外伝 サウディードの「預かりもの」④
日は、ただ過ぎていく。
やがて季節は冬になり、サウディードの中庭にも霜が降りるようになった。南国育ちの研究員たちは悲鳴を上げ、敷地内の移動のために分厚いコートが支給された。
寒さに弱いクリスも毎日震えていたが、元々北の生まれのアルウィンは慣れているらしく平気な顔で出歩いていた。それがまた、彼女の癪に触る。
「あんた…風邪ひかないの、そんな格好で」
そう訊ねると、きょとんとした顔で言う。
「まだ、そんなに寒くないと思うけど…」
「絶対おかしいわよ。皮膚が分厚すぎるんじゃないの? 神経が通ってないとか」
見かけるたびにそんな嫌味を軽く言ってみるのだが、既に慣れてしまったのか、本人は、笑っているだけだ。
空は灰色に曇り、重たい雲がたれこめている。風は冷たく、今にも雨になりそうだというのに。
その日、すれ違いざまに声をかけたのは、コートも着ずに出歩いていたからではなく、普段と違う場所で見かけたからだった。図書館や語学研究棟のある区画ではない。兵舎や天文台のある、サウディードの外れのあたりだ。
「どこ行くつもり? そっち、立ち入り禁止でしょ」
「オーサのところに行くんだ」
「は?」
オーサに酷く殴られて、肋骨まで折る重傷を負ってから、まだ半年にもならない。あの頃の傷は癒えたとはいえ。
「あんた馬鹿じゃないの。今後こそ殺されるわよ」
「そんなことないよ。もう何度もお願いしてるし――」
「は? 何度も? って、一体何を…」
「お、来た!こっちだよ!」
向こうで赤毛のがっしりした女性が手をふっている。こんな天気だというのに、相変わらず腕も足もむき出しのままだ。
「うっわー…おかしい人がもうひとり居るわ…。」
もっとも、他の兵士たちは普通に寒いらしく、庭で訓練している兵の数は少ない。
「オーサ、どういうこと? 何でこの”預かりもの”を呼び出したりしたの」
「なんだい、あたしゃ、そこの坊やにお願いされたから訓練に付き合ってやってるだけだよ。」
「えぇ…?」
クリスは少年のほうに目を向ける。
「稽古をつけてもらってるんだ。その…護身術っていうか」
「まあ逃げ方だね」
と、オーサ。
「このあたしの一発をまともに受ける奴が阿呆なのさ。避けりゃいいんだよ。避けりゃ」
「…それを、一度は殺されかけた相手に頼むわけ?」
呆れてよいのか感心するところなのか、クリスは判断に困っている表情だ。
「まあ、そこで見てなって。最近じゃ少しはマシになってきたんだからさ」
言いながら、オーサはアルウィンに訓練用の剣だけを投げて寄越す。アルウィンのほうは、今日は防具をつけていない。意味がないことを知っているからだ。
じっと立っていると寒さで凍えそうだったが、興味に負けてクリスはその場に残ることにした。興味もあった。オーサが、特定の個人に稽古をつけることなど今までなかった。
向き合えば、体格差は一目瞭然。女性とはいえ巨人族のオーサは、歳の割に小柄なアルウィンの倍どころではない。
「それじゃ、最初は軽くいくよ!」
軽く、と言いながら、振り下ろされる棍棒の速度はとても目で追いきれるものではない。まともに食らったら吹っ飛ばされる。
土埃が舞い上がる。アルウィンは、その場からほとんど動かずに一撃目を躱した。
「そうそう、前回教えたとおりだ。後ろに下がるんじゃないよ、出来ることなら前に、距離を詰めるんだ」
剣は持っているだけで、使わない。と、いうより使えないのだ。触れれば吹っ飛ばされる。棍棒に触れずに避けること。掠っても、致命傷にならないよう急所は外すこと。これは、そういう訓練らしい。
それにしても、最初の時もそうだったが、アルウィンはこの状況でも真っ直ぐにオーサを見つめている。このオーサの威圧感のある巨体を前にして恐怖しないだけでも大したものだ。そう思ったからこそ、オーサもこの少年に付き合う気になったのか。
二人の額からは、いつしか大粒の汗が滴り落ちていた。
訓練を開始してから、はや小一時間が過ぎようとしていた。
「今回は、このくらいにしておこうかね」
オーサが棍棒を下ろし、汗を拭った。
「ま、だいぶ良くなったよ。」
「ありがとうございます」
「あんたは、体格的に攻撃には向かないからね。武器を向けられたら、まずは逃げることを考えればいい。逃げるのも戦術のうちだよ」
そんなことを言う。
「どうしても、逃げられないときは?」
「その時は…、そうだね。自分から攻撃に行っても勝ち目が薄いなら、あんたは相手の攻撃を待てばいい」
「待つ?」
「そう。相手が向かってくるのに合わせて、自分も攻撃を繰り出す。もちろん相手の攻撃を避けるのが前提だ。そうすることで、相手の速度に自分の攻撃速度を上乗せすることが出来る」
アルウィンは、真剣な顔で聞いている。
クリスはわざとらしく、ひとつ欠伸をした。
「そんなの覚えたって、どこで戦うのよ? あたしもう帰るから。あとは好きにして頂戴」
湧き上がる苛立ち。なぜだろう。母のリーシャやメイザンだけではない、あのオーサまで。
気がつけば、「敵地」のはずのこのサウディードで、「人質」のはずの少年の味方が増えていく。ここへ送られてきたのはたった半年前なのに、今では昔からここに住んでいたような顔をして出歩いている。最初は腫れ物扱いだったのが、この頃では親しげに彼に話しかける者が増えた。
少年のほうも、そんな状況に戸惑ったふうはない。狙ったようにも見えず、ごく自然に、彼はこの町に馴染もうとしていた。
「何よ。あいつは、何も出来ない人質なんでしょ」
早足に立ち去りなから、クリスは呟く。
彼はただの臆病者のはずだった。
アストゥールとの戦いで父親を失っていながら、その立場を引き継いだ直後に一方的に降伏し、王国側の出した条件を全て呑んだと聞いている。前評判では、戦いが怖くてそれを拒否した腰抜けなのだと、自分の命惜しさに命だけは助けてもらう条件で故郷も家も売ったのだと、そう聞いていた。なのに、ちっともそんな風には見えないのだ。
誰に対しても臆することなく立ち向かい、苦手なことでも努力を惜しまない。これでは、まるで――。
本格的な寒さが到来したのは、その数日後のことだった。
霜柱がぱりぱりと音を立て、窓枠が凍りつく。相変わらずの曇天で、太陽の光は一筋も差さない。
「さぁぁむいっっ!」
これでもかというくらい着膨れしたクリスは、居住棟から語学研究棟へ向かう渡り廊下を小走りに歩いていた。この寒さでは、屋外を歩く時間は一秒でも減らしたいところだ。
同じことを考えているのか、どこも出歩いている人々は首を縮めて早足だ。ものぐさな研究員の中には、建物の外に出て部屋に帰るのが面倒で、もう何日も研究棟に篭もりきりの者もいる。
もっとも、それは、単に面倒なだけでなく、ここのところ仕事が立てこんでいるせいでもある。クリスの両親もそうだつた。
詳しい話は聞いていないが、何か王からの至急の依頼があって、大昔のルグルブ族の指導者、ライラエルのことについて調べているらしい。
ライラエルは、自由に未来を見通す力を持ち、アストゥール建国に助力したと言われる、伝説の族長だ。今や伝説と化した「予言者」の話は、一度もサウディードを出たことがなく、ルグルブの故郷イェオルド谷を訪れたこともないクリスですら聞き知っている。
図書館の脇をすり抜けようとしたとき、クリスは、入り口のあたりにアルウィンを見つけた。相変わらず寒さに疎いらしく、いつもの長衣以外は身につけていない。これからいつもの場所で本でも読むつもりらしい。本の保存のためと火気の管理のため、暖房装置の置かれていない図書館は、こんな日は余計に冷えるのだが。
(…なんかあいつ、鈍すぎるんだわ)
寒さにも、敵意にも。そう、多分、それがクリスの苛立ちの原因なのだ。ただひたすら「鈍い」。少しは、同じ年頃の少年たちと同じように、騒いだり喚いたりすればいいものを。
ついでに、いつものように嫌味を言ってから行こう。
クリスは足の向きを変えた。どうせ今日もまた、無反応だろうとは思いながら。
思ったとおりだった。
二階の窓際、ほとんど外と直に接しているような寒い場所で、少年は本を広げていた。腰を下ろしたばかりだったとみえ、近づいてくるクリスにすぐに気づいた。
「あ、クリス…」
「あんた、そんな格好でよく出歩いてられるわねえ。せめて今日くらい、寒いとか感じないの?」
窓の外は、今にも雪が降り出しそうな曇天だ。建物の中にいても息はわずかに白く、ガラスに触れただけで、数秒で指がしびれる。
「見てるこっちが寒くなるんですけど? 上着くらい着たら」
「…うん」
手元にある本は、相変わらず小難しそうな学術書だ。たまには、娯楽小説でも読めばいいのに。クリスは溜息をつき、もう一言くらい、何か嫌味のひとつでも言ってやろうと口を開きかける。
ちょうど、その時だった。
「雪だ!」
誰かが声を上げた。窓の外を見れば、そこには空から舞い落ちる、白いものがある。
「うわぁ…。ほんとに降ってきちゃった」
クリスは、げんなりした声を上げた。
この辺りはアストゥールの国内でも比較的温暖で、雨は多いが滅多に雪になることがない。クリスも、生まれてこのかた、雪を見たことなど数回しかなかった。やはり今年は特別に寒いのだ。
クリスだけではない。雪をほとんど知らない者は、このサウディードには多い。頻繁に雪が降るのは、アストゥール王国の中でも北のごく一部だけ。物珍しさから窓を開けて雪に触れてみる者までいる。
「積もると面倒よねー」
言いながら、ちらと傍らに目をやったクリスは、どきりとした。アルウィンの頬に伝う涙に、気づいたからだ。
声も上げず、ただ涙だけを零しながら少年は、瞬きもせず食い入るように窓の外を見つめている。
「ちょっと… あんた、それ」
「え?」
クリスの声で我に返った少年は、目の前が滲んでいることにようやく気づいたようだった。慌てて目をこすり、呆然としている。
「あれ…何だろう、どうして」
拭っても拭っても、涙は次から次へとこぼれ落ちてくる。大粒の一滴が、ぽたりと音をたてて本の上に落ちた。
「雪を見てたら急に」
その涙は、アルウィン自身にも制御できないようだった。
「雪がどうかしたの?」
「雪…、クローナにも、ちょうど今頃、雪が降るな、っ…て…」
そう言ったとたん、感情の緒が切れてしまったかのようだった。
言葉が途切れ、低い嗚咽へと変わった。
雪は、遠い故郷の冬を思い出させた。
毎年、このくらいの季節になると降りはじめ、町を、周囲の山々を閉ざす雪。すべてを白銀に変えて――。
抑えてきた感情が涙となって溢れ出す。もう二度と戻れないかもしれない故郷、もう二度と逢うことはないかもしれない家族。
覚悟はしていたし、分かってもいた。それでも、直面することが怖かった。忘れようとし、考えまいとすることで耐えてきた不安が、堰を切ったように押し寄せてくる。
クリスは立ち尽くしたまま、呆然と、目の前で身を震わせ、声を押し殺して泣く少年を見つめていた。
苛立つほどに平静としていたのは、鈍かったわけではなかった。誰にも、すぐ近くで見ていたはずのクリスにさえ気付かれないように、ただひたすら自分を押し殺してきただけなのだ。
それを知った瞬間、彼女は、自分のしてきたことに愕然としてしまった。
今まで、ひどい言葉で何度も傷つけてきた。痛みを感じていなかったのではない。ただ、耐えていただけ――。
差し出しかけた手を止めて、彼女は自分のコートを一枚脱いで、アルウィンの肩にかけた。
「あとで返してくれればいいわ。それから……ごめん。」
踵を返し、逃げるように図書館を去っていくクリスの瞳にも、悔し涙が浮かんでいた。こんなに近くで見ていながら、何も気付かなかった自分が悔しかった。
その日を境に、クリスは前ほどアルウィンに冷たく接することはなくなった。
出来なくなった、というのが正しいかもしれない。人前で涙を流すことも、声を荒げることもなくても、密かに耐え続けている思いを知ってしまった以上は。
「教えてあげてもいいわ」
ある日、図書館にやってきたクリスは、唐突にそう切り出した。
「ルグルブ語」
アルウィンは本から顔を上げる。
「ほんとに?」
「母さんに言われたし。メイザン先生も、あんたがもっと勉強出来たほうがいいだろうって」
この頃は、クリスも薄々と感じ取りはじめていた。メイザンがアルウィンを呼び出すのは、個人指導のつもりなのだ。かつて王の教育係だったメイザンが王家の子弟でもない一介の少年を直に指導するなど、異例のことに違いない。だが、そうまでさせる可能性を、この少年は持っている。
北の果てクローナの地には、あれ以来不穏な動きはなく、要求された騎士団の解体と武装解除も速やかに行われている。人質としての彼の役目は、終わりつつあった。
サウディードの王立研究院院長、メイザン・グランナールがアルウィンを”リゼル”職に推薦するのは、それから約一年後のこと。
それを受け、アストゥール王シドレクはアルウィンを王都リーデンハイゼルに召還する。「人質」としてではなく、サウディードで学んだ、一人の、王室づきの文官として。
――サウディードの”預かりもの”/了
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