第2話 尻尾を持つ旅人
考え込んで居るうちに、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
シェラが目覚めた時には既に翌朝で、隣の部屋は既に空っぽになっている。ベッドの上には、几帳面に畳まれた毛布。だが、荷物はまだ置いたままだから、こっそり出ていったわけではなそうだ。
階段に降りてみると、戸口のほうから話し声が聞こえてきた。
「”ありがとう。その場所をたずねてみるよ”」
話しているのは、リゼルだった。シェラには聞き取れない言葉で、浅黒い肌をした旅人と話している。
話の相手と別れて振り返ったリゼルは、そこにシェラが立っているのに気がついた。
「あ――おはようございます」
「うん、おはよ」
戸口の向こうには、去ってゆこうとしている旅人の姿がある。独特の風貌や格好は、この町に滞在している間に何度も見かけた。荒野に散らばって家族単位で暮らす「流浪の民」だ。優れた冶金技術を持ち、鉱石を求めて広い範囲をさすらっているのだと言われる。
「今の、ハザル人でしょ?」
「ああ」
「てことは、ハザル語も話せるんだ。」
少年は、ちょっと肩をすくめて戸を閉めた。
「彼らは王都に近いところに住む少数民族だから、ハザル語を話せる通訳は多いよ」
「ふーん。そんなもんなんだ。で、何を話していたの?」
「……。」
ふいに、少年の表情が陰る。
「王様の行方?」
「…それもある。大した手がかりは掴めなかったけど。」
通りのほうからは、人の出入りするにぎやかな喧騒が響いている。
この季節、人々は朝の涼しいうちから活動する。太陽が高く昇れば強い風が吹き始めるし、真っ昼間ともなれば、厳しい直射日光の照りつける灼熱の世界だからだ。
先を急ぐ旅人たちは、みな、薄暗いうちから町を発っていく。通りに響く声の中には、これから出発しようという旅人たちに冷たい水を売る、名物の「水売り」たちの呼び込みも混じっている。
シェラは、リゼルの足元に、水入りの革袋が置かれていることに気がついた。早起きして買い求めてきたものらしい。
「もう出発するの?」
「昨日、『今なら追いつける』って言ったのは、あなただ。」
「そりゃ、そうだけど…。行く方向も分からないんでしょ? 枯れた湖なんていくらもある、って自分でも言ってたじゃない」
「それはさっき、ハザル人に聞いてみて見当がついた」
少年は、窓の外に視線をやる。
「ここから東の方角に、ハザル語でセノラと呼ばれる湖のほとりの盆地がある。ハザル人の長老が今、そこに天幕を張っているらしい。一族に集合をかけて」
「集合?」
「…王は、そこを目指したんだと思う」
彼は、それきり言葉を切った。
「ここからは徒歩でも二日あれば着く。だから――」
「あたしも行っていい?」
反射的に、シェラはそう言ってしまっていた。
昨夜、一晩考えていたのだ。この何ヶ月も、かすかな手がかりすらなく町の酒場で待ち続けてきた。そんな中で掴んだ、今はか細く微かな手がかりの糸。ここで手放してはならない、と直感が告げていた。
けれど、あまりにも唐突な申し出だ。リゼルは、驚きと疑問の入り交じる顔をして、シェラの顔を見つめている。
「あたしにも目的があるの」
シェラは、真面目な顔で繰り返した。そして、胸のあたりに手をやった。そこには、首にかけた鎖の先の石がある。
「…不吉な未来を視たの。あなたなら、知ってるんでしょ? ルグルブは滅多なことで谷を離れない。旅をするのは、使命を持った時だけ。――あたしは、あの石に書かれた文字を誰かに伝えなくちゃならない。それが誰なのか、突き止めたいのよ」
「ルグルブ一族の使命―― ”未来を視た者は、しかるべき者に伝えよ”、か。」
「そ。だけど手がかりは、誰も知らなかった”エリュシオン”という言葉だけ。もし王様がその言葉を知ってるんなら、あたしは行かなくちゃ」
彼女の目には、強い決意が宿っている。ルグルブの民が自らの使命を語るときは、必ずそうなのだ。
「ルグルブは、使命を他人に語ることはない、と聞いていたが…」
「仲間は別。信頼の証よ。だから協力させて。あたしみたいな平民が王様に会える機会なんて、多分これっきりなんだから。この石の意味を知ることは、一族にとって、とても重要なことなのよ」
シェラの眼差しは真剣そのものだ。口調も、次第に熱を帯びてゆく。
「ね。お願い。馬がいたほうが、早いでしょ? この家に厩があるの、あたしなら自由に借りられるし、一緒に行くなら、あなたの分も借りてあげるから」
「……。」
数十秒ほど逡巡して、リゼルは、ひとつ溜め息をついた。
「――分かった。だけど、おれは、他人の身まで守れるほど強くない。護衛もいない。もし昨夜みたいなことがあったら、その時は覚悟してほしい」
「平気よ。自分の身くらい、自分で守るわよ。さ、そうと決まったら早速準備しなきゃ」
さきほどまでの真剣さと打って変わって、シェラは明るい表情になった。
これから道もない荒野に、護衛もなしで出向こうという時、――おまけに昨夜は、得体の知れない何者かに命まで狙われたというのに、妙にうきうきして、まるで遠足にでも行くような様子だ。
(本当に、大丈夫なんだろうか…。)
リゼルは、微かに不安げな表情を浮かべている。
けれど彼自身、不思議な縁のようなものも感じていた。こんな辺境でルグルブの民と出会うこと自体、予想もしなかった出来事だった。それにもし、預かっていたのが「本物」の黄金の樹の紋章で無かったなら、彼女に”遠視”を依頼しようと接触することも無かったばずた。
リゼルは、服の上から、胸の内側のポケットに隠した紋章にそっと触れた。
彼の主である国王は、常々言っていたものだ。「縁とは、運命のようなものだ」と。そもそも、この仕事に就いたこと自体が奇妙な運命のようなものだった。
それならば、この縁にも何か、意味はあるのかもしれない。
シェラが手早く支度を整えたお陰で、二人は、午前中には出発することが出来た。
そろそろ昼に差し掛かろうという時間だが、幸い、今日はそれほど風が強く無かった。
町の東のほうは、呪われているという噂に加え、何もない荒野だ。東へ向かう道を辿る旅人は少なく、街道というよりは細い獣道だけが続いている。リゼルたちは、直前にそこを辿ったらしいハザル人の足跡を追うようにして馬を進めていた。
「ね、リゼル。そういえば、あなたたち辺境の部族の長に会いに行くつもりだったとか言ってたわよね? ほんとに、全部で四人だけだったの?」
「四人だけだ。目立たないように、少人数で、という王の意向だったから。」
「王様が数人で旅なんて珍しくない? 交渉ごとなら、ふつう、もうちょっと偉い人とか軍隊みたいなのとか…せめて護衛くらいは引き連れていくんじゃないの」
「……。」
リゼルは、渋い顔で黙り込んでいる。
「そんなに言いたくないこと? こんな砂漠の真ん中で誰も聞いちゃいないわよ。何ならルグルブ語で話す?」
「いや…」
少年は、眉を寄せて困っている。
「何て言えばいいのか…。確かに、そのとおりなんだ。今回も散々止めたんだけど、それで聞いてくれるような方じゃないんだよなあ…」
「え?」
「こうと決めたら、おいそれと意思を曲げなくて。一人で決めて、一人でさっさと出ていくんだ、それで仕方なく…。」
小さなため息。
「えーっと…つまり、王様のワガママというか…独断なわけね。」
「そう」
「なんだか苦労してるのねえ、あなた」
リゼルは、馬上で苦笑している。
「しかも今回は、おれたちも交渉事の詳細を知らされていない。」
「どういうこと?」
「…もう気づいているかもしれないけど、交渉の相手はハザル人なんだ。彼らの代表者から王国議会に何かの依頼が来たらしい。一つは、彼らが定住地を求めている、という内容だった。知っての通り、このアストゥールには王国に指名された領主たちが治める”直轄領”と、それ以外に少数部族や一部の特権者が治める”自治領”がある。」
「その話なら、聞いたことあるわ。自治領は、自治権を認める代わりに、数年に一度の議会に代表者を出席させる決まりよね」
「そう。彼らは二つの要求を出してきた。一つは定住地を持ち、義務に応じる代わりに王国議会に席を設けてほしいということ。それまで定住しない流浪の民だった彼らが急にそんなことを言い出したのは奇妙だが、国民である以上、出席したいというなら拒否する理由はない。問題はもう一つのほうだ。内容は、王国議会にも知らされていない。王が自ら動いた理由は、その、もう一つのほうにあるはずなんだ」
「なんだか、曖昧な話ねえ。まるで個人の思いつき旅行じゃない。王様ともあろう人が、そんなのでいいの?」
「…もちろん、良くない。」
リゼルは、憮然とした顔だ。「その上、途中で見失っただなんて、とても王国議会には報告出来ないよ。何としても王を見つけて、今度こそ逃げられないようにしないと」
少年の口調は、いつのまにか本音になってしまっている。
「王がそういう方なのは、よく知ってる。頼まれれば、ドラゴン退治だろうが妖精の国の解放だろうが一人で乗り込んでいく。そしていつも、ことを成して生還する。…英雄と呼ばれるに相応しい、強運と、勇気の持ち主。だからこそ、この雑多な国を纏めていられる。それは認める…だけど、たまには毎回振り回される身にもなっていただきたいものだよ。」
「なるほどね。あなたの立場は、よく分かったわ」
苦笑しているシェラの横で、少年は、否定とも肯定とも取れない、微妙な笑みを浮かべていた。
道中の襲撃者を恐れていたものの拍子抜けするほど何もなく、旅は順調に進んだ。
西の地平が赤く染まり、星々が瞬き始める頃、行く手に大きな山塊が見えはじめている。
「目的地、たぶんあの辺じゃない? ほら」
シェラが目を凝らし、山間に続く谷を指差した。「あの谷って川の流れた跡でしょ。湖って言うからには、川の先にあったはずよね」
しかし、ここからでは遠すぎる。日が暮れる前にたどり着くのは難しそうだ。
「馬でも一日がかりか…。徒歩で来なかったのは正解だったな。」
「でしょ? あたしがいて良かったじゃない」シェラは上機嫌だ。「どうする? この辺りで明日まで休む?」
「そのほうがいいと思う。また襲われるのはごめんだ。知らない土地を夜に旅するのは危険すぎる」
「あそこなんて良さそうね」
と、シェラは馬を降りて、すぐ側に見えていた岩棚の近づいていく。そして、思わず悲鳴を上げた。
「きゃ…! 何かいる!」
悲鳴を聞いて駆けつけたリゼルが見た物は、くしゃくしゃのマントにくるまれた、一塊の黒っぽい毛玉だった。ぱっと見は置き忘れられた荷物のようにも見えるが、すぐに違うと分かった。真ん中あたりがゆるやかに上下して、動いているからだ。
近づいてそっとマントをめくった少年は、すぐに、ほっとした表情になる。
「なんだ、獣人じゃないか。」
「獣人?」
「その中でも、アジェンロゥという種族。れっきとしたアストゥールの国民でも東の島に住んでる毛深い種族…。最近は数も少なくなってるらしいけど、王都じゃたまに見かける」
もそもそとマントの下で毛玉が動いた。
「…みず」
力なく、だが確かに人の言葉が聞こえる。
「おみず… おみず…」
「水?」
「行き倒れか。ほら、水ならここにあるぞ」
リゼルが水の入った革袋を差し出すと、毛玉の中から長い耳がピンと飛び出した。
「みずっっ!」
リゼルの上に覆いかぶさるようにして、その生き物は革袋に飛びつくや、水滴の滴るのもかまわず一気にガブのみした。
「お、おい。そんなに勢い良く…」
「ぷはぁっ」
キラキラと輝く黒い目が、幸せそうにきらめいた。その顔は獣めいていて、ヒゲの感じなどはまるっきり犬そのものだ。小柄で、人間の大人の半分ほどの大きさしか無く、全身が白と黒の入り交じるもっさりとした短い毛に覆われている。服はといえば、マントを除けば腰の辺りに巻きつけた布と、頭を覆うターバンのような布くらい。もっとも、それ以外の部分は覆う必要も無さそうなくらい、立派な自前の毛皮に覆われている。
「いきかえった!感謝。ありますございます」
「……。」
リゼルは、額に手を当てた。「そういうときは、『ありがとう』じゃ、ないかと思う。」
「そうか。ありがとう」
獣人はも無邪気な笑顔を見せた。
どことなく愛嬌のある、この不思議な種族は、例えるなら…そう、やはり「犬のような人」と、呼ぶしかなさそうだった。
「おまえたち、ありがとう。ワンダたすかったぞ」
「ワンダ?」
「なまえ、ワンダラウ・クァンターレットリュシーディックベルガー。仲間はワンダ呼ぶ。」
一度聞いたくらいでは、とても覚えられそうにない名前だ。
「おれはリゼル、こっちはシェラ。ずっと東のほうに住む獣人が、こんなところで、一人で何してるんだ」
もしゃもしゃした耳が、ぴょこんと揺れる。
「探してるのだ。」
「探す?」
「お嫁さんになってくれる、毛深い人。」
「毛深い…?」
「獣人の表現で、“魅力的な人”という意味だよ。」
リゼルが注釈し、会話を引き受ける。「故郷には、花嫁候補はいないのか?」
「いないぞ。ばあちゃんとか、かあちゃんと、いもうといっぱい、あとはみんな年寄りか子供ばっかりだ。それで、そとの世界にいるかもしれないと思って、ワンダ旅に出た。」
「あらら…。深刻ね」
自身も珍しい少数部族の出身であるシェラは、同情したような口調で言う。
「でも、こんな暑い所に、あなたたちみたいな毛の人は暮らしてないと思うわよ。」
「そう、ここ暑い。ワンダ、くるくる目が回って道わからなくなって、困ってた。」
「町はすぐそこだ。西の方へ進めばいい。連れて行ってやりたいけど、もう日が暮れるし、おれたちも先を急いでるから明日…」
ワンダは、鼻をぴくぴくさせた。
「西だな。わかったぞ。」
言うなり、その場にごろりと横になった。
「ワンダねるぞ。おやすみなさい」
数秒もしないうちに、寝息を立て始める。リゼルは呆れ顔だ。
「警戒心というものが無いな…。」
「まあ、いいんじゃない。どうせ朝までは動けないんだし、ちょっと狭くなっちゃったけど、あたしたちも休みましょ。」
シェラは日陰に二頭の馬をつなぎ、水と餌を与えて休ませる。
「…尻尾のある人間」
リゼルが呟いた。
「え?」
「シェラが”遠視”で見てくれたものだ。襲撃される直前に言っていた…」
寝転がっている獣人の背中のあたりからは、確かに、しっぽとしか呼べないような長い毛がひとかたまり、地面に垂れている。
「この道で当たり、みたいだな。」
「あたしは一族の中でも目がいいほうなのよ。」
彼女の言う目とは、ルグルブの持つ”遠視”の能力のことだ。「お陰で、余計なものが見えすぎることも多いんだけどね」
「……。」
日が暮れて、辺りには濃い宵闇が落ちている。行く手には、呪われた谷へと続く渓谷が、風の唸り声を響かせながら口を開けていた。
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