黄金の大地
獅子堂まあと
第1話 黄金の樹
視界一面に広がる荒涼とした灰色の大地の真ん中に、一握りの緑を降りかけたように木々の茂る場所がある。見渡す限りの風景の中で、唯一、目を和ませる色のあるところだ。近くに建物は無い。貴重な湧水を汚すまいと、町は少し離れた場所に立てられ、人々は、一日に決められた量の水だけを汲み取り、静かにそこを離れていく。
貴重な水場は、見張りの者たちに厳重に守られている。厳しい顔つきの見張りたちは、陽射しをよけるための擦り切れた布で肌を覆い、じっとりと汗をかきながら佇んでいる。だが、その風景も、やがて砂まじりの風の向こうに消え去ってしまう。
この辺りの土地は昔から使える水源に乏しく、「定められた水場以外には毒が混じる」と言われてきた。
実際に、水たまりがあるにも関わらず一切の草が生えない土地は多く、荒野の奥には、風向きによって異臭を発する呪われた谷が存在する。そこは「竜の谷」と呼ばれ、かつて王国が築かれる際に起きた戦争で倒された竜の血によって汚されているのだと、まことしやかに語る人もいる。
もう五百年も昔の話だ。
誰も詳しい伝説など知らないが、言い伝えを信じている者は少なくない。それゆえに、敢えて谷の奥を目指す物好きなどほとんどおらず、荒野の奥へ向かう者がいるとすれば、良質な鉱石を求めて移住する流浪の民、ハザルくらいだろう。
そんな荒野の入り口に位置する楽園のような緑を前に、旅人たちにとって貴重な憩いの場である町の宿場街は、今日も盛況だった。
この辺りは、南方の海へ抜けていく街道の一つの中継地点なのだ。宿に併設された酒場では、町から町を渡り歩く者たちが出会い、情報交換するのが常になっていた。
王国の領土は広く、縦横に張り巡らされた街道は各地方を結びつける。
旅人の集まる場所では、あらゆる地方の言葉が話され、あらゆる階級の人々が集う。この町の酒場もまさに、そうした場所の一つ。
そして――
酒場内にいる男たちの視線は、カウンターの端に腰を下ろして一人で杯を傾けている、ひときわ目を引く美人に、それとなく注がれていた。
透けるような白い肌。ほっそりとした腰。波打つ海のような豊かな濃い藍色の髪は、腰までうねっている。
この町の住人ではない。誰かを待っているか、探しているかしているらしく、もう何ヶ月も長逗留している旅人の一人だ。変わった風貌は、南方の少数民族のものだという話だった。
ここ数ヶ月、誰もが彼女のお近づきになろうとしては、あっさり玉砕していた。異邦の美女は誰とでも話はしてくれるが、会話の相手が探しものに関係する情報を持っていないと判ると、すぐに興味を無くしてしまうのだ。何やら訳ありらしい美女の噂は、この町に滞在する旅人たちの間では既に有名になっていた。
その彼女に、今日もまた、一人の男が話しかけようとしている。
だがそれは、まだ恋愛などにまだ興味の無さそうな年頃の少年だった。最初から彼女が目当てだったのか、入ってくるなり店内を一瞥し、上半身に纏った薄手のマントを翻しながら、真っ直ぐにカウンターに向かって行く。
「”あなたはルグルブの民ですね?”」
話しかけた言葉は、周囲で様子を見ていた客や店主たちには、何を言っているのかさっぱり聞き取れなかった。
けれど話しかけた相手、藍色の髪の美女には分かったようだ。驚いた顔で振り返り、少年をまじまじと見つめる。
「…今、ルグルブ語で話しかけたのは、あなたなの?」
「はい」
少年は頷いて、マントについたフードを下ろしながら、彼女を見つめ返した。
年は十五かそこら、だろうか。
ぱっと見、ほとんど目立たない容貌だった。くすんで、ほとんど灰色に近い銀の髪。お世辞にも屈強とはいえない、痩せ気味の小柄な体。マントの端は擦り切れ、貧しい旅商人のような格好だが、身につけているものは決して質の悪いものではない。それに、まだ若いとは思えないほど意思の強そうな、深い、吸い込まれそうな黒っぽい色の瞳をしていた。
「驚いたわ。こんな北の町で、故郷の言葉を聞くなんて。」
そう言って彼女は、長い髪を揺らした。
「あなた、名前は?」
「…リゼル」
「ふうん。同胞には見えないけど―― どこで習ったの? ルグルブ語」
体を半分カウンターに預けて覗き込む美女の視線からそれとなく目をそらしながら、少年は淡々とした口調で答える。
「教養みたいなものです。この町に、ルグルブの民がいると聞いて、もしかしたらと思って――あなたの力を借りたいんです。ルグルブの―― あの力を」
藍色の髪の美女は、少し驚いた顔をしつつしばらく考え込んだ。
「急な話ね…。ルグルブ語が話せる上に、力のことまで知ってるなんて、何者なの?」
「…それは」
少年は、周囲にそれとなく視線をやった。誰かに聞かれることを気にしているそぶりだ。確かに、ここでは人目が多い。二人の会話に興味津々な男たちの視線も、気に触る。
「ワケあり、ってことね。」
杯を飲み干すと、彼女は立ち上がった。
「まぁ、いいわ。場所を変えましょ。あたしは、アーシェラ。シェラでいいわ、よろしくね。」
シェラは少年の手を無理やり握って、笑顔で言った。
きっと一般的な男性たちなら、その笑顔でうっとりして夢心地になれるのだろうが、何やら思いつめた様子のリゼルの表情は、ぴくりとも動かなかった。
「…それで? あなたの捜し物は、何」
酒場をあとに表通りに出ると、とたんに強い風が吹いて来て、衣服の裾も高く舞い上がる。既に辺りは薄暗がりに包まれつつある。
「”その前に一つだけ、おれが意識違いをしてないか確認したい。ルグルブの女性は、物に宿る気配を読み取って、持ち主の行方を探す事が出来る、”
少年は、敢えてシェラの部族の言葉、ルグルブ語で返事した。周囲には誰もいないにも関わらず、誰かに聞かれることを気にしているのだ。随分と用心深い。
「”ええ、そうよ。世間では占いだの魔術だの言われてるけど”」
故郷の言葉で応じながら、シェラは、この少年は一体何を警戒しているのだろう、と訝しんでいた。
「”今いる場所の景色が分かる。あまり昔のことでなければ、過去のことも視えるわよ。その人の持ち物さえあれば、だけど。”」
「”それなら、ここにある。人を探して欲しい。大至急”」
少年の口調からは、微かな焦りのようなものが感じられた。ゆっくり話している時間も惜しい、といった様子だ。
「”じゃあ、それを貸してくれる? それと、その人の名前と生年月日、特徴なんかを教えて欲しいの。情報が具体的なほど探しやすいから”」
一瞬、逡巡するような間があった。だが、それも一瞬のことだ。
リゼルは、意を決したように口を開いた。淀みなく、だが用心深く。
「”…探す人の名前は、シドレク・フォン・リーデンハイゼル。生年月日は…”」
目を閉じたまま聞いていたシェラは、かすかに眉を顰め、彼の言葉を制止した。
「ちょっと待って?」
リゼルがマントの下から何かを取り出そうとした時、ようやく何かを思い出した彼女は、目を開いた。
「シドレクですって? どこかで聞いた名前だと思ったら、国王様と同じ名前じゃない。冗談はよして」
「冗談なんかじゃない。…おれが探しているのは、その人だ。」
差し出しされた少年の手のひらの上には、この国の紋章を象る黄金の樹が、明るい赤の宝玉を嵌め込んだ王冠を守るように枝葉を広げていた。
――ここ、アストゥール王国の建国は、今から五百年ほど前に遡る。
当時のアストゥールは、その片隅にぽつんとある辺境の国に過ぎなかった。それが並み居る大国を押しやって大陸のほとんどを支配下に置けたのは、伝説の王、イェルムンレクと、その子供たちによる活躍があったお陰だと言われている。
王家の紋章は「黄金の樹」。小国に過ぎなかったアストゥールの荒野を開拓しを、黄金色の麦畑が一面に広がる豊かな土地に変えたこと。黄金の都と呼ばれる壮麗な王都、リーデンハイゼルを築いたこと。この国にとって、それは統合と豊穣の象徴だった。
樹の枝と実は、王家の血統を引く子孫たちの象徴でもある。
そして、当代の国王こそ、その
この国に住む誰もが知っていることだ。
その、王家の象徴である「黄金の樹」の紋章を使って、国王の行方を、探してほしい、とは――?
「一体、どういうことなの」
シェラの声は、冗談だろうといわんばかりに戸惑いに満ちている。「それ、本物? だとしたら、あなた一体…」
「…詳しい事情を話している暇がない。ただ、これは盗んだり拾ったりしたものではないし、…国王を探したい理由には、後ろめたいことや疚しいことは何もない。信じて欲しい。」
リゼルは、真剣そのものだった。
「まだ、見失って数日だ。今なら追いつけるかもしれない」
「わけがわからないわ。王様が行方不明なんて、もし本当なら大事件じゃない。あたしに協力させたいのなら、納得の行くよう説明してちょうだい。」
美女に凄まれ、彼は、一瞬ひるんだ。
溜息をついて、辺りを気にしながら口を開く。誰にも聞かれたくないからか、再び、ルグルブ語に戻っている。
「”…かいつまんで説明する。おれは、国王付きの通訳なんだ。とある極秘の交渉事で、王とともに辺境の部族の長に会いに行くつもりだった。その途中で何者かに襲撃されて、王が単独でばっくれ…いや、行方不明に。このことを知っているのは、直前まで同行していた、おれと護衛の騎士二人だけなんだ。これで納得してくれるだろうか? ルグルブの民は、王国の良き隣人のはずだ。どうか、道を指し示す導となってくれ”」
「良き隣人、ね。まるで、うちの長老みたいな言い回しをするじゃない」
腕組みをしながら、シェラは少年を上から下までじっくりと眺めた。
王都には、王国内で話される、ありとあらゆる言語に対応する通訳たちがいる、とは聞いていた。ただ、この若さで、決して簡単とは言えないルグルブ語をこんなに流暢に話せる者がいるとは、思ってもみなかったのだ。
(どうやら、嘘じゃ無さそうね。他にルグルブ語が話せる理由なんて思いつかないし…)
それに、よほど切羽詰まっているのに違いない。何しろ、こんな重要なことで、通りすがりの町にたまたま居ただけの見ず知らずの異邦の民に頼るくらいなのだから。
「――いいわ、信用してあげる。どこか静かなところに行きましょう。あなた宿は取ってる? 部屋があるなら、そこがいいわ」
「こっちだ」
リゼルは、先に立って歩き出す。宿場町には灯りが灯りはじめている。酒場からはにぎやかな声が響き、夜はまだまだ、これからが本番といったところ。
だが町の周囲の荒野は、灯り一つもなく、暗く、闇の奥底に沈み込んでいた。
用心しすぎに思えるほど周囲を気にしながら、少年は宿の一室にシェラを案内した。
窓の外を確かめ、扉を閉ざし、蝋燭に火を灯す。部屋の中には、小さな荷物が一つだけだ。身を守れる武器のようなものも携えてはいないらしい。
ベッドの端に腰を下ろすと、シェラは、手を差し出した。
「さっきの紋章を貸して?」
頷いて、リゼルは、王国のシンボルである「黄金の樹」を象った紋章を差し出した。見た目よりずっと重たいのは、それが純金に近い配合で作られているからなのだろう。金の輝きと精巧な細工が、蝋燭の光に反射する。
「これがほんとに王様のものなら、ほいほい人に貸しちゃダメだったんじゃないの? よく、あたしに声かけようと思ったわよね。」
「あなたは、違うと思ったんだ。」
言い訳のつもりか、リゼルは、やや力無く言った。「そのくらいは自分の見る目を信用したい。」
「あら。ありがと、信頼には信頼で応えるのが、あたしの流儀よ。」
口元に浮かべていた愛想の良い笑みが、次の瞬間にはすうっと引いていく。
真顔に戻ったシェラは、手のひらに紋章を置き、静かに意識を集中させた。
「……。」
蝋燭の灯が、僅かに揺れた気がした。
「視えたわ。枯れた湖…深い谷…。」
意識を集中するシェラの口から低い声で紡ぎだされる言葉をひとつも聞き漏らすまい、と、リゼルは側で耳を澄ます。
「人影が見えるわね。その人の後ろには、黒い影がある。きらめくもの…、刃…。」
「王に、危険が迫っているというのか?!」
リゼルが思わず上げた鋭い声に僅かに反応したものの、シェラは、また直ぐに意識を集中しなおした。
「…ここから、そう遠く無いわ。探し人は立ち止まっている。今なら、追いつける。」
「どっちへ行けばいい。枯れた湖なんていくらでもある。方角くらい分からないのか」
「それは…いえ、待って。何かある」
シェラの閉ざされた瞳は、ゆらぐ気配の中から、瞬時に何かを汲み取った。
「尻尾のある人間…犬? 何、これ。」
「しっぽ…」
と、そこまで語った時だった。
頭上で、ギシッと重たい音がした。
リゼルは、はっとして弾かれたように首を伸ばす。屋根のひさしが立てた僅かな軋み音だ。と同時に、閉ざしていた窓のあたりに人の気配が降ってきた。
「下がって!」
叫ぶなり、リゼルは、シェラが驚くほどの素早さでマントを投げた。ほとんど同時に窓が蹴破られ、何かが転がり込んでくる。蝋燭の光がかき消される一瞬、刃のようなものが鈍く光るのが見えた。
「きゃ、何?」
「敵だ、こっちヘ!」
リゼルは片手に荷物をひっつかみ、もう片方の手でシェラの腕を掴んで走り出す。
大通りに飛び出すと、彼はシェラを連れたまま、人の集まる酒場通りのあたりまで一気に駆けた。人通りの多い場所なら、襲撃者もおおっぴらに狙うことは出来ない。
とはいえ、まさかこんな町中で、刃物を振り回す者が襲って来ようとは。
リゼルは用心深く、頭上や路地裏などの暗がりに視線を向けている。攻撃してくる気配は無い。旅の要所として自警団もおかれているこの町で、さすがに目立つ襲撃は行わないようだ。
「…やっぱり、おれ一人でも見逃してはもらえないのか」
少年は、ぽつりと呟いてため息をついた。
「すまない。あなたまで目を付けられたかもしれない」
「ああ、あたしのことなら、心配要らないわ。この町にはあたしのために戦ってくれちゃいそうなロクでもない男がいっぱいいるし、適当に護衛でも雇うわよ。だけど、どういうことなの? 狙われる心当たりは?」
「王都を出てから、ずっとつけられていたんだが、何者かまでは分からない。それに、王の出立のことを知っているのは、王宮内ではごく限られた者だけのはずだった。」
「王様が行方不明になったのも、襲撃のせいだったのよね? 大丈夫なのかしら」
「もちろんだ。『英雄王』の二つ名は伊達じゃない。ただ…」
まだ周囲を警戒したまま、リゼルは、かすかに表情を曇らせた。
「…取るに足りない通訳まで襲ってくるとは思わなかった。バラバラに王を探しに出たのは、間違いだったかもしれないな」
「ほかって、王様の護衛の騎士のこと?」
「そうだ。近衛騎士が二人」
「それなら、一行の中じゃ、あなたが一番、手薄ってことよね。」
「……。」
少年は、困ったような顔だ。
「身を守る手段は? 武器とか持ってないの?」
「通訳が武器なんて持つわけがない。それじゃ和平交渉も決裂だよ」
とはいえ、この少年がまるきり戦い方を知らないわけでもなさそうだった。先ほどの反射神経、とっさの身のこなしは、「逃げる」ことに特化して訓練された護身術、とでもいうべきものかもしれない。
少なくとも彼は、シェラと出会ってからもずっと、過剰なほど周囲を警戒していた。何か、自分が狙われる可能性があることくらいは認識していたはずなのだ。
紋章をシェラから受け取り、大切に懐に収めながらも、リゼルの五感は用心深く辺りに張り巡らされているようだった。
眺めていると、シェラは何か、この少年を助けてやりたい気持ちになってきた。ルグルブ語を話せる、という部分で、普通以上に好感を持っていたのかもしれない。それとも、国王づきの通訳だという少年の特車な事情に興味が湧いて来たからか。
「ねえ。これからどうするの? さっきの宿にはもう戻れないんでしょ」
「…そうだな」
「なら、あたしの泊まってるところに来なさいよ。この町じゃ仲間の家にお世話になってるの。勝手に使わせてもらってるようなもんだし、一人くらい増えても大したことないわ。」
「いや…」
「心配しなくても、話はつけてあげるわよ。ほらほら、遠慮せずに来なさいってば」
シェラは、有無をいわさずリゼルを引っ張って歩き出す。
彼女とお近づきになりたいと思いつつ手をこまねいていた男たちがその様子を見たら、さぞかし嫉妬の炎を燃やしたことだろうが。
シェラが案内したのは、そこから通りを一本隔てた、こぢんまりとした家だった。
ずいぶん古めかしい外見で、入り口も狭いが、中に入ると、意外なほど小ざっぱりと整えられている。どこか海の匂いがするのは、漆喰で塗り固められた壁に打ち付けられた棚に吊り下げられているのは貝殻や干し魚、海藻のせいかもしれない。
怪訝そうな顔をしているリゼルに気づいて、シェラはにっこり笑って言った。
「ここ、同胞が旅をする時に立ち寄る宿なのよ。身内が経営してるとこなら気軽に泊まれるでしょ? 街道沿いに、幾つか同じような宿があってね。どこもほとんど自宅みたいなものだから、勝手に出入りしてるの。」
「なるほど、民宿か…。」
言われてみれば確かに、二階部分は宿屋のような作りになっている。おおっぴらに宿を経営しているというよりは、余った部屋に同胞を仮住まいさせているといった雰囲気だ。
「血族を重んじるルグルブの民の絆は、各地に散らばっていても薄まることは無い――先祖伝来の土地の外に暮らす数少ない者たちの家は、使命を帯びて故郷を離れた者が旅の途中に立ち寄る中継地点として使われる…」
少年は、そう呟いた。
「へえ、よく知ってるわね。そうなの。だけど今、泊まってるのはあたし一人よ。」
深い藍色の瞳が一瞬、意味ありげな光を放つ。
「それを知ってるってことは、あたしがこんなところにいる理由も判るわよね?」
「…ああ」
リゼルは頷いた。「町で噂を聞いた。あなたは、誰かを待っているか、何を探しているのだと」
「そ。それが、あたしには使命があるの。さっきの”遠見”のお礼ってわけでもないけど、一つ、お願い聞いてくれないかしら。分かったらでいいんだけど」
「何だ?」
「これ。」
形の良い白い指が、自分の胸元から金の鎖を引っ張り出す。鎖の先には、海のような青緑の色をした貴石がぶら下がっている。表面には、ずいぶん前に加工されたらしい、磨り減った文字と何かの模様が刻まれていた。
「“エリュシオン”。」
彼女は、謎めいた言葉を口にした。
「あたし、あの酒場で誰かに声かけられたら、必ず聞いてみることにしていたの。エリュシオンって何のことだか、分かる? って。」
「ルグルブが、他人に聞くのか?」
「ルグルブにだって、分からないことくらいあるわ。」
リゼルはシェラから石を受け取り、蝋燭の灯りに翳して眉を寄せた。
「”
「あたしたちのところでは、まだ現役よ。読める?」
「少しだけ。最初の部分は、『千百五十三年』…アストゥールが大陸を制定した、”統一戦争”直後あたりの時代だ。その後は、よく分からない。通訳の仕事で覚えたのは、今も使われている言葉だけだから」
「そう。」
シェラは少しの間目を閉じていたと思うと、そのまま、一節の言葉を謳いあげた。
// 約束の種を植えなさい。
// その樹は希望へと繋ぐもの
// 刻が満ちるとき 失われし光が蘇り
// 大地は黄金に輝くだろう。
「…見事なものだ」
リゼルは驚嘆の声をもらす。「とっくに死語だと思っていた。実際に言葉にされるのを聞くのは、初めてだ」
「ふふ、こっちからするとルグルブでもないのにルグルブ語が判るほうが驚きだけど。それで、あたし、この詩に関係してるはずの“エリュシオン”って言葉が何なのかを調べてるんだけど」
リゼルは、首を振った。
「すまない。伝説や昔話の類には、疎いんだ。」
シェラは、がっかりして石をしまいかけた。が、彼は続けて言った。
「だけど、言葉自体は聞いたことがある」
「えっ?」
「王が言っていたはずだ。何のことだったのか、覚えていないけど…」
だが、それは彼女にとって、故郷を出てから初めて手にした手がかりだった。
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