第40話 宵闇の塔

 シェラは、一人で宮殿の北の塔に登っていた。町と反対側、見下ろせるのは鬱蒼とした森と、その間に点々と埋もれた墓標だけ。リーデンハイゼルの北の方角には、大きな町は少なく、明かりはほとんど見えない。平原に点在する農村がいくつか夜闇の中にうっすらと浮かび上がっている。

 背後で足音がした。

 「あれ? シェラ」

振り返ると、アルウィンが塔の中から出てくるところだった。

 「こんなところで何を?」

 「うん、ちょっと…どこも居づらくて。」

ウィラーフは本来の仕事に戻っているし、ワンダは何故か侍女たちに大人気でお菓子など貰って大騒ぎしている。ブランシェはずっと考え込んでいて、一人なりたいと言う。宮殿の中を見て回ろうにもどこもかしこも大忙しで、結局、ここへ辿り着いてしまった。

 「そういう、あなたは?」

 「おれは、サボりかな。今日はもう疲れたよ。誰にも見つからないところで一息つかせてもらおうと思って」

 「あらら…お疲れ様。大変そうだったものね」

アルウィンは、塔の縁石にもたれて、腰を下ろした。

 「風が気持ちいいな。ここは、相変わらず静かだ…」

 「良く来てたの?」

 「戦争が終わって、すぐの頃にね。外出は基本、付き添いがないと出来なくて、時間も限られていたから、ここに」

彼はふと、と寂しげに微笑んだ。

 「クローナは北のほうだから…少しでも風景が見たくて。」

 「それじゃ、昔はここにいたこともあるのね」

 「降伏してすぐの頃、サウディードへ送られる前に、半年ほど。戦勝の凱旋の後は、ずっとこの王宮に監視つきで暮らしていた」

だから、彼がクローナから人質として連れてこられた当時からその座にいる議会の主要な人々や古参の近衛騎士たちは、一度は面識があるはずなのだ。

 「すっかり忘れてるみたいだったわよね。みんな」

 「ああ。防衛大臣なんか特にね。昔は苦手だったな、顔を合わせるたびに嫌味ばかりだったし。ここに居たときが、一番辛かった…」

辛かった、と素直に言えるのは、それがもう、遠い過去になったからなのか。


 シェラは、アルウィンの隣に腰をおろす。

 「今はもう、気にならない?」

 「そうだな。今までも、ギノヴェーア様の秘書として何度も顔くらいは合わせていたのに全然気づかれなくて拍子抜けしたくらいだ。それで慣れてしまったのか、…単に時間が経っただけかもしれない」

アルウィンは、肩をすくめる。

 「もっとも、おれが誰なのか分かってからは、向こうのほうが引いてたけど。」

僅か五年前、それとも「もう」五年も前、なのか。駆け去る年月は嵐の空を流れる雲よりも早く、気がつけば振り返っても過去の姿は朧げだ。

 「…アルウィン。クローナ自治領を復活させてもいい、って話、もう聞いた?」

 「さっき、ブランシェから聞いた。」

沈黙。

 アルウィン自身も、迷っている。王の息子の命まで奪われたあの戦争で、クローナは一方的に悪者にされた。議会は認めるだろうか。認めたして、クローナ「自治領」として新たな義務が課せられることに、町の人々自身が納得するだろうか。それで町は守られたことになるのだろうか。

 「王は、まだ何かを企んでる気がする」

そう言って、彼は立ち上がった。

 「戦力不足なんて理由で、ブランシェたちを巻き込むはずがない。何かそれ以外にも、クローナにさせたいことがあるはずだ。」

 「何かって…。」

答えは返ってこなかった。

 「…先に戻ってる。明日は丸一日会議だし、シェラも早く休んだほうがいいよ」

 「あ」

月明かりのない夜。北の風景は闇に溶け、風は少し冷たい。シェラは、両手を握りしめたまま足元に視線を落とした。

 アルウィンやウィラーフがどれほど悩んでいようとも、クローナと王国のことには立ち入ることが出来ない。


 ふわ、と暖かな風が吹いた。

 「あらあら。そんな顔をして」

聞き覚えのある、ゆったりとした声。シェラは慌てて振り返った。

 「ギノヴェーア様?!」

夜空に白く浮かび上がる姿。長いドレスの裾を風に揺らしながら、塔の反対側の縁の上に王女ギノヴェーアが腰を下ろしている。ついさっきまで誰もいなかったはずなのに。

 「一体どこから? いつからそこに? そんな顔ね」

シェラは、こくこくとうなづいた。そこにいるのが幻でないことは、はっきりしている。髪の結び方、透明な石を連ねたイヤリング、淡い緑色の首飾り、ドレスの裾のレース…、どれもついさっき見たままの姿だ。

 ギノヴェーアは妖しく微笑んだ。

 「アルウィンと話をしようかと思ったのだけれど、忙しそうだったし、あなたと話していたから遠慮したのよ。」

 「それはすみません…って、隠れて見ていたんですか?!」

 「ふふ、ごめんなさいね」

ふわり、と縁から降り立つと同時に、気がつけば彼女は、シェラのすぐ側に立っている。

 「きゃあっ」

 「そんなに怖がらないで。よく見せて」

白い手袋をはめた手がシェラの顎に伸び、ギノヴェーアの不思議な虹を隠した瞳が、シェラの深い藍の瞳を覗き込む。

 「あなた、ルグルブの中でも強い力を持って生まれたのね。自分の意志で未来が視える?」

 「……。」

シェラはギノヴェーアの手を振り払う。

 「あたしに、戦況の占いなんてさせないでくださいね。ライラエルの再来だとか何だとか持ち上げられて利用されるのはもう、うんざり」

 「でも、あなたも知りたいのでしょ? ”エリュシオン”の意味。」

 「…それは。」

未来を視たルグルブは、それを必要とする者に告げることを使命とする。シェラが故郷を旅立ったのも、そのためだった。手がかりには辿り着いたが、使命は、まだ半ばしか達せられていない。答えを知らなければ、彼女の旅に終わりはない。

 「こう考えればいいのよ。あなたは、あなた自身のため、友人たちのためにその力を使うのだと。わたくしも、そのつもりよ」

王女は、続ける。

 「”青き導き手が指し示し”――。ずっと考えていたんだけれど、あの詩って、時系列になっているのではないかしら?」

 「どういうこと…です?」

 「アスタラに伝えられていたのが最も古く、五百年前の時点の出来事。”たとえ大樹が倒れても その根までも枯れぬ限り” ――大樹とは始祖イェルムンレクのことでしょう。王が倒れても、その根、つまりアストゥール王国は続く。

 レトラの詩は、王が倒れた後に過去を懐かしむ。”とこしえに続くかと思われし世も今は過ぎ去り 遥かな誓いの時を待つ”。

 アジェンロゥの詩は、王の死後、王家が二つに別れた後。”イルネスの中つ大地にて ともに出会うその日まで”――詩は、約束のかけらとして各地に散っていった。

 リーデンハイゼルの詩は、その記憶を五百年後に伝えるため、子孫に語り継ぐ。”混沌の海に沈まぬように 忘却の空に散らぬように”。

 そしてクローナの詩が、来たるべき未来に願いを託す。”イルネスの中つ大地にて 誓いの子らは出会うだろう”

 ――最後があなたたち、ルグルブの詩。」

 「”約束の種を植えなさい その樹は希望へと繋ぐもの”…」

 「そう。時系列は、これで正解でしょう、多分ね。クローナの詩とルグルブの詩が五百年後の”現在”なの。だとしたら、この詩を作った人は、未来の”今”、再び”エリュシオン”を手にするために旅立つ人のことが分かっていた気がするのよね。つまり今、この場所に、あなたが居るということを。

 ――”青き導き手”たるルグルブの子孫、つまりあなたのこと」

 「でも、一体、何を視れば? あたし、その人の物から視るのは得意だけど、それ以外は…」

不安そうなシェラの手を、そっとギノヴェーアの手が包む。

 「信じるの、あなたの中の血を。」

 「……でも」

夜の中で異質な、白い輝きを放つ女性の言葉は、逆らいがたい響きを持っている。

 だがシェラは、迷っている。望まざる結果になるかも知れない。視たいものが見えるとは限らない。かつて見た最悪の結末は、何とか回避することが出来た。でもまた、悲劇的な結末を視てしまったら。親しい誰かの死を予言してしまったら?

 「運命とは、諦めた瞬間に捕らえに来るものよ。恐れずに突き進めば、結末は変えられる。恐れないで。」

見つめてくる不思議な瞳のきらめき。ギノヴェーアの独特の雰囲気に呑まれてしまうと、不可能も可能に出来るという気持ちになってくる。


 これが彼女が、”女帝”と呼ばれたる所以だ。

 彼女が本気になってすれば、裏切り者の近衛騎士たちだって簡単に言うなりに出来たかもしれない。


 「…分かりました。試して…みます」

 「ありがとう。」

にっこりと微笑んだギノヴェーアは、風にほつれる細い金髪をかきあげた。その仕草を何気なく視線で追ったシェラは、ふと、違和感を覚えた。幻ではない―― 確かに最初はそう思った、触れる手触りもあった。にもかかわらず、やはりよく見ると今ここにいる彼女には存在感が――

 「どうかした?」

 「いえ。その、…寒くないのかなって」

クローナより南のほうとはいえ、この辺りも夜には冷える。ギノヴェーアは屋内と同じ薄いドレスのまま、風に吹かれている。

 「ふふ。考えていることは分かるわ、不思議でしょう? わたくしはね、実は半分は妖精族の血を引いてるの。だから少しだけ、その力が使えるのですよ。」

 「…え」

予想もしていなかった言葉だった。けれど不思議と、その突拍子も無い言葉さえ真実かと思えるほど、この女性は確かに人間離れしていた。

 「わたくしの母親は妖精の国の女王。若い頃、母の助けに応じてやって来た勇者というのがお父様。弟のランスヴィーンの母親は人間でしたけれど。」

 「でも、妖精って… 海の向こうに住むという、お伽話の存在でしょう?実在したとしても、もう…ずっと大昔に居なくなったはず…」

 「あら。人魚の子孫にそんなことを言われるなんて」

ギノヴェーアは、くすくすと笑う。

 「妖精族はね、確かに今ではもう、人と同じ世界には住んでいないわ。森がないと生きていけないのですもの。だけど、はるかな時の流れで多くの森が消えてしまった後も、形を変えてこの世界に生き残っている者たちはいる」

 「あたしたちが、陸に上がったのと同じように?」

 「そうね。けれど、わたくしもいずれ、母の国に帰らなくてはならない日が来る――」

ふと、ギノヴェーアは遠い目をした。

 「でも、王女様はこの国を継ぐ方のはずです。シドレク王が引退なさったら、次の女王は…」

彼女が後継者なのだということを疑う者は、この国にいない。

 「ええ…そうね…」

彼女は、何故か言葉を濁し、それから、少しの間を置いた。

 「わたくしはね。お父様のことも、この国のことも愛しているの。もちろん、いなくなってしまった弟のことも愛していたわ…。だから、この国が無くなってしまうと、とても悲しい。わたくしには未来を視ることは出来ない。出来ることといったら、この世界と向こう側の世界の間で、こうして幻を作ることだけ。――悲しいものね。大昔には戦う力も持っていたはずなのに今はもう」

シェラは何も言えなくなった。サウディードで出会ったクリスと同じだ。大切な誰かのために、いま自分で持っている力で出来ることをしようとしている。けれど、やりたいと望むことの一部は、自分ではどうしても出来ない――。

 「さあ、もう行きなさいな。わたくしはもう少し、ここでやることがあるの」

 「”やること”?」

 「ええ。こうして、遠い場所に自分の姿と声を映しだすのが、わたくしの力。この力は夜にしか使えない」

にっこりと微笑んで、ギノヴェーアは塔から見える遠い地平線に目をやった。

 「わたくしにしか出来ないことは、わたくしがやらなくては、ね。」

 「……。」

風は世界を駆け抜けて、透きとおるような後ろ姿を包んでいく。シェラは足音を忍ばせてそっと塔を降りた。

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