第三幕


 第三幕



 今朝もまた、俺はアホウドリだかネッタイチョウだかの海鳥の鳴き声に安眠を妨げられるような格好でもって、砂浜の平地に設営されたドームテントの中で眼を覚ました。

「ふあぁぁ……ぁぁ……」

 夏用の薄手の生地で出来た寝袋シュラフから抜け出すと、俺はぴんと背筋を伸ばしながら盛大なあくびを漏らしつつ、のそのそとドームテントから這い出すと同時に東の水平線を赤く染める朝陽をその眼に焼き付ける。

「……もう朝か……」

 寝惚けまなこのままそう言った俺は浜辺を覆い尽くす白砂を踏み締めながら立ち上がり、ダッチオーブンに溜められた煮沸消毒と濾過を終えた真水でもってばしゃばしゃと顔を洗ってから、就寝中に失った水分を補うためにその水をごくりと一口だけ飲み下した。そしてかまどの脇に寄せておいたスキレット、つまり鋳鉄製の小型のフライパンの中に残されていた魚の塩焼きをむしゃむしゃと食んでから、今日もまた日課である各種の作業に取り掛かり始める。

「まずは、水の確保か」

 俺は如何にも面倒臭そうにそう言いながらPVCシート生地で出来た折り畳みバケツを手に取ると、日焼けと熱中症予防のためのつばの広いサファリハットを被りつつ、島の西側の小山の方角へと足を向けた。もともと低血圧気味である俺は寝起きの機嫌が悪く、しかもここ数日は摂取する栄養が偏ってしまっているのか体調も不安定で、どうにもこうにも足が重くて重くて仕方が無い。しかしながらとぼとぼとした浮かない足取りでもって砂浜を横断し、小川の三角洲を視界に捉えた地点から鬱蒼と生い茂る原生林へと足を踏み入れて川沿いを歩き続ければ、やがて小川の水源となっている小さな池のたもとへと辿り着く。

「ああ、糞、重い!」

 苔が生えた石や岩を踏んで滑って転ばないように細心の注意を払いつつ、俺は手にした折り畳みバケツでもって池の水を汲み上げたものの、そのあまりの重さに思わず悪態を吐いてしまった。しかしながら幾ら悪態を吐いてもそれを咎めてくれる第三者が居る訳もなく、その声は島の東西にそびえ立つ小山と大山の山肌に吸い込まれ、こだまとなって空しく反響するばかりである。

「ああ、重かった」

 最大14ℓの水が汲める折り畳みバケツの中ほどまで水を汲み、それを手にしたままえっちらおっちらとした覚束無い足取りでもって下山した俺は、やがてドームテントの元まで帰還するなりそう言って額や首筋に浮いた汗を拭い取った。この島に漂着してからと言うもの一度も洗っていないので、俺自身はあまり気にしてはいないものの、いい加減このアロハシャツもフェイスタオルもひどく汗臭くなってしまっているに違いない。

「さて、煮沸煮沸っと」

 そう言った俺は汲んで来た池の水を折り畳みバケツから空のダッチオーブンへと移し替え、それを即席のかまどの上のバーベキュー用の焼き網の上に置いてから、ガスライターとフェザースティックでもって手際良く火を起こした。そして流木を割って作った新たな薪をくべながら煮沸消毒を終えると、ぐらぐらぐつぐつと煮え立つダッチオーブンをかまどの火から遠ざける。

「さあ、次は食料の確保だな」

 まるで独り言つようにそう言った俺は椅子代わりのクーラーボックスから腰を上げ、愛用の釣竿ロッドと疑似餌とヴィクトリノクス社製のアウトライダー、それにバークリバー社製のブラボー1.5と言う二振りのナイフを手に取ると、まずは島の南側の岩礁の方角へと足を向けた。波に洗われて角が取れた岩肌のごつごつとした無骨な感触が、頑丈なエンジニアブーツを履いた足の裏を適度に刺激し、何とも言えず心地良い。そしてこの岩礁は俺を乗せたプレジャーボートが座礁してしまった忌まわしき場所であると同時に、その岩の隙間などに多くの根魚などが集まって来る事から、皮肉にも絶好のフィッシングポイントでもあるのだ。

「今日は、何が釣れるかなっと」

 岩礁の突端に立ちながらそう言った俺は疑似餌と一繋がりになった釣り針を勢いよく海中に投じ、そのまま暫しリトリーブやトゥイッチやボトムバンピングと呼ばれる多彩なルアーアクションを繰り返しつつも、魚が食い付いてくれるその時をジッと辛抱強く待ち続ける。

「お?」

 するとキャスティング、つまり釣り針を海中に投じた瞬間より概算で小一時間も経過した頃になってから、ようやく疑似餌に魚が食い付いたらしく、釣竿ロッドを握る俺の手にびくびくと言う心地良い感触が伝わった。

「よし、まずは一尾目!」

 そう言った俺が意気揚々と釣竿ロッドを上げてみれば、その疑似餌の釣り針には赤黒いまだら模様の根魚が掛かっていたので、俺は思わず小さなガッツポーズを決めてみせる。

「これは……カサゴか? 俺が知ってるカサゴとは、ちょっと違うな」

 釣竿ロッドを置いた俺がそう言いながら釣り針から外した根魚は、食用魚として知られるカサゴに良く似ているものの、俺が普段から釣り上げているカサゴとは少々種類が違うように見受けられた。そしてその事実は図らずも、この小一時間もあれば周囲を一周出来てしまう小さな無人島が、魚類の生息域が異なるほど日本の沿岸から遠く離れた位置に存在している事を如実に物語っている。

「まあ、カサゴの一種なら食えない事もないだろう」

 俺はそう言いながら、アウトライダーに付属するはさみでもって釣り上げたカサゴのえらの根本に切れ目を入れてから、海水を汲んだ折り畳みバケツにそれを放り込んだ。このまま暫く泳がせ続ければゆっくりと流血し、活け締めの第一段階である血抜きが完了する。

「出来ればもう一尾か二尾、釣っておきたいな」

 そう言って釣竿ロッドを手にした俺が再びのキャスティングでもって釣り針を海中に投じ、ルアーアクションを繰り返しながら辛抱強く待ち続けると、やはり小一時間も経過した頃になってから激しいアタリが俺の手にびりびりと伝わるのだった。

「よし、これで二尾目!」

 そして都合二尾目のカサゴもどきを難無く釣り上げ、血抜きを終えた上で鱗を落としてからバークリバー社製のブラボー1.5でもってその身を三枚におろしてしまえば、本日の釣魚ちょうぎょはこれでお開きとなる。

「魚も釣れたし、一旦帰るか」

 俺は二尾のカサゴもどきの三枚におろした身の部分だけを折り畳みバケツに放り込むと、そのバケツと釣竿ロッドを手にしながら岩礁を離れ、そのままドームテントの元へと帰還した。そして帰還する途中で、頭上を飛ぶ航空機からも発見され易いように、真っ白な砂浜に出来るだけ黒い石でもって描いた大きな『SOS』の地上絵が消えてしまっていないかも確認する。

「さて、ちょっと山の方も見て回ってみようか」

 ドームテントの正面に設けられた即席のかまどの傍らに、カサゴもどきの切り身が放り込まれた折り畳みバケツと釣竿ロッドを置いた俺はそう言って、ヤシの木が鬱蒼と生い茂る内陸の原生林の方角へと足を向けた。そして砂浜からあまり離れ過ぎないように注意しつつ、原生林の中をぶらぶらとそぞろ歩くような格好でもって探索し続ければ、やがて一本のヤシの木の根元に目的のブツを発見する。

「あったあった」

 果たしてそう言いながら俺が拾い上げた目的のブツとは、ハンドボールくらいの大きさの繊維質の厚い殻に包まれた大きな木の実、つまり英語圏ではココナッツとも呼ばれるヤシの実であった。

「今日は、一つだけかな」

 そう言った俺の言葉通り、残念ながらどうやら今日のところは、生い茂るヤシの木の天辺から自然と落下したヤシの実はこれ一つだけらしい。勿論木の上には未だ未だ大きなヤシの実が幾つもっているのだが、わざわざそれを取るために高い木に登るのは危険極まりない行為なので、こうして地面に転がっているそれだけを毎日見回りながら回収しているのである。

「お?」

 するとその時、不意に俺は、数多のヤシの木の内の一本に留まる一匹の大きな甲殻類を発見した。それは全身が鮮やかな青紫色の殻に覆われ、ゴツく逞しいはさみ状の前足が特徴的な、陸上で生活する節足動物としては最大級のサイズを誇るヤシガニそのものである。

「ラッキー!」

 俺はそう言って予期せぬ幸運に恵まれた事に感謝しながら、そのヤシガニを背後から掴み上げた。ヤシガニは陸上では動きが遅く、ザリガニやヤドカリと同じく背後から甲羅状の背中の殻を掴んでしまえば簡単に捕まえる事が出来るので、その肉を目当てにする者にとっては絶好のカモである。

「よし、今日のところはこんなもんだな」

 そう言った俺は右手にじたばたと暴れる生きたヤシガニを持ち、左手にヤシの実を抱えながら、来た道を引き返すような格好でもってドームテントが在る砂浜の方角へと足を向けた。そしてヤシの木が生い茂る原生林を抜け、満ち潮でも浸水しないように波打ち際から充分距離を取った平地に設営されたドームテントを視界に捉えたところで、俺はそこに鎮座する招かれざる客の姿に驚きつつも怒りを露にする。

「あ! おいこら! しっしっ、あっち行け!」

 大声を上げながらそう言ってドームテントの元へと駆け寄りつつも、俺が必死で追い払おうとしたのは、翼を広げればその体長が1mにも達しようかと言う数羽の大きな鳥の群れであった。過去に少しだけバードウォッチングを齧った事がある俺の記憶と知識が確かならば、それは俗にハチクマと呼ばれる、猛禽類の鷹の一種である。そしてそのハチクマが折り畳みバケツの中に放り込まれていたカサゴもどきの切り身を盗み食いしていたのだから、俺が怒るのも至極当然の帰結と言う他無い。

「あっち行け! 行けったら!」

 俺がそう言って追い払えば、数羽のハチクマ達はぎゃあぎゃあとけたたましい声でもって鳴き叫びつつも、その翼をばさばさと羽ばたかせながら島の東側の大山の方角へと飛び去った。

「ああ、糞!」

 しかしながら時既に遅しとでも言うべきか、かまどの傍らに置かれた折り畳みバケツの中を確認してみると、そこに放り込まれていた筈の二尾のカサゴの切り身はすっかり食い荒らされてしまっていて影も形も無い。

「畜生! 覚えてろよ、この駄鳥だちょうどもめが! 今度会ったら、絶対にぶっ殺して食ってやるからな!」

 果たして『駄鳥だちょう』と言う日本語が存在するのかどうかは疑わしいが、とにかくハチクマ達が飛び去った大山の方角目掛けてそう言って悪態を吐いた俺は、がっくりと肩を落としながらも気を取り直す。

「仕方が無い、今日は魚の刺身はおあずけって事で、陽が暮れて暗くなる前に晩飯にするか」

 独り言つようにそう言った俺が危惧する通り、ほんのついさっきまで頭上から燦々さんさんと直射日光を降り注がせていたかと思われた太陽は次第次第に西の空へと傾き始め、このままでは遠からず夜のとばりが下ろされる事は疑いようのない事実であった。

「今日のメインディッシュは、こいつだな」

 俺はそう言いながら、キャンプ用の俎板まないたの上でじたばたと暴れるヤシガニを多目的ユーティリティナイフであるブラボー1.5でもってばらばらに切り刻むと同時に、可食部ではない汚れたえらや内臓などを丁寧に取り除く。ヤシガニは一般的な蟹や海老などの甲殻類と違ってほぼ完全な陸生にもかかわらず、何故だか分からないが、えらが存在するのだ。そしてぶつ切りにされたヤシガニをダッチオーブンの中に殻ごと放り込み、火を起こしたかまどに乗せたそれに真水を注いでぐつぐつと煮込めば、ヤシガニの潮汁の完成である。

「いただきます」

 やがて誰に言うでもなく習慣的にそう言った俺は、西の水平線へと沈み行く夕陽をぼんやりと眺めつつも、出来上がったばかりのヤシガニの潮汁をさっそく食べ始めた。味付けは塩のみのシンプルな漁師料理の一種だが、じっくりと煮込まれたヤシガニの殻や身から旨味成分を含んだ出汁がほんのりと滲み出ていて、まあまあそれなりに美味いと言えなくもない。

「ああ、カサゴの刺身が食いたかったなあ」

 蟹に似た味のヤシガニの身を殻から剥がしてはむしゃむしゃと食みながら、ハチクマに食い荒らされたカサゴもどきの切り身の味を脳内で想像しつつ、俺はいつまでも未練がましくぐちぐちと愚痴を漏らし続ける。

「ふう」

 そうこうしている内に、やがてダッチオーブンの中のヤシガニの潮汁をすっかり平らげ終えてしまった俺は一息つくと、椅子代わりにしているクーラーボックスの傍らに置いてあったヤシの実を手に取った。そしてもう一方の手にはバークリバー社製のブラボー1.5を握り、その刃先をヤシの実に突き立て、厚くて硬い繊維質の殻を手際良く削ぎ落とし始める。するとヘタの部分の周囲が削ぎ落とされたヤシの実は殻の内側が露出し、そこになみなみと湛えられていた薄い乳白色の液体が、俺の手やナイフの刃を伝いながらぽたぽたと滴り落ちた。

「おっと、勿体無い」

 俺はそう言って慌てつつも、ヤシの実の殻に空いた切り口に直接口を付けながら、その内部の乳白色の液体をごくごくと飲み下す。

「うん、美味い!」

 ヤシの実の中になみなみと湛えられていた薄い乳白色の液体、つまり世間一般的にはココナッツジュースとも呼ばれる液状胚乳は、実に甘く爽やかでこの上無く美味かった。そしてヤシの実一個分の液状胚乳を飲み干し終えた俺は、今度は残されたヤシの実の殻を切り刻み、その内側を覆う真っ白な固形胚乳をスプーンでもってこそぎ落としながら食べ始める。

「うーん……」

 甘く爽やかな液状胚乳と比べると、この固形胚乳は独特な風味がかぐわしいものの、残念ながらそれほど美味くはない。しかしながら無人島に漂着して食料が乏しい今の俺にとって、脂肪分が豊富な固形胚乳は貴重な栄養源なのだから、これを食べずに捨ててしまうなどと言う選択肢はあり得ないのだ。

「ごちそうさま」

 やがてメインディッシュであるヤシガニの潮汁、それに食後のデザートとして甘いヤシの実の液状胚乳と固形胚乳を胃の腑に納め終えた俺はそう言って箸を置くと、とっぷりと陽が暮れた夜空を見上げながら盛大なげっぷを漏らす。

「さて、今日もカレンダーをチェックしておくか」

 すっかり腹が膨れた俺はげっぷ交じりにそう言いながら、椅子代わりのクーラーボックスから腰を上げ、キャンプ用具一式の中にたまたま放り込んであった革表紙の手帳を手に取った。そしてその手帳の中の日々のスケジュールを書き込むカレンダーのページを開くと、付属のボールペンでもって、今日の日付のマス目をがしがしと塗り潰す。

「ああ、今日でちょうど、一ヶ月が経過した事になるんだな……」

 まるで途方に暮れるかのような表情と口調でもってそう言った俺の言葉通り、突然の予期せぬ暴風雨に見舞われたプレジャーボートがこの小さな無人島に漂着したあの日の朝から、既に一ヶ月もの月日が経過してしまっていたのだ。この一ヶ月と言うもの暇さえあれば海と空を眺めて船舶なり航空機なりが助けに来てくれないものかと期待し続けたが、それらの船影や機影は文字通りの意味でもって影も形も見当たらず、只々無為に時間を浪費するばかりである。

「……まさかとは思うけど、このままだと、もう誰も俺の事なんか助けに来てくれなかったりして……」

 そう言った俺は自分の言葉の意味するところに戦慄し、ぞっと背筋に悪寒を走らせながら恐れおののくと、まるで冷たい雨に打たれる捨て犬の様にぶるぶるとその身を震わせた。

「馬鹿な事を言うんじゃない! そんな事あるもんか! きっと、必ず、誰かが助けに来てくれるに決まってる!」

 俺は自らの脳裏に思い浮かんだ最悪の結末から眼を逸らす、もしくは邪念を払うかのようにぶんぶんとかぶりを振りながらそう言うが、その言葉とは裏腹にこのまま永久に救助の手が差し伸べられないのではないかと言う危惧や不安の色は益々濃くなるばかりである。

「糞! こうなったらもうヤケクソだ! 今夜はもう、酔い潰れるまで飲んで飲んで飲みまくってやるぞ!」

 自分を奮い立たせるかのように大声でもってそう言った俺は椅子代わりのクーラーボックスから腰を上げ、そのクーラーボックスの蓋を開けてみれば、そこには大事に取っておいた残り僅かな食料と酒類とが貯蔵されていた。そしてそれらの中から乾燥パスタの袋を取り出すと、かまどの上のダッチオーブンで湯を沸かし、その湯の中に乾燥パスタを全部ぶっこんでしまう。

「構うもんか! 全部食ってやる!」

 完全に自暴自棄になってしまった俺は鋳鉄製の小型のフライパンであるスキレットをかまどの火に掛け、瓶入りのパスタソースをそこにぶち撒けて温めると、やがて茹で上がったパスタとそれをえてペンネ・アラビアータを完成させた。そして完成したペンネ・アラビアータと共にパウチ袋に入っていたタリアータ・ディ・マンツォとパンチェッタ・アッフミカータを用意すると、さっそくそれらを肴にしながら330㎖の瓶ビールの栓を抜く。

「ぷはぁ!」

 久し振りに飲むビールの味は、まるで神の飲み物とでも形容すべき美味さだった。そしてその黄金色の神の飲み物をごくごくと飲み下しつつ、俺はラベルに記載されたビールの銘柄を改めて確認する。

「エルディンガー・ヴァイスブロイ……よし、そうだ! いつまでもこの無人島に名前が無いのも不便だから、今日からこの島を『エルディンガー島』と呼ぼう! そうだ、そう決めた!」

 酒の力を借りてすっかり気が大きくなった俺は大声でもってそう言って宣言し、この南海の無人島を、エルディンガー島と勝手に名付けてしまった。そして唐辛子を効かせたピリ辛のトマトソースでえたペンネ・アラビアータ、それに牛肉の薄切りであるタリアータ・ディ・マンツォと豚肉の塩漬けであるパンチェッタ・アッフミカータをむしゃむしゃと食みつつ、ドイツのエルディンガー社が醸造する瓶ビールを次々に飲み干し続ける。

「ひっく」

 やがて全てのビールの瓶を空にした俺はすっかり酔っ払ってしまっていたが、それだけでもって今夜の酒宴がお開きになる事は無い。既に酔いが回って視界がぐわんぐわんと歪み、真っ直ぐ立って歩く事も出来ないような状況でありながら、俺は今度は500㎖のハイボールの缶に手を付け始めた。

「ふん、知ったもんか! 今夜はもう、とことん飲んじゃうもんね!」

 テンションが爆上がりしてしまっている俺は、まるで今にも歌い出さんばかりの陽気な声でもってそう言いながら、ビールに続いてハイボールもまたぐびぐびと勢いよく飲み下し続ける。もはやさっきから食べているペンネ・アラビアータもタリアータ・ディ・マンツォもパンチェッタ・アッフミカータも、舌が馬鹿になってしまってその味がまるで分からないような有様なのだから、我が事ながらつける薬が無い。

「おい、童貞」

 するとクーラーボックスに腰掛けたまま500㎖のハイボールの缶を傾け続ける俺に、不意に何者かがそう言って呼び掛けた。

「あん? 誰が童貞だって?」

 いい歳して童貞である事を看破されてしまった俺は不機嫌そうに眉をひそめながらそう言って、呼び掛けた何者かが居る方角に眼を向ける。

「童貞を童貞と呼んで、何が悪い?」

 そう言って重ねて俺を童貞と呼んだのは、かまどの脇に集められた流木にちょこんと腰掛ける、一人の幼女であった。

「……お前、誰だ?」

 俺がそう言って問い返せば、そのきめの細かい褐色の肌と腰まで伸びた艶やかな黒髪が美しい幼女は、その身に纏った真っ白い夏物のワンピースの裾をなびかせながら呆れ返る。

「ちょっと待ってよ、大道ってば、あたしの事も忘れちゃったって言うの? あたしだよ、あ・た・し! ペンネだってば!」

「ああ、そうか、お前はペンネか」

 そう言った俺の言葉通り、その褐色の肌の幼女はペンネ、つまりこのエルディンガー島で俺と一緒に暮らすペンネ・アラビアータその人に他ならない。

「それで大道、あんたってば、何をそんなに不機嫌になったと思ったら急に興奮して大声出したりしてんの? 孤独に耐え切れなくなってお酒を飲み過ぎて、遂に気が狂っちゃったの?」

「何でもないよ、ただちょっと、このまま誰も助けに来てくれなかったらどうしようかとか、そんな事を考えちゃっただけさ」

「ふうん、だったらさ、あたしとこの島でいつまでも一緒に居ればいいじゃない」

「え? それってつまり……」

 俺が少しだけどきどきしながらそう言って彼女の真意を問い質せば、褐色の肌のペンネは真っ白なギザ歯を剥き出しながら悪戯っぽい笑みをこちらに向ける。

「嘘だよ! あんたみたいな童貞なんかと一緒に居たいだなんて、そんな物好きがこの世に存在する訳ないじゃない!」

「何だと、この糞ガキめ!」

 彼女に揶揄からかわれる、もしくは体よく騙されるような格好になってしまった俺が拳を振り上げながらそう言えば、ペンネはさも愉快そうにけらけらと笑って俺をあざけるばかりだ。

「ねえ、大道ってば、そんなにうちに帰りたいの? どうせ帰ったところで、退屈な毎日が待っているだけじゃない」

「そんな事言われたって、このままこんな所でいつまでもぐずぐずと時間を潰してはいられないし、こうしている間にも仕事のスケジュールが押すばかりなんだから焦りもするってば。それに未だ今月のマンションの家賃も払ってない上に、光熱費だって先月から滞納してしまってるんだから、早くうちに帰らなきゃ日々の生活もままならないよ」

「ふうん、馬鹿みたい。家賃がどうだとか光熱費がこうだとか、そんなつまんない事は忘れちゃいなさいよ、ね?」

「お前、俺の話、ちゃんと聞いてた? つまんない事なんかじゃなくって、このままだと仕事を失う羽目になるかもしれないんだぞ?」

「だから、その仕事がつまんない事だって言ってるの!」

 ペンネは俺を小馬鹿にするかのような表情と口調でもってそう言いながら、靴を履かない裸足のまま、夏物のワンピースの裾をなびかせながら真っ白い砂の上で華麗なステップを踏んでみせる。

「つまんない話も何も、最近になってようやく脚本家として認知されて、仕事も増え始めたって言うのに……」

 俺がそう言ってぶつぶつと愚痴を漏らし続けていると、ペンネは砂浜に弧を描くようなステップを踏みながら、その細く華奢な喉から発せられる小鳥のさえずりの様に可愛らしい声でもって得意げに歌い始めた。彼女が歌うその歌は、俺が脚本を担当した来期放送予定の新作テレビアニメ『魔法少女みるきぃ★ルフィーナ』の主題歌である。

「なあペンネ、そんな歌、どこで覚えて来たんだ?」

「はあ? あんた、何言ってんの? 最近の大道が浅草のマンションでも移動中の車内でもこの歌ばっかり聴いてるから、あたしも自然と覚えちゃったんじゃない。それに今回の旅行中だって、鹿児島まで来る車内で耳にタコが出来ちゃうくらい掛けっ放しだったんだからさ!」

「ああ、そうか」

 俺はそう言って、ペンネの言葉に得心して頷いた。確かのここ最近の俺は脚本を書くための具体的なイメージを掴むために、この『魔法少女みるきぃ★ルフィーナ』の主題歌を繰り返し聴き続けていたのだから、それをペンネが覚えてしまっていたとしても何の不思議も無い。

「ねえ大道、あんたも一緒に踊らない?」

 ペンネは華麗なステップを踏んで躍りながらそう言うが、すっかり酔っ払ってしまっている俺はとてもじゃないが歌って踊れるような状態ではなかったので、彼女の誘いを無下にする。

「いや、俺はもう酔いが回って眠くなって来たから、悪いけど一足先に床に就かせてもらうよ。ペンネもいつまでもだらだらと起きてないで、いい加減なところでテントで横になればいいさ」

 俺はそう言いながら飲み掛けの500㎖のハイボールの缶を地面に置くと、椅子代わりのクーラーボックスから腰を上げ、ふらふらとした千鳥足のままドームテントの中へと足を踏み入れた。そして薄手の生地で出来た夏用の寝袋シュラフに包まると、そっと眼を閉じる。

「おやすみ」

 そう言って就寝を告げた俺の耳に届くペンネの歌声は、いつまでも止む気配が無い。

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