第4話 谷の襲撃者
天幕を出ると、すぐにディーの傍らに屈強な男が二人、駆け寄ってきた。最初に長と面会した時に、後ろについて来ていた武装した護衛たちだ。これが、さっき言っていたギスァとサイディらしい。
ディーは、はるかに年上の彼らにハザル語で何かを指示し、リゼルたちのほうに向き直った。
「これから、セノラの奥にある”古えの祭壇”へ向かう。この先は馬では少々、走りづらい。あれを使う」
少年は、仮ごしらえの集落の片隅で一塊になっている薄いクリーム色の毛をした獣たちのほうを指差した。
「あれって、砂ラバ…だよな? 一度も乗ったことが無いんだが…」
「そんな不安そうな顔をするな。二人乗りだ。御者はこちらの三人で務めよう。乗り慣れないと少し辛いかもしれないが、慣れれば快適だ」
同行するギスァたちが、準備を整えて戻ってきた。水と食料、寒さを凌ぐための衣類。夜までは、まだ少し時間がある。
「日が暮れるまでには近くに行けるはずだ。」
六人は二人ずつに別れ、砂ラバに乗った。乗り慣れない三人は、後ろに一人ずつ同乗させてもらう。
初めて乗る砂ラバの背は馬に比べると硬く、座るまでが一苦労だったが、いざ動き出してみると、ごつごつした岩の上を歩く速さはなかなかのもので、人間の足で歩くよりも遥かに速く、確かに乗り心地も悪くない。
灰色の荒野の中を、砂ラバは軽快に走ってゆく。
湖からは、かつて流れ込んでいた川を遡上するような道のりだ。この辺りはもう、呪われた「竜の谷」の入り口に近い場所のはずだと、シェラは思った。旅人たちは近づきたがらない。道もない。地形から向かうべき方角を正しく読み取れるのは、この辺りに慣れたハザル人以外にはいないだろう。
それにしても、谷の入り口は、想像していたよりはずっとマシな場所だった。
行く手には枯れ果てた黒い川底だけが続いていて水は一滴もないが、岩陰には、僅かに草や苔の類が生えている。雨水を頼りに生きているのだろう。それに、時折、崖に巣を作る鳥などの小動物の姿もある。
「町の人たちの話を聞く限り、この辺りは死の大地みたいな印象だったけど、そうでもないのね」
シェラは、同乗しているディーに話しかける。
「昔に比べて良くなったと聞いている。百年前までは、この辺りも雨が降るたびに毒が流れていたそうだ」
「水に毒が混じっている、っていうあれ? 本当なの?」
「本当だ。谷の奥の水場は複雑で、全く問題のないところもあれば、季節によって飲める時があるもの、上澄みは大丈夫でも底のほうに毒が溜まっているものなど色々ある。慣れない旅人が迷い込めば命に関わる。自由に出歩けるのは、この灰色の大地を知り尽くしたハザルの民だけだ」
「へえ…そうなんだ…」
オアシスの町の住人たちが言うことは話半分だと思っていたが、全て事実だったのだ。
砂ラバの上で身を乗り出して、彼女は、前の方に乗っているディーの顔を覗き込んだ。
「それじゃ、さ。あの話も本当なの? 谷の奥は、竜の血で汚されている、とか」
「…それは」
少年の横顔に、初めて、困惑の色が浮かんだ。
「その話は、ハザル以外の連中が広めたものだ。我らの伝承では違っている。」
「そうなの?」
「…土地が枯れたのは、…伝承では、ユールの怒りによるものだとされる」
話しながらも、彼は周囲の警戒を怠らず、辺りに視線を巡らせている。後ろをついてくる、残り二頭の砂ラバのほうも同様だ。
「かつては、この辺りは家畜を飼うのに適した豊かな草原だった、という」
ディーは、見たこともない風景を懐かしむように言った。
「それが変わってしまったのは五百年ほど前。この場所で大きな戦争があった。ユールの怒りは、その戦争によって引き起こされた」
「それって、アストゥールが建国される時の”統一戦争”でしょ? 戦争でどうして神様が怒ったりするの。その神様って、この土地に住んでたりするの?」
「さあな。…オレも神などは信じているほうではないが、ユールの伝統的な価値観では、良きことも、悪しきことも、全てはユールの意志によるものだとされている。町で暮らす若いハザルならともかく、老人たちは今でも、そう固く信じている」
「――成る程ね。」
シェラは、ちらと後ろをついてくる砂ラバに乗る少年のほうを見やった。リゼルなら、言葉以外にも何か、伝承の類は学んでいるかもしれない。あとで聞いてみよう。
集落を離れかなり進んだあたりで、渓谷は幅を狭くして、僅かに向きを変えた。砂交じりの強い風が吹き付けてくる。
風に混じって、何か違和感のある声が微かに響いてくる。最初に反応したのは、やはりワンダだった。耳をぴんとそばだてて、砂ラバの前に乗るギスァの背中をつつく。
「人がくるよー。五人くらい」
何を言っているのか分からないギスァは、困ったように砂ラバの速度を上げ、先頭を走るディーの砂ラバに追いついた。
「”客人が、何か言っている”」
「ん?」
「何かきてるよぉー、あっち。」
ワンダが指差す方角を見上げたディーは、舌打ちしてギスァとサイディの向かって叫ぶ。
「”ハザルの民ではない。敵襲だ! 頭上に注意しろ”」
だが、その声とほぼ同時に、頭上から甲高い笛の音が声が発せられた。辺り一体から、応える声が返ってくる。唸るような、独特の掛け声だ。声は谷間を反響し、前後から響き渡る。
「くそ、待ち伏せか…。ここじゃ逃げ場がない。囲まれる前に、谷の奥へ向かえ!」
襲撃者たちは、一行が逃げ場のない狭い渓谷に入り込むのを待っていたのだ。だとすれば、彼らがここへ向かう前からずっと、様子を見ていたに違いない。
「”客人、しっかりつかまっていろ!”」
サイディが叫び、ディーに置いていかれまいと、手にした小さなムチで砂ラバの鼻面をぴしゃりと打った。速度を上げろ、という合図だ。
砂ラバは、小さな声を上げて猛烈な勢いで走り出す。振り落とされまいとしがみついたまま、リゼルも、夕刻の空を背景に続く崖の上に見え隠れする人影を見上げていた。
(狙いは、おれなのか? どうして…まさか)
彼は、胸の内ポケットに触れる。
(狙いは、これか? レプリカではなく本物だと気づいている? だとしたら…)
左右の谷に声が反響し、空を切る矢の音が背後に聞こえた。
振り返ると、襲撃者たちの姿がもうすぐそこに見えていた。しかも驚いたことに、こちらと同じように砂ラバを駆っている。二人乗りのぶんだけ、こちらのほうが速度は劣る。距離は、見る間に縮まってゆく。
このままでは、逃げ切れない。
ディーは強く手綱を締めると、速度の落ちた砂ラバの背から転がるようにして地面に降りた。
「オレたちが食い止める。先に行け!」
威勢良く叫んだ少年は、腰に巻いた帯の下から短剣を引き抜いた。全ての輝きを飲み込むように漆黒のその刃は、ハザル特有の技術で鍛えられた業物だ。鋼の上には美しい波のような模様が浮かんでいる。襲撃者たちも同じように黒い刃を手にしているが、こちらは単に火で炙って煤を乗せただけで、一目で別物と判る。
「ちょっ、ちょっと、これどうすればいいのよ!」
ディーの後ろに乗っていたシェラは、砂ラバの制御が効かずなんとか手綱を掴むので精一杯だ。ギスァとサイディもディーに続いて御者の役目を放棄する。リゼル、ワンダも完全に一人になってしまった。
「きゃあっ!」
ついにシェラが地面に転がり落ちた。運良く着地した場所が柔らかな砂地だったお陰で、怪我はしていない。
「んもぅ、何なの! あの動物、言うこと聞かないし」
お尻をさすりながらも素早く立ち上がったシェラは、後ろで一つにまとめた髪を片手でさらりと掻き揚げると、隠していた細長く光る短剣を取り出した。護身用の武器だ。
「うわー!」
彼女の直ぐ側に、ワンダが転がり落ちてくる。最後まで砂ラバの上で頑張っていたリゼルも、その獣を止められないと知ると、諦めて自ら砂地の上に転がり落ちた。幸いなことに、二人ともケガはなさそうだ。
振り返ると、ちょうど、ハザル人の三人が、追っ手と斬り合っている真っ最中だった。
戦闘の手助けは出来ないが、せめて相手の素性くらいは探りたい。
リゼルは、月明かりの中に目を凝らした。襲撃者たちは、みな背が高く、服の下から見えている素肌は白い。ということは、北方人かもしれない。顔は隠しているが、背格好からして全員が男だろう。襲撃者たちの乗ってきた砂ラバには、水も食料も積んでいない。この近くに隠れる場所があるのだろうか。
(おかしい。この辺りの土地はハザル人でもなければ出歩けない。それに、砂ラバはハザル特有の家畜のはずだ。彼らは一体…?)
考えられる可能性は、一つだった。
ハザル人の中の誰かが、あの襲撃者たちに情報を流すなどの協力をしている。
だとすれば、王都を出た直後に襲われた理由も想像がつく。王国議会への要求の内容を正確に知っていたから、その返答を携えた使者が出発するだろうことに予想がついていたのだ。まさかその使者の中に国王その人が混じっているとまでは想像していなかったかもしれないが――。
(理由は何だ? 議会に要求を呑まれては困る? それとも…)
戦いの様子にじっと目を凝らしていた彼は、ふと、気づいた。
戦っているのは三人しかいない。
「…さっき、崖の上から矢を射って来たやつがいない」
振り返って、彼は隣の獣人を見やった。
「ワンダ、さっき敵は何人いた? 残りは今、どこにいる?」
「え? えーと…」
ふんふんと鼻を鳴らして空気を嗅いでいた彼は、はっとして振り返る。
「あそこ!」
見上げた崖の上。
まさにその時、崖の上から、張り出した岩を伝って真っ直ぐにリゼルに向かって駆け下りてくる襲撃者の一人の姿が、あった。
「リゼル!」
シェラの叫び声にディーが振り返る。
「しまった…狙いはそっちか!」
だが、ディーよりも、リゼルの隣にいたワンダの反応のほうが素早かった。四つん這いになって走りだした彼は、まるで狼のような俊敏さで襲撃者に飛びかかると、唸り声を上げて強烈な体当たりを食らわした。
「…!」
襲撃者は声もなく仰向けに倒れ込む。リゼルはその手から素早く剣を奪い、崖上から自分を狙って放たれた矢をはねのけた。
ディーは残る二人のハザル人に声をかけ、自らも走りだした。
奇襲に失敗したと悟った襲撃者たちは、それを見て撤退し始めた。
ワンダに転がされた襲撃者も、ディーたちが到着するより早く、まるで猿のような身軽さで崖をよじ登って逃げてゆく。
「くそっ、逃した」
ディーは悔しそうに地団駄を踏み、崖を見上げた。「せめて一人捕まえて、口を割らせたかったのに…」
「仕方がないさ。無事だっただけでも良かった」
「そうよ。こっちは非戦闘員だっているんですからね」
「……。」
実際、辛うじて退けた、といったところだ。
相手の仲間があと何人いるかも判らず、しかも両側の谷からも狙い撃ちされるのでは分が悪い。いくら地の利はハザル人にあると言っても、相手にも同じハザル人が味方しているとすれば、対して有利にもならないだろう。
「目的地は?」
「もう近くまで来ている。この先だ。」
既に、日は暮れかかっている。
怯えて走り去った砂ラバたちの姿がどこにも無いことに気づいて、リゼルは、少し不安になった。
「これからどうする? 乗り物は、荷物ごと居なくなってしまったわけだが」
「大丈夫だ。」
平然とした顔で、ディーは口に指を当て、数度、吹き鳴らした。驚いたことに、合図を聞きつけた砂ラバたちが、どこからともなく駆け戻って来る。
「へえ…よく躾けてあるんだな。」
リゼルは感嘆の声を上げる。
「これで、乗ってる人を下ろす時の一時停止も出来ればね。」
シェラが、まだ痛むお尻を撫でながらしかめ面で言ったので、その場にいた全員が笑い出した。
「さて、行こうか」
ディーが言い、砂ラバたちをまとめて引き連れていく。
「ここからなら、歩いても到着する」
西の空が赤く染まり、灰色の谷にもわずかに光が差し込んでいる。その瞬間だけ、荒野は、初々しく染めた少女の頬のように、暖かな色に染まって見えた。
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