第七幕


 第七幕



 今日もまた、アロハシャツ姿の俺は真っ白い夏物のワンピース姿のペンネと共に、このエルディンガー島の南側の岩礁でもって釣竿ロッドを握りながら釣魚ちょうぎょに勤しんでいた。

「おいペンネ、調子に乗ってあんまり遠くに行くなよ? 俺の眼の届く範囲内で遊ぶんだぞ?」

「うん、分かってるってば!」

 そう言ったペンネは相変わらず、岩礁の磯だまりで小さな魚や蟹や貝などを採って、磯遊びに興じている。

「お?」

 すると岩礁に足を踏み入れた瞬間より二時間ばかりも経過した頃になってから、ようやく疑似餌に魚が食い付いたらしく、釣竿ロッドを握る俺の手にびくびくと言う心地良い感触が伝わった。

「よし、ようやく一尾目!」

 そう言った俺が意気揚々と釣竿ロッドを上げてみれば、その疑似餌の釣り針には赤黒いまだら模様の根魚、つまりカサゴもどきが掛かっていたので、俺は思わず小さなガッツポーズを決めてみせる。

「何よ、ガッツポーズなんて決めちゃってさ。如何にもオタクっぽくて、キモいんですけど」

 幼いペンネはそう言って俺を小馬鹿にするが、俺はそんな彼女を無視して、針外しで釣り針を外したカサゴもどきを海水が汲まれた折り畳みバケツの中に放り込んだ。そしてすかさず第二投目とばかりに、疑似餌と一繋がりになった釣り針をキャスティングでもって海中に投じれば、今度はすぐさま魚が食い付いた感触が俺の手に伝わる。

「よし、二尾目! こいつは幸先がいいぞ!」

 俺がそう言ってリールを巻き、釣竿ロッドを上げてみれば、これで都合二尾目の立派な魚体のカサゴもどきが釣り針に掛かっていた。そこで先程と同じく針外しで釣り針を外したそれを折り畳みバケツの中に放り込むと、俺は一旦、愛用の釣竿ロッドを折り畳む。

「よしペンネ、一旦テントまで移動するぞ」

「え? 釣りはもうやめちゃうの?」

「ああ、今日はもうカサゴを二尾も釣り上げたから良しとして、これから原生林にヤシガニを探しに行くんだ。ペンネも、ヤシガニを食いたがっていただろ?」

「うん、ヤシガニ食べたい!」

 嬉々としてそう言ったペンネは磯だまりから腰を上げ、磯遊びを中断すると、俺と共にドームテントが設営された砂浜の方角へと足を向けた。

「ねえねえ童貞、ヤシガニ、一杯採れるかな?」

「さあ、どうだろうな。出来るだけ沢山採れるといいけれど、こればっかりは運とヤシガニの都合次第だからな」

 そう言った俺とペンネの二人は並んで歩いて砂浜を縦断すると、やがて満ち潮でも浸水しないように波打ち際から充分距離を取った平地に設営されたドームテントの元へと帰還し、釣り上げた二尾のカサゴもどきをクーラーボックスに放り込んでから釣竿ロッドを置く。ちなみにカサゴもどきを蓋がロック出来るクーラーボックスにわざわざ移し替えるのは、ハチクマなどの猛禽類にこれらの獲物を横取りされないための処置である事は言うまでもない。

「おやおや、ペンネも大道も、随分と早かったではないか。これはもしかして、眼を見張るほどの釣果を期待してもよろしいのであろうかな?」

 するとかまどを囲む流木の一つに腰掛けた賢者タリアータがぷかぷかとパイプ煙草を吹かしながらそう言って、俺が何か、三人掛かりでも食い切れないほどの大物でも釣り上げたのかと期待するような眼差しをこちらに向けた。

「いや、違うよ、そうじゃない。残念ながら、今日の釣果はそこそこの大きさのカサゴが二尾だけさ。だけどこれからペンネが食いたがっていたヤシガニを採るために、二人で原生林に探しに行くところだよ」

「おお、そうかそうか、そうであったか。それならば、ペンネも大道も気を付けて行くがよいぞ」

 賢者タリアータがそう言って得心すれば、俺は採ったヤシガニを放り込むための空の折り畳みバケツを手に取り、今度はヤシの木が鬱蒼と生い茂る内陸の原生林の方角へと足を向ける。

「よし、行くぞ」

「うん」

 そう言ったペンネと俺の二人は、その場に賢者タリアータを残したまま、揃って原生林の中へと足を踏み入れた。足を踏み入れた原生林の中は湿度が高く、むしむしと蒸し暑くて堪らない。

「どうだペンネ、そっちにヤシガニは居たか?」

「ううん、居ないよ」

 俺らは原生林の中をぶらぶらとそぞろ歩くような格好でもって探索し続けるが、どこを探してもヤシガニの姿は見出せず、只々ヤシの木から自然と落下したヤシの実がごろごろと転がっているばかりである。

「仕方が無い、こうなったら多少の危険は覚悟の上で、もうちょっと原生林の奥の方まで探しに行ってみよう」

 額の汗を拭いながらそう言った俺の言葉通り、砂浜からあまり離れ過ぎるのは危険である事は重々承知の上で、俺とペンネの二人はエルディンガー島の内陸の原生林の更に奥の方へと足を踏み入れた。すると鬱蒼と生い茂る木々や草花の背丈が見るからに高くなったかと思えば、より一層の蒸し暑さに呼吸困難に陥ったかのような息苦しさを覚え、思わず頭がくらくらしてしまう。

「今度はどうだ、ペンネ?」

「うーん、やっぱりどこにも見つからな……あ、居た!」

 原生林の中を探索し続けること数十分後、不意にペンネがそう言って、一本のヤシの木を指差しながら歓喜の声を上げた。見ればそのヤシの木の幹をぎゅっと抱き締めるような格好の、全身が鮮やかな青紫色の殻に覆われた立派なヤシガニの姿が眼に留まる。

「よし、やったぞ! ペンネ、今すぐそのヤシガニを捕まえろ! 決して逃がすんじゃないぞ!」

「え? やだよ、怖いもん。あのおっきな鋏で指を挟まれたら大怪我しちゃうかもしれないし、大道が捕まえてよね」

 どうやらペンネはヤシガニは食いたいが、自分で捕まえる気はさらさら無いらしい。

「仕方が無い、俺が採ってやるよ」

 溜息交じりにそう言った俺はヤシの木の幹に留まるヤシガニに忍び寄り、そのヤシガニを背後から掴み上げ、手にした折り畳みバケツの中へと放り込んだ。ヤシガニは陸上では動きが遅く、ザリガニやヤドカリと同じく背後から甲羅状の背中の殻を掴んでしまえば簡単に捕まえる事が出来るので、その肉を目当てにする者にとっては絶好のカモである。

「よし、まずは一匹目!」

 ヤシガニを折り畳みバケツに放り込んだ俺がそう言えば、ペンネはまた別のヤシの木の幹を指差した。

「ねえ童貞、こっちにも居るよ!」

 そう言った彼女の言葉通り、今しがた捕まえたのとはまた別の大きなヤシガニが、天を突くようにそびえ立つヤシの木の幹に留まっているのが見て取れる。

「よし、これで二匹目!」

 俺はそう言いながら新たなヤシガニを掴み上げると、それもまた折り畳みバケツの中へと放り込んだ。二匹のヤシガニが狭い折り畳みバケツの中でおしくらまんじゅうを繰り広げ、互いの殻を激しくぶつけ合いながら、もぞもぞと忙しなく蠢き続けている。

「俺とお前とタリアータの三人で食べるんだったら、出来ればもう一匹くらい捕まえておきたいな」

 二匹のヤシガニが放り込まれた折り畳みバケツを手にした俺がそう言えば、裸足のペンネは「うん、分かった! もっとあっちを探してみる!」と言いながら、原生林の更に奥へ奥へと足を踏み入れようとした。

「おいペンネ、あんまり一人で先走るなよ!」

「大丈夫だってば、まったく、童貞は心配性だな! ほら見ろ、また居たぞ!」

 笑いながらそう言ったペンネが指差す先には都合三匹目のヤシガニがヤシの木に留まっていたので、俺はそのヤシガニも捕まえようと、背後から手を伸ばす。

「あれ?」

 するとその時不意に、激しい眩暈を覚えた俺の視界はぐにゃりと歪み、平衡感覚を失ってその場に膝から崩れ落ちてしまった。

「ん? 童貞ってば、どうしたの?」

「ああ、いや、何でもない」

 俺はそう言ってすぐさま立ち上がろうとするが、相変わらず激しい眩暈は続き、膝に力が入らないがために立ち上がる事が出来ない。

「あれ? あれ? 一体どうしたんだ?」

 何故に自分は膝から崩れ落ちてしまったのか、何故に自分は立ち上がれないのかがまるで理解出来ぬまま、俺は視界が歪むほどの眩暈だけでなく激しい吐き気と寒気にも襲われ始める。

「げえええぇぇぇ……」

 激しい吐き気に襲われた俺はその場にひざまずいたまま、思わず盛大に嘔吐してしまった。吐き戻した黄土色の吐瀉物が地面をしとどに濡らすが、それでも一向に吐き気は治まらない。

「ちょっと童貞、どうしちゃったの? 大丈夫? ねえ、大丈夫?」

 嘔吐するばかりの俺の姿を見たペンネはそう言って俺の身を案じるが、残念ながら、とてもじゃないが大丈夫とは言ってられない状況である。

「分からない。分からないが、なんだかひどく気持ちが悪いし、それにこの暑さだって言うのに寒気がするんだ」

 ひざまずいたままそう言った俺の身体が、ここは燦々さんさんと陽光が照り付ける南海の孤島だと言うのに、あまりの寒さにがたがたと震え始めた。

「立って! とにかく立って、テントまで戻ろうよ!」

 そう言って俺を鼓舞するペンネの視線の先で、俺は力が入らない膝に鞭打ちながら必死で立ち上がろうと試みる。地面に転がった折り畳みバケツからは、捕まえた筈の二匹のヤシガニがこれ幸いとばかりに逃げ出していた。そしてどうにかこうにか立ち上がる事に成功した俺とペンネの二人は、空になってしまった折り畳みバケツを手にしつつ、ドームテントが設営された砂浜の方角へと足を向ける。

「ねえ、タリアータ! タリアータ、ちょっとこっちに来て手を貸して! 大道が大変なの!」

 原生林を抜けて砂浜に足を踏み入れたペンネは大声でもってそう言って、ドームテントの元でぷかぷかとパイプ煙草を吹かしながら待機していた賢者タリアータに呼び掛けた。

「ほっほっほ、どうしたどうした、何があった?」

「大道が、原生林の中で突然倒れて吐いちゃったの! それに前みたいに貝も食べてないのに気持ち悪くって、寒気がするんだって!」

「そうなのか、大道よ?」

 ローブとエナン帽に身を包んだ賢者タリアータにそう言って尋ねられた俺は、ふらふらと覚束無い、今にも昏倒してしまいそうな足取りでもってドームテントの元へと歩み寄りながら返答する。

「ああ、そうだ。ひどい眩暈がするし気持ち悪いし、それに何よりも寒くて寒くて仕方が無い」

「ふむ。ならば取り敢えず、テントの中で横になって休むが良いぞ」

 そう言った賢者タリアータの肩を借りつつドームテントの元へと辿り着いた俺は、そのドームテントの中に潜り込んで横になり、更に寝袋シュラフに包まりながら身体を温める事によって襲い来る寒気から逃れようと尽力するのだった。

「ねえタリアータ、大道ってば、一体どうしちゃったの?」

 ペンネがそう言って問い掛ければ、問い掛けられた賢者タリアータは顎から生えた長い白髪髭を指先で弄びつつ、暫し熟考してから返答する。

「ふむふむ、そうかそうか、成程成程。不肖ながらこのわしの見立てによると、どうやら大道を苦しめているこの症状は、熱中症のそれでほぼ間違いないであろうな」

「熱中症?」

「何? 熱中症だって?」

 俺はそう言って驚くが、確かに言われてみれば、熱中症に罹患する心当たりが無くもない。いくら普段からサファリハットを被って直射日光から身を守っているとは言え、南海の孤島であるエルディンガー島に降り注ぐ陽射しの強烈さは殺人的であり、嫌が応にも体温が上昇して熱が身体の内側に篭ってしまうのだ。しかもつい先程まで足を踏み入れていた原生林の中は特に湿度が高く、その上今日は朝から満足に水分を補給していなかったのだから、熱中症が発症する条件を満たしてしまっている事は自明の理と言えよう。

「まったく、熱中症ごときで倒れるとは情けない奴だな、大道は」

 するとドームテントの中で横たわる俺に向かって、ペンネや賢者タリアータのそれとも違う、ややもすればドスの効いた低い女性の声がそう言って俺を嘲笑った。

「何? 誰だ、俺を情けない奴だなんて言うのは?」

 俺がそう言ってついと顔を上げれば、そこには頭に獣耳が生えた長身で筋肉質の獣人の女性、つまり獣王パンチェッタ・アッフミカータその人が立っており、彼女は重ねて俺を嘲笑う。

「情けない奴だから、情けない奴と言ったまでだ。この程度の事で倒れるようでは、ペンネの身を守る事など出来はしないぞ? 違うか?」

「……」

 俺は腕を組んでふんぞり返りながらそう言った獣王パンチェッタのもっともな言い分に言葉を失い、まさにぐうの音も出ないとはこの事であった。

「ねえパンチェッタ、今はそんな事はどうでもいいから、大道を治してあげるにはどうすればいいの?」

 すると俺の身を案じたペンネがそう言って尋ねれば、彼女の隣に立つ賢者タリアータがこれに答える。

「そうよのう、ますは風通しが良くて涼しい日陰へと移動し、体温を低下させる事であろうな。そして出来れば氷や保冷剤などで首筋や腋の下、それに太腿の付け根などの太い血管が通っている場所を冷やすのが良いのであろうが、残念ながらここには氷など無いからのう。しからば水分と塩分を充分に摂取してしっかりと汗を掻き、体温の調節機能を回復させる事が先決であろうぞ」

「分かった!」

 賢者タリアータの熱中症対策に関する講釈を耳にしたペンネはそう言うと、ダッチオーブンの中に溜め置かれていた煮沸消毒済みの池の水をステンレス製のコップに汲み、それを海水から作った塩の塊と共に俺に差し出した。

「大道、これ、飲んで!」

「う、うん」

 俺はペンネの勢いに気圧けおされながらも、差し出されたコップと塩の塊を受け取り、まるで錠剤を飲み込むような格好でもってそれをごくりと嚥下してみせる。

「どう? 少しは楽になった?」

 道理を知らない幼いペンネは俺の顔をジッと覗き込みながらそう言うが、当然の事ながら、たかが塩の塊一個と水一杯を飲み下しただけでそんなに早く効能が現れてくれる筈も無い。

「こんな事をして効き目があるのか無いのかよく分からんが、ペンネ、取り敢えずもう一杯水を貰えるか?」

 俺がドームテントの中で涼みながらそう言えば、ペンネはステンレス製のコップに新たな水を汲んで来てくれたので、俺はそれをごくごくと飲み下す事によって失った水分を補給する。

「もっと? もっと飲む?」

「ああ、頼む」

 俺はそう言って、ペンネに汲んでもらった煮沸消毒済みの池の水を、新たな塩の塊と共に何杯も何杯も繰り返し繰り返し飲み下し続けた。そして腹がたぷたぷになるまで水分と塩分を補給し終えたかと思えば、再びドームテントの中で寝袋シュラフに包まりながら汗を掻き、賢者タリアータが言った通り体温の調節機能が回復するまでしっかりと身体を休ませる。

「ねえ童貞、もういいの? 大丈夫?」

「ああ、もう大丈夫だ。後はこのまま朝までぐっすり休んでいれば、じきに良くなる筈だからな」

 そう言った俺は俺の身を案じるペンネに見守られながら、そっと静かに眼を閉じ、やがて就寝の態勢へと移行した。そして呼吸を整えつつ身体を力を抜いてリラックスしてみれば、程無くしてゆっくりと睡魔に襲われ始め、次第次第に意識が混濁し始める。


   ●


 やはり何かひどく気掛かりな、自分が伝説の武具を携えた勇者となって従者と共に魔王を倒しに行くような荒唐無稽な夢を見ていた俺は、アホウドリだかネッタイチョウだかの海鳥の鳴き声に安眠を妨げられるような格好でもって眼を覚ました。

「……」

 眼を覚ましてみればドームテントの中で夏用の薄手の生地で出来た寝袋シュラフに包まり、びっしょりと滝の様な汗を全身に掻きながら横たわっていたので、俺は寝惚けまなこをごしごしと擦りながら昨日の出来事をぼんやりと回想する。

「ああ、そうか。確か俺はヤシガニを探している内に熱中症にかかって、寝込んでたんだっけ」

 独り言つようにそう言った俺はようやく状況を理解すると、包まっていた寝袋シュラフから抜け出し、砂浜に設営されたドームテントの中で半身を起こした。そして東の水平線から昇る朝陽の眩しさに眼を背けつつも、ぐるりと周囲を見渡せば、俺の隣ですうすうと可愛らしい寝息を立てるペンネの寝姿が眼に留まる。

「やれやれ、やっと眼を覚ましたのか、大道よ。おっと、そこで寝ているペンネは貴様の事が心配で心配で、夜通し寝ないで看病してやっていたのだから、今はそっとしておいてやれ」

 即席のかまどの傍らでしっかと大地を踏み締めつつも、仁王立ちの姿勢のまま朝陽を凝視しながらそう言った獣王パンチェッタの言葉を鵜呑みにするならば、ペンネは俺の看病をしている内にいつしか眠りこけてしまったと言う事らしい。

「そうか……ペンネの奴……」

 俺が彼女を起こさないように小声でもってそう言って、ペンネの寝顔を眺めながらそっと立ち上がれば、そんな俺に獣王パンチェッタは改めて尋ねる。

「ところで大道よ、貴様、身体の具合の方はどんな調子なんだ? 見たところ、すっかり良くなったように見受けられるが?」

「ああ、そうだな。未だちょっとばかり身体が痺れてふわふわして変な感じだけれど、眩暈と寒気の方は随分と良くなったよ。取り敢えずこのままもう一日休んでいれば、ほぼ治るんじゃないかな」

「そうか、それならもう問題無いだろう。きっとペンネの奴も、貴様の元気な姿を見たら喜ぶに決まっているからな」

 そう言って豪快にかっかと笑う獣王パンチェッタを他所に、俺は身に付けていたアロハシャツを脱ぎ捨てると、池の水が汲まれた折り畳みバケツを手に取った。

「ん? 一体何をする気だ、大道よ?」

「ああ、洗濯だよ。汗で濡れた服を着たままじゃ、気持ち悪いからな」

 そう言って獣王パンチェッタの素朴な疑問に答えた俺は、寝汗でびっしょりと濡れたアロハシャツを、折り畳みバケツに汲まれた池の水でもってばしゃばしゃとすすぎ始める。以前食中毒でもって下痢便と吐瀉物にまみれながら寝込んだ時とは違って、今回は服も寝床もさほど汚れてはいないから、こうして真水ですすぐだけで充分綺麗になるに違いない。

「よし、こんなもんか」

 やがて汗で濡れたアロハシャツを充分にすすぎ終えた俺はそう言うと、ドームテントを覆うポリエステル製のテント生地の上に濡れたそれを広げて乾かし始めた。そしてアロハシャツが乾くまで待っている時間を利用して、かまどの傍らに立つ獣王パンチェッタが俺に尋ねる。

「なあ、大道よ」

「ん?」

「貴様、パンツは洗わなくてもいいのか?」

 頭に獣耳が生えた長身で筋肉質の獣王パンチェッタはそう言って、如何にも不思議そうな視線をこちらに投げ掛けた。

「パンツ? ああ、これか。勿論これも洗いたいけど、以前食中毒にかかった際に全裸で洗濯していたところをペンネに見咎められて、面倒な事になったからさ。だから汗で濡れててちょっと気持ち悪いけど、パンツを洗うのはまたの機会にするよ」

「成程」

「それに、さ」

「うん?」

「パンチェッタ、うら若き女性であるキミの前で、パンツを脱いで全裸になる訳にも行かないだろう?」

 俺がそう言えば、獣王パンチェッタは最初はきょとんと呆けていたものの、俺の言葉の意味するところを理解すると同時にかっかと豪快かつ愉快そうに笑い出す。そして大口を開けながら一頻ひとしきり笑い終えると、こちらに歩み寄り、半裸の俺の事を称賛して止まない。

「こいつは愉快だぞ、大道! このあたしを女扱い、それもうら若き女扱いするとは、貴様にも少しは男としての甲斐性が残されていたようだな!」

 獣王パンチェッタはそう言って笑いながら、アロハシャツを着ていない半裸の俺の背中をばしばしと叩いて心の高揚ぶりを表現し、結構な腕力でもって叩かれ続ける俺は背中が痛くて痛くて仕方が無いのだった。

「おい、ちょっと、パンチェッタ、もうそのくらいにしておいてくれよ! 背中が腫れちまう!」

「何を言うか、大道! こんな愉快な事は無いぞ!」

 尚も愉快そうに笑いながら、獣王パンチェッタはそう言って俺の背中を叩き続ける。

「……大道?」

 すると獣王パンチェッタが俺の背中を叩く音が耳に届いたのか、不意にさっきまで俺の隣ですうすうと寝息を立てていたペンネがそう言って、俺の名を口にしながら眼を覚ましてしまった。

「やあペンネ、おはよう」

 俺がそう言って朝の挨拶を口にすれば、眼を覚ましたペンネは眼脂めやにが浮いた眼尻をごしごしと擦りながら半身を起こし、もぞもぞとドームテントの中から這い出して来るなり「ふあああぁぁぁ……」と幼女らしくない豪快なあくびを漏らして止まない。

「おはよう、大道」

 そう言ったペンネは未だ少し寝惚けている様子だったが、やがてはっと我に返ると、アロハシャツが渇くのを待っている俺に問い掛ける。

「ねえ大道、あんた、身体の具合はどうなの? もう寝てなくても大丈夫?」

「ああ、そうだな。たぶん、もう大丈夫だと思うよ。未だちょっと胸がむかむかするけれど、立ってられないほどのひどい眩暈と寒気はほぼほぼ治まったし、もうこれで熱中症の症状の峠は越えたんじゃないかな?」

「良かった……」

 すると俺の返答を耳にしたペンネはそう言って胸を撫で下ろし、改めてホッと安堵してみせた。

「ん? なんだペンネ、そんなに俺の事を心配していてくれたのか?」

「はあ? あんた、何言ってんの? あんたみたいな童貞の事なんて、これっぽっちだって心配してた訳が無いじゃない!」

「そうは言っても、昨日は一晩中、俺の事を看病していてくれたんだろ? だったらお前は、俺の事が心配だったって事じゃないのか? まあ何にせよ、お前が看病していてくれたおかげで助かったよ。ありがとな、ペンネ」

 俺がそう言って、どこかで見たような遣り取りを繰り返しながら礼の言葉を口にすれば、ペンネは褐色の肌に覆われた顔を真っ赤に紅潮させる。

「べ、べべべべ別に、あんたのために看病してやった訳じゃないんだからね! あんたに死なれたらヤシガニを採って来てくれる人が居なくなっちゃうし、こんな小さな島で眼の前に死体が転がってたら邪魔だから、仕方無く看病してやってただけなんだからね! 勘違いしないでくれる?」

 ペンネはそう言って強がってみせるが、理由の如何を問わず、彼女が俺の事を心配して看病してくれていた事は疑う余地が無い。

「うんうん、分かってるよ。お前は仕方無く、俺を看病していてくれたんだよな」

 そう言って俺が笑えば、ペンネは益々意固地になって自分の真意を否定する。

「ホントに、ホントに違うんだから! あたしは大道の事なんて、何とも思ってないんだからね! ただちょっと、死なれたら困るなって思ってただけなんだから! もう、知らない!」

 頑なに意地を張りながらそう言ったペンネはぷいとそっぽを向き、頬を膨らませて唇を尖らせると、すっかりへそを曲げてしまった。しかしながら如何にも幼い女の子らしい、実に分かり易い仕草でもってねている彼女の姿も、大人の俺からすれば何とも言えず可愛らしい。

「とにかくありがとうよ、ペンネ」

 俺がそう言って重ねて礼の言葉を口にすれば、ペンネは益々頬を赤らめながらねるばかりである。

「知らない! 知らない! 知らない! 大道なんて、童貞をこじらせて死んじゃえばよかったんだから!」

 そう言ってへそを曲げるペンネの様子を窺いながら、すっかり体調も回復した俺ははははと声を上げて笑った。かまどの傍らに立つ獣王パンチェッタも、ぷかぷかとパイプ煙草を吹かしながら流木の一つに腰掛けた賢者タリアータもまた愉快そうに微笑んでいる。

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