エピローグ
エピローグ
アメリカ合衆国経由で日本へと帰国してみれば、およそ四か月前に東京を発った際には梅雨が明けたばかりだったと言うのに、季節は既に初冬の頃へと移り変わってしまっていた。
「本当に東京に帰って来たんだな……」
永かった無人島生活の間にすっかり伸び切ってしまっていた頭髪を切り揃え、無精髭を剃り落としてさっぱりした俺はそう言いながら、窓の向こうの羽田空港の滑走路を眺めるともなしに眺め渡す。
「どうですか、須藤さん? 久し振りに日本に帰って来た感想は?」
すると今俺が居るこの部屋、つまり羽田空港内に準備された記者会見場の控室のラウンジチェアに腰掛けたスーツ姿の成人男性がそう言って、どうにも落ち着かない様子の俺に改めて問い掛けた。少しばかり前髪が薄くなり掛けているその成人男性こそ、アメリカ合衆国沿岸警備隊に救助された俺の帰国の手筈を整えてくれた、日本国外務省の職員の一人である。
「何だか未だ、自分が日本に居るのが信じられないって言うのが正直なところです。なにせほんの数日前まで、あの無人島で魚を捕ってサバイバル生活を繰り広げていたんですからね」
俺がそう言えば、外務省職員の男ははははと屈託無く笑った。
「それでは須藤さん、そろそろ記者会見が始まりますから、どうかそのつもりでいてください。それと記者の質問には自由に返答していただいて構いませんが、放送禁止用語や汚い言葉は使わない事と、仮にあなたの気に障るような質問をされたとしても興奮せずに冷静に対処する事をお忘れなく。なにせ今のあなたは、高波に
スーツ姿の外務省職員の男はそう言って俺の偉業を手放しで称賛するが、当の俺は「はあ」と気の抜けた返事を口にするばかりで、世紀の英雄などと言われてもまるで実感が湧かない。
「さあ、それでは時間ですので、会場に移動しましょう」
ちらりと左手首の腕時計を一瞥して現在の時刻を確認した外務省職員の男がそう言って移動を促したので、彼らが用意したスラックスとワイシャツ、それにそこそこ仕立ての良いジャケットに着替えた俺は控室のソファから腰を上げた。そしてそんな俺の手には無人島に居た頃からこっち肌身離さず持ち歩いているペンネ・アラビアータの空き瓶と、その空き瓶に突っ込まれたタリアータ・ディ・マンツォとパンチェッタ・アッフミカータの空き袋、それにきらきらと光り輝くシーグラスと桜貝の貝殻が見て取れる。
「ああ、須藤さん、良ければそのゴミは捨てて来ましょうか?」
すると俺と一緒に腰を上げた外務省職員の男は俺が手にしたペンネ・アラビアータの空き瓶を指差しながらそう言って、親切にもゴミを捨てて来てくれると言い出した。しかしながら今の俺にとって、この空き瓶も空き袋も、そしてシーグラスと桜貝の貝殻もまた只のゴミなどでは断じてあり得ない。
「いいえ、これは四か月に渡って苦楽を共にし、心の支えになってくれた大事な大事な仲間ですから」
俺がそう言えば、今度は外務省職員の男が「はあ」と言って、いまいち納得していないような気の抜けた返事を口にした。そして彼に先導されながら羽田空港内に準備された記者会見場へと移動した俺は、壇上の中央に置かれた椅子に腰を下ろし、そこそこ広い会場を埋め尽くす新聞記者やテレビクルーのカメラのフラッシュと好奇の眼差しを一身に受け止める。
「それではこれより、悪夢の遭難劇から見事に生還されました須藤大道氏の、帰国報告会を開始したいと思います」
空港、もしくは外務省側が用意した司会進行役の女性がそう言って記者会見の幕が切って下ろされれば、まずは彼女が事の経緯を簡潔に説明した後に、やがて俺と記者達による質疑応答の時間が訪れた。
「初めまして、時事新聞の井上です。それでは須藤氏にお聞きしますが、実に四か月にも及ぶ無人島生活の期間中、たった一人で寂しかったと言う事はありませんでしたか? そして仮に人恋しくなった場合には、どのようにして自分を慰めていましたか?」
そう言った記者の質問に、俺は少しだけ逡巡してから正直に返答する。
「いえ、寂しくはありませんでした。なにせエルディンガー島には、常に頼りになる三人の仲間達が居ましたから」
そう言った俺の返答の意味が理解出来ずにきょとんと呆ける記者達の好奇の眼差しを一身に浴びながら、俺は手にしたペンネ・アラビアータの空き瓶に、まるで我が子を慈しむ母の様な優しくも温かい眼差しを向けて止まない。そしてそんな俺の脳裏には、褐色の肌と腰まで伸びた艶やかな黒髪、それに真っ白い夏物のワンピースが美しいペンネの姿がありありと思い出される。
了
リーゾラ★ディザビタータ《L'isola disabitata》 大竹久和 @hisakaz
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