トナカイにサンタクロースの代理を依頼された。

トナカイにサンタクロースの代理を依頼された。

 この世界には「招かれざる客」というものが少なからず存在する。欲しくない商品について延々と語るセールスマンや信じたくない宗教について熱弁をふるう信者が、それに当たる。彼らは突然家にやって来て、長々と自分の話ばかりをする。私たちの話に耳を傾けてくれることはほとんどない。それはもはや会話というよりは演説に近い。


 しかし彼らに悪気があるわけではない。彼らには彼らなりの事情と信念があって、あなたの玄関先で喋り倒すのだ。ただ、需要と供給がマッチしていないだけだ。


 初っぱなから話が逸れてしまった。本題に戻ろう。

 

 先程も申し上げた通り、残念ながらこの世界には「招かれざる客」というものが少なからず存在する。いや、はっきり言ってしまえば、「少なからず」どころか「大量に」存在する。私たちが彼らに出会わないように立ち振る舞うことは、ほぼ不可能だ。


 しかしそうは言っても、もしかするとあなたは幸運なほうの人間かもしれない。


 ここでひとつ質問。

 あなたには、12月23日の夜に突然トナカイが自宅に押し掛けてきて、「明日サンタクロースの代理をしてくれ」と頼まれた経験はあるだろうか? 


 もしあなたにそのような経験がないのであれば、あなたは幸運なほうの人間だ。世の中にはそういう不幸に見舞われる人間だって存在するのだ。それほど多くはないが。


 今年のクリスマスには、日本の男女1名ずつがトナカイに選ばれた。







🦌鳩山さん🕊️


 自宅で小説を読んでいると、スマートフォンに知らない番号から着信があった。読書を中断させられる煩わしさを感じつつも、私は電話に出た。


「はい」

「突然のお電話、失礼いたします。こちらは鳩山様の番号で間違いないでしょうか?」


 聞き覚えのない声だ。新鮮なキャベツでも切るかのように歯切れよく爽やかな発声からは、働き盛りの男性、といった印象を受ける。何かのセールスだろうか。私は若干の警戒心を抱く。


「ええ、そうですけど。失礼ですがどちら様でしょうか?」

「申し遅れました。わたくし、トナカイという者です」


 トナカイ? 珍しい名前だ。「戸中居」とでも書くのだろうか。


「はあ。それでそのトナカイさんがどのようなご用件で?」


 セールスならさっさと切って読書に戻りたいところだ。今はまさに名探偵が密室殺人の謎を解き明かそうとしている場面を読んでいる。早く続きを読みたい。きっとあの女執事が犯人だ。いちばん怪しくないのがいかにもいちばん怪しい。


「それについては……まことに込み入った話なのです。できれば直接お会いしてお話したいのですが……」


 トナカイは遠慮がちな口調ながらも大胆な提案をしてきた。どう考えたって怪しい。私の名前と電話番号を把握している人間が、直接会おうなどという提案。枯れてはいるものの一応私だって若い女性だ。そんな話には乗らない。

 

 私はなんだかんだと理由をつけて丁重にお断りし、電話を切った。


 まったく物騒な世の中だ。ちょっと油断していると何をされるかわかったものではない。私は物騒な現実から逃げるようにして文庫本を開き、小説世界へ再び舞い戻った。探偵と謎解きと殺人で満ちた平和な世界へ。


 しかし、またしても私は不快な電子音によって現実に引き戻される。今度はスマートフォンではなく玄関のチャイムが鳴ったのだ。私は軽く溜め息を吐く。


 この人間社会はどうしてこうも人の集中力を乱す電子音で溢れ返っているのだろう。たまには電子的でない素敵な音も聞かせてほしいものだ。たとえば生のピアノ演奏だとか川のせせらぎだとかイケメンが「愛してるよ」とささやく声だとか首相が「減税するよ」とささやく声だとか。


 ああ、そういえばネットで新しい推理小説を買ったのだった。その荷物が届いたのだろう。そう考えた私は何の警戒もせずにドアを開けてしまい、その直後に身体を硬直させた。玄関先に立っているものを見て自分の目を疑った。これは現実だろうか。


 玄関先にはトナカイがいた。文字通りの「トナカイ」だ。うす茶色い毛を持ち、立派な角を生やしたトナカイだ。それはあまりにも普通のトナカイだった。あまりにも普通で典型的でオーソドックスで無個性なトナカイだった。「トナカイ」で画像検索すれば真っ先に一番上に表示されそうなトナカイだった。トナカイは生真面目に「トナカイです」と名乗った。見ればわかる。お前はトナカイだ。









🦌鬼塚くん👹


 その夜の僕は、飼育しているインコに餌を与えたあと、続けてハムスターのケージの掃除に取り掛かっていた。古い床材を新しい床材と取り換える。冬場の床材は夏場よりも多めに入れておく。ハムスターを飼育するコツのひとつは、冬場の低温で弱らせないことだ。多めの床材には防寒効果を期待できる。


 ちょうどケージを掃除し終わったところで玄関のチャイムが鳴った。タイミングが良い訪問者だ。


 僕は経験上知っている。こういう偶然に左右される事柄までに気の利いた人間は、なぜだかいつも善人なのだ。そして女性にもモテる。僕と違って。

 

 いったいどんな人間なのだろう、と考えながら玄関のドアを開けると、そこにはトナカイがいた。人間ではなかった。僕は少し驚いたけれど、すぐに受け入れることにした。四半世紀も生きていれば一日くらいこういう日もあるだろう。


「夜分遅くに申し訳ありません。わたくし、トナカイという者です」


 礼儀正しいトナカイだ。声も爽やかだし角も立派だ。雌トナカイにはきっとモテるタイプだ。人間の女性にだってマニアを探せばモテるかもしれない。


「トナカイさんですか。僕の家に何の御用でしょう?」


「え? あの……」


 トナカイはなぜか戸惑っている様子だ。訪問された側が戸惑うのならわかるが、訪問した側が戸惑うのは理屈に合わない。


「驚かれないんですか? トナカイが喋っていても?」


 ああ、そういうことか。僕は自分が有するほんのささやかな特技について、簡単に説明しなければならない。


「唐突な自分語りをするようで恐縮ですが、僕は昔から動物が大好きでして。そしてなぜか、彼らの言葉を聞き取れるのです。たった今も、飼育しているインコとハムスターの声を聞いて、餌やりと部屋の掃除をしてあげたところです。でも確かに指摘されてみれば、トナカイさんの声は他の動物たちよりも聞き取りやすい気がしますね。発言が知的で明瞭で……なんというか、人間的です」


 ここまで一息に喋ってからトナカイの目を見ると、彼は穏やかにうなずいた。


「なるほど。鬼塚様が動物たちを心から愛しておられることは承知しておりましたが、まさか声まで聞き取れるとは。先程伺った鳩山様と違って話が早く済みそうで助かります」


「鳩山様?」


「ああ、すみません。それは気にしないでください。それより、先程の質問に答えましょう。わたくしが鬼塚様にどのような用件があるのか? その答えとしては、わたくしはあなたにどうしてもお願いしたいことがあってやって来たのです」


 どうしてもお願いしたいこと、か。トナカイさんのお願いだ。出来ることなら叶えてあげたい。僕は動物をもれなくすべて愛している。


「わかりました。トナカイさんのお願いです。僕に出来ることであれば何でも協力します。しかしもちろん内容を聞いてからです。話が長くなるようなら部屋に入りますか? 狭い部屋ですが。12月23日の夜の玄関先は、控えめに言ってすごく寒い」


「ありがとうございます。あなたは心優しい方だ」

  

 このような経緯で、僕はトナカイさんを家に入れた。









🦌ユウキくんとユウキくんのお母さん👦👩


 ここにひとつの母子家庭がある。今時珍しいほど清く正しく美しい母子家庭だ。子供の名前はユウキくんという。母親の名前は忘れた。「ユウキくんのお母さん」と呼ぼう。


 ユウキくんのお母さんは、なかなかに壮絶な人生を送っている。もちろん、すべての人生は各人にとって多かれ少なかれ壮絶なものだが、そのような事実に鑑みても、彼女の人生は平均以上に壮絶だ。


 ユウキくんのお母さんは、3歳の時に両親をいっぺんに亡くした。ちょうど、今のユウキくんと同じ歳の時の話だ。交通事故だった。幼かった彼女は親戚の家に預けられていて、ご両親は久方ぶりの夫婦水入らずのデートに出掛けたところだった。彼らは大きなトラックに潰されてぺしゃんこになって死んだ。


 その事故以来、ユウキくんのお母さんは親戚の家で育てられた。その親戚は彼女に対してとても優しくしてくれた。しかし彼女自身は、そこを自分の居場所だとは感じられなかった。むしろ、自分は「よそ者」だからこそ優しくされているように感じていた。


 無論、その親戚の方々が内心どう思っていたかはわからない。その方々は人に区別を設けない素晴らしい人格者で、彼女に対して真の愛情を持って優しく接していたのかもしれない。しかし事実がどうであれ、彼女は居心地よく思えなかった。だから、高校を出るとすぐに仕事を探して一人暮らしを始めた。


 彼女は仕事を選ばなかった。飲食店の接客もコンビニのレジ打ちもした。治験や絵画製作のためのヌードモデルなど、珍しい仕事もこなした。風俗嬢の経験もある。もっとも、それらの経験は経済的困窮によって不可避的に積まれたのではなく、彼女の好奇心旺盛な性格によって重ねられたものだった。


 彼女は19歳で子供を身籠り結婚した。相手は絵画のモデルの仕事で知り合った画家志望の青年。ごく個人的な芸術的野心に満ち溢れ、フリーターをしながら、解釈困難な抽象的油絵を描き続けている青年だ。つまり、経済的成功とは最もかけ離れたタイプの人間だ。しかし、ユウキくんのお母さんもその青年も、経済的な豊かさにはそれほど価値を見出せない人格の持ち主だったので、青年の低所得は重大な問題とはみなされなかった。彼女らは、金稼ぎよりも、絵画や文学などの精神的な活動に時間を割きたいと考えていた。だからこそ二人は親しくなったのだ。


 そういうわけで、ユウキくんを出産してからも、二人は貧しいながらも慎ましく幸せに暮らしていた。そのような幸福な暮らしは2年続いた。この2年間はユウキくんのお母さんにとって、それまで生きてきた中で、最も幸福で安らかで満ち足りた期間だった。


 今から約一年前、つまりユウキくんが2歳のとき、絵描きの青年は死んだ。またしても交通事故だ。自転車で職場に向かっている最中に、居眠り運転しているトラックにはねられたのだ。彼は大した作品を残すこともなく、この世を去った。


 ユウキくんのお母さんは、21歳にして2歳の息子を持つ未亡人となった。


 彼女はよく夢を見るようになった。精神的なショックのせいで眠りが浅くなったのが影響しているのかもしれない。


 夢の中で、彼女はいつも歩道に立って車道を眺めている。彼女の隣には夫がいる。夫は不意に、唐突に、車道に飛び出す。彼女に何も告げずに。

 その直後に夫は、猛スピードで走るトラックに弾き飛ばされる。彼女は人間がただの肉塊に変わる瞬間を目撃する。


 そこで彼女は覚醒する。心臓は破裂しそうなほど強く拍動し、身体全体には地獄の水みたいに不快な汗が滲んでいる。


 夫の代わりに両親が車にはねられる夢を見ることもある。もっとひどいときには、ユウキくんがはねられることもある。ユウキくんが死ぬ夢を初めて見た日には、覚醒後、息子が無事であるのを確認し、母親はそれから三時間も息子を抱きしめ続けていた。

 彼女はこの一年間、そのような悪夢と付き合いながら生きてきた。


 彼女は悪夢を振り払うようにして育児に励んだ。あるいは、夫の不在が生み出す切なさを埋めるようにして育児に没頭した。育児以外の残りの時間は途方に暮れていた。この一年で彼女は8キロ痩せた。


 そして今年の12月23日。彼女はそろそろ夫の死から立ち直ろうと決意し始めている。もともと彼女は自立心があり、打たれ強い女性なのだ。息子のユウキくんのためにも、いつまでも落ち込んではいられない。母親として強くあらねば。私が息子を守るのだ。彼女はそう考えている。


 ああ、なんと清く正しく美しく、慎ましく力強い女性なのだろう。ところで明日は12月24日、クリスマスイブだ。どうか彼女らに、神のご加護があらんことを!









🦌鳩山さん🕊️


 私はトナカイを部屋に入れた。いつまでも玄関先にいられては誰かに通報されかねない。トナカイと会話している女性がいます!と。警察は信じないかもしれないが。


 トナカイが入るとそれだけで狭い部屋はいっぱいになった。トナカイは見るからに窮屈そうにしていた。当たり前だ。この部屋を設計した建築士もトナカイを入れるシチュエーションは想定していないだろう。そもそもこのアパートはペット禁止だ。数年前にはこっそり猫を飼っていたのがばれて、大家に部屋を追い出された住人もいた。トナカイなんて大物を入れたのがばれたら、大家に日本から追い出されかねない。


 私はトナカイをじっくり観察した。初対面の他人をじろじろ観察するのは礼儀として褒められたものではないが、この際仕方がないだろう。何しろ相手はトナカイだ。人間の礼儀を適用する義理はない。


 トナカイが喋ったとき、まず私はテレビのドッキリ番組ではないかと疑った。どこかの低俗なテレビ局の下品なディレクターが企画した無教養なドッキリ番組ではないかと。それで、トナカイの身体にマイクが仕掛けられていないか探した。


 しかしマイクはどこにも見当たらなかった。トナカイの声は正真正銘トナカイの口から発せられていた。世の中には不思議なことがあるものだ。それとも小説の読みすぎで私の頭が狂ったのだろうか。


 部屋に入るとまずいちばんにトナカイは「先程お電話させていただいたトナカイです」と喋った。

「この度は鳩山様にお願いしたいことがあって伺いました。突然お邪魔してはご迷惑かと思い事前にお電話を差し上げたのですが、取り合っていただけそうになかったので、失礼は承知の上で、アポなしでお宅を訪問させていただきました」


 随分流暢に喋るトナカイだ。アナウンサーになれるかもしれない。しかし肝心な常識を心得ていないようだ。事前にアポを取ったところで、トナカイに訪問されて迷惑でない状況などあり得ない。アポを取ろうが取らまいが、トナカイの訪問はいつだってどんな状況だって迷惑なのだ。トナカイの訪問を歓迎するのはイヌイットくらいなものだ。狩られる覚悟で訪問すればいい。他人の迷惑を思慮するのであれば、そもそも訪問自体を控えるべきなのだ。少なくとも日本の都市部では。


 そのことを伝えると、トナカイは「なるほど。では、次のお宅を訪問する際は事前電話なしで実行したいと思います」と言った。訪問自体は中止されないらしい。ひどい話だ。


「それで、お願いしたいことといいますのが、簡単に申し上げれば、サンタクロースの代理役であります。そうは言っても、世界中の子供たちにプレゼントを配って回るわけではありません。それは本職のサンタクロースの仕事です。鳩山様にお願いしたいのは、12月24日、つまり明日、たったひとつのプレゼントを、ある場所まで運んでいただくことだけです。その場所だってそれほど遠くはありません。何も、エベレスト山頂やサハラ砂漠の真ん中まで運べと申し上げているのではございません。ここからすぐ近くの、歩いて数十分で行けるような場所です」


 私はトナカイの言葉を注意深く聞く。どこかに私を陥れる落とし穴があるかもしれない。しかし今のところ、確かにそれは簡単な仕事に思える。正規のサンタクロースの代わりに、非正規のサンタクロースとして、プレゼントをご近所まで運ぶだけだ。正規のサンタクロースよりも福利厚生は手薄いだろうが、そのぶん責任の軽い簡単な仕事だ。


「その仕事の報奨は?」

「ありません。ボランティアです」


 ボランティア。話にならない。何が悲しくてクリスマスイブに獣に命じられて無償でおつかいをしなければならないのだ。断るに決まっている。しかし、私の意思を見透かしたように、トナカイはやや冷たい口調で意外なことを告げた。


「どうやら鳩山様は、この仕事に対して前向きにご検討していただけていないようですね。しかし残念ながら、あなたがこの仕事を断る選択肢はありません。明日、鳩山様がプレゼントを運ばれることは、既に決定事項です」


 決定事項? 私はトナカイの真意を測りかねる。


「どうして? 正直言って断りたいのだけど」


「トナカイは、あらゆる事柄に精通し、あらゆる力を備えています」


「はい?」

 急に何を言い出すのだ。あらゆる事柄? あらゆる力?


「失礼ですが鳩山様、窓を開けていただけますか?」


 窓を開ける? 


 12月23日の夜は控えめに言ってすごく寒い。こんな夜に窓を開ける人間などいない。いるとすればそいつは極度の暑がりか、あるいは星でも眺めて自分に酔いたいロマンチストだ。無論私は暑がりでもロマンチストでもない。しかしその時のトナカイにはどこか奇妙な迫力があり、私を従わざるを得ない気にさせた。私は指示通りしぶしぶ窓を開けた。たちまち、肌を痛めつけるような寒風が部屋に侵入する。


「さむっ」


 思わず声が出た。外気が部屋に次々に忍び込み、室温を急落させていく。20℃に設定されたエアコンが健気に奮闘し始める。こんなことをして、いったい何になるというのだ。電力を無駄に消費して地球温暖化を推進するだけではないか。


 私はしばらくのあいだ環境問題解決に心血を注ぐNGO組織への弁明について考えを巡らせていた。「トナカイに命令されたんです! もうしません! これからはエコな生活を心掛けます!」そんなくだらない台詞を思いついた次の瞬間、私はこの世で最もおぞましい光景を見た。


 バサバサと大きな音を立てながら、窓からハトの大群が侵入してきたのだ。少なく見積もっても10羽以上はいる。ハトたちは思う存分翼をばたつかせて部屋の空気をかき乱す。大群のクルックーだとかポッポーだとかの気色悪い鳴き声が反響し空気を独占する。大量の羽が部屋に散らばり舞い上がる。


「ぎゃああああああああああああっ!!!!」


 私は喉が千切れそうなほどの悲鳴を上げる。トナカイは冷酷な声で喋り始める。


「トナカイはあらゆる事柄に精通しています。もちろん、あなたの弱点にも。鳩山様、あなたは『鳩山』の姓を持っているくせに、ハトが大の苦手だ。そして、トナカイはあらゆる力を備えています。わたくしの一存で、ここにいるすべてのハトを部屋の外に逃がすこともできるし、あるいは、すべてのハトをあなたに一斉に飛び掛からせることもできます。糞をかけさせることだって可能です」


 そう、私はハトが大嫌いなのだ。鳥自体は嫌いではない。子供の頃はインコを飼っていたこともあるし、フライドチキンだって大好物だ。しかし、ハトだけがどうしても駄目なのだ。あの奇妙な首の動き、不気味な丸い目、隙あらば人間の食べ物を奪おうとする強欲な性格。とにかくすべてを、生理的に嫌悪しているのだ。世界で最もおぞましい生物だ。


「わかった! わかった! 何でもするっ! 何でもするからっ! 早くハトを外に出して!!」


 私は精一杯、命を懸けてトナカイに対して懇願する。


「では、仕事に協力していただけますね?」


 私は脊椎を損傷しそうなほど首を高速で上下させて、獣に対して赦しを乞う。これほど屈辱的な事態があるだろうか。


 このような経緯で、私はトナカイに協力することになった。









🦌鬼塚くん👹


「なるほど。明日、プレゼントをひとつ運ぶだけでいいんですね。わかりました。協力します」


 僕はトナカイさんのお願いを承諾した。どうせクリスマスイブには一日中予定もない。それに簡単な仕事だ。


「ありがとうございます。鬼塚様は協力的で本当に助かります」


 トナカイさんは礼儀正しく感謝を述べた。それにしても、このトナカイさんの発言について考えてみるに、どうやら僕以外にもこの仕事を依頼されている人がいるらしい。そしてその人は僕に比較して協力的でないようだ。さっき少し話に出た「鳩山様」という人だろうか。まあいい。僕は自分の仕事をこなすだけだ。


「ところで、そのプレゼントはどこにあるんです?」

「そこです」


 驚いた。気づくとテーブルの上に箱がある。子ウサギくらいの大きさで、青い紙で包装されている。ついさっきまでそんな箱はなかった。まるで空気中から突然出現したみたいだ。


「すごい手品だ。どうやったんですか?」

「トナカイは、あらゆる事柄に精通し、あらゆる力を備えているのです」

 トナカイさんはちょっぴり誇らしげに言う。


「あらゆる事柄に精通? あらゆる力を備える?」

どういう意味だろう。なんだか大袈裟な言葉だ。


「はい。例えば鬼塚様に関する情報も、大抵の事柄は承知しております」

「へえ。どんなことを知ってるの? 教えてよ」

「そうですね。例えば……」

 トナカイさんは少し考えてから、僕に関する情報を並べ立てた。


「鬼塚様は外見にコンプレックスを抱えています。自分の外見は他人に威圧感を与える、と、そう思っています。そしてその考えは概ね正しい。確かに鬼塚様の目つきは他の人よりもいささか鋭く、また、声も極めて低いために、他人に威圧感を与えがちです。身長が190センチを超えていて、逞しい筋肉をお持ちであることも影響しているでしょう。そのような外見のせいで、初対面の方には敬遠されがちではあります。そしてそのせいで、女性に対しても大変奥手です。『鬼塚』の姓を持つことが災いして、子供の頃に『鬼だ! 鬼だ!』とからかわれた経験もあります。しかし、鬼塚様は本当に優しい心の持ち主です。特に動物たちに対する愛情は並々ならぬものがあります。小学校では六年間を通して、常に飼育係を担当していました。今現在は、犬や猫を飼育できないアパートに居住されているため、ハムスターとインコを飼育されています。週末には度々電車を乗り継いで、動物園に通っています。そこで動物たちを一日中眺めるのが、いちばんの趣味です」


 トナカイさんはそれだけの情報を並べると、ちょっぴり自慢気に僕を見た。ちょうどポーカーのプレイヤーが手札を開示して、どうだフルハウスだぞ、といった目で相手を見るように。


「すごいな。本当に何でも知っている」

「ええ」

 トナカイさんは否定しなかった。


「わたくしの能力を示すためとはいえ、先ほどの発言の中で鬼塚様を悪く言うような表現がありました。大変申し訳ございません。しかしもちろん悪気はございません。それに、鬼塚様の良さをわかってくれる女性もいつかきっと現れると、わたくしは信じています」


 巷に溢れる恋占いにはことごとく裏切り続けられてきた僕だけれど、トナカイさんが言うのなら期待してもいいかもしれない。僕は密かに喜んだあと、ひとつの疑問を抱いた。


「でも、そんなになんでも知っていて、なんでもできるのなら、僕に仕事を頼む必要はないんじゃないかな?」


 トナカイさんは優しい声で答える。


「トナカイも万能ではありません。出来ることもあれば、出来ないこともあります。ちょうど、人間たちに個性があり、得意なことと苦手なことがあるのと同じように。この仕事は、鬼塚様、あなたにしか成し遂げられない仕事なのです」


 そう言われると悪い気はしない。がぜんやる気が湧いてきた。元々、クリスマスイブにだって予定はないのだ。友人も少なくて恋人もいない僕は、元来、一年中暇な人間だ。聖夜くらいは誰かの役に立ってもいい。


「明日の15時に、その青い箱を持って家を出てください。そのあとは、気の向くままに辺りを歩いていただいて構いません。その時の状況にあわせて、私が電話で指示します」


「15時? ずいぶん早いんですね。それに、適当にその辺りをぶらぶらしておけばいいんですか? でも了解しました。トナカイさんのことだ。きっと何か考えがあるのでしょう。では、僕の携帯電話の番号をお教えしますね」

 僕はスマートフォンをジーンズのポケットから取り出そうとしたのだけれど、トナカイさんはそれを制するように言った。


「いえ、結構です。番号は既に存じております。理由は……申し上げなくても、わかっていただけますね?」


 トナカイさんは親密な色を帯びた声で言った。実際に表情は動いていないのだけれど、まるでウインクでもしているのが目に浮かぶような声だった。


 そうだった。トナカイは、あらゆる事柄に精通し、あらゆる力を備えているのだ。









🦌ユウキくんとユウキくんのお母さん👦👩


 12月24日、ユウキくんとユウキくんのお母さんは、ショッピングモールに出かけた。お母さんにしてみれば、まだ3歳のユウキくんがショッピングモールでのお買い物をどの程度楽しめるのかについては、多少疑問が残るところではあった。しかし、人が多くて賑やかで、カラフルで素敵な商品が数多く並んでいる場所に行くだけで、ユウキくんは喜んでくれた。


 ユウキくんのお母さんはユウキくんに、おもちゃ屋で見かけたサッカーボールを買ってあげた。ユウキくんは大変喜んだ。ユウキくんのお母さんは、「もしかしたら、ユウキは将来サッカー選手になるかもしれない」などと、幼い我が子に対する愛情が溢れた母親に極めてありがちな、いささか希望的に過ぎる空想を働かせた。


 ユウキくんのお母さんはケーキ屋でケーキをふた切れ購入した。ユウキくん用のチョコレートケーキと、自分用のモンブランだ。これについても、ユウキくんは大変喜んだ。ユウキくんが喜んだのを確認して、ユウキくんのお母さんも喜んだ。自分は母親としての責務を果たせている、というような、実体のない、しかしその時期の母親にとって極めて重要な、安心感を抱いた。


 15時30分頃、彼女らはショッピングモールを後にした。電車に乗り、最寄り駅で降り、自宅までの道を歩いた。


 最寄り駅から自宅までのあいだには、小規模な公園があった。砂場とブランコと水飲み場とベンチがあるだけの小さな公園だ。


 ユウキくんはその公園で、数時間前に母親に買ってもらったサッカーボールで遊びたいと主張した。


 ユウキくんのお母さんは少し迷ったが、彼をそこで遊ばせてあげることにした。日没までにはまだ時間がある。それに、12月の寒空の下ではケーキが傷む心配もない。


 ユウキくんは人生で初めてサッカーボールを足で転がし、実に楽しんだ。お母さんはベンチに座って息子が喜びを発散させる姿を眺めていた。そして、少しばかり自分の人生について考えを巡らせていた。


 夫が事故で死んでから一年が経つ。確かにそれは悲劇的な出来事だった。自分の人生は、全体としては悲劇的な色に染められているかもしれない。しかし、もっと個別的で小さな出来事に注目してはどうだろう。今日、息子と私は思い切りショッピングを楽しんだ。今、息子は私がプレゼントしたサッカーボールで遊んでいる。そしてこれから私たちは、家に帰ったあと、甘くて美味しいケーキを食べる。

 私の人生は、いくつもの幸福な出来事で満たされている。


 ユウキくんのお母さんは強い女性だった。22歳にして、日々の中に埋もれがちなささやかな喜びに光を照らし、暮らしを明るくする術を心得ていた。


 そして12月24日16時頃の公園で、彼女は決心を新たにする。大丈夫。私は大丈夫。息子をきちんと育てていける。私と息子が元気に日々を過ごし、天国にいる夫を安心させてあげること。それこそが、私にとっての人生の目標だ。


 母親が人生についての決意を新たにしていたとき、ユウキくんはサッカープレイヤーとして目覚ましいほどの上達を遂げていた。たった数十分ボールに触っただけで、彼はボールを転がすだけでなく、遠くまで蹴って飛ばす技術を会得していた。まったく、これなら本当に、十数年後には日本代表としてピッチに立っているかもしれない。


 このように、ユウキくんは母親の希望的観測を上回るほどの天賦の才能に恵まれていた。だから、彼がボールを公園の外まで飛ばすのを母親が予測できなかったとしても、無理はない。


 ユウキくんは公園の外まで飛んでいったボールを走って追いかけた。母親は反射的に「危ない」と呟いた。毎晩のように自分を苦しめるあの悪夢がフラッシュバックしたからだ。


 なお、彼女が反射的に発したその言葉は、偶然にも的を射ていた。ちょうど公園の外の車道を、黒い乗用車が走っていたのだ。それも、法定速度を大きく上回るスピードで。


 ユウキくんのお母さんは目の端でその車を捉え、その瞬間、心臓が跳ねた。あの悪夢が現実になろうとしている。母親はこの悲劇的な状況を一瞬で理解する。ベンチから立ち上がる。膝の上に置いていたケーキが地面に落ちる。箱には薄汚い土がつき、箱の中のケーキは形が崩れる。しかし、そんなことに構っている暇はない。


 息子は今にも公園の外に飛び出そうとしている。母親は彼を後ろから追いかけている。まるで、あの世に行くのなら私も一緒に、と追い縋る人みたいに。しかし、母親の手が息子に届くことはない。


 ユウキくんのお母さんは、その一瞬をまるで永遠のように感じる。死にかけた人間はその瞬間を引き延ばしたように長く感じるらしい、というのはしばしば語られる噂であるが、今死にかけているのは自分ではなく息子だ。しかしそれでも、母親はその一瞬を永遠に感じた。何しろ、ある意味では彼は彼女の分身なのだ。いや、自分以上に大切な宝物なのだ。一瞬を永遠に感じたところで、別に不思議ではないだろう。


 ああ、今、私は、息子までもを事故で失おうとしている。幼くして両親を事故で亡くし、結婚してまもなく夫を事故で亡くし、そして遂には、息子までもを。私の大切な人たちは皆、いつも私だけを置いて、先に旅立ってしまう。


 今日は奇しくもクリスマスイブだ。どうか神様。どうか、どうか、息子をお助けください!


 彼女は神に祈った。しかしその次の瞬間には、母親による悲痛な祈りとは無関係に、悲惨な音が12月24日の寒空に響き渡った。


 そう、皆さんもよくご存じのように、この世界に慈悲深き神など存在しない。









🦌鳩山さん🕊️


 12月24日、私はトナカイに指示された通り、15時頃にプレゼントが入った箱を抱えて外出し、でたらめに近所を歩き回っていた。


 それにしても奇妙な指示だ。子供にプレゼントを届けるのであれば、夜にその子の家を訪ねればいいだけではないか。こんなふうに明るい時間帯から目的地も定めずに歩き回るのは、どう考えても徒労としか思えない。しかし指示された通りに動くしかない。そうしなければ、また何をされるかわかったものではない。ああ、あの光景を思い出しただけで鳥肌が立ちそう。


 私は鳥肌を立たせて歩きながらトナカイの能力について考える。確かに、トナカイが奇跡的な力を有しているのは認めざるを得ない。手を使えないくせに電話で喋るのもそうだし、ハトの大群を操ったのもそうだし、それにこの箱。

 私は、自分が抱えているティッシュボックスくらいの大きさの箱に目をやる。この箱だって、まるで無から有を創造するようにいつの間にか机の上に置かれていたのだ。


 私は箱の中身について想像を巡らせる。いったい何が入っているのだろう?包装紙がピンク色であることを踏まえれば、女の子向けのプレゼントである確率が高い。そしてこの大きさ。ビーズとか小ぶりな人形とか、そんなところだろうか。


 そうやって箱の中身について想像を巡らせていると童心が蘇ってきて、心が軽やかになるのを感じた。私にも、ビーズだとか人形だとかに胸を躍らせた時期があったのだ。その頃の明るい記憶が、知らず知らずのうちに今の私を元気づけていることもあるのかもしれない。


 私はプレゼントを抱えながら少しばかり感傷的な気分に浸っていた。しかし不意に、その気分に水をぶっかけるような疑いが自分の中に発生した。


 これは本当に「プレゼント」なのだろうか?


 一度発生したその疑いは私の脳味噌に急速に浸透し、その後もしつこくへばりついて離れなくなった。


 そもそも本当に子供へのプレゼントなのであれば、「近所を歩き回っておけ」という指示にはまったく意味がない。そうであれば中身はプレゼントではないと考えるべきではないか。では中身は何か。


 私は再び箱の中身を検討し始める。しかしその思考はさっきまでのように楽天的ではない。もっと現実的に、実際的に、論理的に考える。中身を知られることなく他人に運ばせたいものとは何だろうか。


 私は絶望的なものを思いつく。爆弾。何らかの爆発物。あるいは違法薬物。何にしても、所持自体が法に触れる類いの品。


 私は最初トナカイを見たとき、テレビのドッキリ番組ではないかと疑った。しかし今では別の疑いが生じている。


 この仕事には犯罪組織が絡んでいるのではないか? 私は知らず知らずのうちにとんでもない仕事をさせられているのではないか? その仮説は考えれば考えるほど真実味を帯びていき、胸の中でゴム風船みたいに大きく膨らみ、より一層強く存在感を主張し始めた。


 心臓が嫌な弾みかたをする。12月だというのに、背中に汗をかき始めた。私は歩くのをやめて空を見上げる。雲ひとつない快晴だ。私は、本当に正しい行動をとっているのだろうか。このままトナカイの指示に従って箱を持ち続けていいのだろうか。こんな箱は放り出して今すぐ家に帰るべきなのではないか。あるいは、警察に駆け込むべきなのではないか。


 私がちょうど自分の身の振り方に疑問を感じ始めていた頃、タイミングを見計らったように電話が鳴った。トナカイだ。私は形式的な深呼吸をひとつして、便宜的に心を整えてから、電話に出る。トナカイに動揺を悟られないように。


「こんにちは。鳩山様。指示通りに動いていただいてますよね?」


トナカイの声に不審な点は見当たらない。冷たい風が吹き回り、私の身体を覆う。まるで冷徹な真相を教示するかのように。身体が勝手に震え始める。落ち着け。この震えは寒さのせいだ。私は出来る限り平常心を装って口を開く。


「はい。プレゼントを持って歩いています」

「どの辺りにいますか?」

「○○公園のすぐ近くです」

「結構です。では、そこで箱を開けてください」

「は?」


ここで箱を開ける? 私が? それは本来子供の役目だろう。私はますます疑心感を強める。脳内の警戒センサーが鳴り響く。おかしい。この指示は明らかにおかしい。安易に従うべきではない。


「どうして私が、箱を開けるの、ですか? これは、子供たちのもの、なのに」


 発声がたどたどしくなってしまった。まるで日本語を習い始めて三か月の外国人みたいだ。平常心を保てていない。上手く喋れていない。トナカイに動揺を感づかれたかもしれない。


「いいから開けてください」


 トナカイは冷たく命令的に喋る。有無を言わせず、私に箱を開けさせようとする。私は勇気を振り絞って疑念をぶつける。


「嫌です。あなた、やっぱりちょっとおかしい。どうしてプレゼントを持ってうろうろさせたり、私に箱を開けたりさせるんですか。何を企んでいるんですか」


「いいから開けろ! 早く!」


 トナカイが声を荒げる。私の心臓が爆発的に跳ねる。絶対に開けられない。この箱は、絶対に、開けられない。


 そう思っていたのに。本心から、そう思っていたのに。それなのに、なぜか私は箱の包装紙を破いている。自分の手が、自分の意思とは無関係に動いている。あまりの恐怖に心が折れたのかもしれない。いや、これもトナカイの「力」なのかもしれない。頭の中にトナカイの不気味な声が反響した。


「トナカイは、あらゆる事柄に精通し、あらゆる力を備えている」


 私は包装紙を道路に破り捨てる。スピードを出しすぎている車が作りだす風に吹かれて、ピンクの紙切れが舞い上がる。安っぽい桃色の残骸が、クリスマスイブの澄んだ水色の空に、桜の花びらみたいなアクセントをつける。


 そして私は静かに箱の蓋を取る。そこには、この世で最もおぞましいものが入っていた。


 ハトだ。白いハトが、手品師の見せ場によって解放されるのを待機しているみたいに、小さな箱に身体を縮めてすっぽり収まっていたのだ。


「ぎゃああああああああああああっ!!!!」


 悲鳴に驚いたハトは箱から飛び出し、クリスマスイブの青空に向けて羽ばたいてゆく。青のなかに浮かんだ白い点はみるみる遠ざかって、どんどん小さくなっていく。


 私は肩で息をする。なんだったのだ、今のは。もう少しで心臓が止まるところだった。


 一息ついてからスマートフォンを確認すると、既にトナカイとの通話は切断されていた。


 本当に、この仕事はいったいなんだったのだろう。やはりドッキリ番組だったのだろうか。


 私は周囲を見回してどこかにカメラがないか探してみたのだけれど、そんなものはどこにも見当たらなかった。









🦌鬼塚くん👹


 12月24日、僕はトナカイさんに指示された通り、15時頃にプレゼントを抱えて外出し、近所を歩き回っていた。


 外出から一時間後くらいに、トナカイさんから着信があった。


「お疲れ様です、鬼塚様。わたくしの指示通りに動いていただけていますでしょうか」

「もちろん。一時間くらい前にプレゼントを持って家を出て、その辺りをうろうろしていました」

「ありがとうございます。ちなみに今はどの辺りにおられるのでしょうか?」

「○○町の○丁目です」

「結構です。では、そこで箱を開けていただけますか?」

「え? 僕が箱を開けるのですか?」


 僕は小さな子供の心情に詳しいわけではないけれど、その役は子供にやらせたほうがいいのではないだろうか。プレゼントの中身を直接渡されるのと自分で包装紙を破って中身を取り出すのとでは、断然後者のほうが非日常感に富んでいて気分は高まりそうなものだけれど。


「はい。鬼塚様が開けていただいて構いません」


 まあ、トナカイさんのことだ。きっと何かの考えがあるのだろう。何と言っても、トナカイは「あらゆる事柄に精通しあらゆる力を備えている」のだ。


「わかりました。では失礼して」


 僕は子ウサギくらいの大きさの箱を覆っている青い包装紙を綺麗に剥がし、蓋を取った。


「わあ。懐かしいな」


 中にはおもちゃのエアガンが入っていた。BB弾と呼ばれる米粒ほどの小さなプラスチック球を飛ばして遊ぶおもちゃだ。僕も昔はよく遊んだ。的当てをしたり、友達と当てあいっこをしたり。これ、素肌に当たると地味に痛いんだよな。ああ懐かしい。確かにこのプレゼントなら、男の子はきっと喜ぶに違いない。


「トナカイさん、いいプレゼントのチョイスですね。これならきっと子供も喜んでくれますよ! あれ? トナカイさん?」


 僕はスマートフォンに向かってトナカイさんの男子への理解を称賛した。でも、そのときには通話は既に切断されていたのだ。僕は、プープーと空虚な音を出し続ける電話を片手に、寒空の下にひとりぼっちで取り残された。寒風が耳をちぎれそうなくらいに痛めつけ、僕は本能的に身体を小さく震わせる。


 これからどうすればいいのだろう。プレゼントを持っている以上、このまま帰宅するわけにはいかない。次のトナカイさんの指示が来るまで、また歩き回っていればいいのだろうか。


 僕はしばらくのあいだ途方に暮れていた。空を見上げる。クリスマスイブの空はどこまでも淡く澄んでいる。


 そうしていると、水色の空のなかに小さな白い点が浮かんでいるのが見えた。あれは何だろう。白い点はどんどん僕のほうに近づいてきて、足元に着陸し、その姿を明らかにした。


 ハトだった。それも、よく公園で大地をつつき回っているような灰色のハトではなく、手品師のシルクハットから出てきて観衆を沸かせるような、真っ白のハトだ。珍しいこともあるものだ。


 僕は、特に深い考えもなしになんとなく、ハトに自分の身の振り方を質問してみた。


「ねえハトさん。僕はこれからどうすればいいんだろう?」


 僕はハトの意思に耳を傾ける。動物たちの声を聞くには、彼らを心から愛し、彼らの気持ちに寄り添い、精神を自分と動物の絆に集中させるのが肝要だ。


「キタ二、ムカエ」


 北に向かえ? 北方向に歩け、とこのハトは指示をしているのだろうか。


「コッチ」


 純白のハトはそう告げると北の空へ向けて飛び去った。僕は再び寒空の下にひとりぼっちでぽつんと取り残される。さて、これからどうしよう。ほんの一瞬だけ考えたあと、僕は決心する。


 仕方ない。どうせこれからどうすればいいのか、僕には見当もつかないのだ。ここはひとつ、ハトの指示に従ってみよう。


 そういうわけで僕は、ハトが飛んでいった方向に歩き始めた。15分ばかり歩いただろうか。純白のハトに導かれてたどり着いたその場所には、いかにも不穏な光景がひろがっていた。


 一箇所に四人の人間が集合している。髪の薄くなった中年男性が一人と、若い女性が二人と、小さな男の子が一人だ。中年男性と一人の若い女性が何らかの口論をしていて、もう一人の女性がそこに割って入ろうとしつつも上手く入れずにおどおどしている。男の子は口論をしている女性の側で泣いている。


 控えめに言って、それはちょっとした地獄絵図だった。怒り、戸惑い、悲しみ…各人の負の感情が彼らの間に渦巻き、クリスマス的な神聖な空気をぶちこわしている。


 僕は、出来ることならそんな人たちとは関わり合いたくなかった。でも、その時の僕はある種の直感に頭を貫かれていた。


 これはトナカイさんの導きなのではないか? トナカイさんは、僕がハトに連れられてここに来るのを予測していたのではないか? ちょうどそこには男の子がいる。エアガンのおもちゃで遊ぶにしてはいささか幼すぎる気もする。しかし、トナカイはあらゆる事柄に精通しているのだ。きっと、トナカイさんには何らかの考えがあるのだろう。僕は彼にこのプレゼントを渡すべきなのだ。トナカイさんはそれを期待しているのだ。


 僕はひとつ深呼吸をする。負のエネルギーを拡散させている人たちの空間に入っていくのは、決して少なくない勇気が要る。しかし、これはトナカイさんの導きなのだ。僕はあそこへ行き、男の子にプレゼントを渡し、彼を泣きやませる役目を与えられているのだ。それが僕の使命なのだ。


 僕は勇気を振り絞って一歩踏み出す。









🦌ユウキくんとユウキくんのお母さん👦👩


 ユウキくんは死にかけている。自分が蹴り飛ばしたサッカーボールを追って、公園の外に飛び出そうとしている。外の道にはタイミング悪く、法定速度を大きく超えて走る黒い自動車が、死神みたいに近づいてきている。しかし、ユウキくんの可愛らしく輝く無垢な二つの目には、その車は映っていない。彼の目にはサッカーボールしか映っていない。すごい集中力だ。将来は優秀なサッカープレイヤーになれるかもしれない。もっとも、生きていたらの話だが。


 ユウキくんのお母さんは彼を引き止めようとする。当然だ。大事な大事な一人息子なのだ。しかし親子の距離は離れすぎている。この世とあの世のあいだくらい離れている。とても手は届きそうにない。だから声で止めようとする。彼女は「危ない」と叫ぶ。いや、叫ぼうとする。しかし極度の緊張のあまり、百メートル先で蚊が鳴くほどの声しか出ていない。もちろんそんな非力な声では彼は止まらない。母親の手も声も息子には届かない。息子は死へ向けて脇目もふらずに一直線だ。


 母親にはもはや成す術がない。彼女にできることは何もない。人間がそういう状況に置かれた時にすることは何か。神に祈るのだ。普段は信仰心など一欠片も持ち合わせていないくせに、こういう時だけは神に祈るのだ。それは彼女も例外ではない。奇しくも今日はクリスマスイブだ。彼女は祈る。どうか神様。どうか、どうか、息子を助けてください!


 しかし残念。まことに残念だ。神はユウキくんに加護を授けない。そう、皆さんもよくご存じのように、この世界に慈悲深き神など存在しない。だから次の瞬間には、母親による悲痛な祈りなどとはまったく無関係に、悲惨な音がクリスマスイブの寒空に響き渡ることになった。






「ぎゃああああああああああああっ!!!!」






 どこかで発せられたその女の悲鳴は、クリスマスイブの冷たい空気を鋭く激しく振動させた。その振動は先ほど母親が発した蚊みたいな声とは比較ならないくらいユウキくんの鼓膜を強烈に刺激した。その刺激を受容した彼は瞬間的に足を止めた。それはいかにも3歳児らしい、極めて本能的かつ動物的な反応だった。ユウキくんは死への行進を中断し、彼に蹴り飛ばされたサッカーボールだけが安全圏から外に出た。ちょうどそこに走り込んできた黒い自動車は、ボールを轢き潰し破裂させた。死を連想させるような破裂音は、ユウキくんの腹を殴るように響いた。ユウキくんは泣き出した。それも無理はない。謎の女の悲鳴に驚愕し、目の前で大切なボールが壊れて落胆し、その破裂音に度肝を抜かれたのだ。それほどの鮮烈で多様な感情を一時に味わえば、幼い子供は普通泣く。


 すぐさま母親は泣いている我が子の元に駆けつけ、彼を抱きしめる。腕の中に包まれている確かな温もりを実感する。まだその温もりがこの世から失われていないのを肌で感じる。


 黒い自動車も急ブレーキをかけて停止する。運転手の男が親子の元へ走って寄っていく。その男を確認したユウキくんのお母さんは、つい彼に怒鳴ってしまった。


「こらぁっ!! スピード出しすぎだろうがこのクソハゲ親父!!」


 これも無理からぬことだ。目の前で我が子が死にかけた直後なのだ。少しばかり感情的になってしまうのを責めることは誰にもできない。しかしこの発言が火種となり、この後、子供たちのためのささやかな公園は、大人たちのための熾烈なバトルフィールドと化す。やれやれ。感情というのは厄介なものだ。









🦌鳩山さん🕊️


 プレゼントを開封して絶叫したあとの私は5分から10分ほど、うろうろと歩きながらきょろきょろと周囲を見渡してどこかにドッキリ番組を撮影している隠しカメラがないか探していた。しかしそんなものはどこにも見当たらなかった。その代わりにカメラよりももっと興味深い光景を見かけた。奇妙で不穏で刺激的で滑稽な光景だった。


 公園で若い女性と髪の薄い中年男性が口論をしていたのだ。しかも女性の側では小さな男の子が泣いている。女性は男性に向かって「ハゲ!」だとか「お前が死ね!」だとか罵り、男性は女性に向かって「うるせえ!」だとか「母親ならちゃんと見とけ!」だとかの発言で応じている。男の子は大人たちの口論のせいか、あるいは何か別の原因があるのか知らないが、どんどん泣き声を大きくしていくばかりだ。クリスマス的な聖なる空気をはねつけるように、その空間だけが異様な雰囲気を醸し出している。何なんだろうこれは。『救えない人々』とか『地獄的混沌』とかタイトルをつければそのまま映像作品にもなりそうだ。


 なんだかあまりにも悲惨な光景だ。私は彼らを不憫に思って、仲裁役を買ってでた。


「ちょっと! どうしたんですか? 二人とも?」


 中年男性と若い女性は同時にこちらを振り向く。どちらも鬼の形相だ。『鬼の父娘』なんてタイトルの絵画にもなりそうだ。一瞬、仲裁しようなどと考えたことを後悔する。しかしもう後には引き返せない。私はもう一度問い直す。


「どうしたんですか?」


 彼らは口々に喋り倒す。二つの怒声がハーモニーを奏でる。伴奏は男児の泣き声だ。私は聖徳太子みたいに冷静に平等に彼らの言い分を聞き取った。


 どうやらこういうことらしい。男の子がサッカーボールを公園の外に蹴り出した。そこに男性が運転する車が走ってきた。男の子は危うく轢かれるところだった。母親である若い女性は男性のスピード違反を糾弾し、中年男性は母親の監督不行届を糾弾している。


 私は頭を悩ませる。まず男の子に責任は問えない。母親の監督不行届については指摘できないこともないが、常に目を光らせて警戒を怠るなというのも酷な話だ。男性の速度制限オーバーは道路交通法に違反している。これは確かに落ち度がある。しかし最も悪いのは、公園に適切な柵を設置していなかったり、あるいはボール遊びを禁止するなどの措置を怠っている、公園を管理する地方公共団体だ。地方公共団体の怠慢のお陰で、クリスマスイブの寒空の下で税金を納める善良な市民たちがいがみ合っているのだ。まったく救いのない話だ。


 私は途方に暮れる。大人たちの言い争いはとどまる様子がない。恐らく、二人とも一旦怒ってしまった手前、引っ込みがつかなくなっているのだ。そうして口論はますますヒートアップしていく。男児の泣き声もますます大きくなっていく。感情の高まりが感情の高まりを呼び起こすトリガーとなりその積み重ねがスパイラルにはまり、今にも暴力にまで発展しかねない勢いだ。もはや警察に通報すべき段階だ。空気はこれ以上ないほど緊迫していた。


 そう、私はそう思っていた。「空気はこれ以上ないほど緊迫していた」と、そう思っていた。言い換えれば、「これ以上に緊迫した空気はない・空気の緊迫度合いはこれが最大限だ」と思っていたのだ。しかしそれはとんだ誤りだった。世の中にはそれより遥かに緊迫した空気がいくらでも存在することを、私はこの後思い知る。









🦌鬼塚くん👹


 僕はひとつ深呼吸をする。負のエネルギーを拡散させている人たちの空間に入っていくのは、決して少なくない勇気が要る。しかし、これはトナカイさんの導きなのだ。僕はあそこへ行き、男の子にプレゼントを渡し、彼を泣きやませる役目を与えられているのだ。それが僕の使命なのだ。


 僕は勇気を振り絞って一歩踏み出す。









🦌鳩山さん🕊️


 「どうしたんですか」


 男のドスの効いた低音は、その場に集合している人間たちのみぞおちに屈強な拳をめり込ませてえぐり込むように響き、無惨に声帯を潰されたかのように瞬時に大人たちを黙り込ませた。


 男が近づいてくる。年齢は二十代半ばといったところか。身長が二メートルはあろうかというほどの大男で、その肉体は隆々と膨らんだ筋肉に包まれている。白いTシャツに薄いコートを羽織っているが、コートの上からでも筋肉の密度は確認できる。頭スポーツ刈りで、三人は殺していそうなほど目付きは鋭い。どう好意的に見たって善良な市民の顔立ちではない。明らかに反社会的組織に属している人間の顔だ。確実に幾度もの修羅場をくぐってきた人間の空気だ。もはや禿げた中年男性の迫力なんてのはミジンコにしか見えない。ミジンコとティラノサウルスくらいの圧倒的な力量差だ。


 大人たちのあいだに、これまでとは別次元の緊張が走る。生命の存続が関わっているのを自覚した人間だけが感じる種類の緊張だ。男の子も本能的に危険を感じたのか、泣き声を暴力的なまでに荒げる。


 私は確信し、戦慄する。やはり私が箱を開ける前に打ち立てた仮説は正しかったのだ。私がこなした仕事は犯罪組織絡みのものだったのだ。そしてこの男は用済みになった私を始末しに来たのだ。


 私はあまりの恐怖に男と目を合わせられずうつむいてしまう。その瞬間、とんでもないものを目にする。心臓が悲劇的に縮こまり、反射的に唾の塊を呑み込む。


 男の右手には拳銃が握られていたのだ。私の背筋が凍りつく。ほとんど息が止まる。押さえようもなく全身が震える。男の発する威圧感に心臓を握り潰されそうだ。男は本気で私を消すつもりだ。


 ほどなくして他の大人たちも拳銃の存在に気づいた。その瞬間は私にも伝わる。顔がひきつり、喉が音を鳴らし、瞳が虚空を見つめ始めるからだ。この瞬間、真の「これ以上ないほど緊迫した空気」が私たちを覆った。その場にいる四人の大人は全員黙り込んでいる。私も喋らない。若い母親も喋らない。中年男性も喋らない。大男も喋らない。しかし、大男は喋ることなく、その身体と顔と拳銃でもって、この場の全てを支配している。男の子の悲痛な泣き声だけがクリスマスイブの澄んだ空に響き渡る。


 最も行動が早かったのは母親だった。彼女は息子を力強く抱きかかえ、「すみませんでしたぁっ!」と叫ぶと目にも止まらぬ速さで走り去った。その後に続くようにして、中年男性が「ひっ」と情けない声を漏らし、薄くなった髪をはためかせながら逃げていった。そう、私がどんなに手を尽くしても仲裁できなかった口論を、この男は「どうしたんですか」の一言だけで強制終了させたのだ。


 私の身体は完全に硬直し、足が地面に釘で打ち付けられたように動かなくなった。男はこちらを見つめている。やはりターゲットは私らしい。見られているだけで死にそうだ。心臓を口から吐き出しそうだ。私は神に祈る。せめて楽に死なせてください。コンクリに詰められて東京湾に沈めるだとか、富士の樹海の奥深くの木に縛り付けて放置するだとか、そういうのだけは勘弁してください。









🦌鬼塚くん👹


 誤解を解くのには慣れていた。こういう事態は今までにも百万回くらい経験している。僕は免許証を提示して名前と住所と生年月日を明らかにし、暴力団等の犯罪組織に属してもいないし税金も真面目に納めている善良な市民である事実を主張した。僕が持っているのも拳銃などではなく単なるおもちゃのエアガンであることも示した。


 一通りの誤解が解けると彼女は大きな溜め息をひとつ吐いて、「どうしてあなたみたいな人間がそんなものを持ち歩くの!? 紛らわしいだろうが!」と怒った。ごもっともだ。「トナカイから預かったのだ」と答えると彼女は「トナカイ!」と探し物を発見したかのような反応を示した。









🦌鳩山さん🕊️


 私たちは互いの情報を共有した。会話を進めるうちに、私たちが似たような出来事に巻き込まれていることが判明した。具体的には次のような共通点があった。


 12月23日の夜に突然トナカイが自宅を訪問してきた。トナカイに、クリスマスイブの午後にプレゼントを持って近所を徘徊するよう「お願い」された。プレゼントはいつの間にか部屋に置かれていた。トナカイは「あらゆる事柄に精通しあらゆる力を備えている」と告げた。本日12月24日の15時頃、私たちはプレゼントを持って外出した。外出から何十分か後にトナカイから電話があり、プレゼントを開封するように命じられた。私が預かった箱には白いハトが、鬼塚くんが預かった箱にはおもちゃのエアガンが入っていた。箱を開けた直後にはトナカイとの通話は切断されており、連絡がつかなくなっている。


「結局、この一連の不思議な計画の目的は、いったい何だったんだろう?」


 鬼塚くんは、私たち二人が抱える疑問を言語化した。私は既に、彼が醸し出す威圧感に慣れてしまっていた。確かに顔と声はちょっとアレだが、悪い人ではなさそうだった。


「僕はあの男の子にプレゼントを渡す役割を与えられていると思ったんだ。でも、その役割も果たせなかった」


 鬼塚くんは落胆した様子で言った。


「いや、たぶんあなたは役割を全うしたのだと思う。彼らの口喧嘩は、今にも暴力に発展しそうなくらいの勢いだったから。エアガンを持ってそれを止めるのが、鬼塚くんの役割だったんじゃないかな」

その凶暴な外見を活用して、という言葉はもちろん口に出さないでおいた。


「それよりもわからないのは私の役割。ハトを持たされて悲鳴を上げるのに何の意味があったんだろう?」


「ああ、それならわかる。僕は鳩山さんが飛ばした白いハトの声を聞いて、ここまで導かれたんだ」


「ハトの声を聞く? どういう意味?」


「僕は動物が大好きで、耳をすませば彼らの声を聞き取れるんだ」


「何その能力!?…そんなに動物が好きなんだ」

世の中には不思議なことが色々とある。


「うん、好き。毎週動物園に通うくらい」


「そのか…へえ、いい趣味だね」

危うく「その顔で?」と訊くところだった。


 私たちは会話を交わしながら、何の変哲もない住宅街をしばらく並んで歩いた。もうじき陽が沈んで辺りが暗くなり始める時間だ。ずらりと一直線に並んだ家々の窓からは、温和で安らかな光がほのかに漏れている。


 私は歩きながら、今回の出来事について自分なりに考えをまとめていた。


 トナカイは鬼塚くんにエアガンを託し、私にハトを託した。鬼塚くんはそのエアガンを活用して喧嘩を止める役割を任され、私は鬼塚くんをその場所まで呼び寄せる役割を任された。しかし、それならば何も「ハト」でなくても良かったはずだ。インコでもカラスでもフクロウでも、鳥であれば役割は果たせたはずだ。それなのに、どうしてわざわざ私の苦手な「ハト」が入っていたのだろう。私があの瞬間にあの場所で絶叫する必要があったのだろうか。それとも、単なるトナカイの嫌がらせだろうか。わからない。トナカイとの連絡が途絶えた以上、真相は既に闇に葬られてしまった。


 私は途方もない無力感に苛まれつつあった。誰かにチェスの駒みたいに操られていた感覚があるのに、それでいてプレイヤーの意図の全容を把握できないようなもどかしさに包まれていた。そのもどかしさは、神の采配によってこの世に配置された生物たちが、決してその真意を理解することもなくやがて死にゆく、マリオネット的世界観を連想させた。そんことを考えていた私は、つい形而上的な疑問をこぼしてしまった。


「ねえ、神様っていると思う?」


 鬼塚くんが、解読困難な抽象画でも観賞するような目で私をじっと見た。それもそうだ。出会ったばかりの男女が交わす会話としては、「神の存在」などという重厚な話題はどう考えてもふさわしくない。それでも彼は誠実に答えてくれた。


「わからない。僕は本気で、世界中のみんなが幸せであってほしいと思っている。でも、現実にはそうはならない。いつだってどこにだって、目を凝らせばいつもどこかに不幸ははびこっている。そういう事実に気づいてしまうと、慈悲深い神様なんてどこにもいないんじゃないかって思うこともあるよ。ただ……」


「ただ?」


 鬼塚くんは微笑んで言った。こわもての顔をくしゃりと崩して。


「ただ、少なくともトナカイはいる」


 私は同意せざるを得ない。「神はいるか?」「トナカイはいる」。そのやり取りは、私たち以外の第三者にはさっぱり意味不明な禅問答にしか聞こえないだろう。でも、私たち二人のあいだでだけは、秘密の合言葉みたいに親密な響きを含んでいた。


「そうね。確かにトナカイはいる」


 私は首肯した。暗く深い無力感の沼に、ほんの一杯の温かいミルクを注がれたような、そんな気持ちで。


「ところで夕飯はまだ食べてないよね? せっかくだから一緒にケンタッキーにでも行かない? 日本のクリスマスといえばチキンだ」


 鬼塚くんはそんな提案をした。年頃の男女がクリスマスイブに出向く外食店としては、ケンタッキーというのはいささかロマンス的雰囲気に欠けるのは否めない。でも、場所なんてどこだっていい。私たちには話すべきことが山ほどあるような気がする。それに、ケンタッキーは意外と穴場かもしれない。洒落たレストランなんかは当日に予約しても満席だろうし、クリスマスイブにフライドチキンを食べようとする家族は大抵テイクアウトするだろうから、店内は空いているかもしれない。


「いいね。ハトは大嫌いだけど、フライドチキンは大好物なんだ」


 私と鬼塚くんは、近所に店舗を構えるケンタッキーを目指して歩き出す。クリスマスイブは、本格的な夜に突入しつつあった。夜風はとても冷たかったけれど、今はその冷たさもなんだか心地よく思えた。









🦌ユウキくんとユウキくんのお母さん👦👩


 ユウキくんのお母さんはユウキくんをおぶって帰路に着いていた。ユウキくんは母親の背中の上で安らかに眠っている。一時に色々な出来事を経験しすぎたし、あまりに長時間泣いたので、3歳児の彼はひどく疲れきっていたのだ。もちろん、その疲労は母親にしても同程度か、あるいはそれ以上に蓄積していたが、息子を無事に家に連れ帰らなければならないとの使命感が、彼女の脚を力強く動かしていた。彼女は背中に三年分の生命の重みを感じながら、着々と自宅に近づきつつあった。


 家に辿り着いた彼女は、ほっとひと息つく。何はともあれ、無事帰宅したのだ。そして玄関のドアを開け、そこに置かれている意外なものを目にする。


 サッカーボールとケーキだ。サッカーボールは日中に購入したものとまったく同じだったし、ケーキもやはり日中に買ったのと同じチョコレートケーキとモンブランだった。形も崩れていない。


 彼女は不思議に思う。サッカーボールは自動車に轢かれて破裂したし、ケーキは公園に落として置いてきてしまったはずだ。どうしてそれがここにあるのだろう。それも綺麗な形のままで。


 もしかしたら、さっきまでの出来事は全て幻だったのかもしれない。息子が死にかけたのも、運転手の男と喧嘩したのも、ヤクザから命からがら逃げたのも、すべて夢だったのかも。そう考え始めると、確かにそれらの出来事は、どれも現実味が欠如しているように思えてくる。


 あるいは、と彼女は考え直す。あるいは、天国にいる夫と両親が、息子を護り、さらにはプレゼントを届けてくれたのかもしれない。サンタクロースの代わりとして。そして、神様の代わりとして。


 彼女は、12月24日の厳しい寒さにも関わらず、庭に出て、空を見上げた。ひと足先にあの世に旅立ってしまった彼らに、感謝を伝えようと思ったのだ。外はもうすっかり暗くなっている。


 トナカイのような形をしたシルエットが夜空を駆けていったようにも見えたが、きっと気のせいだろう。




 おしまい!

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トナカイにサンタクロースの代理を依頼された。 @mame3184

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