけじゃない。やっぱり外出しないのが最も安全な選択だよ」


「でも、リスクばかり想定していたら何もできなくなっちゃうよ。リスクを気にすれば、究極、『交通事故に遭う可能性があるから家に引きこもれ』って話になるじゃん」


「そうだね」ぼくは彼女の言い分を認めた。確かに彼女の言う通りだと思った。でも、ぼくにはまだ喋るべきことがあった。


「ぼくは実際にそう思ってるよ。事故に遭う可能性があるから、君には引きこもっていてほしい」


「はあ?」彼女が少し驚いた顔でぼくを見た。いっそ不審者を見るような怪訝な表情と形容しても差し支えないかもしれない。


 彼女の髪がふわふわ揺れている。ぼくらの町が見渡せる。遠くに馴染みの喫茶店が小さく見える。ぼくはきちんと気持ちを伝える。長期間に亘る交際で培った信頼関係の上にあぐらをかかないように、丁寧に。「正直に言えばね」、と続ける。


「君には、事故に遭う可能性があるから引きこもっていてほしい。雷に打たれる可能性があるから外を出歩かないでほしい。墜落する可能性があるから飛行機には乗らないでほしい。鬱病になる可能性があるから労働しないでほしい。包丁で手を切る可能性があるから料理はしないでほしい。他の男が君を好きになるといけないから部屋に閉じ込めておきたい。本当はそう思ってる。もろちんそんなのは現実的に不可能だってことはよくわかってる。これは理屈じゃなくて感情の話だよ」


 一気にそこまで喋り、ぼくは黙った。彼女もすぐには返事をしなかった。10秒間ほど沈黙が流れた。彼女は「ばかじゃない?」とだけ呟き、そっぽを向いてしまった。表情が見えない。それからおもむろにストローをふうっ、と勢いよく吹いた。やっぱり大きいのは作れなくて、こぶりなシャボン玉がぱらぱらと無数に青空に舞った。いくつものシャボンたちが何でもないことのように素っ気なく生まれ、儚く消えた。ぼくらは春風だけが囁く静寂の中で、それを眺めた。もう一度彼女は「君って本当にばかだね」と言い直した。「そうだね」とぼくは言った。


 そっぽを向いたまま、彼女が小さな声で歌った。ふーんふーんふーんふーんワインレッドサブマリンっ、グリーンサブマリンっ、ワインレッドサブマリンっ。遥か遠方で弾ける一粒のしずくのようにささやかな声で、軽やかに歌った。髪をふわふわ揺らしながら。


 ぼくは歌わなかった。その代わり、愛を込めて大きなシャボン玉をひとつ作った。割れてしまわないように時間をかけてゆっくりと、丁寧に吹いた。


 春風がシャボン玉を優しく舞い上げた。


 おわり

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