第一幕


 第一幕



 永く陰鬱な梅雨が明けたばかりのその日の昼下がり、俺は福岡県北九州市と鹿児島県鹿児島市とを繋ぐ高速道路、つまり九州縦貫自動車道を走る車上の人であった。そして少しばかり背伸びをして買ったトヨタ社製のミニバンのハンドルを握り、カーオーディオのスピーカーから流れて来る大音量のアニメソングを聞くともなしに聞きながら、およそ一週間前の出来事を頭の中で回想する。


   ●


 一昨日の夜から来年度の新作の脚本を徹夜で書き上げたばかりの俺は、恵比寿のレコーディングスタジオの副調整室コントロールルームの椅子に浅く腰掛けながら、こっくりこっくりと舟を漕いでいた。

須藤すどうさん、今の演技、どうでしたか?」

 不意にそう言って問い掛けられた俺ははっと眼を覚ますと、眼脂めやにが浮いた寝惚け眼のまま慌てて返答する。

「え? あ、ああ、そうですね。うん、まあ、なかなか良かったんじゃないですか?」

 俺は反射的にそう言って、問い掛けて来た眼鏡で髭面で全然似合っていないベースボールキャップを被った音響監督に出来得る限り朗らかな作り笑いを向けながら、どうにかこうにかその場を取り繕ってみせた。

「そうですか……だったら今のカットはこれで一旦OKと言う事にして、次のカットの収録を始めましょう! OKです!」

 音響監督が副調整室コントロールルームのマイクに向かってそう言えば、分厚い防音ガラスの向こうの録音ブースに居並ぶ声優達が俺が書いた脚本のページをぱらぱらとめくり、来期放送予定の新作テレビアニメ『魔法少女みるきぃ★ルフィーナ』の音声収録を再開する。

「それでは続いて、最終カットの収録を始めます! 神林かんばやしさん、自分のタイミングで始めてください!」

 およそ一時間おきに適度な休憩を挟みつつ、やがて収録開始からおよそ五時間が経過した頃になってから、音響監督がそう言って最終回の最後のカットの台詞の収録を主演の女性声優に命じた。

「僕らの戦いは、決して終わらないんだから!」

 ヒロインであるみるきぃ★ルフィーナを演じる女性声優の神林さんが、録音ブースのマイクに向かってそう言えば、その出来に満足したらしい音響監督が右手の親指と人差し指でもって小さな輪っかを作りながらにやりと微笑む。

「はい、OKです! これにて全ての台詞の収録が完了しました! 皆さん、どうもお疲れ様でした!」

 ベースボールキャップを被ったまま快活な表情と口調でもってそう言った音響監督の言葉を合図にしながら、その場に居合わせた声優達や俺も含めた製作スタッフ達は一斉に立ち上がり、誰からともなくぱちぱちと手を打ち鳴らす拍手でもって音声収録の完了を祝うのであった。

「お疲れ様でーす」

「どうも、お疲れ様でしたー」

 やがて俺らは口々にねぎらいの言葉を口にしながら荷物を纏め、帰り支度を終えた者から順に、多くのアニメや映画の音声収録が行われた恵比寿のレコーディングスタジオを後にする。

「須藤さん須藤さん、須藤大道すどうともみちさんってば」

 すると自分のショルダーバッグを肩に掛けてレコーディングスタジオの玄関の方角へと足を向けたところで、不意に背後から、何者かがフルネームでもって俺の名を呼んだ。そこでこうべを巡らせて振り返ってみると、そこにはつるつるの禿げ頭が眩しい総監督と音響監督と演出家、それに数名の製作スタッフ達がぞろぞろと寄り集まっているのが眼に留まる。

「ん? どうしたんですか、皆さんお揃いで」

「未だ本編の作画の方が終わってませんけど、これから僕らで少し早めの打ち上げに繰り出すつもりなんですが、よろしければ須藤さんもご一緒しませんか?」

 どうやら人見知りしない性質たちらしい音響監督がそう言って、やはり全然似合っていないベースボールキャップを被ったまま、未だ未だ駆け出しの脚本家に過ぎない俺を飲みの席に誘った。しかしながら徹夜明けでふらふらと足元も覚束無い俺は軽く頭を下げながら、本来であれば仕事の人脈コネ作りのために参加した方が良い事を熟知しつつも、断腸の思いでもってこの誘いを断らざるを得ない。

「すいません、実は俺、一昨日の夜から一睡もしてないんで今ちょっと体調が万全じゃないんですよ。ですからこんなコンディションで酒なんか飲んだ日には間違い無くべろべろに酔っ払って皆さんに迷惑を掛けてしまうんで、申し訳ありませんが、今日のところは遠慮させてもらってもいいですか?」

 俺が頭を下げながらそう言えば、表情が多彩な音響監督はわざとらしく残念がってみせる。

「え? そうなんですか? でもまあ、そうですよね、体調が悪いんじゃ仕方ないですよね! でしたら残念ですけど、また次の現場で会いましょう! 今日はどうも、お疲れ様でした!」

「お疲れ様でした」

 そう言ってねぎらいの言葉を口にした俺はその場に音響監督らを残したままガラスの玄関扉を潜り、宵闇に沈むレコーディングスタジオを後にした。そして一人ぼっちでとぼとぼと夜道を歩き続け、最寄り駅であるJRの恵比寿駅へと辿り着くと、自動改札機のセンサーにSuicaのスマートカードをかざして構内へと足を踏み入れる。すると階段を駆け下りて山手線が発着するプラットホームに立ったところで、不意にデニムジーンズのポケットの中のスマートフォンが着信音を奏で始めた。

「もしもし?」

 見知らぬ番号からの着信とは言え、万が一にも新規の顧客クライアントからの連絡だった場合に備えて液晶画面の応答ボタンをタップしてみれば、スマートフォンの受話口から聞き慣れた声が聞こえて来る。

「あ、もしもし? 大道か? 俺だよ俺、土井秋生どいあきおだよ!」

 果たしてスマートフォンの向こうの通話相手は、俺の学生時代からの古い友人である土井秋生その人であった。

「おお、秋生か! 久し振り! 去年の夏休みに一緒に海水浴に行って以来だから、ほぼ一年ぶりか? 知らない番号からの着信だったもんだから、また銀行からの投資信託の勧誘か、もしくはオレオレ詐欺の類か何かかと思ったよ!」

「ああ、久し振り! 実は携帯のキャリアを安い会社に変更したから、今度からはこの番号を電話帳に登録しておいてくれ。……ところで今、ちょっとばかり長話をしても大丈夫か?」

 秋生がそう言えば、俺はきょろきょろと一旦周囲の様子をうかがってから返答する。

「そうだな、まあ、少しくらいなら大丈夫だ。だけど俺は今、ちょっと仕事の都合で駅のホームに居るところだから、あまり長話は出来ないかな?」

「そうか、それなら手短に要件だけを伝える事にするよ。お前、近い内にこっちに来れないか?」

「そっち? 鹿児島にか?」

「ああ、そうだ。鹿児島まで来れないか、ちょっと聞いてみたくてな」

 スマートフォンの向こうの秋生はそう言って、問い返した俺の疑問に事も無げに答えてみせた。彼は俺と一緒に東京の大学でグラフィックデザインを専攻した後に、卒業してからは実家が在る鹿児島県鹿児島市へと帰郷して、今はかの地の小さなデザイン事務所で働いている筈である。

「鹿児島か……今ちょうど一つ大きな仕事が片付いたばかりだから、まあ、行けなくもないかな?」

「それならナイスタイミングだ! お前、鹿児島に来て俺と一緒にキャンプと海釣りと洒落込まないか? 実はつい先日、遂に船舶免許を取得して、新しいボートを買ったばかりだからさ!」

「そうか、遂に買ったのか! お前ってば、前から自分のボートで海釣りしたがってたもんな! おめでとう!」

 俺はそう言って、船舶免許取得とボートの購入と言う二つの悲願を達成した秋生を、諸手を挙げて祝福せざるを得ない。何故なら彼と俺とは大学の同期生であると同時に、互いにキャンプやハイキングや釣りと言った野外活動全般を趣味とする同好の士、つまり同じ穴のむじなでもあるからだ。そんな秋生がまた一歩、このどこまでもずぶずぶと沈んで行く底無しのアウトドア沼に自ら嵌まりに行くのだから、これを祝福しない手は無いだろう。

「だったらこれで決まりって事で、来週の週末辺りにでもこっちに来いよ。キャンプ場の手続きとかはこっちで済ませておくから、お前は自分の分のキャンプと海釣りの道具さえ用意しておいてくれればいいし、簡単な話だろ?」

「ああ、うん、分かった。ところでそろそろ俺が乗る電車が来そうだから、詳しい話はまた日を改めてって事で、今日のところはこれで一旦お終いにしてもいいか? うん、それじゃあ、またな」

「分かった、だったらまた明日、改めて電話するよ。それじゃ」

 そう言った秋生と俺がスマートフォンの液晶画面をタップして通話を終えるのとほぼ同時に、眼にも鮮やかな鶯色の山手線の車輛が恵比寿駅のプラットホームに滑り込んで来たので、スマートフォンをポケットに仕舞い直した俺は急いでそれに乗り込んだ。そしてラブホテルを利用するカップル達に混じって鶯谷駅でもって降車し、入谷の街を経由しながら夜の台東区を横断するような格好でもって歩き続けると、やがて俺の自宅である浅草のワンルームマンションへと辿り着く。

「ただいま」

 日立ビルシステム社製のエレベーターでもってマンションの六階へと移動した俺は玄関扉を開けると、誰に言うでもなくそう言いながら、賃貸物件である自分の部屋へと帰還した。そして玄関から続く短い廊下を渡り、キッチンも兼ねた居室に足を踏み入れたかと思えば、ショルダーバッグをベッドの上に放り出してから作り付けのクローゼットの中身を確認する。

「キャンプに海釣りか……」

 果たして開け放たれたクローゼットの中には、海釣り用の釣竿ロッドとリール、それに各種のキャンプ用品が整然かつ所狭しと並べられていた。

「楽しみだな」

 わくわくと胸躍らせながらそう言った俺は、鹿児島へと出発するその日が待ち遠しくて堪らない。


   ●


 次の瞬間、背後から迫り来る大型トラックがわんわんとクラクションを鳴らしながら俺が運転するミニバンを追い越して行ったので、どうやらいつの間にか減速してしまっていたらしい俺ははっと我に返った。

「おっと、ヤバいヤバい」

 そう言った俺は気を取り直し、トヨタ社製のミニバンのアクセルペダルをぐっと踏み込むと、法定速度ぎりぎりの時速100㎞前後まで一気に加速する。せっかくこれから楽しい余暇を過ごす予定だと言うのに、こんな所で事故ってしまっては元も子もない。

「そろそろ出口か」

 やがて九州縦貫自動車道の鹿児島線の終着点である鹿児島インターチェンジ《IC》へと辿り着いた俺はそう言って、高速道路から一般道へと進入すると、待ち合わせ場所である鹿児島港が在る南東の方角へとハンドルを切った。そして多くの観光客や地元民で賑わう鹿児島市の中心部を斜めに突っ切るような格好でもって横断し、鹿児島港のコインパーキングに車を停めると、そのトランクから取り出したキャンプ用具一式と釣竿ロッドを乗せたカートを押しながら埠頭の方角へと足を向ける。

「よお、大道! やっと来たか! 待ってたぞ!」

 すると埠頭で待っていた一人の大柄で小太りの男がぶんぶんと手を振りながらそう言って、カートを押しながら歩く俺を朗らかな笑顔でもって出迎えた。勿論今更言うまでも無い事だが、その小太りの男とは俺の学生時代の同期生であり、また同時に今尚親交深い間柄である土井秋生その人に他ならない。

「よう秋生、久し振り! お前、またちょっと太ったんじゃないのか? アロハシャツが全然似合ってないぞ?」

「おいおい、なんだとこの野郎! 俺もお前も、アロハシャツが似合ってないのはお互い様だろうが!」

 互いにそう言って憎まれ口を叩き合いながら笑う秋生も俺も、さすがに完全なペアルックこそ回避しているものの、まるで示し合わせたかのようにどちらも派手な色と柄のアロハシャツとカーゴポケット付きのハーフパンツを着込んでいた。

「それにしても、本当に久し振りだな。元気だったか?」

「ああ、俺の方は食い慣れた実家の飯が美味いから、以前にも増して元気溌剌だよ。むしろそう言うお前の方こそ、生き馬の眼を抜く東京のコンクリートジャングルで元気にやってるか? ん?」

「ああ、まあ、それなりにな」

 俺はそう言って言葉を濁しつつ、アロハシャツとハーフパンツを着込み、頭にはパナマハットを被った秋生に改めて尋ねる。

「ところで秋生、お前が買ったって言うボートはどれだ? ここに停めてあるんだろ?」

「ああ、来いよ、こっちだ」

 そう言って手招きする秋生に先導されながら、鹿児島港の埠頭の船着き場をずんずんと突き進むように縦断してみれば、彼はそこに係留されていた一艘のボートの前で足を止めた。

「じゃじゃーん! これこそが、俺が買った新品のボートだ! どうだ、大道? 凄いだろ?」

 秋生が自慢げにそう言いながら指差すそれは、傷一つ無い真っ白な船体に初夏の陽光を反射させてきらきらと光り輝く小型のプレジャーボートであり、その雄姿を前にした俺は思わずはっと息を呑む。

「すげえ! 本当に新品のボートじゃん!」

「だろ? すげえだろ? このボートが、俺の物になったんだぜ?」

「こんな立派なボート、高かったんじゃないのか? お前、一介のサラリーマンに過ぎないくせに、どこから金を工面したんだ?」

「ああ、まあ、さすがに一括払いは無理だったんでローンを組んで買ったんだがな。しかしそれにしたって、趣味にもレジャーにも使える一生物の買い物をしたと思えば、安いもんだろ?」

 ローンを組んででも購入したと言うまっさらな新品のプレジャーボートを前にしながらそう言って、秋生はやはり自慢げに、そして少しだけ自嘲気味にほくそ笑んだ。

「ところで大道、お前、もう昼飯は食ったのか?」

 するとローンに関する話題をはぐらかすようにそう言った秋生の問い掛けに、俺はカートを手にしたまま答える。

「いや、途中の東名高速が渋滞していて待ち合わせに遅れそうだったから、サービスエリア《SA》にもパーキングエリア《PA》寄らずに真っ直ぐここまで走って来たし、朝から未だ何も食ってないよ」

「だったらこの近くに海鮮丼が美味い店が在るから、その荷物をボートに積み込んじまってからそこで昼飯にしようぜ」

「よっしゃ、そうしよう」

 そう言った秋生の提案に特に異論を挟む事も無く、彼と俺とはカートの上に乗せられていたキャンプ用具一式と釣竿ロッドをプレジャーボートに積み込むと、一旦埠頭を離れて市街地の方角へと足を向けた。そして秋生が言う通り、鹿児島港から程近い街道沿いに一軒の海鮮料理が売りの定食屋が店を構えていたので、俺ら二人は迷わず入店する。

「海鮮丼一つ」

「俺は、カツオの叩き丼ね」

 海鮮丼が美味い店だと言って誘っておきながら、自分だけカツオの叩き丼を注文する秋生の身勝手さにちょっとばかり呆れながらも、窓際のテーブル席に腰を下ろした俺らはそう言って注文を終えた。そして注文した丼物が運ばれて来るまでの時間を利用して、秋生が俺に尋ねる。

「それで大道、お前、何日までこっちに居られるんだ?」

「そうだな、俺はお前みたいな会社勤めのサラリーマンと違ってフリーランスの身の上だから、居ようと思えばいつまでだって居られるよ。だけどまあ、次の番組の打ち合わせもあるし、仕事を失いたくなければ一週間が限度ってところだな」

「ふうん、俺はそっち方面には疎いから詳しい事は知らないけど、フリーランスのアニメの脚本家ってのも大変なんだな。しかしまあ、それなら一応、来週の週末まではこっちに居られるって事なんだろ?」

「まあ、そう言う事になるかな」

 俺がそう言えば、定食屋の若い女性店員が「お待たせしました」と言いながら俺の眼の前のテーブルの天板の上に海鮮丼を、秋生の眼の前にカツオの叩き丼を配膳した。そこでさっそく海鮮丼に箸を付ければ、確かに秋生が言っていた通り、採れ立ての魚介類がふんだんに盛られたそれは噂に違わぬ美味さである。

「それじゃあ今日のところはこれから沖に出て海釣りと洒落込んで、夜は予約しておいた離島のキャンプ場で一泊し、明日以降はその場のコンディション次第でキャンプするかホテルに泊まるか決めるって事でいいか?」

「ああ、うん、それで構わないよ」

 そう言って首を縦に振った俺と秋生は、互いに定食屋の海鮮丼とカツオの叩き丼に舌鼓を打ちつつ、ざっくりとした今後の予定をそれとなく示し合わせ終えた。勿論示し合わせたと言っても、別段後ろ暗い計画を練っている訳でもないのだから、その場にたまたま居合わせた他の客や店員に俺達の会話が聞かれてしまっていたとしても何の問題も無い。しかしながら今回の秋生との小旅行の詳細な日程を、俺は迂闊にも親兄弟にすらも事前に連絡し忘れていたと言う些細な事実が、何故だか分からないがひどく気掛かりだったのである。

「ごちそうさま」

 やがて眼の前の丼を空にした俺達はそう言って席を立ち、会計を終えると、二人揃って定食屋を後にした。そして遥か頭上から燦々さんさんと降り注ぐ南国鹿児島の初夏の陽射しをその身に浴びながら、再び埠頭の船着き場の方角へと足を向ける。

「ところで秋生、船の上やキャンプ場で食べる酒や食料品なんかは、もう用意してあるのか?」

 埠頭を目指すその途上で、頬を撫でる湿った潮風の生臭い匂いを嗅ぐともなしに嗅ぎながら、俺は隣を歩く秋生にそう言って問い掛けた。すると彼はカツオの叩き丼を完食した事によって膨れた太鼓腹を擦りつつ、その点は抜かりが無いとでも言いたげな表情と口調でもって返答する。

「ああ、もう買ってボートに積み込んであるよ。ビールにハイボールに肉にパスタ、それに酒の肴になるイタリア産の燻製なんかのおつまみの類もたっぷり買ってあるから、安心しろよな」

 パナマ草で編まれたパナマハットを被りながらそう言って返答した秋生と共に、まるでぶらぶらとそぞろ歩くような足取りでもって歩き続けた俺達は、やがて埠頭の船着き場に係留された彼のプレジャーボートの元へと辿り着いた。そしてそのプレジャーボートに二人揃って乗り込むと、秋生が係留環に繋ぎ留められていたロープを少しばかりぎこちない手つきでもって解き放ったかと思えば、ゆっくりとエンジンを逆回転させながらバックでもって船着き場を後にする。

「よし、それじゃあ沖に出るぞ! 大道、準備はいいか?」

「勿論だ! 今日こそは大物を釣ってやるぞ!」

 俺と共にそう言って笑い合いながら、プレジャーボートの操縦席に腰を下ろした秋生は一旦エンジンを空吹かしすると、鹿児島港から見て南の方角へと舵を切った。そして一気にギアを上げてから最大船速でもって大海原を疾走すれば、先程までは生臭いばかりだった潮風が爽やかな涼風へと変貌し、飛び散る水飛沫が露出した素肌を濡らす感触もまた心地良い。

「秋生、やっぱりこれ、良いボートだな!」

「だろ? お前にそう言ってもらえると、ローンを組んででも買った甲斐があるってもんだ!」

 やはりそう言って笑い合いながら、久々の親友との再会と新品のプレジャーボートでの海釣りが楽しみ過ぎるせいもあって、俺と秋生の二人のテンションはまさに最高潮に達してしまっていた。

「さあ、ここら辺でいいかな」

 やがて小一時間ばかりも太平洋の西端部を南下し続けた末に、そう言った秋生が海上で停止させたプレジャーボートのエンジンを切れば、その操縦席と助手席から腰を上げた俺ら二人はいよいよ海釣りの準備に取り掛かる。

「それで、今日は一体、これから何を狙う? この時期の鹿児島沖の海は、何が釣れるんだ?」

「そうだな、マダイにイシダイにイシガキダイ、それに運が良ければカジキマグロだって狙えるだろうさ! なにせ今日はそのために、大物用の釣竿ロッドとリールも用意して来たんだからな!」

 やはり完全にテンションが上がり切ってしまった状態でそう言った秋生と共に、日焼けと熱中症予防のためにつばの広いサファリハットを被ってダイワ社製のフィッシングベストを着込んだ俺は、まずはカジキマグロの餌となるアジやイワシなどの小魚を釣り上げるべく疑似餌を取り付けたアジング用の釣り糸を海中に垂らした。すると程無くして、二人ともほぼ同時に、俺と秋生の釣竿ロッドを握る手に魚が食い付いた際のびくびくと言う心地良い感触が伝わる。

「やった!」

「やったぞ!」

 そこでさっそく釣竿ロッドを上げてみれば、どちらの疑似餌にも真っ黒な背中と銀色に光り輝く腹の模様も鮮やかな立派なクロアジが掛かっていたので、俺ら二人はその幸先の良さを祝福すべく歓喜の雄叫びを上げた。そしてその後も釣り糸を垂らす度に丸々と太ったクロアジが次々に釣り上げられ、まさに入れ食いとでも表現すべき快調かつ好調な出足に、俺ら二人も期待に胸を膨らまさざるを得ない。

「この分なら、たとえカジキマグロが釣れなかったとしても、今夜はアジの刺身で一杯やれるな!」

「ああ、楽しみだ! もっとじゃんじゃん釣ろうぜ!」

 口々にそう言って互いを鼓舞し合いながら、太公望もかくやと言うべき釣果に笑いが止まらなくなった俺と秋生の二人は釣竿ロッドを振るい、立派な魚体のクロアジを絶え間無く釣り上げ続ける。そしていい加減アジングにも飽き始め、そろそろカジキマグロ狙いの仕掛けに切り替えようかと考え始めた頃になってから、不意に天候が荒れ始めている事に俺は気付いた。

「おい秋生、あの雨雲、段々こっちに近付いて来てないか?」

 眉根を寄せながらそう言った俺の言葉通り、まさに文字通りの意味でもって天まで届くような分厚く真っ黒な積乱雲が、結構な速度でもってこちらへと接近しつつあるのが眼に留まる。

「ああ、そうだな。このまま雨に降られると厄介だし、少し移動してポイントを変えようか?」

 秋生がそう言ってプレジャーボートを移動させたものかどうか逡巡している間にも、積乱雲は見る間にこちらへと接近して来て頭上を覆い、遂に大粒の雨がざあざあと激しく降り始めてしまった。

「ヤバい! 降り始めた!」

「荷物を片付けろ! 移動するぞ!」

 俺ら二人は急いで釣竿ロッドを畳み、リールや疑似餌と共にそれらを床下の船倉に仕舞い直すと、プレジャーボートのエンジンを急いで始動させてその場から退避しようと試みる。しかしながらボートが走る際の船速よりも積乱雲が成長する速度の方が早いのだから、いつまで経っても雨雲の下から抜け出せず、むしろ雨脚はますます激しくなるばかりで致し方無い。

「糞! 舵が効かない!」

「立ち上がるな! 船にしがみつけ!」

 気付けばそう言った俺ら二人は伸ばした自分の手の先端が見えなくなるほどの豪雨に見舞われ、荒れ狂う高波に翻弄されながら、まさに生殺与奪の権を大自然に奪われた状態でもって波間を漂う以外に取るべき手段も無いような有様であった。

「駄目だ、このままじゃ前に進む事も出来ないぞ!」

「とにかく船にしがみついて耐え抜いて、この場をやり過ごすんだ!」

 突然の予期せぬ暴風雨に晒され、高波にさらわれながらそう言った俺ら二人を乗せたプレジャーボートは、ほんの十数分前まで海釣りを楽しんでいたと言う事実が嘘の様な惨状に為す術が無い。そしてちょっとした雑居ビルの高さに匹敵するほどの一際大きな高波にさらわれたまさにその瞬間、プレジャーボートの操縦席に座っていた筈の秋生が体勢を崩して海に投げ出され、そのまま荒れ狂う波の狭間へとその身を消してしまった。

「秋生!」

 俺はそう言って親友の名を呼ぶが、真っ黒な海に投げ出されてしまった彼の身体を見つけ出す事は出来ないし、そもそも探そうとするだけの余裕も無い。そして激しく上下するプレジャーボートの船体に必死になってしがみつきながら、只ひたすらに天候が回復する事を祈って耐え忍ぶばかりである。

「糞! 糞! 糞! 秋生! おい秋生! 戻って来い! 戻って来いよ馬鹿野郎! 頼むから戻って来いってば!」

 眼の前で親友を失ってしまった俺はそう言って、俺自身もまた海に投げ出されないように尽力しつつ、有らん限りの声を張り上げながら口汚い悪態を吐きまくった。しかしながらそんな俺をせせら笑うかのように、その声は滝の様に降り注ぐ雨音に掻き消され、まるで台風かハリケーンさながらの暴風雨はいつまでも荒れ狂い続ける。

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