第二幕


 第二幕



 俺と俺の親友である秋生の二人を乗せたプレジャーボートが突然の予期せぬ暴風雨に見舞われ、波にさらわれて航行不能に陥ったまま難破してしまってから、実に五日間が経過した。

「……」

 ぷかぷかと波間を漂うばかりのプレジャーボートの甲板デッキの上でもってごろりと横たわり、その甲板デッキの上で五昼夜を過ごした俺はぼんやりと天を仰ぐように頭上を見上げながら、まさに快晴を絵に描いたようなどこまでも晴れ渡る青空を観察し続ける。

「……」

 すると甲板デッキの上で横たわっていた俺は不意に立ち上がり、無言のままボートの操縦席に腰を下ろすと、シリンダーに挿しっ放しになっているイグニッションキーを時計回りに回してエンジンを始動させようと試みた。しかしながらギアかシャフトが損壊してしまっているのか何なのか分からないが、エンジンそのものは動いているものの肝心のスクリューは一向に回転してくれず、どうにもこうにもからからと空回りし続けるばかりで要領を得ない。

「やっぱり、駄目か……」

 プレジャーボートのエンジンが用を為さなくなってしまっている事を改めて確認した俺はがっくりと肩を落として落胆し、深い深い溜息を吐きながらそう言って、サファリハットの下のかぶりを振った。そして今度は操縦席の制御盤コントロールパネルに内蔵された無線機のマイクを手に取るものの、これまたざあざあと耳障りな雑音が聞こえるばかりで要領を得ず、こちらの声がどこかの誰かに届いているのかどうかすらも判然としない有様である。

「ああ、このまま助けが来ないようだと、俺、本当に干乾ひからびちまうんじゃないのかな……」

 独り言つようにそう言った俺は傍らに置いてあった2ℓの麦茶のペットボトルのキャップをひねって取り外すと、限りある水分の残量に気を配りつつ、その中身を一口だけごくりと飲み下した。外部からの補給も無いまま大海原を彷徨さまよい続ける現状において、この麦茶こそが最後の生命線と言っても過言ではないし、その生命線が尽きてしまう事は脱水症状による俺の死をも意味している。ちなみにプレジャーボートの床下の船倉には都合四本の麦茶のペットボトル以外にも、330㎖の瓶ビールと500㎖のハイボールの缶が幾本も積み込まれていたものの、当然の事ながらアルコールを摂取すると却って喉が渇くのでこれらを飲む訳には行かない。

「駄目だ、このままじゃ気が滅入るばかりだ。寝よう。とにかく今は、寝て体力を温存するんだ」

 やはり独り言つようにそう言った俺は操縦席の屋根の下の日陰に横たわると、そっと眼を閉じて就寝の体勢へと移行した。暴風雨に見舞われて難破してしまってからのこの五日間、いつか救助の手が差し伸べられる事を期待して水平線を眺め続けていたが、俺を捜索する自衛隊も海上保安庁もその姿を現してくれる気配も無い。いや、そもそも俺と秋生の二人が鹿児島港を出港して海釣りに励んでいた事を知っている者がこの世に一人として存在しているかどうかも怪しいのだから、一刻も早い救助を期待する方が無理な相談に違いないのだ。

「ああ、頼む! どうか頼むから秋生の両親か誰かが、警察なり消防なりに通報していてくれ!」

 人任せの他力本願と言われてしまえばそれまでだが、俺は一縷の望みに賭けながらそう言って、只ひたすらに天に祈るばかりである。


   ●


 不意にがたがたと激しく船体が揺れる際の衝撃とがりがりと言う耳障りな擦過音に、プレジャーボートの甲板デッキの上でうとうととうたた寝していた俺は、はっと眼を覚ました。

「救助か?」

 半ば反射的にがばっと飛び起きた俺はそう言ってきょろきょろとこうべを巡らせながら周囲を見渡すが、そこに自衛隊なり海上保安庁なりの救助の船は影も形も見当たらず、代わりと言ってはなんだが真っ白な砂浜と真っ青な海と空とが視界を埋め尽くすばかりである。

「ここは……どこだ?」

 言わずもがな、そこはどこか見知らぬ島か大陸の、見知らぬ浜辺に相違ない。そしてその見知らぬ浜辺のさざ波が打ち寄せる一角で、俺を乗せたプレジャーボートは引き潮に取り残されるような格好でもって岩礁に乗り上げたまま、ものの見事に座礁してしまっていたのだ。

「……」

 まるで旅行代理店のパンフレットの表紙を飾るような典型的な南洋リゾートさながらの風景を前にして、俺は暫しプレジャーボートの甲板デッキの上でぽかんと口を開けたまま立ち尽くしていたが、やがて砂浜の向こうから聞こえて来たぎゃあぎゃあと言う鳥の鳴き声に衝き動かされるような格好でもって我に返る。

「……取り敢えず、上陸するか」

 このままいつまでも甲板デッキの上で突っ立っていても仕方が無いので、そう言った俺はかぶりを振って気を取り直し、座礁したプレジャーボートから岩礁の上へと意を決して降り立った。降り立つと同時に露出した船底を確認してみると、ボートは完全に岩礁に乗り上げてしまっていて、どう考えても人力でもって再び出航出来るとは思えない。そしてボートと砂浜を何度も往復しながら、その床下の船倉に積み込まれていたキャンプ用具一式と釣竿ロッド、それに秋生が用意してくれていた食料や飲料水などを眼の前の島なり大陸なりに上陸させた。

「ふう」

 やがて持ち運べる限りの全ての荷物を上陸させ終えた俺は溜息交じりにそう言って、額に浮き出た汗を拭いながら天を仰ぐ。見上げた空は文字通りの意味でもって雲一つ無い爽やかな青空で、まるで人を小馬鹿にしているかのような鋭い陽射しが燦々さんさんと降り注ぐばかりであり、このままでは遠からず俺の身体が干上がってしまう事は想像に難くない。

「さて、と」

 そう言った俺は改めて周囲を見渡すが、右を見ても左を見てもさらさらの白砂に覆われた浜辺と透き通るような大海原が続くばかりであり、人工の建造物などの類は一切確認する事が出来なかった。そこでサファリハットを目深に被った俺はその場に荷物を残したまま、くるりと踵を返すと、取り敢えず自分から見て右手の方角目指して波打ち際をとぼとぼと歩き始める。

「誰か、誰か居ませんか! 誰か、俺の声が聞こえていませんか! 聞こえていたら、出て来てください!」

 俺はそう言って声を張り上げながら波打ち際を歩き続けるが、どこまで行っても緩く湾曲する砂浜と海と空、それに内陸部の方角の鬱蒼と生い茂る原生林とヤシの木が視界を埋め尽くすばかりで、人の気配はまるで感じられない。

「誰でもいいんです! 誰か居ませんか!」

 やがてそう言いながら波打ち際を小一時間ばかりも歩き続けた後に、声も枯れ掛けた頃になってから視線の先の砂浜に何某なにがしかの人工物を見て取った俺は、そちらの方角へと急ぎ足でもって駆け出した。

「ああ……」

 しかしながらその何某なにがしかの人工物の正体が座礁したプレジャーボートと俺が浜辺に残して来た荷物であり、つまりこの地が大陸の一部ではなく小さな島であると同時にその島を一周してしまった事に気付いた俺は、がっくりと肩を落としながら落胆するばかりである。

「……よりにもよって、無人島かよ……」

 腹の奥底から絞り出すような口調でもってそう言った俺は、自分が口にした『無人島』と言う単語の無慈悲さに改めて落胆しながらも、プレジャーボートの船倉から浜辺へと移動させたクーラーボックスの上にどっかと腰を下ろした。そして頬杖を突いたままどこまでも続く水平線をぼんやりと眺めつつも、暫しの間、途方に暮れるような格好でもって思い悩む。

「……はあ……」

 とは言え、いつまでもこうしてぐじぐじと思い悩んでいたとしても、状況が好転してくれる筈も無い。そこで俺は深い深い溜息を吐きながら重い腰を上げると、取り敢えず現状を再確認すべく、この名も知らぬ無人島に苦労して上陸させた荷物の中身をあらためた。

「食料も僅かだし、しかしそれ以上に、飲料水の類が心許無いな」

 俺と秋生が互いに持ち寄ったキャンプ用具一式が揃っているので、テントや野外での調理器具、それに火を起こすためのガスライターやナイフや寝袋シュラフなどの類に困る事は無いだろう。しかしながらせいぜい一泊か二泊する程度の短期のキャンプを見込んでいたのだから、二人分の肉にパスタ、酒のつまみなどが用意されているもののその量は充分とは言い難く、また同時にビールやハイボールなどの酒類が充実しているのに比べてキャンプ場で汲む予定だった新鮮な真水が不足している事は否めなかった。ちなみに今更言うまでもない事だが、俺が穿いているハーフパンツのポケットの中のスマートフォンは圏外の表示が出っ放しだし、そもそもバッテリーの残量が殆ど尽き掛けてしまっているのだから用を為さない。

「さて、と。一体いつになったら、救助の船が来るものか」

 取るものも取り敢えず、実に五日五晩に渡って大海原を漂流するような格好でもって難破した末にこの島に流れ着いてしまった俺に、何らかの救助の手が差し伸べられるのを待つ以外に取るべき手段も方法も無かった。だから何はともあれ、その瞬間を首を長くして待ち望みつつ、とにかく当面はここで生き延び続けなければならないのだから責任重大である。

「まずは、テントでも立てるか」

 独り言つようにそう言った俺は俺と秋生の二人分のキャンプ用具一式の中から折り畳まれていたドームテントの一つを取り出すと、慣れた手付きでもってポールを立ててペグを打ち、満ち潮でも浸水しないように砂浜の波打ち際から充分距離を取った平地にそれを設営した。

「ふう」

 程無くして充分な広さのドームテントを設営し終えた俺は、そのテントの脇へと寄せたキャンプ用具一式の中から、これまた折り畳み式の大容量の布バケツを手に取って一息つく。最大14ℓの水が汲めるこのPVCシート生地で出来たバケツは本来であれば飲料水を汲むためのそれではないのだが、こんな非常時にはきっとその想定以上に活躍してくれるに違いない。

「次に、水の確保だな」

 やはり独り言つようにそう言った俺は、折り畳みバケツを手にしたまま島の西側の小山の方角へと足を向け、そのまま脇目も振らずに歩き続ける。この島には西の方角に背の低い山、東の方角に背の高い山がそれぞれ一つずつそびえ立っていて、俺は暫定的にこれらを小山と大山と呼ぶ事と決定していたのだ。そしてついさっき島の外縁を一周した際に、小山の山頂の方角から海へと流れ落ちる小川を発見していたので、その川上で水を汲もうと言う魂胆である。

「よっと」

 粒の細かい白砂が敷き詰められた浜辺の波打ち際をどうにも気乗りしない足取りでもって横断し、小川の水が海へと流れ落ちて小規模な三角洲を形成している地点まで辿り着いた俺は、意を決して鬱蒼と生い茂るヤシの木の原生林の中へと足を踏み入れた。足を踏み入れた原生林の中は暗く寂しくじめじめとしていて、どれだけ贔屓身に見繕ってみても、あまり長居していたいと思えるような快適な場所ではない。

「よっ、とっ、はっ」

 さらさらと流れる小川の水源が在るべき方角を目指しつつ、その川沿いの道無き道を切り開くような格好でもって、俺は水に濡れて滑り易くなっている苔だらけの岩の上を歩き続けた。残念ながら俺は植物学者ではないのでこの島の植生は良く分からないが、苔やシダ植物、それに幾つかの種類の広葉樹などが生えている事からしてその自然環境が豊かである事は想像に難くない。そしてものの二十分から三十分ばかりも島の内陸部目指して歩き続ければ、やがて視界が開けるのと同時に、小川の水源となっている小さな池のたもとへと辿り着く。

「へえ、綺麗な場所じゃない」

 そう言った俺の言葉通り、それは風光明媚と表現してしまっても差し支えないであろうほどの、小さいながらも綺麗な池であった。そしてどうやら新鮮な地下水が滾々こんこんと湧き出ているらしく、滔々とうとうと湛えられた水はそこらを泳ぎ回る淡水魚達の姿が丸見えになるほど透き通っていて濁りは無く、これなら飲み水として最適であると言っても過言ではないだろう。

「よっと」

 俺は可能な限り平坦で安全なルートを確保しつつ池の水辺まで下りて行くと、びっしりと苔が生えた石や岩を踏んで滑って転ばないように細心の注意を払いながら、手にした折り畳みバケツでもって池の水を汲み上げた。今日の俺はたまたま頑丈なエンジニアブーツを履いていたものだから岩場を歩いても足を痛める事は無いが、これが五日前までの秋生の様に靴底が薄っぺらい安物のビーチサンダルなんぞを履いていたとしたら、今頃は滑って転んで足首を捻挫して歩けなくなってしまっていたかもしれない。そして充分な量の真水を汲み終えると、俺はくるりと踵を返し、来た道を引き返すような格好でもって下山する。

「ただいま」

 別に待っていてくれる人が居る訳でもないのだが、水を汲んだ折り畳みバケツを手にしながら島の西側の小山を下山し、砂浜を歩いてドームテントの前へと帰還した俺は誰に言うでもなくそう言った。なんと言うか、そう言いながら帰宅するのが完全に習慣と化してしまっているのである。

「さて、と。次は火が必要だな」

 脱水症状を回避するための真水を確保し終えた俺はそう言うと、改めてきょろきょろとこうべを巡らせながらぐるりと周囲を見渡した。すると白砂が敷き詰められた浜辺の随所にどこからともなく流れ着いた流木の姿が幾つも確認出来たので、キャンプ用具一式の中からアーミーナイフと多目的ユーティリティナイフを取り出してから、それらの流木の元へと歩み寄る。

「うん、これでいいかな」

 そこそこ大きな流木の一つに眼をつけた俺はそう言って、南国の直射日光に晒されてからからに乾燥してしまったそれに手を掛けた。持ち上げて運ぶには少々重過ぎるが、引き摺りながらであれば、ぎりぎりテントの元まで運べない事も無い。

「よいしょ」

 そしてずるずると砂浜を引き摺りながら流木をテントの元まで運び終えた俺は、ヴィクトリノクス社製のアウトライダーとバークリバー社製のブラボー1.5との二本のナイフでもって、その流木を薪として使えるサイズになるまで細かく解体し始める。いくらからからに乾燥してしまっているとは言え、これだけの大きさの流木を解体するのはちょっとした大仕事だ。

「ああ、糞、面倒だ。これがキャンプ場でのキャンプなら、最初から割った薪が束になって用意されてるってのに」

 そう言ってぶつぶつと愚痴を漏らしつつも、俺はアーミーナイフであるアウトライダーに付属する折り畳み式ののこぎりでもって流木を切り刻み、多目的ユーティリティナイフであるブラボー1.5によるバトニングでもって切り刻んだ流木を更に細かく割って行く。

「ふう」

 やがてそこそこ大きな流木を解体し終えた俺はそう言って一息つきながら、額や首筋にじっとりと浮いた大粒の汗を、キャンプ用具一式の中から取り出した新品のフェイスタオルでもって拭い取った。そして再びクーラーボックスの上にどっかと腰を下ろしたかと思えば、流木を割って出来た比較的細めの薪とブラボー1.5を手に取り、フェザースティックを作り始める。

「まさかよりにもよって、こんな時にこんな場所なんかで日頃のキャンプの知識が役に立つとはな。備えあれば憂い無し、転ばぬ先の杖、趣味に身を助けられるとはまさにこの事だ」

 そう言った俺が作っているフェザースティックとは、その名の通り薪の先端部分をナイフでもって鳥の羽毛フェザーにも似た形に削った物であって、これが天然の着火剤として実に優秀なのだった。そして数本のフェザースティックを用意し、後は浜辺に転がっていた石を積んで即席のかまどこしらえれば、晴れて火を起こす準備が整う。

「後はこれで、煮沸消毒すればいいか」

 俺はそう言いながら即席のかまどの上にバーベキュー用の焼き網を乗せ、更にその上にダッチオーブンと呼ばれる頑丈な鉄鍋を乗せてから、折り畳みバケツに汲んで来た水をそれに注ぎ入れた。そして100円ショップで売っているような安物のガスライターでもってかまどの中のフェザースティックに着火し、くべる薪を次第に大きくしながら火の勢いを安定させると、どんな寄生虫や細菌が繁殖しているとも限らない池の水の煮沸消毒に取り掛かる。

「よし、まあ、こんなもんだろう」

 やがて汲んで来た池の水をぐらぐらぐつぐつと十分間ばかりも煮立たせてからそう言った俺は、煮沸消毒の用を為し終えたダッチオーブンを持ち上げて、かまどの火から遠ざけた。後は充分冷ましてから目の細かい布か何か、具体的に言えば着替えとして持参したTシャツでもって不純物をし取れば、大概の水は飲んでしまっても腹は壊さない筈である。

「これで、なんとか飲み水は確保出来たな」

 するとそう言った俺の腹の虫が、不意に大音量でもってぐうと鳴った。気付けば頭上から燦々さんさんと直射日光を降り注がせていた太陽も西の水平線へと沈み掛け、東の水平線からは濃藍こいあい色の宵闇が迫り来つつあり、そろそろ夕食を食べてしまっても構わない頃合である。

「そうだな、ちょうど火も起こして水も確保出来た事だし、いい加減ここら辺で飯にするか」

 そう言った俺は椅子代わりにしていたクーラーボックスから腰を上げると、その中に放り込まれていたジップロックに包まれた重量1£程の生の牛肉の塊を取り出し、それを程良く熱されたバーベキュー用の焼き網を乗せてステーキをこしらえ始めた。難破してからのこの五日間、喉が渇くといけないので固形物による食事は控えていたので、腹が減ってしまって仕方が無い。

「……」

 俺は無言のまま、酒や食料と一緒に持参した塩と胡椒だけでもって味付けした牛肉の塊を、即席のかまどの火でもって無心に焼き続ける。

「……秋生……」

 じゅうじゅうと言う子気味良い破裂音と共に脂を煮立たせながら焼けて行く牛肉の塊を凝視しつつ、何故だか分からないが不意に感傷的になってしまった俺は、本来であれば俺と一緒にこの肉を食う筈であった親友の名を口にした。

「……」

 まるで台風かハリケーンもかくやと言うほどの暴風雨に見舞われた結果として、あれだけ荒れた海に投げ出されてしまったのだから、まず間違いなく彼は命を落としてしまっているに違いない。

「せめて、ライフジャケットを着ていたら助かったかもしれないのに……」

 覆水盆に返らずとでも言うべきか、もしくは今更こんな事を言っても詮無い事ではあるものの、俺も秋生も調子に乗って救命用具の一種であるライフジャケットを身に付けていなかった事が悔やまれる。

「そろそろ、焼けたかな」

 やがて充分に肉に火が通った頃合を見計らい、そう言った俺はヴィクトリノクス社製のペティナイフでもって牛肉の塊を一口大に切り分けると、キャンプ用のフォークでもって刺し貫いたそれを口に運んで咀嚼した。さすが秋生がこの日のために用意した肉だけあって、野趣溢れる滋味と旨味が一噛みする毎に口中にしわりと広がり、悔しいながらも美味い事この上無い。

「なあ秋生、俺、これからどうしたらいいんだろうな? お前が一緒だったら、こんなに心細くなかったんだろ?」

 むしゃむしゃと肉を咀嚼しながらそう言った俺の両の瞳から、図らずも、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ち始めた。秋生と言う無二の親友を亡くして一人ぼっちで南海の小島へと漂着し、無線機もスマートフォンも使えず外部との連絡手段が断たれてしまった上で、いつになったら救助の手が差し伸べられるのかも分からない。そんな窮地に立たされた今現在の俺にとって、唯一の心の支えとなってくれるのが、秋生が残して行ってくれたキャンプ用具一式と釣竿ロッドと僅かばかりの食料のみである。

「他には、どんな食料が残されてるんだ?」

 俺はそう言って、食料と保冷剤が放り込まれたクーラーボックスの中身を改めて確認した。すると肉とビールとハイボール以外には乾燥パスタと瓶入りのペンネ・アラビアータのパスタソース、それに酒のつまみとして買い求めたと思われる、牛肉の薄切りであるタリアータ・ディ・マンツォと豚肉の塩漬けであるパンチェッタ・アッフミカータのパウチ袋が見て取れる。

「残された食料は、たったこれだけか……明日からは釣りをするついでに島を巡って、何か食べられる物を探さなきゃな」

 溜息交じりにそう言った俺は若干の絶望感と共にクーラーボックスの蓋を閉じると、ついと頭上を見上げながら天を仰いだ。するといつの間にかとっぷりと陽が暮れてしまっていた夜空には、空気が汚れている東京ではついぞ拝む事が出来ない無数の星々が輝き、まるで宝石箱の中身をぶち撒けたかのようにきらきらと煌めいている。

「……」

 俺は満天の星空を見上げつつ、無言のまま一口大に切り分けられた牛肉の塊を咀嚼しながら、自分の行く末を案じていつまでも思い悩み続けた。果たしてこの俺に、これからどんな運命が待ち受けているのであろう。

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