第12話 東方の闇

 「ただいまー」

 宿に戻ってみると、ワンダはまだ眠りこけていた。ベッドの上で丸まっている姿は、遠目に見ると、まるきり大型の犬にしか見えない。

 隣の部屋を覗くと、アルウィンは本を積み上げて机に向かっていた。ウィラーフの言っていたとおり、レトラ語の勉強をしていたようだ。

 「お帰り、どうだった?」

 「楽しかったわ。思ったよりちゃんと案内してくれたし。」

シェラの後ろで、ウィラーフが苦虫を噛み潰したような顔をしている。

 「どうしたんだ?」

 「大聖堂で、東方騎士団の騎士にこちらの姿を見られました。」

 「ああ…。」

アルウィンは、本を閉じながら何でもないというように言う。

 「騎士団の宿舎は、大聖堂の敷地から繋がってる。そのくらいは仕方ない」

 「よりにもよって、相手は女たらしで口の軽いファーリエンです。面倒なことにならなければいいんですが。…ローエンの耳に入るのも、時間の問題ですよ」

 「それも、仕方ない。どうせ、王都で何か大きな会議がある時に顔を合わせるのは避けられない。この町に来た理由を聞かれても、王からの勅命だと言っておけば、それ以上の追求は無いだろう? 心配しすぎだよ」

 「しかし、…」

反論しかけてウィラーフは口をつぐみ、小さくため息をついた。

 「…この町には長居しないほうが良いと思います。滞在するのは数日までにしましょう」

まただ、とシェラは思った。やっぱり彼は、アルウィンと話す時だけはやけに気弱というか、及び腰なのだ。

 窓の外は、もう、とっぷりと日が暮れている。

 家々の窓には灯が灯されているが、表通りの雑踏はひきもきらさず、ちょうどいま町に着いたばかりらしい一団が声高に話し合う声が窓から聞こえてくる。


 ウィラーフは、ふと、その声に耳を傾けた。

 「…街道の封鎖について話していますね。最新の状況が判るかもしれません。ちょっと、行ってきます」

それだけ言い残して、部屋を出ていく。

 戻ってきたばかりだというのに、せわしない。ウィラーフが部屋を出て行くと同時に、アルウィンも窓辺に立って通りを見下ろした。家族連れに、商用らしい商人と使用人の一団。子供の鳴き声、部屋の空きを尋ねる声。それから、街道の封鎖について文句を言っている。

 「訛りのない中央語だな。おれたちと同じ方角から来たのかも」

 「ねえアルウィン、今日ね、塔の上から、レトラ族の集落っていうのを見たの。貧困地区だとか」

 「ああ――。この町の悪しき習慣なんだ。王国は民の平等を掲げているのに、どうしても格差がなくならない」

彼は、小さくため息をついた。

 「見た目が違うとか、言葉が違うとかが原因なの?」

 「そうだな。それと習慣の違い、か。彼らは元々、ここにエスタード帝国が建国される以前から暮らしていた。町を創るからと立ち退きを求められてもがんとして先祖伝来の土地を動かず、それでいつの間にか、虐げられるようになったという。」

そう言ってから、少年は窓の外の一点を指さした。

 「ほら。あれがレトラ族だ。」

ちょうど通りの端を、他の住人より質素な服装をした十歳くらいの少女が一人、大きなかごを下げて、一人とぼとぼと歩いている。

 「外見的にはそう変わらない。なのに、町に住んでいた貴族や特権階級からは差別され続け、煙突掃除や給仕のような地位の低い仕事にしか就けなかった。…彼らだけじゃない。特に理由なく虐げられた人たちは多かった。だからエスタードは滅びた」

 「皇帝の墓が壊されていたのは、見たわ」

 「そう。黄金で彩られていたせいで略奪に遭った、というのもあるが、純粋に民衆からは恨まれていたんだと思う。帝国の最後は、民衆の暴動による内乱だった。旧エスタード領では、内乱をけしかけたのはアストゥールだと信じられているけれど、仮にそうだとしても、原因は元々、この国の中にあったんだ。」

アルウィンの説明は、丁寧で分かりやすい。ぶっきらぼうなウィラーフとは大違いだ。


 ふんふんと頷きながら聞いていたシェラが、もう少し詳しく聞くために質問しようとしていた時だ。

 窓の外で悲鳴が上がった。幼い少女の声と、男の怒声。

 「おい、お前! 何てことをしてくれるんだ」

見れば、さっき見たレトラの少女が路端に突っ伏していた。籠の中身が路上にぶちまけられ、卵の黄身がべっとりと広がっていた。

 通りかかった人々はくすくす笑うばかりで、手を貸そうともしない。少女とぶつかったらしい男も、顔を真っ赤にして拳を振り上げ、汚れたマントをつまみながら、拳を振り上げて叫んでいた。

 「まずいな」

呟いたアルウィンは、急いで何かを掴みながら部屋の出口へと向かう。

 「ちょっと言ってくるよ。シェラは、ここにいて。」

シェラは頷いて、窓から通りを見下ろした。

 騒ぎを聞きつけて様子を見にやってきた近所の町の人々は、怒鳴られている少女を助けようともせず、顔をしかめ、ひそひそと囁きあいながら遠巻きにしているだけだ。

 少女は唇をぎゅっとむすび、ぺこぺこ頭を下げなから、籠の中身を少しでも元に戻そうと賢明に手を動かしている。だが、割れてしまった卵はどうにもならない。

 「どうしてくれる! 汚したマントの洗濯代、お前が払うのか?!」

 「……。」

 「無理でしょ。レトラにお金なんてないわよ」

 「レトラはあの年で、まともにお使いも出来ないのね」

悪意に満ちた囁きのただ中で、少女は俯いたままだ。そこに、アルウィンが割って入っていく。

 「失礼。これを」

マントが汚れたと喚いていた男の手を掴むと、彼は、何かを押し付けた。

 「何だ、お前は」

 「通りすがりの者です。洗濯代ですよ。彼女には払えないでしょうから、これで静かにしてもらえませんか?」

いきり立っていた男は、アルウィンの瞳にじっと見据えられて狼狽えた。差し出されたのは、滅多に使われない大金貨だ。洗濯代どころか、同じマントが三着は買えるだろう。

 ぽかんとしている男をその場に残し、アルウィンは、周囲を見回して言った。

 「通りは、宿の者に言って掃除させておきます。こんなくだらないことで騒がれると静かな夜が台無しだ。紳士淑女の皆様は、時と場所を弁えられますよう。」

有無を言わさぬ、それでいて、この町の住人たちの自尊心をくすぐるような巧みな言い回しだった。

 そうまで言われては、ここに留まって下衆なやじを飛ばしていることは出来ない。人々は、この奇特な旅人にちらちらと視線を向けながら、三々五々と去って行く。

 上から見ていたシェラは、正直に言えば少し驚いていた。ウィラーフのこともそうだが…、とりたてて人の目を引くところもないようなこの少年は、人を従わせる振る舞い方を心得ているのだ。

 アルウィンは、まだ路上に蹲ったままの少女に目をやった。涙を見せまいと、うつむいたまま歯を食いしばっている。

 「卵、割れてしまったんだね。もう一度、買いに行くお金は?」

彼は優しく話しかけながら、しゃがんで、少女の汚れた手にハンカチを渡した。その中に、そっと銀色のコインを一枚、滑りこませる。

 「”ここは、片付けておくから”」

アルウィンは確かに、二通りの喋り方をした。片方は、聞きなれない言葉。たぶん、それがレトラ語なのだろう。少女の肩がぴくりと震えた。

 「”夜は暗い。足元には気をつけて”」

少女は何も言わず、ハンカチごとコインを握りしめて、籠を振り回しながら暗がりの中へ駆けて行った。お礼の一つも口にしなかったが、アルウィンのほうは、気にした様子もない。


 宿の入口には、既に掃除の準備をした宿の従業員が待っていた。その後ろには、成り行きを見ていたらしいウィラーフがいる。

 「チップを渡しておきました」

 「ありがとう。」

頷いて、アルウィンは通りの掃除を任せて宿の中に入って行く。

 「…申し訳ありません。話し込んでいる間にこんな騒ぎになっているとは。」

 「いや。ちょうどレトラ語を復習していたところだから、試せてよかったよ」

二人の姿が視界から消えた。まもなく、部屋に戻ってくるだろう。

 シェラは、さっき少女が消えて入った路地裏をまだ眺めていた。

 ほんの一瞬のことだったが、この町で暮らすレトラの人々がどんな扱いを受けているのかは、これ以上ないくらいはっきりと理解できた。と同時に、川に寄り添うようにして立っていた、あの集落の意味も理解できた。

 彼らは町の他の場所には住めないに違いない。それが好ましい状況でないのは確かだった。この町に到着した時の浮かれた気持ちは、早くも消え失せてしまっていた。

 (せっかく、見た目は素敵なところなのに…。)

たとえ自分があんな差別はされないにしても、目の前で幼い子どもまで酷いことを言われながら暮らしているのを眺めて暮らすのは、きっと、無理だ。ウィラーフではないが、この町には長居したくないと、彼女も思いはじめていた。




 だが、希望も虚しく翌日も、街道の封鎖が解けたという話は伝わってこず、むしろ町に滞在する旅人たちの数は増えていた。旅に適した季節が過ぎ去るのは早い。間もなくこの辺りにも雨季がやって来る。荒野ほどではないにしろ、雨の続く中を移動するのは、誰だって気が滅入る。

 ウィラーフの話では、焦りを覚えた商隊などがまとまって、直接、騎士団本部に抗議を入れに言っているらしい。それでも埒が明かないのだという。

 「たかが盗賊団相手に、そんなに手こずるものかしらね」

 「どうだろうな…。もしかしたら、本当の理由を隠しているのかもしれない」

アルウィンたち四人は、気晴らしを兼ねてバザールを訪れていた。様々な地方から集まった商人たちが、めいめいの店を開いている。普段なら、活発な商談も行われているはずの季節。街道が使えず、人も物も容易に運べないとあって、ここだけはやや活気が少ない。

 「サラリア街道が使えないとなると、迂回路は海沿いか、山を越えるしかない。どちらにしても遠回りだし、乗合馬車も少ない…」

アルウィンは既に、街道を使わずに先を急ぐことを考え始めているようだった。

 「いっそ、宿を兼ねた馬車を一台、手配したほうがいいかも。おれとウィラーフが交代に御者をすれば…」

 「それはいけません。」

ウィラーフが、慌てて口を挟む。

 「アルウィン様に御者などさせるくらいなら、私が承ります。そういう仕事は私のほうが適任です。」

 「いや、そうは言っても…」

 「…騎士と外交官じゃ、どっちもどっちだと思うけど。ねぇ、ワンダ」

 「うーん、あっちからいい匂いがするぞー」

ワンダは、話を全く聞いていない。

 シェラは、はぁ、とひとつ溜息をついた。「あなたは気楽でいいわね…。」


 そんなやりとりをしながら歩いていると、通りの向こうから数頭の馬がやってくるのが見えた。揃いの馬具をつけ、騎手は白いマントをなびかせている。騎士団の一員なのだろう。他の通行人同様、四人も道の端に寄り、馬が通り過ぎるのを待とうとした。

 ふいの声が頭上から降ってきたのは、馬がすぐ側まで来た、ちょうどその時だった。

 「ああ! 昨日のお嬢さんではありませんかっ」

 「え…」

聞き覚えのある声だった。シェラは、思わず顔を隠しながらあとすさった。目の前に、男が馬から颯爽と飛び降りてくる。

 「またお会い出来るとは… なんという偶然。まさに運命! 昨日は名も名乗られず行ってしまわれるものですから」

 「ああ、あの…」

昨日の騎士、スレインだ。シェラに満面の笑みを向けたあと、彼は、側のウィラーフを、きっと睨みつける。

 「貴様、まだ居たのか。」

 「生憎とな。仕事中だろ?部下が困ってるぞ」

ウィラーフは、スレインの後ろで馬に乗ったまま困惑している二人の若い騎士のほうに顎をしゃくる。

 「騎士にとっては見回りよりも美しいご婦人への奉仕のほうが大事だ。おい!お前たち。先に行ってていいぞ。」

 「はあ…」

連れの騎士たちは顔を見合わせ、困り果てたような表情で、騎手のいなくなった空の馬を引いていく。ウィラーフはもはや、言葉もない。

 「勤務中に堂々とサボりとは…。」

 「ささ、お嬢さん。せっかく会えたからには今度こそお茶を」

 「え、ええー?ちょっと…そんなこと言われても…」

 「お茶するなら、ワンダもいくぞ!」

 「おお、君は何だ?ペットか? よし。ペット君も一緒に行こう!ははは!」

腕を取られ、半ば無理やり連れていかれるシェラを止めるでもなく見送っていたアルウィンだったが、ふと、我に返ってウィラーフのほうを見た。

 「そうか。あれが、昨日言っていた?」

 「…ええ。東方騎士団のスレイン・ファーリエンです。腕は確かですが、あのとおり、素行には問題しかありません。面倒なことになりそうだと言った意味が分かりましたか」

アルウィンは、苦笑した。

 「そうだね。でも、渡りに船――かも。」




 結局、アルウィンとウィラーフも同席することになった。

 お洒落な喫茶店に連れ込まれたシェラは既に逃げ腰で、どうやってこの面倒な男から逃げようかを画策している顔だった。

 「では、あなたと他の連中は旅の連れ… なりゆきということで、特にあの陰気な奴とは何の関係もない、ということですね?」

 「ええ… まあ…その」

スレインは目を輝かせ、うっとりとシェラを見つめている。すぐ側で、がつがつタルトを頬張っているワンダのことすら気にした様子はない。

 「良かった。あなたのようなお美しい方が、うっかり騙されてあんなロクでもない騎士と手に手を取り合った日には、それはもう」

 「…おい。本人が横にいるんだが」

ウィラーフの苦々しい顔に、アルウィンは笑いをこらえるのに必死だ。

 「で? レスロンド、お前は一体何しに来た」

ウィラーフに話しかける時、スレインはあからさまに口調を変えた。ちら、と腰の剣に下げた剣に視線を走らせる。房飾りはないが、近衛騎士の印が刻まれている。

 「…その剣を持っているということは、クビになったわけでもなさそうだな」

 「当たり前だ。お前と違ってサボったこともない。」

 「また、レトラの乞食どもに会いに来たのか?」

むっとして、ウィラーフはティーカップをソーサーに叩きつけた。甲高い音が響き渡り、店員が振り返る。

 「こっちは急ぎの任務の途中だというのに、サラリア街道の封鎖で足止めを食らってるんだ。お前たち東方騎士団が仕事をしないお陰でな。盗賊退治とやらは、いつ終わるんだ」

 「そう。あたしたち、東へ行きたいんだけど」

と、シェラも、出来るだけ困っている雰囲気が出るように声色を作る。やや演技過多だが、スレインくらいの男になら、効果はあるだろう。

 「いやあ、しばらくかかりそうなんですよ、お嬢さん。申し訳ないですけれど…」

 「…質問しているのは、私だぞ。」

スレインは、ウィラーフを無視してシェラにだけに甘い口調で話しかける。

 「シェラさん、もしお急ぎなら、山伝いのラティーナ街道か、海沿いのリエンテ街道を行かれるといいと思います。何なら私がご案内したいところですが、あいにくと町を離れるわけにはいきませんので――。乗り合い馬車を使われてはいかがです? 乗り場までなら、ご案内しますよ」

 「え、うん…でも、どうしてそんな遠回りを?」

シェラは、手で合図を出しているアルウィンのほうをちらちら見ながら言葉を繋いだ。彼が頷く。聞きたいことは、それで合っているようだ。

 「サラリアに近い道は、今のところすべて封鎖ですから」

 「でも、遠回りして余計に日数がかかるのは…。それとも、待っているより早いってこと?」

 「ええ、そのはずです」

 「――そうか」

考え込んでいたアルウィンが、小さく呟いた。「本当の理由は、”カッシア暫定自治区”か…」

 ぴく、とスレインの表情が動いた。シェラに向けていた視線が、少年のほうへ流れる。

 「え、どういうこと?」

シェラは首を傾げている。

 「カッシアは、ノックスのすぐ東にある半自治領だ。昔から定期的に、完全な自治権を求める住人が武力蜂起する。いってみれば、東方の紛争地帯なんだよ」

 「成程。街道を封鎖したのは、紛争鎮圧のため。中央には盗賊団のせいと虚偽の報告を上げて、管理不行き届きの咎を逃れるつもりか」

口元に皮肉めいた笑みを浮かべ、ウィラーフは、吐き捨てるように言った。 

 「東方騎士団らしい、汚いやり口だな。」

 「失礼な。政治犯の逃亡や物資の搬入経路を経つために有効な手段だ。早期解決のためには――」

 「根本原因が解決されていないから、何度も同じことが起きる。抑えつけるだけでは、人を治めることにならんぞ。」

 「偉そうに言うな。中央の人間に何が判る。」

二人の騎士の言い争いは、どこか切実な真剣味を帯びている。これが、”方針が噛み合わない”ということなのだろう。互いの所属する騎士団の間にある溝は、この二人を見る限り、深そうだった。アルウィンは、黙って何か考え込んでいる。

 「――とにかく、だ。」

スレインは、机を叩いて立ち上がった。

 「最低あと一週間、最大一ヶ月は、街道は封鎖だ! 理由が必要なら、山賊でも疫病でも竜でも引っ張り出すまで。…ああ、美しいお嬢さん。あなたにまで不愉快な思いをさせてしまって、すいません。この朴念仁がすべていけないんですよ。ぜひこんどは、ふたりきりで…ね?」

言うなり彼はシェラに向かって投げキスを寄越し、他の三人には見向きもせずに去っていった。

 「うぇ…」

シェラはあからさまに嫌そうな顔をして、投げられたものを窓の外に捨てるしぐさをする。

 「ふん、相変わらず反吐が出るほどのキザ野郎だ。」

ウィラーフは、通りに消えていく騎士の後ろ姿を視界から消えるまで睨み続けていた。

 「時間を無駄にしましたね。」

 「そうでもないさ。シェラのお陰で、街道封鎖の本当の理由を知ることが出来た。ここで待っていても埒があかない、ってことは分かった」

アルウィンは少し考えこみ、通りのほうに視線をやった。

 「リエンテ街道、か…。大きな町が少ないし、このぶんだと、サラリア街道からの迂回路として遠回りしている旅人も多そうだ。誰が御者をやるかはともかく、馬車の手配は考えたほうが良さそうだな。頼めるか? ウィラーフ」

 「分かりました。明日の朝までには手配します」

それだけ言って、ウィラーフは席を立って店を出ていく。


 残る三人は、まだ店の中に留まっていた。

 スレインは、一応の義理かお茶とケーキの代金だけは引き受けてくれたようで、少なくとも勘定を気にする必要はない。ちょうど、ワンダが最後のケーキのかけらを飲み込もうとしているところだ。

 「いいの? カッシア暫定自治区ってところのこと、ほっといて」

シェラは、そっと隣の少年に尋ねる。

 「ああ。あそこは今のところ正式な自治区ではないし、特殊な言語や風習を持つ少数民族ではないから”リゼル”が交渉する範囲外なんだ」

 「そう…なんだ。」

 「それに、既に戦闘が発生している場所では、外交官に出来ることは何もないよ。何か出来るのは、武人だけだ」

彼は、少し声を落とした。「自分の無力さが、時々、虚しくなるけどね。」

 「――あたし、よく判らないんだけど、王国ってどこも平和ってわけじゃないのね」

 「広い国だからね。それに…東方騎士団の管轄は、もとエスタードの領地とほとんど重なっている。エスタードが抱えていた問題の多くが、未解決のまま引き継がれている。」

 「今はアストゥールの一部でも、元が違うってことね。でも五百年も経ってるのに…」

 「……。」

アルウィンは、何かを思うように窓の外を見やっている。

 五百年の因縁。時を越える人の思い。

 恨みや憎しみのために時を数えることは出来るのか、というのは、かつてディーと交わした会話そのものだ。この辺りの地ではまさに今も、五百年前の過去が引きずられ続けている。

 「プぁ!」

ワンダが、最後の一切れを食べ終えた。

 「ございますー、だぞ!」

 「…それを言うなら『ごちそうさま』だ。」

 「あっ。えーと、ごちそうさまっ! おいしかったぞ。…あれ? ゴハンくれた奴はどこだ?」

 「もう、行っちゃったわ。さ、あたしたちも出ましょ。」

きょとんとしているワンダをよそに、二人は席を立った。

 あとは、ウィラーフがうまく馬車を手配してくれさえすれば、この町を出られるはずだった。

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