第四幕


 第四幕



 今朝もまた、俺は幼女の常として無駄に早起きなペンネに叩き起こされるような格好でもって、砂浜の平地に設営されたドームテントの中で眼を覚ました。

「おい童貞! 起きろ、朝だぞ!」

 そう言ったペンネに叩き起こされた俺は寝袋シュラフから抜け出すと、ぴんと背筋を伸ばしながら「ふあぁぁ……ぁぁ……」と盛大なあくびを漏らしつつ、のそのそとドームテントから這い出すと同時に東の水平線を赤く染める朝陽をその眼に焼き付ける。

「……もう朝か……」

「ああ、そうだとも! もう朝なんだから、さっさと顔を洗って眼を覚ませよな、この童貞!」

 俺は眼脂めやにが浮いた寝惚けまなこのまま、そう言って俺を童貞呼ばわりするペンネに促されながら立ち上がり、ダッチオーブンに溜められた真水でもってばしゃばしゃと顔を洗ってからその水をごくりと一口だけ飲み下した。そしてかまどの脇に寄せておいたスキレット、つまり鋳鉄製の小型のフライパンの中に残されていた昨夜の残りの焼き魚をむしゃむしゃと食んでいると、そんな俺に夏物のワンピース姿のペンネが尋ねる。

「なあ童貞、今日はこれから、あたし達は何をするんだ?」

「ああ、まずは水の確保だ」

 俺は如何にも面倒臭そうにそう言いながらPVCシート生地で出来た折り畳みバケツを手に取ると、日焼けと熱中症予防のためのつばの広いサファリハットを被りつつ、島の西側の小山の方角へと足を向けた。

「水なんて毎日わざわざ汲みに行かないで、どこかに纏めて溜めておけばいいんじゃないの?」

「まあ、それでもいいんだけどさ。だけど一度に運搬出来る水の量にも限度ってもんがあるし、水だって放っておけば腐るんだから、なるべく毎日新鮮な水を補給しておきたいんだよ」

 そう言ってペンネの疑問に答えた俺は砂浜を横断し、彼女と共に小川の三角洲を視界に捉えた地点から鬱蒼と生い茂る原生林へと足を踏み入れて川沿いを歩き続ければ、やがて小川の水源となっている小さな池のたもとへと辿り着く。

「ああ、糞、重い!」

 苔が生えた石や岩を踏んで滑って転ばないように細心の注意を払いつつ、俺は手にした折り畳みバケツでもって池の水を汲み上げたものの、そのあまりの重さに幼い女の子が一緒だと言うのに思わず悪態を吐いてしまった。

「それ、重そうだね?」

「そうだよ、重そうじゃなくて、実際重いんだよ。なあペンネ、少しは手伝ってくれないか? 駄目?」

 俺はそう言ってペンネに助力を乞うが、彼女は折り畳みバケツを運ぶ俺の周りをうろうろとうろつき回りながら好奇心と嗜虐心に満ちた視線をこちらに投げ掛けるばかりで、一向に手伝ってくれる気配は無い。

「ああ、重かった」

 最大14ℓの水が汲める折り畳みバケツの中ほどまで水を汲み、それを手にしたままえっちらおっちらとした覚束無い足取りでもって下山した俺とペンネは、やがてドームテントの元まで帰還するなりそう言って額や首筋に浮いた汗を拭い取った。

「ご苦労様。大道ってばそんなにぐっしょり汗掻いちゃってたら、汗臭くて女の子に嫌われるよ? なんてったって、不潔な童貞は一番モテないからな!」

「悪かったな、汗臭くて」

 不潔な童貞呼ばわりされた俺はそう言って不平不満を露にするが、そんな俺の不潔さを指摘したペンネは悪びれた様子も無く、真っ白なギザ歯を剥きながら愉快そうにほくそ笑むばかりである。

「さて、煮沸煮沸っと」

 そう言った俺は汲んで来た池の水を折り畳みバケツから空のダッチオーブンへと移し替え、それを即席のかまどの上のバーベキュー用の焼き網の上に置いてから、ガスライターとフェザースティックでもって手際良く火を起こした。そして流木を割って作った新たな薪をくべながら煮沸消毒を終えると、ぐらぐらぐつぐつと煮え立つダッチオーブンをかまどの火から遠ざける。

「熱っ!」

 すると興味深げにダッチオーブンを触ろうとしたペンネがそう言って、さっと手を引っ込めた。

「おいおいペンネ、大丈夫か? 火傷してないだろうな? ほら、こっちに来て見せてみろ」

 俺はそう言って手を差し出すよう彼女に促すが、ペンネは逆に、火傷したかもしれない両手をさっと背後に隠してしまった。

「駄目だね! きっと童貞の大道の事だから、あたしの手を触って、何かいやらしい事をするつもりなんだろ!」

「いやらしい事って……するかよ、そんな事」

 すっかり呆れ果ててしまった俺はそう言うものの、ペンネはあかんべえをするように舌を出しながら俺の手から逃げ惑い、背後に隠したその手を見せようとはしない。

「はいはい、分かった分かった。それじゃあ手は見せなくていいから、次は食料を確保しに行くぞ」

 そう言った俺はペンネを追い回すのを止め、愛用の釣竿ロッドと疑似餌と二振りのナイフを手に取ると、まずは島の南側の岩礁の方角へと足を向けた。波に洗われて角が取れた岩肌の感触がエンジニアブーツを履いた足の裏に心地良いが、常に靴を履かず裸足のまま生活するペンネの小さな足には濡れた岩が滑り易く、少々歩き辛いかもしれない。

「ボート、座礁したまんまだね」

 足を踏み入れた岩礁の一角で座礁してしまっているプレジャーボートを指差しながらペンネがそう言ったので、俺は彼女に注意喚起する。

「ああ、そうだな。座礁したまんまだ。だけどペンネ、いくら座礁してるからと言ったってバランスを崩してこっちに倒れて来ないとも限らないから、迂闊に近寄ったり触ったりするなよ?」

「ん? 何? 大道ってば、あたしの事を心配してくれてるの?」

「そりゃ心配するさ。なにせ俺はいい歳した大人の男で、お前は未だ未だ幼い子供、それも女の子なんだからな。女子供を守るのは男の義務だって事くらい、お前にも理解出来るだろ?」

 俺がそう言えば、ペンネは嬉しそうな、それでいて少しばかり残念がっているような複雑な表情をその顔に浮かべるのだった。

「今日は、何が釣れるかなっと」

 そう言った俺は岩礁の突端に立ちながら疑似餌と一繋がりになった釣り針を海中に投じ、そのまま暫し多彩なルアーアクションを繰り返しつつも、魚が食い付いてくれるその時をジッと辛抱強く待ち続ける。

「ねえねえ、童貞。……ちょっと童貞ってば、聞いてる?」

 愛用の釣竿ロッドを握りながら辛抱強くアタリを待ち続けていると、岩礁の磯だまりで小さな魚や蟹や貝などを採って磯遊びに興じていたペンネがそう言って、俺を童貞呼ばわりしながら問い掛けた。

「あ? 何だ? それとペンネ、その童貞って呼ぶのはいい加減やめてくんないかな?」

「じゃあさ、大道。大道って、魚が好きなの?」

「うん、まあ、海釣りが趣味だと公言しているくらいには好きかな? ペンネは、魚は嫌いかい?」

「水族館の水槽の中で泳いでるのを見る分には好きだけど……食べると小さな骨が口の中にちくちく刺さるし、素手で触るとべたべたしてて生臭いから、どっちかって言えば嫌いだと思う」

 ペンネがそう言えば、俺はこっちに来いとばかりに手招きしながら、彼女に釣竿ロッドを握らせようと試みる。

「だったらさ、こっちに来て俺と一緒に釣ってみろよ。一匹でも釣り上げてみれば、きっと魚の事が好きになるからさ」

「え、やだ。魚釣りとか、如何にもオタク臭い暇人の童貞がやる事だもん」

 しかしながらペンネはそう言って俺の誘いをきっぱりと拒否してのけると、まさに鰾膠にべも無いと言うべきか取り付く島も無いと言うべきか、とにかく彼女が魚が嫌いであると言う事実だけは決して揺らぐ事がないらしい。

「お?」

 すると釣り針を海中に投じた瞬間より概算で小一時間も経過した頃になってから、ようやく疑似餌に魚が食い付いたらしく、釣竿ロッドを握る俺の手にびくびくと言う心地良い感触が伝わった。

「よし、まずは一尾目!」

 そう言った俺が意気揚々と釣竿ロッドを上げてみれば、その疑似餌の釣り針には大きな黒い斑点模様の根魚が掛かっていたので、俺は思わず小さなガッツポーズを決めてみせる。

「何なの、ガッツポーズなんて決めちゃってさ! 大道ってば子供っぽくって、まるで馬鹿みたい!」

 ペンネはそう言って俺を小馬鹿にするが、大物を釣り上げた俺は興奮冷めやらぬ様子のまま言い返さざるを得ない。

「いいじゃないか、せっかくこんな大物が釣れたんだから、ガッツポーズくらい決めたってさ。それにしても、これは……ハタの一種かな? アカハタにもアオハタにも似てるけど、きっと食べたら美味いに違いないぞ」

 釣竿ロッドを置いた俺がそう言いながら釣り針から外した根魚は、食用魚として知られるハタの一種らしく、予期せぬ高級食材の出現に俺は年甲斐もなく興奮してしまうのだった。

「喜べペンネ、今夜はご馳走だ!」

「だからあたし、さっき魚は嫌いだって言ったじゃない! 聞いてなかったの? 大道ってば、やっぱり馬鹿なの? ねえ、馬鹿なの?」

 ペンネはそう言って尚も俺を小馬鹿にするが、俺はそんな彼女に構わず釣り上げたハタの一種のえらの根本に切れ目を入れてから、海水を汲んだ折り畳みバケツにそれを放り込んで血抜きを行う。

「よし、思わぬ大物も釣れたし、今日の釣果はこれで充分だな!」

 ややもすれば満足げにそう言った俺はやがて血抜きを終えたハタの一種のヒレと鱗を落とし、バークリバー社製のブラボー1.5でもって腹を裂いてえらと内臓を取り出すと、手際良くその身を三枚におろしてしまった。そしてその左右の切り身だけを折り畳みバケツに放り込んでから、頭と中骨などを海に捨ててしまえば、本日の釣魚ちょうぎょはこれでお開きとなる。

「ペンネ、魚も釣れたし、そろそろ一旦帰ろうか」

「え? もういいの?」

「ああ、今日はもう、二人で腹一杯食えるだけの大物が釣れたからな!」

 そう言った俺は真っ白い夏物のワンピース姿のペンネと共に、ハタの一種の切り身が放り込まれた折り畳みバケツと釣竿ロッドを手にしながら岩礁を離れ、そのままドームテントの元へと帰還した。勿論帰還する途中で、頭上を飛ぶ航空機からも発見され易いように、真っ白な砂浜に出来るだけ黒い石でもって描いた大きな『SOS』の地上絵が消えてしまっていないかの確認も忘れない。

「これでよし、と。こうしておけば、今回はハチクマに狙われて痛い眼を見る事も無い筈だ」

 ドームテントの元へと帰還した俺はそう言いながら、釣り上げたハタの一種の切り身を折り畳みバケツからクーラーボックスの中へと移動させ、そのクーラーボックスの蓋をセミファスナーでもってしっかりと施錠した。以前釣り上げたカサゴもどきの切り身はタカ科の猛禽類であるハチクマに食い荒らされてしまったが、こうしておけば、もう二度と食い荒らされる事も無いだろう。

「それで大道、あたし達、これからどうするの?」

「そうだな、魚だけでも充分腹一杯になるだろうけど、ちょっと山の方も見て回ってみようか」

 ドームテントの正面に設けられた即席のかまどの傍らに、ハタの一種の切り身を放り込んだクーラーボックスと釣竿ロッドを置いた俺はそう言って、褐色の肌のペンネを背後に従えながらヤシの木が鬱蒼と生い茂る内陸の原生林の方角へと足を向けた。そして砂浜からあまり離れ過ぎないように注意しつつ、原生林の中をぶらぶらとそぞろ歩くような格好でもって二人揃って探索し続ければ、やがて一本のヤシの木の根元に目的のブツを発見する。

「おい童貞、あったぞ!」

 果たしてそう言いながらペンネが拾い上げた目的のブツとは、ハンドボールくらいの大きさの、繊維質の厚い殻に包まれた大きなヤシの実であった。

「お? こっちにも落ちてるぞ?」

 そう言って屈んだ俺の言葉通り、ヤシの木の根本には自然と落下したヤシの実がもう一つばかり転がっていたので、俺は手を伸ばしてひょいとそれを拾い上げる。しかしながら幸か不幸か、どうやらわざわざ高い木に登るような危険極まりない行為に手を染めずとも回収出来たヤシの実は、今日のところはペンネと俺が拾い上げたこの二つぽっちだけらしい。

「なあペンネ、そっちの方の木に、ヤシガニとかオカヤドカリとかが留まってたりしないか?」

「ううん、ヤシガニなんてどこにも居ないよ? そっちには居ないの?」

 ペンネがそう言いながらきょろきょろとヤシの木の周囲を探索していた、まさにその時だった。不意に彼女は「きゃっ!」と黄色く甲高い声でもって悲鳴を上げ、如何にも女の子らしくその身を竦ませつつも、ぴょんとその場から飛び退いてヤシの木の一本を指差す。

「どうした?」

「蛇! 蛇が居たの! おっきな蛇がそこに居たの!」

「蛇だって?」

 そう言った俺がペンネが指差す方角をよく見れば、確かに彼女の言葉通り、鬱蒼と生い茂るヤシの木の一本に絡まるような格好でもって一匹の大きな蛇がとぐろを巻いていた。

「本当だ、結構でかい蛇だな」

 ざっと見たところ体長が3mにも達し、やけに頭部が大きなその蛇は俺とペンネの二人を威嚇しているつもりなのか、ジッとこちらを凝視しながら先っぽが二つに割れた長い舌をちろちろと覗かせる。

「何なの、あの蛇?」

「確証は無いけれど、俺の知識と経験からすると、たぶんオオガシラの一種だ。それもミナミオオガシラか、そうでなければミドリオオガシラかイヌバオオガシラだと思う」

「毒は? 毒はあるの?」

「ああ、残念ながら、オオガシラは毒蛇だ。まあ、そうは言ってもそれほど強い毒じゃないから噛まれても大人は平気だけど……小さな子供が噛まれた場合には、最悪死に至ると聞いた事もある」

 そう言った俺の言葉を耳にしたペンネは「ひっ!」と重ねて悲鳴を上げて涙眼になりながら、まるでその身を襲う恐怖を少しでも和らげようとするかのような格好でもって、俺の身体をぎゅっと固く抱き締めた。俺は頑丈なエンジニアブーツを履いているから多少は身を守れるが、裸足のまま野山を駆け回る彼女にとって、その足を狙って噛み付いて来る毒蛇はまさに恐怖の象徴そのものなのである。

「ねえ大道、殺しちゃってよ! あんな毒蛇なんて、そのナイフで刺し殺しちゃってってば!」

 ペンネはそう言って俺の背中を押すが、俺はそんな彼女の言葉に安易に同意出来ない。

「いやいや、さすがに未だ何の悪さもしていない野生動物を無暗に殺してしまうのは、いくら相手が毒蛇だからって俺も気が引けるじゃん? それに日本の古い言い伝えでは蛇は神様の使いだとも言うし、ひとまず今日のところは見逃しておいてやるべきなんじゃないかな? ん?」

 そう言った俺に説得される格好になったペンネは、渋々ながらもこれを了承する。

「うん……まあ……大道がそう言うならそれでいいけどさ……」

 俺の背後に身を隠しながらペンネはそう言うものの、彼女はぷうと頬を膨らませて唇を尖らせ、内心ではどうにもこうにも納得していない様子であった。

「それじゃあペンネ、そろそろ帰ろうか」

 やがて一通りヤシの木の周囲を見て回り、これ以上のヤシの実の回収とヤシガニ探索を諦めた俺がそう言えば、ペンネはそんな俺に先んじて帰路に就こうと気を逸らせる。

「うん! こんな毒蛇が居るような原生林の中なんて、頼まれたってもう二度と立ち入りたくないもんね! だから早く帰ろ、ね、早く!」

「分かった分かった、そんなに急かすなってば」

 そう言った俺は左右の手にそれぞれ一つずつヤシの実を抱えながら、来た道を引き返すような格好でもって、ドームテントが在る砂浜の方角へと足を向けた。そしてペンネと並んで歩きつつも生い茂る原生林を抜け、満ち潮でも浸水しないように波打ち際から充分距離を取った平地に設営されたドームテントの元へと帰還すると、さっそく晩飯の準備に取り掛かる。

「さあペンネ、陽が暮れて暗くなる前に晩飯にするぞ」

 そう言った俺が危惧する通り、ほんのついさっきまで頭上から燦々さんさんと直射日光を降り注がせていたかと思われた太陽は次第次第に西の空へと傾き始め、このままでは遠からず夜のとばりが下ろされる事は疑いようのない事実であった。

「今日の夕飯は、何にするの?」

 するとペンネがそう言って問い掛けたので、俺は多目的ユーティリティナイフであるブラボー1.5を握りながら返答する。

「そうだな、今日のメインディッシュは、こいつを塩焼きにしよう」

 俺はそう言ってペンネの疑問に答えながら、キャンプ用の俎板まないたの上でハタの一種の切り身を適当な大きさに切り分けると、その切り身を鋳鉄製の小型のフライパンであるスキレットの中に皮に覆われた面を下にしながら敷き詰めた。そして火を起こしたかまどの上にそのスキレットを乗せてからぱらぱらと塩を振れば、程無くしてハタの一種の塩焼きの完成である。

「いただきます」

「うん、いただきます」

 やがて習慣的にそう言った俺とペンネの二人は、西の水平線へと沈み行く夕陽をぼんやりと眺めつつも、出来上がったばかりのハタの一種の塩焼きをさっそく食べ始めた。塩のみで味付けされた淡白な白身はややもすれば薄味であったが、そもそもハタは広く世界中の海水温が高い地域で食べられている食用の高級魚なので、塩焼きにしただけでも、まあまあそれなりに美味いと言えなくもない。

「なあ童貞、ちょっと聞いていいか?」

「ん? 何だ?」

 スキレットで焼き上げたハタの一種の塩焼きをむしゃむしゃと食みながらそう言って問い返せば、そんな俺に、ペンネもまた眼の前の塩焼きをその小さな口でもって一心不乱に食みつつ問い掛ける。

「あんたはさ、誰か浅草のうちで待っててくれる彼女とか好きな人とか、そんな人は居たりすんの?」

「彼女? 好きな人? いや、そんなもんは一人も居やしないよ」

「なんで? なんであんたには、彼女が居ないの?」

「なんでって言われたって……もう何年も前に大学を卒業してからは仕事と趣味にかまけてばかりで恋愛なんてする暇も無かったし、そもそも学生時代に好きだった子に盛大にフラれてからは、そう言う男女のいざこざに巻き込まれるのが嫌で嫌で堪らなくなっちゃったからさ」

「ふうん、そうなんだ」

 俺の返答を耳にしたペンネはそう言って、何やらうんうんと頷きながら得心している様子であった。しかしながら彼女が一体何に得心しているのかは、女心に疎くて鈍感な俺には一向に理解出来ない。

「ふう」

 そうこうしている内に、やがてスキレットの中のハタの一種の塩焼きをすっかり平らげ終えてしまった俺は一息つくと、椅子代わりにしているクーラーボックスの傍らに置いてあった二つのヤシの実の内の一つを手に取った。そしてもう一方の手にはバークリバー社製のブラボー1.5を握り、その刃先をヤシの実に突き立て、厚くて硬い繊維質の殻を手際良く削ぎ落とし始める。するとヘタの部分の周囲が削ぎ落とされたヤシの実は殻の内側が露出し、そこになみなみと湛えられていた薄い乳白色の液体が、俺の手やナイフの刃を伝いながらぽたぽたと滴り落ちた。

「おっと、勿体無い」

 俺はそう言って慌てつつも、ヤシの実の殻に空いた切り口に直接口を付けながら、その内部の半透明の液体をごくごくと飲み下す。

「うん、美味い! ほら、ペンネの分も切ってやるから、お前も飲めよ。甘くて美味しいぞ?」

 ヤシの実の中になみなみと湛えられていた薄い乳白色の液体、つまり甘く爽やかな液状胚乳を飲み下しながらそう言った俺はもう一つのヤシの実の殻も削ぎ落とし、それをペンネに手渡した。

「何これ! 美味しい!」

 手渡されたヤシの実の液状胚乳を一口飲み下したペンネはそう言って、如何にも甘い物に眼が無い歳頃の幼女らしく、その可愛らしい顔をにこにことほころばせる。俺を童貞呼ばわりし、生意気な口を利く点さえ改善されれば、きっとこの子はすれ違った誰もが振り返るような絶世の美少女へと成長を遂げるに違いない。そしてそれぞれヤシの実一個分の液状胚乳を飲み干し終えた俺とペンネの二人は、今度は残されたヤシの実の殻を切り刻み、その内側を覆う真っ白な固形胚乳をスプーンでもってこそぎ落としながら食べ始める。

「あたし、これ、嫌い!」

 甘く爽やかな液状胚乳と比べると、脂質と食物繊維が豊富であると言う点以外、さほど美味くもない固形胚乳。そんな固形胚乳を口にしたペンネはそう言って、これを食べる事を頑なに拒否するのだった。

「駄目だぞペンネ、好き嫌い言わずに、ちゃんと全部食べておけよ。脂肪分が豊富な固形胚乳は貴重な栄養源なんだから、食べずに捨てるなんて言う選択肢はあり得ないんだからさ」

 俺はそう言って彼女をたしなめるものの、生意気盛りな歳頃でもあるペンネはそんな俺に向かって舌を出しながらあっかんべえをするばかりで、眼の前のヤシの実の固形胚乳には手をつけようともしない。

「そんな事よりもさっきの話の続きなんだけどさ、あんたってば彼女も好きな人も居ないんだったら、実家で心配してくれている家族とかは居ないの? あんたのパパとかママとか、兄弟とかさ」

「心配してくれている家族か……」

 家族の有無について問い質された俺はそう言って、暮れなずむ夕焼け空に遠い眼を向ける。

「我孫子の実家には両親が居るし、都内には姉夫婦が住んでいるけれど、最近はお互いに連絡も取り合ってないような冷めた関係だよ。特に実家の母親は昔っからオタクとかマニアとかが大っ嫌いで、俺がアニメの脚本の仕事をしている事を知ってからは、殆ど口も利いてくれなくなったからなあ」

 ペンネの疑問に答えると言うよりも、むしろ自分自身に再確認するかのような口ぶりでもってそう言った俺は、実家の両親の姿を脳裏に思い浮かべながら深い溜息を吐いた。オタク嫌いの母はともかくとしても、結構な高齢である父には何の罪も無いし、近い内に顔を見せに帰郷したくもなくもない。

「それじゃあさ、その都内に住んでるって言うお姉さんは? 両親だけじゃなくて、お姉さんとも仲が悪いの?」

「別に姉ちゃんとは仲が悪い訳じゃないけど……姉ちゃんの二人の子供、つまり俺の甥っ子と姪っ子が未だ未だ小さくて手が掛かるから、ここ最近は家事と育児の邪魔をしちゃ悪いかと思って最低限の遣り取りしかしてない状況だよ。だからまあ、仲が良いかと問われればちょっと答えに窮するけどさ」

「ふうん、そっか。大道ってば、家族に恵まれてないんだね。それって、やっぱり童貞だから?」

「……」

 家族に恵まれていないと言うペンネの言葉に、俺はぐうの音も出ない有様であった。勿論世の中には家庭内暴力ドメスティックバイオレンスであるとか育児放棄ネグレクトであるとか言った、もっと洒落にならない問題を抱えた家族も星の数ほども存在するのであろうが、それでも彼女の言葉は見事に図星を突いている。

「だったらそんな家族と疎遠になっちゃうくらい、大道の今の仕事って面白いの? 充実してる?」

「面白いと言えば面白いし、充実してるって言えば充実してるけど……」

「けど?」

「大学ではグラフィックデザインを専攻していたんだから、出来れば秋生みたいにデザインに関わる仕事に就きたかったなあって言う思いを完全には捨て切れないでいるのは、偽らざる事実だ。とは言え今はデザイナーが余っているのが日本のクリエイター界隈の常識だし、贅沢は言ってられないんじゃないかなとも思う。まあ何と言うか、収まるべき所に収まっているんじゃないかと自分を納得させながら、俺はもう暫くこの仕事を続けるつもりでいるよ」

「ふうん、変なの。今の仕事に納得していないのなら、辞めちゃえばいいのに」

 ペンネはつまらなそうに頬杖を突きながらそう言うが、はいそうですかと言ってさっさと仕事を辞められるほど大人の世界は単純ではない。

「いやいや、そんな簡単な話じゃないってば。今は不景気で再就職が成功する保証も無いし、確かに希望していたような職種じゃないけれど、それなりに仕事を任されているってだけでも世間に感謝しなくっちゃね」

 そう言った俺の言葉に、ペンネはどうにも腑に落ちないような、まるで喉に魚の小骨が刺さったかのような何とも言えない表情をこちらに向けた。

「ごちそうさま」

 やがてメインディッシュであるハタの一種の塩焼き、それに食後のデザートとして甘いヤシの実の液状胚乳と固形胚乳を胃の腑に納め終えた俺はそう言って箸を置くと、とっぷりと陽が暮れた夜空を見上げながら盛大なげっぷを漏らす。

「さて、今日もカレンダーをチェックしておくか」

 すっかり腹が膨れた俺はげっぷ交じりにそう言いながら、椅子代わりのクーラーボックスから腰を上げ、キャンプ用具一式の中にたまたま放り込んであった革表紙の手帳を手に取った。そしてその手帳の中の日々のスケジュールを書き込むカレンダーのページを開くと、付属のボールペンでもって、今日の日付のマス目をがしがしと塗り潰す。

「今日はこのエルディンガー島に俺とペンネが漂着してから、ちょうど一ヶ月と二日目っと……」

 何がちょうどなのかは分からないが、まるで途方に暮れるかのような表情と口調でもってそう言った俺の繊細な胸の内を察する素振りも見せず、俺が手帳を置くのを待ち構えていたペンネは重ねて問い質さざるを得ない。

「ねえ、童貞」

「ん?」

「あんたってば、さっき言ってた通りに今の仕事を続けたままだと、自分が将来どんな大人になると思ってんの? いや勿論、今のあんたも充分いい歳した大人なんだけどさ」

「将来か……」

 ペンネの素朴かつ残酷極まりない疑問に、俺はそう言いながら、まるで追憶に耽るかのような遠い眼でもって視線を宙に泳がせた。子供の頃は将来漫画家か映画監督になりたいなどと言った壮大な夢を語っていた筈だが、いざ自分が大人になってみると、思い描いていた将来像とのギャップにぎりぎりと胸が締め付けられて今にも悶死してしまいそうである。

「……分からないよ、将来の事なんて。これから先、十年後二十年後に自分がどうなっているかだなんて、まるで想像もつかないな。ところでペンネ、俺の将来はともかくとしても、お前は将来どんな大人になりたいんだ? ん?」

「え?」

 まるで意趣返しのような格好でもって俺が問い質すと、ペンネはそう言って声を詰まらせながら、何故だか分からないが褐色の肌に覆われたその顔を真っ赤に紅潮させた。

「……内緒」

「おいおい、何だよそれは。自分は人に尋ねておいて、いざ自分が尋ねられる番になったら内緒ってのも、ちょっと卑怯なんじゃないのか?」

 俺がそう言えば、ペンネは舌を出してあかんべえをしながら反論する。

「いいの! あたしは女の子なんだから、あんたみたいな男には、それも童貞には分からない悩みがあるんです! だからあんたの疑問に答えなくたって、誰にも文句を言われる筋合いはありません!」

「は? 何だそれ?」

 ペンネの返答を耳にした俺はそう言って、彼女の我儘ぶりに呆れ返るばかりで返す言葉も無い。

「それじゃああたしは、もう寝ちゃうから! おやすみ!」

 まるで何かを誤魔化すかのような表情と口調でもってそう言ったペンネは立ち上がって踵を返し、砂浜の平地に設営されたドームテントの中へと駆け込むと、そのまま夏用の寝袋シュラフに包まって就寝の態勢へと移行してしまった。

「なんだよ、これじゃあまるで、俺だけが答え損じゃないか」

 そう言った俺に見守られながら、いつしかドームテントの中のペンネはすうすうと可愛らしい寝息を立て始める。

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