第六幕


 第六幕



 食中毒に罹患してしまった当日とその翌日の丸々一日半の間、俺は大事をとって、食事も摂らずに身体を休める事に専念した。そして三日目の朝、砂浜の平地に設営されたドームテントの中で熟睡していた俺は、やはり幼女の常として無駄に早起きなペンネに叩き起こされる。

「おい童貞! 起きろ、朝だぞ!」

 そう言ったペンネに叩き起こされた俺は寝袋シュラフから抜け出すと、ぴんと背筋を伸ばしながら「ふあぁぁ……ぁぁ……」と盛大なあくびを漏らしつつ、のそのそとドームテントから這い出すと同時に東の水平線を赤く染める朝陽をその眼に焼き付ける。

「……もう朝か……」

「ああ、そうだとも! もう朝なんだから、さっさと顔を洗って眼を覚ませよな、この童貞!」

 俺は眼脂めやにが浮いた寝惚けまなこのまま、そう言って俺を童貞呼ばわりするペンネに促されながら立ち上がり、ダッチオーブンに溜められた真水でもってばしゃばしゃと顔を洗ってからその水をごくりと一口だけ飲み下した。そして実に丸一日以上に渡って絶食した空きっ腹を撫で擦っていると、そんな俺に夏物のワンピース姿のペンネが尋ねる。

「なあ童貞、今日はこれから、あたし達は何をするんだ?」

「ああ、今日も一昨日と同じく、まずは水の確保だ」

 俺は如何にも面倒臭そうにそう言いながらPVCシート生地で出来た折り畳みバケツを手に取ると、日焼けと熱中症予防のためのつばの広いサファリハットを被りつつ、島の西側の小山の方角へと足を向けた。

「童貞ってば、病み上がりなんでしょ? だったら今日はあたしが手伝ってやるから、感謝しろよな!」

 すると俺の後ろを歩くペンネがそう言って得意満面で胸を張り、その口ぶりからすると、どうやら彼女は俺の日課を手伝ってくれる気でいるらしい。

「そうか、手伝ってくれるのか。助かるよ」

 そう言った俺はペンネと共に砂浜を横断し、小川の三角洲を視界に捉えた地点から鬱蒼と生い茂る原生林へと足を踏み入れて川沿いを歩き続ければ、やがて小川の水源となっている小さな池のたもとへと辿り着く。

「ああ、糞、重い!」

 苔が生えた石や岩を踏んで滑って転ばないように細心の注意を払いつつ、俺は手にした折り畳みバケツでもって池の水を汲み上げたものの、そのあまりの重さに幼い女の子が一緒だと言うのに思わず悪態を吐いてしまった。

「それ、重そうだな? 今日はあたしがあんたを手伝ってやるって約束だから、持ってやるよ!」

 するとそう言ったペンネが俺に代わって池の水が汲まれた折り畳みバケツを手に取って、それを持ちあげたまま砂浜の方角へと足を向けるものの、そのあまりの重さにふらふらと足元が覚束無い。

「おいおい、大丈夫か? やっぱりお前の体格でそのサイズのバケツを持つのは、無理があるんじゃないのか?」

「大丈夫! あたしが運ぶから、手を出さないで!」

 ペンネはそう言って強情を張ってみせるものの、俺の様な成人男性でも重くて重くて仕方が無い折り畳みバケツを小柄な幼女が持ち運べる筈も無い事は、誰の眼にも明らかである。

「やっぱり無理だろ、ペンネ。俺が持ってやるから、無理すんな」

「……うん……」

 するとそう言って渋々ながら諦めたペンネは池の水が汲まれた折り畳みバケツを地面に置き、バトンタッチした俺がそれを持ち上げると、彼女は申し訳程度にバケツに手を添えながら歩き始めた。どうやら手を添える事によって、彼女なりに、その小さな胸に去来する無力感を少しでも軽減しようと無意識に試みているらしい。

「ああ、重かった」

 最大14ℓの水が汲める折り畳みバケツの中ほどまで水を汲み、それを手にしたままえっちらおっちらとした覚束無い足取りでもって下山した俺とペンネは、やがてドームテントの元まで帰還するなりそう言って額や首筋に浮いた汗を拭い取った。

「ありがとうペンネ、手伝ってくれて」

「……あたし、何も手伝ってないもん」

 俺の言葉を嫌味か皮肉とでも解釈したのか、如何にも不機嫌そうにそう言ったペンネはすっかりねてしまっていて、どうにもこうにも取り付く島も無い。

「ペンネ、そんなにねるなよ。お前みたいな子供がこんな重いバケツを運べないのは、仕方が無い事なんだからさ」

「うるさい! うるさい! うるさい! あんたみたいな童貞なんかに、あたしの気持ちが分かる訳がないんだから!」

 しかしながら彼女をなだめようとする俺の態度とは裏腹に、ペンネはそう言って益々不機嫌になるばかりで、舌を出してあっかんべえをしながら俺を罵倒する事で憂さを晴らす。

「さて、煮沸煮沸っと」

 そこで溜息交じりにそう言った俺は汲んで来た池の水を折り畳みバケツから空のダッチオーブンへと移し替え、それを即席のかまどの上のバーベキュー用の焼き網の上に置いてから、ガスライターとフェザースティックでもって手際良く火を起こした。そして流木を割って作った新たな薪をくべながら煮沸消毒を終えると、ぐらぐらぐつぐつと煮え立つダッチオーブンをかまどの火から遠ざける。

「おいペンネ、お前、いつまでねてるんだよ」

「うるさい! あたしはねてなんかいないんだから!」

 ペンネはそう言うが、彼女がすっかりねてしまっているのは誰の眼にも明らかであって、今さらその如何については言をたない。

「はいはい、分かった分かった。それじゃあねてないって事でいいから、次は食料を確保しに行くぞ」

 そう言った俺はねるばかりのペンネを追及するのを一旦止めると、愛用の釣竿ロッドと疑似餌と二振りのナイフを手に取り、まずは島の南側の岩礁の方角へと足を向けた。

「それじゃあ今日は、あたしが魚を釣ってやるからな! ほら童貞、こっちに竿を渡してよ!」

 すると俺と共に岩礁に足を踏み入れたペンネはそう言って釣竿ロッドを手渡すよう要求し、今度こそ俺の手伝いをしてみせようと欲しているのか、とにかく魚を釣る気満々である。

「よし、それじゃあ疑似餌は俺が付けてやるから、お前はこれを海の中に放り込むだけでいいからな」

「うん! それ!」

 釣竿ロッドを手にしたペンネはそう言って、特にポイントを狙った様子も見せる事無く、俺が取り付けてやった疑似餌と一繋がりになった釣り針を適当な岩礁と岩礁の隙間の海中に無造作に投じた。そしてやはり俺のそれと違って多彩なルアーアクションなどを繰り広げる事も無いままに、自然と魚が食い付いてくれるその時をジッと辛抱強く待ち続ける。

「なあ童貞、これで後は、魚が釣れるまで待ち続ければいいのか?」

「いやいや、竿の先端を小刻みにリズミカルに動かして、まるで疑似餌が生きているように見せかけるんだ。ほら、こんな感じで、小海老が跳ねているような動きを繰り返すんだよ」

「こう?」

「そうそう、もうちょっと小刻みに、自然な感じで」

 彼女が握る釣竿ロッドに手を添えつつそう言った俺に指導されながら、ぎこちない手付きながらも、ペンネは小海老を模したトゥイッチと呼ばれるルアーアクションを披露する事にどうにかこうにか成功した。後はこのまま同じ動きを繰り返し続ければいつか魚が食い付いてくれる筈なのだが、悲しいかなその瞬間が訪れる前に、決して我慢強くない彼女の忍耐力の方が先に尽きてしまう。

「ねえ童貞、これ、いつまで続ければいいの?」

「そりゃ勿論、魚が食い付くまでだよ。釣りって言うのは魚との根競べなんだから、文字通り根気よく待ち続けなきゃね」

 釣魚ちょうぎょに慣れた俺はそう言うが、残念ながら一介の幼女に過ぎないペンネがそんなに根気よい筈もない。

「あたし、もう飽きちゃった」

 するとペンネはそう言って、ルアーアクションを繰り返し続ける手を止めてしまった。

「あ! おい馬鹿、何やってんだ!」

 俺が思わずそう言えば、ペンネは即座に激昂する。

「ちょっと童貞、馬鹿と何よ、馬鹿とは! あたしはあんたと違って、馬鹿なんかじゃありませんからね!」

 馬鹿にされる事を毛嫌いするペンネがそう言って怒りを露にした、次の瞬間。不意に彼女が手にした釣竿ロッドの先端が大きくしなりながら、びくびくと激しく振動し始めた。

「きゃっ!」

「掛かった!」

 そう言った俺は、軽いパニック状態に陥ったペンネが握る釣竿ロッドに再び手を添える。

「ねえ、どうするの? これ、どうしたらいいの?」

「どうやら、思ったより大物が掛かったみたいだな……糸が切れないように暫く泳がせて、弱るのを待とう。いいかペンネ、竿を握ったまま、ジッと根気よく耐え続けるんだ」

「え? 待つって、どのくらい? 耐え続けるって、いつまで?」

「掛かった魚が疲れて、動きが鈍くなるまでだ。なあに、別に噛み付いたりしないから大丈夫さ」

「分かった、頑張る!」

 そう言ったペンネは小さな手でもって釣竿ロッドを力強く握ったままこらえ続け、海に引きずり込まれないように身体を支えるべく、俺は彼女の手だけではなく腰にもまた手を添えた。すると程無くして暴れ狂っていた魚もようやく力尽きたのか、その動きが鈍くなり始めると、俺はペンネに新たな指示を飛ばさざるを得ない。

「よしペンネ、俺が支えててやるからリールを巻け!」

「リール? これ? これを回せばいいの?」

 そう言ったペンネがぎこちない手つきでもってリールのハンドルノブを回すと釣り糸が巻き取られ、釣り針に掛かった魚が次第次第に引き寄せられると、やがてその魚体が露になる。

「イシダイだ!」

 果たしてペンネが釣り上げた魚は、荒磯の王者として名高いイシダイであった。

「やったぞペンネ、立派なイシダイじゃないか!」

「凄いの? ねえ、これって凄いの?」

 そう言って興奮するばかりのペンネが釣り上げたイシダイを掴み取った俺は、針外しを使ってその口から釣り針と疑似餌を外し、未だびちびちと跳ね回るその魚体を彼女に指し示す。

「ああ、凄いぞ! イシダイは海釣りに興じる全ての釣り人の垂涎の的、憧れの魚だからな!」

 俺が少しばかり大袈裟に過ぎる表現でもってそう言えば、まさにビギナーズラックを体現する格好になったペンネはきらきらとその瞳を輝かせた。

「ホント? ホントに? やった! あたしってば、そんな凄い魚を釣ったんだ!」

 飛び上がらんばかりに興奮しながらそう言って喜ぶペンネに、俺は次に為すべき事を冷静に指示する。

「それじゃあ次に、血抜きをしないとな」

「ちぬき? 何それ?」

 どうやらペンネは、血抜きを知らないらしい。

「釣った魚は飼う訳じゃないんだから、美味しく食べるためには生きている内に血を抜かないといけないんだよ。そうしないと、捌いた時に生臭さが残るからね。ほらペンネ、この鋏でもって、えらの下のここの部分を切り落とすんだ」

 俺はそう言いながら、ヴィクトリノクス社製のアーミーナイフであるアウトライダーの鋏を取り出し、それをペンネに手渡した。

「え? 未だ生きてるのに切っちゃうの? それってちょっと、可哀想じゃない?」

 しかしながらアウトライダーを手渡されたペンネはそう言って、思わず尻込みする。

「まあ、確かに可哀想と言えば可哀想かもしれないけれど、どっちみち捌いて食べるんだから一緒だよ。ほら、俺が押さえていてやるから、早く切っちまいなって」

「う、うん……」

 そう言ったペンネは恐る恐るアウトライダーを持った手を伸ばし、まるでそうする事によって自分の罪が少しでも軽くなると思っているかのように眼を背けながら、釣り上げたイシダイのえらの下の部分を鋏でもってじょきんと切り落とした。すると彼女の手によって切られたイシダイは真っ赤な血を流しつつもばたばたと激しく暴れ、ペンネは思わず「きゃっ!」と黄色い声を上げてしまう。

「よし、それでいいぞ、ペンネ。後はこのまま暫く泳がせておけば自然と血が抜けて、やがてゆっくりと死に至る筈だからな」

「この魚、死んじゃうの?」

「ああ、そうだよ。食べるためには、殺さなきゃならないからね」

 どうやらペンネは自分が釣り上げたイシダイを殺す事に対して気後れしてしまっているように見受けられるが、以前原生林の中で毒蛇であるミナミオオガシラに遭遇した際にはその毒蛇を殺すよう俺に要求していたと言うのに、なんとも調子が良くて現金な奴だと言う他無い。そして折り畳みバケツの中のイシダイは順調に血抜きが進行し、海水が赤く染まり始めると、やがて見るからに動きが鈍くなりながらゆっくりと絶命した。

「これで、ようやく血抜きが終わったな。さあ、臭みが出る前に内臓を抜いて捌いておくぞ」

 血抜きを終えてそう言った俺がバークリバー社製の多目的ユーティリティナイフであるブラボー1.5を取り出すと、再びペンネが要求する。

「ねえ童貞、これからこの魚を切り身にするんでしょ? ねえねえ、それ、あたしにやらせてよ!」

 ペンネがそう言えば、俺は少しばかり逡巡してからブラボー1.5を彼女に手渡した。

「出来るか? 結構難しいぞ?」

「うん、出来る! 出来るから、やり方を教えて!」

 そう言って教えを乞うペンネに、俺は手取り足取り魚の捌き方を教えてやる。

「ほら、まずは背ビレと腹ビレ、それに胸ビレと尾ビレを切り落とせ。そうそう、それでいい。そうしたら次に、腹を裂いて内臓を掻き出すんだ」

「こう?」

「ああ、これで内臓が取れたな? だったら今度は、鱗を落とすんだ。ナイフをこう持って、刃を立てながら削り落とすような感覚でもって、魚の胴体全体を力を込めてごしごしと撫で回せ」

 懇切丁寧にそう言って指示する俺の言葉に素直に従いながら、拙い手つきでありつつもペンネはイシダイの内臓を抜いて鱗を落とし、いよいよその身を三枚に下ろす工程へと差し掛かった。

「よし、それじゃあ背中側から中骨に沿うようにナイフの刃を滑らせながら、魚の身の部分を三枚に下ろし始めろ。決して焦らず、ゆっくりでいい」

「うん」

 そう言ったペンネは俺の指示通りブラボー1.5の刃でもってイシダイの身を中骨から剥がし始めるものの、緊張のあまり余計な力を込め過ぎたのか、思わずその手が滑ってしまう。

「痛っ!」

 手が滑った際の勢い余って、鋭利なナイフの丹念に研ぎ上げられた切っ先が、ペンネの左手の人差し指に突き刺さってしまった。浅く切り裂かれた彼女の指先の傷口から真っ赤な鮮血がぽたぽたと滴り落ち、打ち寄せる波に洗われて丸くなった岩礁をじわりと滲ませる。

「おいペンネ、大丈夫か?」

「大丈夫……じゃないかも。ねえ童貞、続きはあんたがやって!」

 するとペンネはそう言いながら、手にしたブラボー1.5を俺に向かって差し出した。どうやら彼女は指先を切ってしまった事によって、自分が釣り上げたイシダイを捌く事に対するモチベーションをすっかり失ってしまったらしい。

「分かった分かった、俺に任せておけ」

 そう言った俺はブラボー1.5を彼女の手から受け取ると、ペンネのそれとは対照的な慣れた手付きでもって、立派な魚体のイシダイを手際良く三枚に下ろしてみせた。そして不要になった中骨を海に捨てて切り身を折り畳みバケツの中に放り込んでから、その折り畳みバケツと愛用の釣竿ロッドを手にしながら砂浜の方角へと足を向ける。

「それじゃあ今日の釣りはこれで終わりにして、もうテントまで戻ろう。それでその切った指も、早く治療するんだ」

「うん、そうする」

 そう言ったペンネと俺の二人はこのエルディンガー島の南側の岩礁から砂浜の方角へと移動し、やがて波打ち際から充分距離を取った平地に設営されたドームテントの元まで辿り着いた。

「おお、大道もペンネも、もう帰って来たのか。それで、今日の釣果は如何ほどであろうかのう?」

 ドームテントの元へと辿り着いてみれば、その傍らで待っていた賢者タリアータがぷかぷかとパイプ煙草を吹かしながらそう言って、俺とペンネの二人を出迎えつつも疑問符を隠さない。

「ああ、今日はペンネが立派なイシダイを釣り上げてみせてくれたよ。だけどそれを捌いている最中に、うっかりナイフで指を切っちゃってね。ほらペンネ、こっちに来て指を見せてみろよ」

 折り畳みバケツと釣竿ロッドを置いた俺がそう言えば、ペンネがナイフで切ってしまった指先をこちらへと差し出したので、俺はその傷の深さを改めて確認する。そして確認してみれば、出血量の割には大した怪我ではない。そこでキャンプ用具一式の中から救急箱を取り出し、更にその救急箱の中から消毒液と絆創膏と包帯を取り出すと、彼女の指先の怪我をちゃっちゃと手早く治療してやった。

「さあ、これでいいだろう」

 俺がそう言って治療を終えれば、ペンネは包帯が巻かれた自分の指先をジッと見つめながら礼の言葉を口にする。

「うん、ありがと」

「それじゃあちょっと早いけど、前に採って来たヤシの実のストックもある事だし、今日はもう晩飯にしよう。それでいいか、ペンネ?」

「うん!」

 ペンネがそう言って首を縦に振ったので、俺はさっそくかまどの火を起こし、晩飯の準備に取り掛かり始めた。勿論準備とは言っても、ついさっき岩礁でもって切り身にしたイシダイを塩水で煮込むだけなので、特にこれと言ったコツも技術も必要無い。

「ああ、せめて醤油があったらもっと美味い料理が作れるんだがなあ」

 かまどの上のダッチオーブンでイシダイの切り身をぐつぐつと煮込みながら、俺はそう言って深い深い溜息を吐いた。

「醤油? ねえ童貞、醤油なら持ってなかったっけ?」

「ああ、最初はキャンプ用具の調味料入れの中に放り込んであったんだけど、もう全部使い切っちゃったんだよ。胡椒とかマヨネーズとか言った、他の調味料と一緒にな。だから今から手に入る調味料は、海水から作った塩しか無いって訳なのさ」

「ふうん、そうなんだ」

 俺の解説にペンネはそう言って得心するものの、いくら彼女が得心したところで、足りなくなった調味料がどこからともなく補充されるような事態が起こり得る筈も無い。そこで俺は仕方無く、海水をして作った塩を溶かした只の塩水でもって、イシダイの切り身を煮込み続ける。

「さあ、出来たぞ」

 そう言った俺の言葉通り、そうこうしている内に、ダッチオーブンの中のイシダイの切り身の塩茹でが完成した。

「いただきます」

「うん、いただきます」

「いただきます」

 やがて習慣的にそう言った俺ら三人はイシダイの塩茹でを揃って口に運び、魚が好物である俺と賢者タリアータは淡白な白身に舌鼓を打つものの、そんな俺らとは対照的に魚が嫌いなペンネは不平不満を露にする。

「ねえねえ、童貞ってば、何か他に食べる物無いの? 前にも言ったけどさ、あたし、魚は嫌いなんだけど?」

 我儘な歳頃の幼女であるペンネはそう言って唇を尖らせるが、今の俺らにはとって、このイシダイの塩茹で以外の食べ物と言ったら足元に転がっているヤシの実くらいしか存在しない。

「ヤシの実、食うか?」

「うん、食べるけど……それしか無いの? あ、それにヤシの実の中の甘いジュースは好きだけど、その外側の硬くてしゃきしゃきした部分は嫌いだからね? そこは食べさせないでよ?」

 ペンネはそう言って、採って来たヤシの実の中の甘く爽やかな液状胚乳こそ率先して飲むものの、脂質と食物繊維が豊富な固形胚乳を食べる事は頑なに拒否するのだった。

「だったらペンネ、お前は何なら食べたいんだ?」

 呆れ返った俺がそう言って問い質せば、ペンネは腕を組んで暫し逡巡してからゆっくりと口を開く。

「……ヤシガニ。ヤシガニは好き。あれは蟹や海老みたいな味でほくほくしていて、美味しいから」

「そうか、ヤシガニが好きか。確かに塩茹でにしたヤシガニは美味いけど、今日は採って来てないし、今になって食卓に並べる訳にも行かないからなあ。だからまた今度見つけたら採って来てやるから、今日のところは、このお前が釣り上げたイシダイで我慢しておけよ。な?」

「……うん」

 するとペンネはそう言って頷き、渋々ながらも、再びイシダイの塩茹でを口に運び始めた。如何に我儘な歳頃の幼女とは言っても、さすがにこの場に無い物を食べる事は出来ないと言う事実は理解出来ているらしい。

「ほっほっほ、さすがのペンネも大道も、無い袖ばかりは振る訳にはいかんからのう。だからペンネよ、ここはヤシガニが採れるその日まで、只々ジッと辛抱強く我慢するしかないじゃろうて」

 俺らと一緒にイシダイの塩茹でを食んでいた賢者タリアータもまたそう言って、幼いペンネをそれとなく諭し、時には忍耐に打ち勝って我慢し続ける事の大切さを説き伏せるのだった。

「ねえ童貞、明日は必ずヤシガニを採って来てね? 約束だよ?」

「うーん、そうだな。ヤシガニが見つかるかどうかは偶然の産物だから安易に約束は出来ないけれど、明日になったら出来るだけ広範囲を探して来てやるから、それで勘弁してくれよな? ん?」

 俺がイシダイの切り身を咀嚼しながらそう言えば、やはりペンネは渋々ながらも納得したらしく、それ以上文句を垂れる事も無い。そしてダッチオーブンの中のイシダイの塩茹でに続いてヤシの実の液状胚乳と固形胚乳もまた平らげ終えると、やがて今宵の夕餉はお開きとなる。

「ふう、ごちそうさま」

「ごちそうさま」

「ああ、ごちそうさま」

 そう言って食事を終えた俺とペンネ、それに賢者タリアータの三人は、すっかり膨れた腹を擦りながら白砂が敷き詰められた浜辺に並んで腰を下ろした。そしてついと顔を上げて頭上を仰ぎ見れば、漆黒の夜空にはまるで宝石箱をひっくり返したかのような満天の月と星々がきらきらと煌めいている。

「ああ、なんて綺麗な星空なんだ」

 すっかり腹が膨れた事もあって心に余裕が生まれたせいなのか、ちょっとばかり感傷的になったらしい俺は溜息交じりにそう言って、柄にもなく星空の美しさに感動してしまっていた。するとそんな俺の隣に座るペンネもまた感傷的な気分になったらしく、何を思ったのか不意に俺に謝罪する。

「ねえ童貞、今日はごめんね?」

「ん? ごめんね? 何が?」

「今日はあたしが大道の日課を手伝ってやるって言ったのに、結局魚を釣っただけで、それ以外の事は大道に任せっ放しでさ」

 アロハシャツ姿の俺の身体に寄り添いながらそう言ったペンネは、何故だか分からないが、普段の彼女に比べて随分としおらしいように見受けられた。

「なんだ、そんな事か。ペンネ、お前はお前なりに頑張ってくれたんだし、別に気にしてないよ」

 俺はそう言って彼女を慰めるものの、ペンネはそんな俺の言葉に納得しない。

「ううん、そんな事言って、あたしを甘やかさないでよ。あたしが大道と違って役立たずなのは、誰の眼にも明らかなんだもん。だから大道もあたしの事を見捨てちゃっても構わないから、だから、だから……」

「だから?」

「だから、お願いだから、あたしを嫌いにならないでくれる?」

 やはりペンネはしおらしい表情と口調でもってそう言いながら、歳上の男に媚びを売るような上目遣いを維持しつつ、まるで捨てられた子犬のそれにも似たうるうると涙で潤んだ瞳をこちらに向ける。

「ペンネ……」

 俺は彼女の名を口にしながら、ペンネの細く華奢な身体を抱き締めようと、そっと手を伸ばした。しかしながらあとほんの数㎝で彼女の肩に手が届くと言うところで、ペンネはそんな俺の手を勢いよく払い除ける。

「なんてね! 全部嘘だよ! 誰があんたみたいな童貞なんかに、嫌われたくないだなんて思うもんか!」

 ペンネはそう言いながら俺の手を払い除けて跳ね起きるなり、こちらに向けて舌を出しながら、まるで俺を嘲笑するかのようにあかんべえをしてみせた。すると最初は一体何が起こっているのか理解出来ずきょとんとしていたこの俺も、自分が騙されていた事にようやく気付くと、幼いペンネに対して年甲斐も無く怒りを露にする。

「ペンネ! お前、騙したな!」

「へっへーんだ! まんまと騙される方が悪いんだよ、この童貞! 悔しかったら、捕まえてみろ!」

 そう言ったペンネは、ドームテントが設営された砂浜から波打ち際の方角へと駆け出した。

「待て、こいつめ!」

 俺もまたそう言いながら立ち上がり、裸足のまま波打ち際を逃げ回るペンネの背中を追い掛ける。

「あんたみたいな童貞なんかに、捕まるもんか!」

 そう言いながら逃げ回る裸足のペンネとそれを追い掛けるエンジニアブーツを履いた俺の姿は、仮にここにギャラリーとなる第三者が存在していたとしたならば、まるで追い駆けっこをして戯れる恋人同士の様に映ったに違いない。

「ほっほっほ、ペンネも大道も、二人とも本当に仲が良い事よのう」

 ぷかぷかとパイプ煙草を吹かしつつもそう言った賢者タリアータに見守られながら、俺とペンネの二人は、いつまでも波打ち際で戯れ続ける。

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